日記。2003年7月。

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2003年7月31日

すごい椅子です。

2003年7月29日

「子供」か「子ども」か。

1

組合で作るパンフレットの打ち合わせの席で。

「あの、せんせー、これ『子供』になってますけども、『子ども』に直した方がいいですよね」

「いいえ。私は『子供』と表記することにしていますので、直さないで下さい」

「『子ども』と書かないとクレームが付くときがあるのですよね…」

またか。

「一体どこの誰がそういうことを言うのでしょうか」と言おうと思ったけど、やめた。

「子供」表記は正しくないのだろうか。間違いなのだろうか。断じて否である。

日本語として「子供」表記は全く問題のない「正しい」表記である。

[問19] 「子供」か「子ども」か

「こども」という語は、本来、「こ(子)」に、複数を表す接尾語「ども」がついたものである。「宇利波米婆 胡藤母意保由‥(瓜食めば、子ども思ほゆ‥)」(万葉集巻5・802)と山上憶良の歌にもあるほど、古い語であるが、のち、「しにをくれじとたどれ共、子どものあしにあめのあし、おとなのあしにをひぬひて」(浄瑠璃、賀古信教)のように単数複数に関係なく用いられるようになった。

その表記としては、「子等、児等、子供、児供、小供、子ども、こども」などいろいろな形が見られたが、明治以後の国語辞典類では、ほとんど「子供」の形を採り、「小供」は誤りと注記しているものもある。その後、「子ども」の表記も生まれたが、これは、「供」に当て字の色彩が濃いからであろう。

昭和25年の「文部省刊行物の基準」では、「こども」と仮名書きを示し、「子供・子ども」を( )に入れて、漢字を使っても差し支えないが、仮名書きが望ましいものとしている。

しかし、現在では、昭和56年の内閣告示「常用漢字表」の「供」の「とも」の訓(この訓は、昭和23年の内閣告示「当用漢字音訓表」にもあった)の項の例欄に「供、子供」と掲げられており、公用文関係などでは、やはり、「子供」の表記を採っておいてよいと思われる。

なお、新聞・放送関係では、早くから、統一用語として「子供」を使うことになっている。ただし、実際の記事では、「子ども、こども」なども時に用いられることがあるようである。

また、国民の祝日に関する法律(昭和23年7月20日、法律第178号)では、毎年5月5日を「こどもの日」と定め、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」と、その趣旨が述べられている。

2

常用漢字表に依れば「子供」は正しい表記であり、がたがた言われる筋合いは無い。

「子供」は熟語訓である。「子ども」と書くことは「大人」を「大な」「大とな」と書くことに等しい。

「子ども」表記は「ら致」や「覚せい剤」「暗たん」等と同じ「交ぜ書き」であり、熟語としての単語構造を損なっているのである。

3

だから私は「子ども」とは書かない。「子供」と表記する。だからといって「子ども」と書いている人に書き換えを求めたことは無い。そう書きたいと思って書いている人にとやかくいう謂れは無いからだ。

しかし、なんだ。世の中のいわゆる「進歩的」な人々(教育関係の人々に多いらしい)は「子供」表記を目の敵にして「子ども」表記を強制する。

「では、なぜ『子供』がだめで『子ども』が正しいのでしょうか」ちゃんとした説明をしてもらいましょうよ。

調査してみたが、あまりこれといった説明にはまだ出会っていない。どうやら「供」はお供えの供か、供え物の供で子供の人権を損なう差別的表記だなんだということらしい。

4

私に言わせれば「子供」よりも「子ども」の方がはるかに差別的表記である。

「ども」は複数をあらわす接尾辞である。「子供」は複数でも単数でも「子供」。「友達」の「だち」と同じである。

「子ども」と表記することは、「女ども」、「野郎ども」と同じように「子」+「ども」になってしまう。「子供ども」ということ。

侮蔑の意味を込めない限り「女ども」とは言わないはず。せめて「女たち」。同じく「子たち」と言うならわかる。しかし「子ども」。むしろ「子ども」表記の方が子供を貶めているのだ。

一体どこの誰が「子供」表記を見ることでこれはお供だ、付属品だなど発想できるのだろうか。誰が最初にそんなことを言ったか知らないが、よっぽど発想力の豊かかあるいは差別的思想の豊かな御仁だったのであろう。

「『子供』は差別的ですよー」そう啓蒙されて初めて、「へーそうなの」と「差別的ではない正しい『子ども』表記」が広がったのである。それはちょうど宗教のように無批判無検証的に行われ、本質が顧みられることはない。障碍者を「障がい者」と言い換えることもそうであるが、言い換えは本質をなんら改善しない。むしろ言い換えたことによりさも良いことをしたかのような「善意」満足感が思考を停止させてしまうのである。

2003年7月28日

慎みは文化である。

「便所」より「お手洗い」「洗面所」「憚り」「花摘み」…そういった慎みが文化を広げてきた。文化はそれを知っているか知らないかの違い。無知は無恥であり未文化であること。知らないことは罪ではないが、だからといってそれを誇ったり、威張ったりすることは野蛮人に近し。知ろうとする謙虚さを忘れ、開き直ってはいけない。

どこぞやの総理大臣は開き直り「私が知るわけないじゃないか」。知らぬことが正しいことなのか。知ろうとする姿勢を軽んじているだけではないか。恥を知れ。

2003年7月23日

あのねえ。

「障害者」を「障がい者」と言い換えることで何が変わるのだろうか。イメージですか。

イメージが表現・表記にとって重要な要素であることは否定しない。概念的共有は表記に由来するものであるからである。

でもねえ。

「障害者」という言葉は漢字制限という政策的に作られた言葉である。こちらで説明されているように、「片端」「不具者」→「障碍(礙)者」→「障害者」→「障がい者」というようにその都度その都度言い換えが行われて来た。結局また同じ轍を踏むことになる。今度は「しょうがいしゃ」ですか。「啓発者」ですか。あほくさ。

言葉をいくら言い換えても、その概念は変わりはしない。鉛筆を「ペンシル」と言い換えても、文字を書いたり、消しゴムで消せたり、削ることが必要であったり、ガリガリかじるものであったりするその本質には何の変化も及ぼさないのである。「かじるべきものではない」そういう認識は表記や語彙の問題ではなく、コミュニケーションと概念共有の問題なのである。

しかしこれはあくまでも札幌市という行政が政策として行う「公権力の行使」についての話でしょ。

とすれば「障害者」という表記が行政レベルで改められるためには、その根拠とされる「表記に関わる悪いイメージ」が共有認識とされなければ、これこそ個人的な好き嫌いの範疇に過ぎないのではないか。主権によってこの好き嫌いが肯定されるのならそれは札幌市民の選択だが、為政者の思いつきでやられたのではたまらない。

そもそも障碍者と行政の関係は、障碍者を含む社会環境の是正にその目的があるのであって、障碍者そのものをどうこうする類のものではない。障碍は個性であるとするならば、その障碍を行政ごときが管理することはそれこそ僭越なことではないか。法の守備範囲は社会的な対人関係の調整であって、行政においての守備範囲はその公共圏における環境整備につきる。その公共圏における障碍者の管理ではなく、障碍者における社会的環境の整備が行政のお仕事というわけ。その生産性において達成されない要素があるからといって、それを言語表記に向けるなんて行政責任の転嫁でないのかね。

行政が社会的な作用であると同様、言語表記だって社会的に生産されたものである。したがってこれまでの行政において「障害者」という表記に表記以外の意味があり、「障がい者」という表記に必要性があるならば、そのことは別の概念として対象化されなくてはならないだろうし、あらゆる言語がそうであるように、必要に応じて社会的に生産される。こうしたことは行政的な営みではない。なぜならもう既に「障害者」という語彙と概念は共有されているからである。

社会的な生産物としての言語表記において、「障害者」という表記が「悪いイメージ」を生産するのであれば、それはそれとしてはなはだ残念なことではある。しかし、このような「イメージ」に関わる問題は、コミュニケーションによる概念共有(共有概念の構築)上における課題であって、そうしたコミュニケーションを実現する言語の語彙に帰因するものでしかない。社会的生産物としての言語表記とその語彙は文化的な問題であって、行政的な問題ではない。行政的にはどのような「イメージ」が刷り込まれた人間が存在したとしても、そのこととは別に公共圏における公共性が全うされればよいことである。

行政の作用において「障害者」を「障がい者」と変更したところで障碍という概念は消滅しないし、また断じて消滅させてはならない。あるいは、どうでもいいことである。なぜなら行政における課題は、公共圏における公共性が全うされないという障碍に対してその現実を解体し、これを克服することによって公共性を実現すること、そして行政的生産性をより高い水準において達成することが問われているからである。

この度の「名称変更」によって実現されるのは、中途半端な行政的語彙の確立とこれによる行政体系的一貫性の歪み、あるいはこの実践に費やされたことによる時間と労力、および財政的損失である。期待されるような障碍者における権利問題への波及効果はあり得ない。なぜなら現在の障碍者に関わる権利問題は、「障害者」という言葉が「害」をイメージさせることに起因するものではないからである。

実際に障碍者が何らかの「害」を受けているのだろうか。何らかの「害」を与えているのだろうか。否。

では、現実に反して障碍者が何らかの「害」を受けている、あるいは何らかの「害」を与えているという誤解をどこかの誰かが抱いているというのか。否。

ということは障碍者に関わる問題は「障害者」という言葉に起因しているものではないのである。

……

役人よ言葉をいじるな。金でもいじっていろ。

私は「障碍」表記をとります。碍は礙の俗字。さまたげる、さえぎる、ふせぐ、じゃまをするの意。

2003年7月21日

長崎の事件。

所詮当事者ではないわれわれ部外者は冷静に事件を受け止めなくてはならない。

あくまでも特異な個人の犯罪として見るべきであり、これを一般論にしてしまうのはかえって危うい。まだそういう冷静な発言が見受けられるのは救い。しかし悪者探しのできないフラストレーションはマスコミ報道で増幅される。「謝罪をしない」両親バッシングがヒステリカルに沸きあがる。その雰囲気に悪のりして政治家ごときが、なぜしゃしゃり出るのか。

ただ悼むしかないではないか。そして当事者から語られる言葉を、ただ、待つしかないではないか。

2003年7月16日

やってみましょう。

●でっかいことはいいことだと思っている。
大は小を兼ねる。
●フロンティアスピリットが心の拠所である。
あまり前のめりになるのもどうかと思いますが、新し物好きは認める。
●カツゲンが大好きだ。
カツゲンよりも、私は雪印コーヒーをこよなく愛する人であります。リンク先は参考。
●ザンギも大好物だ。
鳥のから揚げのこと。出されれば食べるという程度。
●とうもろこしのことを「とうきび」と言う。
はい。
●足跡を見ると、どんな動物が通ったか判断できる。
んなことない。
●桜が咲くのは5月があたりまえだと思っている。
よく教科書に桜の咲く入学式の絵が出たりしますが、あれはいただけない。国語総合(教育出版)の最初のエッセイもテーマは桜と日本人の季節感。生徒の生活実感と全く乖離して扱いにくいったらありゃしない。
●交換して欲しい時の言葉は「ばくって〜」だ。
なにかを「ばくる」場面はこの歳になってそうそうあるわけじゃない。
●ムツゴロウ氏のことはあまり好きではない。
ご健勝でなによりです。
●道徳観があまりなく、世間の目を気にしない。
道民てそうなのですか。交通マナーは良くありませんな。
●バンソウコのことをサビオもしくはサビヨと呼ぶ。
はい。商標ですけど。
●「ひっかく」ことを『かっちゃく』という。
猫や犬限定で。
●まつげによく雪虫がのっかってる。
乗るものかね。そんなの「いずい(わずらわしい)」でしょ。
●同級生をドンパ、タクシーをとんしゃと呼ぶ。
高校生は同級生を「タメ」と呼びます。タクシーはタクシーに決まっている。子供の時は「ハイヤー」と呼んでいました。町に2台しかないハイヤー。タクシーとハイヤーの違いは?
●家の中でゴキブリを見たことがない。
はい。北海道に住んでいる幸せ。
●生まれて初めてゴキブリを見たときは「可愛い」と思ってしまった。
冗談じゃない。
●銘菓「わかさいも」は、本当はあまり美味しくないと思う。
わかさいもは嫌いじゃないけど、「いもてん」の方が好き。
●家に煙突がある。
最近はファンヒーターの家も増えていますからね。北海道では暖房がないと死にます。
●狸小路には「狸が放し飼いされている」と、道外の人にウソを教えたことがある。
札幌のことは知らない。
●狸小路の愛称「ぽんぽこシャンゼリゼ」は、かなり恥ずかしい。
札幌のことは知らない。
●しかし「ぽんぽこサンバ」のメロディを聞くとつい口ずさんでしまう。
札幌のことは知らないったら。
●たまにキリンメッツのガラナが無性に飲みたくなる。
コーラよりは美味いと思う。
●千秋庵の山親爺も北海道にしかないことを大人になってから知り、かなりショックを受けた。
「出てきた出てきた山親爺―」の歌は振り付けつきで歌える。
●砂糖といえば「すずらん印」だ。
帯広ならそう。「スプーン印」てのもスーパーにはあるでしょう。
●さわることを「ちょす」と言う。
よく使う。「あいつはちょされやすい生徒だ」→「あいつはかまわれやすい(ちょっかい出されやすい)生徒だ」てな風に。
●雪が降るとつい溜息をついてしまう。
いちいちため息はつかない。確かに初雪の時は感慨深く感じることがある。
●自衛隊は雪まつりのために存在していると思っている。
バカを言ってはいけない。
●南郷7丁目は「ナンナナ」、新札幌は「シンサツ」と呼ぶ。
なにそれ。
●札幌のラーメン横丁には絶対に行かない。また、おやじが怖くて有名な、支那そばやは大嫌い。
ラーメンは店で食べるより自分で作るほうが美味いと思う。マルちゃんの味噌ラーメン。
●子どもの頃、牧場で遊んだことがある。
上川盆地は田んぼばかりでした。
●宅配などで離島料金と同じ料金なのをなぜか納得してしまっている。
商売とはそういうもの。
●ラーメンサラダは全国どこにでもあると信じて疑ったことはない。
えっ、違うの?
●内地に「セイコーマート」がないことが信じられない。
セイコーマート、は埼玉、茨城にもあるらしいです。
●たばこを吸っている。
すいません。
●四季ではなく「春、夏、秋、初冬、寒中、残冬」の六季だ。
そうは感じない。
●窓は3層があたりまえで、玄関から居間までに3つドアがある。
窓は2層がスタンダード。玄関フードのある家は3つあるでしょうけど、うちは2つ。
●瓦屋根を見ると「本州」を感じる。
それはそうだ。
●「北の国から」で有名になった富良野だが、さだまさしの歌声をエンドレスで流すのはいいかげん耳ざわりである。
そんな「いかにも観光地」に行かなければよいのだから。
●酔っ払って家に帰る途中に行き倒れになり、雪が解けてから発見された知人がいる。
よって寝込んで亡くなった方はいます。
●冬用革靴の裏には滑り止めのゴム板が貼り付けてある。
後から貼り付けることはしない。はじめからそういう靴を買う。
●結婚式の祝金はカンパである。
会費制結婚式はすぐれたシステムだと思います。
●「焼きそば弁当」が北海道にしかないことを大人になってから知り、かなりショックを受けた。
そうなの? 定番なのに。
●道外に住むようになってから、『焼きそば弁当』の代わりに『ぺヤング焼きそば』を買うようになった。
焼きそばは生麺のものをいただいておりました。
●東京の冬のほうが寒いと感じる。
それはそうだ。北海道の感覚でガスストーブをがんがん焚いていたら、月のガス代が4万円を超えた。あれにはしびれた。
●ディスコといえば「釈迦曼荼羅」(シャカマン)である。
札幌のことは知りませぬ。
●おいしいものを食べたときは「なまらうまい」だ。
そうですね。
●指さしたクラーク像が、北大にいると思い込んでいる観光客に「それは羊が丘ですよ」と、あっさり教えてあげるのが、少し楽しみ。
札幌のことは知りませぬ。
●牛丼より、豚丼が好き。
帯広に来て初めて「豚丼」を知った。
●ジャガバターは食い飽きた。
美味いものは美味い。
●花見でもキャンプでも紅葉狩りでも、アウトドアといえば常にジンギスカンである。
紅葉狩りとは言いません。観楓会といいます。そんな寒い時期に外でジンギスカンはやりません。
●年配の人が、家に訪れる時は決まって「おばんでした」(過去形)と言う。
言う。
●「ようちえん」は『よ』にアクセントがある。
平坦アクセントだと思いますが。
●とーちゃん、かーちゃんは「書かれている」を「書かさってる」と言う。
言う人もいる。
●学祭の模擬店で中山峠の「揚げ芋」もどきを売り、結構儲けたことがある。
なんかもめているみたいですね。峠の売店。
●エキノコックスが怖くて山菜は食べられない。
洗って加熱すればいいのではなくて?
●中央競馬よりばんえい競馬のほうが燃える。
ギャンブルは卒業しました。
●ファミレスと言えば「とんでん」である。
ロイホー(ロイヤルホスト)やヴィクトリアだと思います。個人的にはガスト、バーミヤンなどすかいらーく系好き。
●子供のころ、8月7日の七夕の夜になるとみんなで「ローソク出〜せ〜、出〜せ〜よ〜♪」と歌いながら一軒一軒まわっていた。
そういう地域もあるようですね。私は経験ありませんが。
●しかし、本当にローソクが出されると「出されるならお菓子がよかった」とつい思ってしまう。
同上。
●新聞の「熊出没」の記事には、真剣に目を通す。
はい。(答えるのにもだんだん面倒くさくなってきた)
●言葉はなんでも過去形にすると、丁寧だと思っている。
英語と通じるものがあります。
●札幌の地上の都市計画は日本一だと思うが、地下街の難解さはどうにかしてほしい。
何事も慣れです。私は行きませんが。
●知りあいに3人以上、離婚した人がいる。
いたかも。
●大通り公園の屋台で売っているとうきびは冷凍ものなので買わない。
買い食いは親の教えで禁じられています。
●道外のことを内地と言う。
そういう時もあります。
●車で1時間、といえば近所のエリアに入る。
3時間までは日帰り圏です。
●内地の人間が時計台を見てがっかりするさまは、見飽きた。
どうでもいい。
●ゲームセンターといえばスガイだ。
そうですね。
●松山千春の実家の看板の前で記念写真を撮ったことがある。
足寄は鈴木宗雄氏で有名になってしまいました。
●玄関には、玄関フードが付いている。
公宅ですから、ありません。
●飼い犬を凍死させたことがある。
するかい。
●内地のTVでパチンコ屋のCMが無いのを不自然に思う。
へー。ないのですか。
●梅雨の辛さが信じられない。
いちおう東京にも住んだことありますので、知ってはいます。
●買い物といえば、ホーマックだ。
うちのかみさんはホーマック大好きです。
●丸井今井が東京の丸井と違うことを大人になってから知り、軽くショックを受けた。
確かに。
●地下鉄がきれいなのが自慢だ。
東京の方がきれいではなくて?
●青森県八戸市出身の田中義剛が、道産子代表のような扱いをされることにひどく憤慨している。
ここ十勝でも田中さんのあまりいい評判は聞きませんが、やっかみも半分あるでしょうて。
●冬になるとばーちゃんは、そりを持って買い物にでかける。
ボブスレーと言いましょう。
●また、ばーちゃんは「カギをかける」ことを『じょっぴんかる』という。
いういう。
●冬は家の中からリモコンで車のエンジンをかけて、車を暖めてからでないと車に乗る勇気がない。
今となっては必需品です。マニュアル車は不可。あとイモライザー付き外車もダメらしい。
●ご飯が炊き上がると「ご飯炊かさった」と言う。
言うかな。
●薄味のことを「味が無い」と言う。
うちの親は「甘い」と言いますが。
●桂枝光(元桂小つぶ)を未だに認めていない。
だれ?
●HTBの「水曜どうでしょう」は必ずみている。
いちいちオンエアを見るのは面倒くさいのでDVDを全部買うことにしました。
●ノリノリの時に「おだつな」と言われると結構カチンとくる。
はんかくさい奴にはそういってやるべきです。
●棒ではなく、「ぼっこ」だ。
当然。
●人が集まればジンギスカンかチャンチャン焼きを作る。
材料があればね。
●ゴミは「投げる」、てぶくろは「はく」ものだ。
あたりまえです。
●「虹と雪のバラード」を聞くと目頭が熱くなる。
高校の合唱で歌いました。v
●たとえ汚れていても冬の間は洗車しない。
シバレてドアのパッキンを交換したことがある。ウン万円。
●スキー場のリフト乗り場で何十分も並ぶことが信じられない。
昔は週末のスキー場はどこでも並んだものです。今は苗場だって斑尾だって並ぶことはないでしょう。スキーは斜陽産業ですもの。
●赤飯は甘いものだ。
その通り。
●家に木彫りの熊の置物がある。
アイヌの夫妻の置物はありました。確かに。

ネタ元はWeb Cafe' "Prelude"から。

2003年7月13日

近所のコンビニ。

なんか、このコンビ二、監視カメラが多いと思いません?

ええ、なんでも高校生の万引きが多いので、増設したらしいですよ。

……。

長崎の12歳事件の解決も監視カメラ。

治安維持の特効薬。監視カメラ。

「エネミーオブアメリカ」を思い出す。

仕方ないとはいえ、自分が知らないうちに撮影されていることには抵抗がある。

2003年7月12日

このページは、主にMacOSX環境を中心に、ASCII pTeXによる和文縦組論文執筆のためのツールを提供することを目的とするものである。

そういうもの。

2003年7月11日


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