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「緊急避難」ですよ・・・・・本当に追い詰められていました

姿を見せない相手にジワジワと責められてましたからね

 

 


朝倉幸治郎  練馬一家5人殺害事件

193539日秋田市に生まれ。6人姉弟の長男

定時制高校ではボクシング部。日本大学法学部卒

殺人未遂と傷害の前科

不動産鑑定士で、二人の息子を大学に通わせ、安定した家庭環境にあった

1983/6/27日、不動産取引のトラブルから、子供を含む一家5人を殺害、死体を切断。死体を遺棄する前に現場に踏み込んだ警察によって逮捕

8512東京地裁で死刑判決。9611最高裁が上告を棄却、死刑が確定

2001/12/27 死刑が執行された。66歳

 


黄色く表示した部分は、精神鑑定を行った福島章教授との面談での発言

 

犯行
1983/6/27日PM2:45分ごろ、朝倉は白井宅に車で向かった。バッグには金槌2本、着替え用ジャージ上下などが入っていた。金槌1本はすぐ出せるように外側のポケットに入れていた。
呼び出しに応じて出てきた白井の妻(41)に、いつもどおり「明け渡しの件で来た」と繰り返したが、「主人がいませんので、私には分かりません・・・・・・」と型通りの答えが帰ってきた。
朝倉は、奥に下がった家人を追いかけ居間に入った。12畳の洋室で、食事用テーブルの周りに白井の妻と次男(1歳)、玄関寄り出入り口のところに三女(6歳)がいた。

朝倉はバッグから金槌を取り出し、2人の子どもが見ている前で、白井の妻の正面から金槌を振り下ろした。その場に倒れ、うめきながら這って逃げようとした家人を、金槌を持ったまま追いかけた。流し台の前で襟を左手で掴んで引き寄せ、金槌で頭を殴打。5回目の打撃で、金槌の柄が折れ、鉄の部分が床に落ちた。死因は脳挫傷。この日は41才の誕生日で、前日には次女(9歳)の誕生日を祝ったばかりだった。

話し合っていて一番気に入らなかったのが奥さんだったね。答えなかったり鼻で笑ったり、奥さんは脅迫的だった

次男(1)が遺体にすがって泣き始めた。朝倉は、居間に引き返してバッグの中からもう1本の金槌を取り出した。倒れた母親の胸に両手をかけて泣いていた次男の頭を殴打。そのまま母親の上に重なるように動かなくなった。死因は脳挫傷。

居間に引き返すと三女(6)が、恐怖のあまり、顔色を変え、両手を震わせ立ちすくんでいた。朝倉は頭を金槌で殴打、うめきながら仰向けに倒れた。さらに首をしめて殺害。死因は窒息死。

朝倉は3人の死体を浴室に運び、居間などの血を拭き取ってから、浴室に戻った。白井の妻と次男(1)の着衣を包丁で剥ぎ取ったが、三女(6)だけは不憫に思い服を着けたままにしておいた。その後、3人の死体は浴槽に入れ、蓋をして隠した。剥ぎ取った着衣は洗濯機で水洗い、2階に持って行ってその場にあったビニール袋に入れた。

午後3時過ぎ、次女(9)が帰宅、ソファーに座っている朝倉を見て、何も言わないで2階に上がろうとした。そのとき、朝倉は「お姉さんはいつ帰って来るの?」と訊いた。「学校の遠足で29日の夜帰ってくる」と答えた。長女(10歳)は林間学校に参加していて難を逃れた。

子供もいずれ大きくなれば私に復讐してくると思いました。だからはじめから殺そうと思っていたんです

朝倉は次女(9)の前に立ち塞がると、首を両手で絞めた。次女(9)は手を振り解こうとしたが、1分ぐらいでぐったりとした。朝倉は遺体を床に寝かせると、傍らにあった掃除機のコード゙を二重にして再度首を絞めた。次女(9)の遺体も服を脱がせて浴槽に入れ、着ていた服を水洗いして2階の袋に入れた。服を剥ぎ取ったことについてはこう言っている。

死体を気の済むようにしてやろうという気持ちが先でしたね。バラバラにすれば復讐も出来なくなるし。とにかく、それまでの恨みからそのくらいの気持ちになった

朝倉は白井家の主人である白井明を殺害する準備に取りかかった。血で汚れたジャージを着替え、外に停めてあった車から手斧、手袋などの入った袋を持って白井宅に戻った。

白井は、同僚と寿司屋で飲んでから、午後9時半ごろ帰宅した。明渡しの交渉を試みるが決裂。朝倉が手拳をみぞおちに叩き込むと白井は唸り声を発して前かがみになった。朝倉は手斧を取り出し白井の首左側へ振り下ろした。起き上がろうとしたが2度目の打撃で死亡。

朝倉は襟首を掴んで死体を浴室まで引きずっていった。服を包丁で切り、遺体は浴槽に入れた。着衣は同じように水洗いして脱水し、2階へ持っていった。この時、洋服のポケットの財布から1万3500円を抜き取り、財布はゴミ箱に捨てた。その後、1階居間に飛び散った血を拭い、血がしみ込んだカーペットを浴室で洗浄、玄関の土間に干した。時刻は夜10時を回っていた。
「勝ったと思って安心」して朝まで熟睡。

28日朝4時半過ぎ、血のついたジャージを着替え、外に出て車を門の前に移動。トランクからは電動肉挽き機、大型の肉切り包丁、ノコギリ、ビニール袋などを取り出し、宅中へ運び込んだ。再び、車を元あった場所に戻して停めた。

朝倉は、玄関脇階段下から浴室までの廊下に、解体に必要な道具を手順を考えて並べた。浴室に手斧、ノコギリ、肉切り包丁を持ち込み、下着一枚と医療用ゴム手袋をつけて解体作業に取りかかった。

まず、浴槽の中で白井(48)の首切断を手斧で数回試みるが失敗、洗い場に引きずり出しノコギリで切断。次に、肉切り包丁で、左肘関節、左肩関節、左足首、左膝、右手、右足を切断。胴体のみとなった白井(48)の腹部を包丁で裂いて内臓を摘出、ノコギリで胴体を横に切った。さらに、死体を小さく切断、18部位に分け、4つのビニール袋に分けた。内臓は包丁で裁断、電動肉挽き機にかけてミンチ状にしてトイレに流した。一体の解体を終えたのは朝6時半。

朝倉は、次に白井の妻(41)の解体を試みるが、包丁が折れ疲労してもいたため、同じ浴室で体を洗った後、ジャージを着て、居間のソファーの上で休んだ(午前7時)。

午前9時ごろ、白井の妻の母親が「電話が通じないので家の様子を見てくれ」と隣家の主婦に依頼。応対した朝倉は、「この家の人たちは昨夜、引越しました」と答えたので、隣家の主婦は白井の妻の母親に電話で伝えた。

午後0時40分過ぎ、2人の警官が白井宅に急行、ビニールひもで固定してあった裏口ドアの隙間から、警官が家の中に向かって声をかけた。「今、行きますから、ちょっと待ってください」と言って、朝倉は反対の表玄関から飛び出し車で逃亡を図るが、回りこんだ警官に見つかり逮捕。石神井署に身柄を拘束された朝倉は、落ち着いた口調で犯行動機を供述。

林間学校に参加して殺害を免れた小学5年の長女は、翌日も事件のことを知らないまま、貸し切りバスで出された菓子を「弟に持って帰る」としまいこんだ。後、「家族はみんな交通事故で死んだ」と親戚から聞かされた。

 

犯行までの経緯
1983年2月、東京・杉並区に住む不動産鑑定士の朝倉幸治郎(当時48歳)は、東京地裁で競売にかけられた東京・練馬区大泉学園町6丁目の物件(木造2階建て、敷地面積は624平方メートル、1階は76.03平方メートル、2階は56.19u)を落札して1億280万円で購入。資産のほとんどを担保に入れて銀行から1億数千万円借り、金利は毎月100万円近くになった。

4/13日、朝倉は渋谷の不動産屋と売買契約を成立、値段は1億2950万円。明け渡し期限は6/30日で、朝倉は内金1500万円をこの不動産屋から受け取った。

この物件には、洋書販売会社の課長白井明(45歳)一家6人が住んでいたが、朝倉は立ち退き料を払っても1000万円の儲けにはなると見込んでいた。落札直後から立ち退き交渉を始めたが、失敗すれば、不動産屋に内金の倍額、違約金3000万円を払わなければならない。朝倉は3日に1度は白井宅を訪ねた。
この物件は白井の妻の父親所有で、借金で競売にかけられていた。白井の妻の父親は、会社を倒産させ金銭的に困窮しており、立ち退き料をできるだけつり上げようとした。

白井が立ち退こうとしなかったため、朝倉は裁判を起こしたが、巧妙な引き伸ばし作戦にあった。裁判を取り下げれば、すぐにでも引越すと白井が言ったため、裁判を取り下げてみたが、それは嘘だった。引越し準備もせず、対応も誠意のないものだった。さらにあとはヤクザに任せてある」と逆に脅しをかけた。朝倉の父親はヤクザと関係があり、朝倉は幼少期に自宅をヤクザに襲われたことがある。これがトラウマになっていたと福島章教授は指摘している。

朝倉は自分の「事務所にヤクザが来た」「脅迫電話がかかってきた」「殺されるかもしれないと思った」と述べている。実際には白井がヤクザを雇った事実はなく、朝倉は神経症(ノイローゼ)気味だった。

「夜眠れなかったり、胃が痛くなったり、下痢を起こしたりして集中力を無くしていました。相手がいつ攻撃してくるか気が気が気ではなかったんです」

5月下旬、朝倉は綿密な殺人計画を立てた。死体は富士山麓の樹海に棄てることにした。朝倉は車を購入、天気が悪かった場合に死体を一時的に隠す場所として1DKのマンションを月10万円で借りた。

事件の1週間前に訪問した際にも、白井はせせら笑うような態度だった。

生育環境など

193539日秋田生まれ。6人姉弟の長男。

父親は若い頃から出稼ぎで各地を渡り歩き、極道とのつきあいがあった。終戦後は地元で一大勢力を築いた。性格は狂暴で、気に食わないことがあると怒鳴り、出刃や日本刀を振り回したりして警察の厄介になった。妻と喧嘩になると、容赦なく殴った。当然、幼少期の幸治郎は父親から激しい暴力を受けていた。

19504月、幸治郎は秋田県立秋田高等学校夜間部に入学。国語を担当した教師によると、幸治郎は漢字がほとんど書けず、判読するのに苦労したという。

2年生のときにボクシング部に入部。当時、秋田高校夜間部は、3年間で全国チャンピオンを3人も出していた。父親が秋田県ボクシング連盟理事長に頼んで入部させた。それでも、国体には補欠ながら参加。

19544月、日本大学法学部法律学科に入学。

日大に入学して最初の前期試験で、カンニングで1ヶ月の停学。1958年卒業。経済学部3年に編入学し間もなく退学。

19594月、下宿の娘と結婚し、秋田に帰った。秋田では父親の経営する朝倉市場を手伝うようになった。同年、長女が生まれた。翌19605月、父親が死去。

1961910日、父親の遺産をめぐって、親戚と争いとなり、傷害と殺人未遂事件を起こす。秋田署に自首。196287日、幸治郎は殺人未遂・傷害で懲役3年となる。同年暮、長男誕生。翌19635月から約2年間、千葉県習志野刑務所で服役。

19655月出所

 

地道な生活

19655月出所、杉並区成田東に移り住み、新宿にあった不動産鑑定所に勤務しながら不動産鑑定士になる勉強を始めた。この不動産鑑定所は学校も経営しており、日曜日に講義があった。朝倉は真面目に受講。

197110月、不動産鑑定士の第2次試験に合格。11月不動産鑑定士補

1975310日、不動産鑑定士登録

1976815日、自宅に株式会社「東洋不動産鑑定所」を設立

197912月、新宿区四谷にあるマンションの一室を購入、事務所を移す

19827月、商号を株式会社「朝倉不動産鑑定所」と改め、都知事から宅地建物取引業の免許を受け不動産取引きも開始。宅地建物取引主任者(宅建)の資格こそ持っていたが、不動産取引経験のない朝倉が初めて手を出したのが、白井一家の住んでいた建物だった。この年、不動産鑑定件数45件、収入1116万円

裁判所や国土庁から依頼されたあまり金にならない仕事も引き受け、事件の少し前に表彰されている

 

その後

 

19851220日、東京地裁で死刑判決

1990123日、東京高裁で控訴棄却

19961114日、最高裁が上告棄却、死刑が確定

 


精神鑑定医・福島教授との面談では、「殺害は恨みを晴らして勝利した快感だった」「ガッツポーズでもしたくなるような感じですね」と述べている

●快感というのはセックスの快感に似ているのか

ぜんぜん違いますね。勝負で勝ったときの快楽だね

●性的な刺激とか、欲望は感じたか

ぜんぜんない

 

犯行が性的な動機と結びついているかどうか、福島教授が確認しているのは、再犯の確率が高い連続的殺人の場合、力の行使と性的快感が一体化しているからだ。

 

「緊急避難」ですよ。・・・・・本当に追い詰められていました。姿を見せない相手にジワジワと責められてましたからね

 

2001/12/27 死刑が執行された。66歳

 

 

 

 

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