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すごい椅子です。
組合で作るパンフレットの打ち合わせの席で。
「あの、せんせー、これ『子供』になってますけども、『子ども』に直した方がいいですよね」
「いいえ。私は『子供』と表記することにしていますので、直さないで下さい」
「『子ども』と書かないとクレームが付くときがあるのですよね…」
またか。
「一体どこの誰がそういうことを言うのでしょうか」と言おうと思ったけど、やめた。
「子供」表記は正しくないのだろうか。間違いなのだろうか。断じて否である。
日本語として「子供」表記は全く問題のない「正しい」表記である。
- [問19] 「子供」か「子ども」か
「こども」という語は、本来、「こ(子)」に、複数を表す接尾語「ども」がついたものである。「宇利波米婆 胡藤母意保由‥(瓜食めば、子ども思ほゆ‥)」(万葉集巻5・802)と山上憶良の歌にもあるほど、古い語であるが、のち、「しにをくれじとたどれ共、子どものあしにあめのあし、おとなのあしにをひぬひて」(浄瑠璃、賀古信教)のように単数複数に関係なく用いられるようになった。
その表記としては、「子等、児等、子供、児供、小供、子ども、こども」などいろいろな形が見られたが、明治以後の国語辞典類では、ほとんど「子供」の形を採り、「小供」は誤りと注記しているものもある。その後、「子ども」の表記も生まれたが、これは、「供」に当て字の色彩が濃いからであろう。
昭和25年の「文部省刊行物の基準」では、「こども」と仮名書きを示し、「子供・子ども」を( )に入れて、漢字を使っても差し支えないが、仮名書きが望ましいものとしている。
しかし、現在では、昭和56年の内閣告示「常用漢字表」の「供」の「とも」の訓(この訓は、昭和23年の内閣告示「当用漢字音訓表」にもあった)の項の例欄に「供、子供」と掲げられており、公用文関係などでは、やはり、「子供」の表記を採っておいてよいと思われる。
なお、新聞・放送関係では、早くから、統一用語として「子供」を使うことになっている。ただし、実際の記事では、「子ども、こども」なども時に用いられることがあるようである。
また、国民の祝日に関する法律(昭和23年7月20日、法律第178号)では、毎年5月5日を「こどもの日」と定め、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」と、その趣旨が述べられている。
常用漢字表に依れば「子供」は正しい表記であり、がたがた言われる筋合いは無い。
「子供」は熟語訓である。「子ども」と書くことは「大人」を「大な」「大とな」と書くことに等しい。
「子ども」表記は「ら致」や「覚せい剤」「暗たん」等と同じ「交ぜ書き」であり、熟語としての単語構造を損なっているのである。
だから私は「子ども」とは書かない。「子供」と表記する。だからといって「子ども」と書いている人に書き換えを求めたことは無い。そう書きたいと思って書いている人にとやかくいう謂れは無いからだ。
しかし、なんだ。世の中のいわゆる「進歩的」な人々(教育関係の人々に多いらしい)は「子供」表記を目の敵にして「子ども」表記を強制する。
「では、なぜ『子供』がだめで『子ども』が正しいのでしょうか」ちゃんとした説明をしてもらいましょうよ。
調査してみたが、あまりこれといった説明にはまだ出会っていない。どうやら「供」はお供えの供か、供え物の供で子供の人権を損なう差別的表記だなんだということらしい。
私に言わせれば「子供」よりも「子ども」の方がはるかに差別的表記である。
「ども」は複数をあらわす接尾辞である。「子供」は複数でも単数でも「子供」。「友達」の「だち」と同じである。
「子ども」と表記することは、「女ども」、「野郎ども」と同じように「子」+「ども」になってしまう。「子供ども」ということ。
侮蔑の意味を込めない限り「女ども」とは言わないはず。せめて「女たち」。同じく「子たち」と言うならわかる。しかし「子ども」。むしろ「子ども」表記の方が子供を貶めているのだ。
一体どこの誰が「子供」表記を見ることでこれはお供だ、付属品だなど発想できるのだろうか。誰が最初にそんなことを言ったか知らないが、よっぽど発想力の豊かかあるいは差別的思想の豊かな御仁だったのであろう。
「『子供』は差別的ですよー」そう啓蒙されて初めて、「へーそうなの」と「差別的ではない正しい『子ども』表記」が広がったのである。それはちょうど宗教のように無批判無検証的に行われ、本質が顧みられることはない。障碍者を「障がい者」と言い換えることもそうであるが、言い換えは本質をなんら改善しない。むしろ言い換えたことによりさも良いことをしたかのような「善意」満足感が思考を停止させてしまうのである。
慎みは文化である。
「便所」より「お手洗い」「洗面所」「憚り」「花摘み」…そういった慎みが文化を広げてきた。文化はそれを知っているか知らないかの違い。無知は無恥であり未文化であること。知らないことは罪ではないが、だからといってそれを誇ったり、威張ったりすることは野蛮人に近し。知ろうとする謙虚さを忘れ、開き直ってはいけない。
どこぞやの総理大臣は開き直り「私が知るわけないじゃないか」。知らぬことが正しいことなのか。知ろうとする姿勢を軽んじているだけではないか。恥を知れ。
あのねえ。
「障害者」を「障がい者」と言い換えることで何が変わるのだろうか。イメージですか。
イメージが表現・表記にとって重要な要素であることは否定しない。概念的共有は表記に由来するものであるからである。
でもねえ。
「障害者」という言葉は漢字制限という政策的に作られた言葉である。こちらで説明されているように、「片端」「不具者」→「障碍(礙)者」→「障害者」→「障がい者」というようにその都度その都度言い換えが行われて来た。結局また同じ轍を踏むことになる。今度は「しょうがいしゃ」ですか。「啓発者」ですか。あほくさ。
言葉をいくら言い換えても、その概念は変わりはしない。鉛筆を「ペンシル」と言い換えても、文字を書いたり、消しゴムで消せたり、削ることが必要であったり、ガリガリかじるものであったりするその本質には何の変化も及ぼさないのである。「かじるべきものではない」そういう認識は表記や語彙の問題ではなく、コミュニケーションと概念共有の問題なのである。
しかしこれはあくまでも札幌市という行政が政策として行う「公権力の行使」についての話でしょ。
とすれば「障害者」という表記が行政レベルで改められるためには、その根拠とされる「表記に関わる悪いイメージ」が共有認識とされなければ、これこそ個人的な好き嫌いの範疇に過ぎないのではないか。主権によってこの好き嫌いが肯定されるのならそれは札幌市民の選択だが、為政者の思いつきでやられたのではたまらない。
そもそも障碍者と行政の関係は、障碍者を含む社会環境の是正にその目的があるのであって、障碍者そのものをどうこうする類のものではない。障碍は個性であるとするならば、その障碍を行政ごときが管理することはそれこそ僭越なことではないか。法の守備範囲は社会的な対人関係の調整であって、行政においての守備範囲はその公共圏における環境整備につきる。その公共圏における障碍者の管理ではなく、障碍者における社会的環境の整備が行政のお仕事というわけ。その生産性において達成されない要素があるからといって、それを言語表記に向けるなんて行政責任の転嫁でないのかね。
行政が社会的な作用であると同様、言語表記だって社会的に生産されたものである。したがってこれまでの行政において「障害者」という表記に表記以外の意味があり、「障がい者」という表記に必要性があるならば、そのことは別の概念として対象化されなくてはならないだろうし、あらゆる言語がそうであるように、必要に応じて社会的に生産される。こうしたことは行政的な営みではない。なぜならもう既に「障害者」という語彙と概念は共有されているからである。
社会的な生産物としての言語表記において、「障害者」という表記が「悪いイメージ」を生産するのであれば、それはそれとしてはなはだ残念なことではある。しかし、このような「イメージ」に関わる問題は、コミュニケーションによる概念共有(共有概念の構築)上における課題であって、そうしたコミュニケーションを実現する言語の語彙に帰因するものでしかない。社会的生産物としての言語表記とその語彙は文化的な問題であって、行政的な問題ではない。行政的にはどのような「イメージ」が刷り込まれた人間が存在したとしても、そのこととは別に公共圏における公共性が全うされればよいことである。
行政の作用において「障害者」を「障がい者」と変更したところで障碍という概念は消滅しないし、また断じて消滅させてはならない。あるいは、どうでもいいことである。なぜなら行政における課題は、公共圏における公共性が全うされないという障碍に対してその現実を解体し、これを克服することによって公共性を実現すること、そして行政的生産性をより高い水準において達成することが問われているからである。
この度の「名称変更」によって実現されるのは、中途半端な行政的語彙の確立とこれによる行政体系的一貫性の歪み、あるいはこの実践に費やされたことによる時間と労力、および財政的損失である。期待されるような障碍者における権利問題への波及効果はあり得ない。なぜなら現在の障碍者に関わる権利問題は、「障害者」という言葉が「害」をイメージさせることに起因するものではないからである。
実際に障碍者が何らかの「害」を受けているのだろうか。何らかの「害」を与えているのだろうか。否。
では、現実に反して障碍者が何らかの「害」を受けている、あるいは何らかの「害」を与えているという誤解をどこかの誰かが抱いているというのか。否。
ということは障碍者に関わる問題は「障害者」という言葉に起因しているものではないのである。
……
役人よ言葉をいじるな。金でもいじっていろ。
私は「障碍」表記をとります。碍は礙の俗字。さまたげる、さえぎる、ふせぐ、じゃまをするの意。
長崎の事件。
所詮当事者ではないわれわれ部外者は冷静に事件を受け止めなくてはならない。
あくまでも特異な個人の犯罪として見るべきであり、これを一般論にしてしまうのはかえって危うい。まだそういう冷静な発言が見受けられるのは救い。しかし悪者探しのできないフラストレーションはマスコミ報道で増幅される。「謝罪をしない」両親バッシングがヒステリカルに沸きあがる。その雰囲気に悪のりして政治家ごときが、なぜしゃしゃり出るのか。
ただ悼むしかないではないか。そして当事者から語られる言葉を、ただ、待つしかないではないか。
やってみましょう。
ネタ元はWeb Cafe' "Prelude"から。
近所のコンビニ。
なんか、このコンビ二、監視カメラが多いと思いません?
ええ、なんでも高校生の万引きが多いので、増設したらしいですよ。
……。
長崎の12歳事件の解決も監視カメラ。
治安維持の特効薬。監視カメラ。
「エネミーオブアメリカ」を思い出す。
仕方ないとはいえ、自分が知らないうちに撮影されていることには抵抗がある。
このページは、主にMacOSX環境を中心に、ASCII pTeXによる和文縦組論文執筆のためのツールを提供することを目的とするものである。
そういうもの。