ed.sato.gifRe 「ミュージック・マガジン」のアニメ劇伴記事

 まず私が言いたいのは「今ごろ 初めて『マクロス プラス』を観てんじゃないよ」ということである。まぁ、この記事の書き手は真性のオタクではないようだから、『プラス』を観てくれただけでも相当マシな部類なんだけど、それでもチェックが甘いよな。なにしろ3年も前の作品なのだから。(でも、書き手は文中で「エスカフローネ」の最終回を視て泣いたと告白していたから、オタクの素質はバッチリか?)
 音楽雑誌の老舗「ミュージック・マガジン」の誌面で菅野よう子氏を取り上げた理由ってのも、この雑誌が常々賞賛してやまない民族音楽がアニメに使われているというので「これは評価せねばなるまい」というあたりだろう。自分の仲間を見つけたので嬉しくなったのだな。ちなみにこの雑誌、今までアニメの劇伴を取り上げたことなんか殆どない。理想が高い雑誌なのだ。
 書き手が文中で繰り返し使っている「未来っぽい」というキーワードには、何ら具体的な中身が感じられなかった。たとえば、かつて未来学が謳い上げたような楽観的な未来世界を「未来っぽい」の一言で全面肯定しているのだとしたら、時代錯誤を指摘されても仕方がないと思う。1980年代以降、未来なんて暗くて面倒で辛気臭いものと相場が決まっているからだ。
 エコロジーアニメ『もののけ姫』のアシタカを見ればいい。彼は環境汚染のとばっちりを受けているが、未来が辛気臭いと知った上で、敢えて自ら引き受けようとしている。アシタカに引換え、他者から与えられた「こうだったらいいな」という未来像を無批判に受け継ぐだけでは、明るい未来は来ない。
 というわけで、この記事の書き手が何を言いたいのか、私にはサッパリ判らなかった。少なくとも、レイヴで脳天気に踊っているのが「未来っぽい」かというと、それは違うと思う。

 話をアニメの劇伴に進めよう。
 アニメ映画『AKIRA』の音楽に芸能山城組が登用されたのは、音楽カンケーの視点からも大きな衝撃だった。しかしこれは、大友克洋という無類のスーパーマンがいて、彼が非常な音楽好きであり、かつ自分の勝手を押し通すことができたから実現したという、あくまで例外的なケースであった。
 大友氏は一流のクリエイターであるから、当然のように山城組を知っていた。だが、一流でないクリエイターは山城組など知らないかも知れないし、知っていたとしても山城組をアニメの劇伴に起用するという発想が出てこないだろう。
 さて、なぜかは判らないが、アニメのBGMを担当している作曲家というのは、アニメ以外の音楽と全く隔絶している人が多い。たしかに久石譲氏は北野武氏と、すぎやまこういち氏は『ドラゴンクエスト』氏と組んではいる。しかし、彼らの動きはそれら特定の仕事と固く結びついていて、そこから先の広がりがない。
 アニメの劇伴を請け負う作曲家は、なかなか増えない。業界に入ってきて出て行かない人か、入ってきた後に出ていって二度と戻らない人の二通りしかいないからだ(後者の代表は三枝成彰氏)。川井憲次氏や田中公平先生が鮮烈なデビューを飾ったのは、もう十数年も前のことである。それ以後、優秀な新人がボコボコ輩出したかというと、そうではなかった。
 この記事で取り上げられている菅野よう子氏は、元はポップミュージック畑の人で、井上陽水のバックバンドに加わるなどの経歴があった。しかし、一旦アニメの劇伴に取り掛かるや、アニメ以外の仕事から殆ど手を引いてしまった。ある種の音楽家にとって、アニメの世界は一度踏み込むと抜け出したくなくなるほど居心地が良いとみえる。
 菅野よう子氏の登場は、たしかに一つのエポックだった。従来のアニメ音楽にはなかった方法論をアニメに導入したという功績は否定できない。しかし、それは菅野氏がアニメの劇伴以外の音楽をよく知っていたということであり、コマーシャルな形で引用できるソースをたくさん抱えていたからである。つまり、アニメ音楽とその他の音楽の間にある落差を利用できるだけの蓄積を持っていたに過ぎない。非常に微妙な表現になるが、菅野氏が作曲するにあたってヒントとしていたはずの音楽を、私は幾つも挙げることができる。この指摘は記事の中にもある。
 菅野氏の作業は、アニメというフィールドの中では充分に目新しい。しかし、音楽一般という視点から見れば、別に珍しがるべきほどの仕事ではないと思われる。しかし昨今はアニメ作品そのものが「目新しい作品づくり」という指向から離れているので、アニメのBGMも同様のレヴェルに留まっているのだと考えればいいのかも知れないんだけどさ。
 中には「アニメの劇伴に音楽的なオリジナリティを期待するなんてバカげたことで、作品を観ている間だけ楽しけりゃ、それでいいじゃないか」という意見もあるだろう。私は、その種の考えを全否定するものではない。しかし、では「パクリまくって知らん顔でいいのか」というと、そういうワケにもいくまい。
 アニメが映画一般のミニチュアであることから脱し得ないように、アニメの劇伴も映画音楽のミニチュアであって、いつまでも遅れたままで良いのだろうかという疑問がある。「セルで描かれた世界は所詮ニセモノなのだから、それに付けられた音楽もニセモノで充分なのだ」という後ろ向きな考え方では、結局のところ観客の尊敬を得られないだろう。なにしろ私はアニメが大好きなもんですから(笑)、可能であれば、ちゃんとした音楽が付いた、ちゃんとしたアニメが観たいと思っとります。

 それとは別の疑問もある。アニメを受け取る側=ユーザの問題だ。
 私は、ヒカシューというバンドが音楽を演ったOVA『オーガス02』のサントラが大好きなんですが、これはアニメファンと言われる一群の人たちには圧倒的な不評であった。オープニングで流れる主題歌を聞いただけで挫折してしまった人もいるぐらいだという。
 映画『攻殻機動隊』のBGMも実に大胆な冒険をしていて、音楽的には興味深いものであった。しかし、アニメファンの皆さんには今いちピンと来てないようだった。彼らは一様に「あれはアニメっぽくない」「燃えない」「泣けない」と言って退けたのである(だいたい、あの映画がピンときたアニメファンがいたのだろうか?)。その評判を聞いて、押井監督が碇ゲンドウのように「(ニヤリ)」と笑ったのは言うまでもない(←ここの部分、ツクリ入ってます)。
 話を戻そう。
 つまり私が言いたいのは、アニメファンが持っている音楽的なテイストというのが、世間的に流通している音楽のテイストと、かなり隔たっているのじゃないかということだ。アニメは音楽面においても他のジャンルに対して強固なバリヤーを築き、そこから頑として出てこないという印象が拭い切れない。だとすれば、アニメユーザの嗜好はアニメ劇伴作曲家の姿勢と相同形を成しているとは言えまいか。
 私がアニメの劇伴を表現するために使っているのは「純粋培養」という言葉である。

 最後に、無用な誤解を避けるために言っておく。実はワタクシ、個人的には菅野氏のファンなんですうううーぅ。さすがに「サイン色紙が欲しい」と思いつめるほどではないが、『プラス』も「エスカ」も『MEMORIES』も、作品そのものが総じてホニャララだったにもかかわらず、菅野氏の手になるサントラCDはキッチリ予約した上で発売前日に買いましたぞ。・・・なんだぁ、オレって結構ミーハーじゃん。あぶねえ、あぶねえ。(笑)
 それにしても「ブレンパワード」のテンプトラックが『ブレードランナー』のサントラ盤だったとはね。そういや、作品の題名も似てるか。(佐藤 良平)


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