奈良県田原本町の母子放火殺人事件をめぐる秘密漏示事件は、長男(17)を精神鑑定した京都市の崎浜盛三医師(49)の逮捕に発展した。崎浜医師は、長男の供述調書を「僕はパパを殺すことに決めた」(講談社)の著者、草薙厚子さんに提供したとされる。情報提供者や取材者に対する異例の逮捕・強制捜査について、表現の自由に詳しい山田健太(専修大准教授)、小町谷育子(弁護士)、玉木明(フリージャーナリスト)の3氏が語った。【まとめ・臺宏士、写真・松田嘉徳】
◇公開の流れに逆行--フリージャーナリスト・玉木明氏
◇調書開示、行き過ぎ--弁護士・小町谷育子氏
◇表現の自由を軽視--専修大准教授・山田健太氏
--奈良地検は異例の情報提供者への逮捕に踏み切りました。
山田氏 公権力の介入という点から三つの問題点がある。草薙さんや崎浜医師に対する強制捜査・逮捕は、形の上では秘密漏示容疑だが、本が供述調書の内容をそのまま多数引用したという表現方法を問題視したのが一つだ。書き方の問題は、出版された後に市民社会、メディア界で議論されるべきであって、捜査機関が内容に踏み込むことは許し難い行為だ。二つめは、威嚇効果だ。裁判員制度が始まり、一般の人も秘密に接するようになる。情報を漏らすとこうなるという意思表示でもある。裁判員法は感想を述べることは認めているが、話ができない雰囲気が出てくる。取材にためらいも出てくるだろう。3点目は、捜査機関をはじめ公権力が表現の自由を軽視しているという点だろう。
小町谷氏 今回は少年事件だが成人だった場合を考えたい。刑事確定訴訟記録法には、確定した刑事事件記録についての情報公開規定があり、条文上、閲覧は認められているが謄写できる規定はない。ただ、実況見分調書などの謄写は認められるようだが、私が扱った事件でも供述調書の謄写は認められなかった。これは、供述調書に関しては、同じものが世の中に別にあってはならないという考えからだろう。少年法の趣旨と合わせて刑事事件にしたのではないかと思う。秘密漏示罪での立件というのはきっかけに過ぎない。
山田氏 情報源に対する強制捜査・逮捕はできる限り避けるべきだ。国家的に大きな利益が損なわれるのならともかく、今回は全容が明らかになっている。草薙さん側は取材源を明かしていないが国家権力を行使し情報源を突き止めてまで守るべき秘密とは言えない。
玉木氏 少年事件の情報は少しずつだが開示される方向になってきている。逮捕は、その流れに逆行するものだ。取材源が萎縮(いしゅく)するというよりも初めから情報を出さないということになりかねない。ますます取材がしにくくなることを危惧(きぐ)する。神戸小学生連続殺傷事件(97年)で法務省は加害男性が仮退院したことを発表したが、それにより社会もメディアもこれを冷静に受け止めることができた。
小町谷氏 崎浜医師への強制捜査自体は一概に悪いとは言えないのではないか。守秘義務により秘密を保護することで鑑定の対象者と崎浜医師との信頼関係が担保されるからだ。医師が考えていることは調書を見せなくても草薙さんに伝えることはできたのではないか。ただ、証拠隠滅や逃亡の恐れがないのに逮捕・拘置したのは問題だ。
山田氏 こうした問題を刑事事件にすること自体を議論すべきだ。これまでジャーナリストに刑事裁判での法廷証言を求めなかったり、新聞社や出版社を強制捜査して取材メモを押収しなかったり、刑法の名誉棄損罪の適用にも慎重だったのは、表現の自由を大事にしようとする慣行があったと言える。なし崩し的に変わっていくのは最も良くない。
--供述調書をそのまま引用するという表現方法には批判があります。
玉木氏 少年事件の非公開性と、今回の調書の公表は分けて考える必要がある。「情報が出てこなくていいのか」という本の内容を是とする理屈にすり替えられかねないからだ。やはり、現状の少年法を考えると「こういう書き方はないだろう」と感じた。内容の概略を紹介するとかいろいろな方法があると思う。取材した相手に迷惑をかけないよう注意深くやらなければいけない。講談社にも編集のプロがいるだろうから、危険性を承知でなぜ出版に至ったのか疑問だ。
山田氏 長男が放火までの計画を記した「カレンダー」を本の表紙などに刷り込んだことを見ると、講談社として「売らんかな」という確信犯的な側面も否定できない。
--崎浜医師の弁護人は18日の会見で医師が草薙さんに見せた目的や理由について「鑑定した長男に殺意はなかった。世間の誤解を解きたかった。プライベートではなく公の目的でやった。金品の授受はない。秘密漏示罪に該当することは認識していた。それを覚悟で今回の行動に及んだ」と話しているそうです。
玉木氏 草薙さんも著書の中で出版理由について、長男の肉声を伝えようとしたことや、事実誤認が広がったままになっていることを訂正しようと思ったことなどを挙げている。少年事件は事件発生時はたくさん報道されるが、家裁に送致されると情報が出なくなる。事実を伝える必要があるのはその通りだと思う。要は伝え方の問題だ。
山田氏 毎日新聞政治部記者が国家公務員法違反に問われた外務省密約事件で、東京地裁は74年1月、「取材協力行為は取材行為に準ずる保護を受け得る。そのためには報道機関の公共的使命に奉仕して公益を図るという積極的意図で行われたことを要する」と判断した。崎浜医師と草薙さんが目的を共有していたとすれば、2人への強制捜査や逮捕は、取材源の秘匿を直接的に脅かしている。
小町谷氏 少年事件を含めて刑事記録をどういう形で公開するかということについての議論を始めるべきだ。隠せば隠すほど社会は真実が分からなくなるし、メディアも取材しようとするのは当然だろう。
◇出版目的は理解できる--玉木氏
◇被害回復、本来は民事で--小町谷氏
◇閲覧制限の検証も重要--山田氏
--法務省東京法務局は7月に草薙さんや講談社に対し、謝罪や被害回復を求める勧告を出しました。
山田氏 そもそも行政機関が一方的に本の内容についてプライバシー侵害を認定すること自体が問題だ。表現の自由に対する介入だと言える。強制捜査の前触れのように出版後に法務大臣や国家公安委員長が問題視する発言をし、奈良家裁が草薙さんらに抗議文を出すなど裁判所と捜査機関が一体となった姿勢を示していた。
小町谷氏 外務省密約事件と違い、供述調書の内容を掲載された父子の家庭の平穏を保護するために国家が乗り出したことに問題がある。今回は精神鑑定医の秘密漏示罪で立件したが、本来は民事で解決する問題だ。人権擁護法案(03年廃案)にあるような行政機関が主体となった人権救済機関では表現の自由が脅かされることを今回の事件は示した。それだけに出版社などメディア界による自主的な救済システムが重要だ。
--一部の公共図書館では閲覧制限の動きがありました。
山田氏 日本図書館協会は06年、未成年容疑者の氏名などが載った書籍や新聞について「図書館の自由」の精神に照らして、公共図書館での原則閲覧を決めている。当初は閲覧制限をする図書館もあったようだが一部にとどまったようだ。図書館や司書の努力で表現の自由を守ることができた。どういう図書館が閲覧制限したのかの検証も重要だ。
==============
■人物略歴
◇山田健太(やまだ・けんた)氏
専門はメディア法、日本ペンクラブ言論表現委員会委員長、自由人権協会事務局長
==============
■人物略歴
◇小町谷育子(こまちや・いくこ)氏
放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会委員長代行
==============
■人物略歴
◇玉木明(たまき・あきら)氏
元新潟日報記者、毎日新聞「開かれた新聞」委員会委員
毎日新聞 2007年10月22日 東京朝刊