2006年6月の時点での話だが、大阪のカトリック高槻教会では、信者が 〈自分で直接カリスを手に取って〉〈カリスに直接口をつけて〉 御血を頂く両形態が行なわれていたようだ。
両形態で行われるミサでは、直接カリスからいただくこともできます(教会によっては直接拝領できないところもあります)。御体をいただいたあと、前方左右から祭壇に進んで御血いただいてください。御血の拝領のあとは、横にある布で飲まれたところを拭き、次の方のためにカリスを回してください(茶道のような所作です)。
この形式の両形態は日本ではあまり見られないから、「慣習の効力」を主張することさえできないのではないか。
いったい司教というものは、典礼の「適応」また「試用」において、どれだけの権限を持っているのだろう? 「"教会は文書主義" であるが故に、"書かれていない" 事例・事項に関しては、司教の権限はほぼ無条件的な自由と共にある」ものなのか? 教会の典礼はただただ彼の「賢明な判断」に任されているだけなのか? 事実上。
(私はこのような場合の「秘跡の有効性」を云々しているわけではない。)
「カトリック教会」の御聖堂の信者席から跪き台(膝布団)を撤去することにまったく躊躇というものを覚えない司祭が、まだこの国日本にはいるらしい。(きっと、他にもいっぱい?)
また、「司祭と信者は本質的には大して違うところのないものだ」と考える司祭も、まだこの国日本にはいるらしい。(きっと、他にもいっぱい?)
「まだ」ではなくて、「もっと、これからも」?
俺 『第一あの祭壇に何人の侍者を並べるんですか?』
神父『5〜6人は欲しいな。・:*:・( ̄∀ ̄ )。・:*:・ポワァァァン・』
俺 『今でさえ狭いんです。物理的に無理ですよ。』
神父『大丈夫♪ だって今度祭壇を大きくするから。・:*:・( ̄∀ ̄ )。・:*:・ポワァァァン・』
俺 『どこにそんなスペースが。』
神父『跪き台を撤去してつめるから大丈夫。・:*:・( ̄∀ ̄ )。・:*:・ポワァァァン・』
俺 『跪き台を取るって。。。聖変化の際にどうすればいいんですか?』
神父『立って行えばいい( ̄‐ ̄ )』
俺 『立ってって。。。何ですかそれ。』
神父『今時の教会はみんなそうだよ。日本の文化を考えてみなよ。』
神父『信者の自己責任は当たり前でしょ? w』
俺 『それは違いますよ。自己責任なら選択権がある筈。強要させているのに自己責任っておかしくないですか? それにそれを言うなら『私は皆さんに対して責任がある』と司祭が言い、『いや私達に責任があります』と信徒が言うなら分かりますけど、司祭が言っちゃ。。。』
神父『そういわれても私だって信徒の一人でしょ!』
俺 『司祭と信徒は別です』
神父『なんで!』
俺 『俺は聖変化出来ませんよ。ある種の権能を与えられたものと与えられていない者が同一である筈が無い。ある種の責任が生じている。』
神父『そう言われてもそういう流れだから』
ガックシ... (o_ _)o 「流れ」かよ。軽ぅ〜 (><) 少なくとももっと他に言いようがあるでしょうに。。 でも、こんな時、「咄嗟に出る」「何気なく咄嗟に出る」ものの方が「本心」に近いんだよね。 それにしても「流れ」かよ。いつから「司祭」の位置づけは、「司祭と信徒の別」に関する弁えは、時代の中で流れる流木のようなものになったのだ?
同じブログ作者は次のようにも言っている。
数年前に司教団会議で問題になった点。
それは、「日本のカトリック」と「日本におけるカトリック」と言う言い方の違い。
くだらねぇ〜と言ってしまっては終わりだがこの違いは大きい。
日本のカトリックと言いたい日本のカトリック司教団。
それは違うだろ。あくまでも日本におけるカトリック教会だ。
果たしておいらが入信したのはどっちだ?
というか、日本のカトリックって何だ?
『日本カトリック教会』なんてものに入信した覚えはないぞ。
私は先日10日の日記において、「どうか司教様、こういう時は『日本の教会』と、『の』を入れて下さい」と書いたが、このブログの作者さんによると「の」でも駄目らしい。キビチィな... (^^;;;
でも、感じていることは同じだよね。