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1:「カリスマ社長」
秋 ついに勇退
37年勤め上げ
2:池田元首相より早かった
給与倍増計画
変わった社員の目
3:ひざ震えた新会社
工場建設の決断
4:存亡かけた大阪商人との
真剣勝負
5:江戸期の参宮街道、再現
老舗の味から人情まで、
「参拝客に伝えたい」
6:参拝客へ持てなしの心、
復活
春から地域ぐるみで「施行」
7:「経営者は未来から
考えなければ」
「赤福理念の書」で指南」

人物略歴  
「赤福」の由来
  後に社是となる「赤心慶福」から取った名前。「真心を尽くせば他人の幸せを素直に喜べる」という意味。つまり、お伊勢参りに訪れた人たちを真心でもてなし、幸福感を共有しようという考えだ。商品名であるとともに、屋号や社名でもある。むろん、社員相互や会社と社員との間にも適用される。浜田ます前社長は「人の幸せを願う人は最も幸せになれる」と説いた。
[2] 池田元首相より早かった給与倍増計画
   --変わった社員の目
 
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 「かの有名な池田勇人元首相の所得倍増計画より早く考えついたんです」

  浜田益嗣さんは得意そうに目を細めた。浜田さんが赤福へ入社した1960年に打ち出した従業員の給与倍増計画のことだ。赤福の飛躍と青年経営者の意地を懸けたビジョンだっただけに無理もない。「この成功で経営者やリーダーとして社内的に認められ、自信や基盤をぐんと強めました」と感慨深げ。

  60年当時の同社は、昔ながらの老舗経営や類似品14種類の出回りで苦闘。売り上げが年約8400万円と伸び悩んでいた。従業員94人の統制も十分に取れず、各人に陰ひなたがあった。売り上げの増大と経営者の認知を求め、浜田さんは対応策に取り組んだ。夜、布団の中で鉛筆をなめながら考え、思いついた構想を次々とメモした。

  入社半年後の同年9月、23歳で専務となったが、気が重かった。そんな中でサラリーマンになった大学時代の友人と酒を飲んだ時、友人たちの変化に気づいた。卒業前後の時は、みんな社長になったつもりで夢を語り合った。しかし、卒業後半年ほどたつと、主に給料や退職金の話に変わったのだった。

  「友人らの話を聞き、従業員共通の夢は『明日への希望』だと感じました。経営者なら5年先の会社をはっきり示し、夢の実現を約束しなければならないと考えたのです。それが給与倍増計画に結びつきました」と浜田さんは話す。

  実施した計画は61年を基準にし、66年までの5年間に給与を倍増させる内容だ。実現させるには、従業員を260人前後に増員。売り上げを5年間で10倍の約8億4000万円以上に伸ばし、毎年15%ずつ昇給しなければならない。

  このため、会社経営の全体を見直し、さまざまな売り上げ増大策に乗り出した。中でも販売ルートは、商品がナマモノのために狭い地域に限られていた。地元の三重県伊勢市を中心に、観光地の鳥羽市や二見町など、大部分が伊勢志摩地方だった。

  「ナマモノのためだけでなく、『地元でないと買えない』という土地の名物の価値を高める狙いもありました。どこでも買えるとブランドの値打ちが下がるので、その加減が難しいのです」と浜田さん。

  その結果、近鉄沿線の大阪や京都、名古屋まで拡張。それぞれの主要駅や百貨店、名店街、レストハウスなどでの販売を始めた。同時に、年数百万円の広告費を初めて計上し、テレビやラジオなどでコマーシャルを流した。また、餅を作る以外の箱の包装や箱の底へアルミ箔(はく)を敷く過程を機械化した。
  作戦の効果は1年目から現れた。売り上げが61年に1億5000万円、62年は2億4000万円と予想以上のペースで拡大。65年には1年早く目標の8億4000万円を突破し、8億6000万円を売り上げた。

  「計画段階では、従業員の多くが給与の倍増に半信半疑でした。しかし、2年目ぐらいから見方が変わり、私を見る目も大きく変化しました。経営者のやりがいを初めて味わった瞬間です」。浜田さんは何度も目を細めた。

文・・安間教雄/写真・小林理幸>

毎日新聞中部本社版 [朝刊] 2005/8/23掲載
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