青ゲットの殺人事件
 
 
 
 



【ソース】
「O町百年史」

【主な人物】
高木昭一:生き残った子供の父
高木リョウ:昭一の妻
高木ツネ:昭一の母
長井貞治、タエ:昭一宅の隣人とその妻

【地名など】
O町:事件の起こった町の名前
O警察署:O町にある警察署
N川、K川:O町を流れる川で、N川の川幅は広く、K川は狭い
     河口付近で2つの川がつながっている
T村:N川、K川をはさんで、O町の向こう側にある村
  (O町とT村の間に2つの川が流れている)
T橋:N川にかかる長い木造の橋、 K川には当時橋がかかっていたかどうか不明

※人物は全て仮名、地名のイニシャルも実際の名前とは関係ないものにしています
 
 



 
 明治39年(1906)2月12日午前5時頃、N川河口にかかるT橋(当時は木橋)は、昨夜来の吹雪によって新雪で覆われていた。寒中とはいえ、朝起きの早いT村の大工が、対岸のO町で建設中の仕事を片づけるため、まだ誰も通っていない新雪を踏みしめながら、いつもの通り急ぎ足でT橋を渡り始めた。
 約500メートルもある長い木造の橋の丁度中ほどまできた時、大工は目の前の異様な状態に思わず立ちすくんでしまった。そこには、あたり一面白い雪がまっ赤に染まり、おびただしい血痕が散らばっていたからである。

 更に、その脇にある欄干の一部は、斧でバッサリ切り落とされたように無くなっており、死体もろともN川に投げ込まれたような形跡であった。大工はとっさに誰かがここで殺されたと直感した。と同時に急に背筋が寒くなり、急を知らせようとする足取りも雪の上を滑ってなかなか進まなかったという。それから間もなくO警察署にこの事件の第一報が入り、死体なき殺人事件として、血まなこの捜査が行われたのである。

 この事件とは、明治39年(1906)2月11日の午後9時頃のことであった。
 吹雪の中をO町Fにある回船問屋、橋田時助商店に一人の男が訪れ、同店の番頭、高木昭一(当時30歳)に面会を求めてきた。家人の取次ぎで昭一が玄関に出てみると、その男は、「私は、T村の高木さんの親戚から使いとしてきた者ですが、『親戚のおばあさんが急病で倒れたので、すぐ来て欲しい』とのことなので、迎えに来ました」といって昭一を同店から連れ出していった。

 それから大体2時間ほど経った後、今度はO町Kにある昭一の自宅にも、30歳くらいの男が青ゲット(毛布)を頭からすっぽりかぶって訪れ、「私は使いの者ですが、T村の親戚のおばあさんが重い病気に罹(かか)り、『是非とも、O町のおっ母さんに会いたい』といっているので迎えに来ました」といって、昭一の母ツネ(当時50歳)を連れ出した

 その後、1時間程してまた先ほどの男が昭一方にきて、母ツネを呼び出したと同様の方法で、昭一の妻リョウ(当時25歳)を連れだしたのである。
 更に40分ほど後に、昭一の子供(当時2歳の女の子)まで連れ出そうとして同家に来た時は、隣の家の長井貞治氏の妻タエが留守番をしていて、入口の青ゲットをかぶって立っている男に不審をいだき、その求めに応じなかったため危なく難を逃れたのであった。
 なお隣家の長井タエは昭一の妻リョウが出ていくとき、留守番を頼まれて高木宅に来ていたものである。

 また、肝心のT村の親戚には、誰も病人が無く、使いの者を頼んだ事実もないことから、青ゲットをかぶった男が嘘を言って、昭一ら3人を連れ出したことが判明した。

 問題の青ゲットの男は、目撃者の話によると、年齢30歳くらいと思われるが、人相については、手拭いをほおかむりにして頭からすっぽりかぶっていたので、はっきりとわからなかったとのことであった。
 
 
 


 O警察署の捜査本部では、13日の早朝から、N川一帯の大がかりな捜査を行った結果、昭一方の裏手にあるK川に小船が留めてあり、その船べりに血痕が散らばっていた。更に、その小船から下流の川底で、昭一の妻リョウの死体が発見された。このことから、妻リョウは犯人に「船で対岸のT村へ渡す」と言われ、K川沿いに連れ出され、小船に乗り移ったところを凶器で殺害され、川に投げ込まれたものと、捜査本部では推理した。

 ついで翌14日には、N川の河口付近で、母ツネの死体も発見され引き揚げられた。T橋上のおびただしい血痕は、ツネが犯人に惨殺されたときに飛び散ったものと思われるが、一人の血しぶきにしてはその量が多いため、恐らく昭一も母ツネと同じ場所で殺害され、欄干を破ってN川に捨てられたのではないかと思われた。
 捜査本部では、その後も全力をあげて昭一の死体発見に努めたが、事件後10日を過ぎても発見にはいたらなかった。

 このため、一説には昭一が犯人ではないかという見方も出るほどであったが、結論は一家皆殺しを狙った何者かの重大犯罪であるとの見方が大勢を占めていた。また事件の当時は、高木昭一の家族は5人であったが、他の1人は当夜は子守に雇われて他家へ行っていたので無事であったことも判明した。
 
 


 
 O署では、このような重大犯罪を引き起こすに至った動機を中心に、沼田署長以下捜査員は文字通り不眠不休で捜査活動を行い、
(1)高木昭一に恨みをもっていると思われる者。
(2)3人を連れ出した男がかぶっていた青ゲットにかかわりがある者。
 を手がかりに、その容疑者数人を引致して調べたが、いずれも有力な確証をつかむことはできなかった。

 高木昭一は酒も飲まず、素行は極めて実直であり、他人から恨みを買うようなことは考えられないが、強いて言えば、その真面目さのゆえに30歳の若さで店の番頭として引き立てられていたので、それを快く思っていない人がいたのではないかと、その線でも捜査を行ってきたが、決め手になるのは何もなかった。

 このように県民を震撼させた大事件の犯人が捕まらないため、捜査は長期化し、歴代の署長がその解決に尽力してきたが、遂に、大正10年(1921)この事件は時効にかかり迷宮入りとなってしまった。
 


 ところが、大正15年(1926)2月12日、京都市のH警察署が窃盗犯で検挙した石川県出身で、住所不定無職、詐欺・窃盗前科十犯、橋本信一(当時49歳)が意外にも、0町におけるT橋殺人事件の加害者であることを自白した。しかし、犯行後すでに21年を経過し、時効にもかかっているため、殺人罪として処断することはできなかった。

 O警察署では、”真犯人現る!”のニュースに河田警部補(次席)がただちに京都H警察署へ出張し、真相を調査したもようであるが、結論はそのころの資料が散逸しているため判然としなかった。
 
 


 いずれにせよ、この事件は当時県民を震撼させた大事件であり、21年振りに犯人と名乗る男が現れたことで、再びむし返された形となったが、当時の新聞によれば、本県警察本部保安課の見解として次のように報じている。
「犯人は他の事件につきでたらめを述べる節が2、3ある。果して、真犯人なるや否や、保し難しとあやしんでいる」
(『福井県警察史』第一巻)
 


 

 

※この情報は、BBSにて佐伯様より提供されたものです。
 佐伯様のご好意に深謝しつつ、ここに掲載させて頂きました。有難うございます。

 

 

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