企画特集
第17回 連続企業爆破事件 1974年(昭和49年)8月30日 (3/4ページ)
小野義雄(当時写真部記者)
昭和49年の三菱重工ビル爆破事件に端を発した一連の連続企業爆破事件犯人の一斉逮捕をスクープしたのが産経新聞。昭和50年5月19日の朝刊だった−
私は、この日の前日、長女の出産が近かったため、妻を新潟県寺泊町の実家に送り、午後11時過ぎに、高島平の自宅に戻ってきた。
寝て間もなくの午前1時だった。写真部デスクから電話が入った。
「すぐ出て来い。全員出勤してるんだ。なにしてるんだ」
突然の電話で、何が何だか分からないままタクシーで出社した。4階の写真部に着いてびっくり。新聞紙大の模造紙が壁一面に張られて、社会部員とカメラマンの配置表が書かれていた。そこに、私の名前は無かった。
「何があったんですか?」
3階の編集局から上がってきたデスクが口を開いた。
「なんだお前は何も知らねぇのか、世紀の特ダネだよ」と渡された朝刊一面のゲラには「爆破犯数人に逮捕状」の黒ベタ凸版見出しが踊っていた。驚いている私にデスクのだみ声が飛んだ。
「お前の名前を忘れていたよ。どうでもいいんだが。行きたいか?」
指示された愛宕署に社会部記者とペアで向かった。既に先輩カメラマンが待機していた。間もなくだった。「署の裏側から一台の乗用車が出た!追いかけろ」の指示が出された。
愛宕署には連続企業爆破事件で公安部の隠れた捜査本部が置かれており、犯人逮捕に向かう刑事の追跡の始まりだ。
午前5時過ぎ、空は明るみ、土砂降りの雨は小降りになっていた。3人の刑事を乗せた捜査車両は、溜池から運輸省前を通過、首都高の霞が関ランプには入らず、追跡する我々の車を振り払おうと、猛スピードで霞が関官庁街を走りまわり、急ハンドルを切るたびに、後輪が軋みながら横に滑った。
ジクザク運転を繰り返した捜査車両が今度は霞が関ランプから首都高速へ。それでも我々の車を振り払えないと思った捜査車両は、京橋方面に入り京橋ランプから一般道に出て築地署に到着。車ごと建物内に消えた。
「現場に行くのを止めたのか」
裏から逃げる可能性もあり、社会部記者と2人で裏口に回った。先ほどの捜査車両が出てきた。よく見るとその車両には刑事1人が乗っていた。我々は「ダミー車両」と判断、追跡をやめた。