有楽町イトシア

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有楽町歴史絵巻

第1回テーマ 「地名の由来と江戸時代」

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有楽−織田信長の弟が地名の由来?

1952年(昭和27年)のNHKラジオ・ドラマ「君の名は」や、1957年(昭和32年)に歌謡曲の「有楽町で逢いましょう」で、一躍全国的に知られるようになったその地名の由来は、 江戸時代にまでさかのぼります。

有楽町の地名は、戦国時代を代表する武将、織田信長の実弟、安土桃山から江戸時代初期の大名茶人で千利休にも学んだ「織田 有楽斎 長益(おだ うらくさい ながます)」 (1547年−1621年)の屋敷があった、あるいは屋敷跡を有楽ヶ原(うらくがはら)と呼んだことに由来しているといわれています。また数寄屋をいくつも建てたので、そこから 数寄屋橋の由来になったという古書もあるようです。

ただ江戸時代の古書や江戸図からは織田有楽斎の屋敷があったという確証はありません。 はっきりしているのは江戸時代中期の頃から有楽ヶ原と江戸の絵図に地名がでており、正式な町名としては、1872年(明治5年)からとなっています。

織田 有楽斎は、本能寺の変の信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後は関ヶ原の合戦で東軍の徳川方に与して、戦乱の世を生き延びました。 大坂夏の陣前までは豊臣家の姪・淀殿に仕え、戦を好まなかったため豊臣家内では戦を避けようと尽力しましたが、直前で大坂城を退去したため、徳川家の咎めはありませんでした。

有楽斎は、大坂夏の陣の後は、京都に居を定めて隠遁し茶を友に終生過ごし75歳で死去。1600年頃には出家してすでに有楽と号していました。 自分で有楽流という茶道の一派を創設するほど造詣が深く、千利休の門下の七哲に数えられています。

なお東京の有楽町とは別に、この秀吉から与えられた大坂の有楽町(うらくまち)という地名がありましたが、戦後の区画整理などで消滅しています(現在の西成区天下茶屋付近)

南町奉行所配置図および発掘調査航空写真
図・写真:武蔵文化財研究所「千代田区有楽町二丁目遺跡の発掘調査の概要」より

大岡裁きで有名な南町奉行所の遺跡が発掘

本再開発事業計画にあたって、2004年に千代田区教育委員会が遺跡確認の試掘調査を行い、その結果南町奉行所などの遺跡の存在が確認され、 2005年4月より発掘調査を本格的に実施しました。

発掘調査では、江戸時代はじめの大名屋敷跡や1707年以降この地に置かれた南町奉行所跡が発見され、「堀」「信濃」(飯田藩)「井伊」(彦根藩)「大岡」 といった調査地点に屋敷を構えた大名の名が書かれた荷札など、屋敷内での生活を彷彿とする多数の遺物が出土しました。特に南町奉行所の遺跡は、屋敷の表門から 裁判を執行する役所部分に該当し、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土しました。 (図面参照)

発掘調査場所

江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした、その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名の南北両奉行に分かれ 月番で交代に執務していました。幕末の北町奉行所は、呉服橋門内(現在の東京駅八重洲北口周辺)にあり、南町奉行所は宝永4年(1707)に常盤橋門内から移転し、この数寄屋橋門内 にありました。名奉行として名高い大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)までの約20年間、町奉行としてここで職務を執っていました。300年近くタイムスリップすると、 この地はまさに“大岡裁き”が行われていた空間なのです。

次回は、明治期〜昭和期 終戦前後の有楽町について

参考資料:「有楽町今と昔」東京交通会館 刊、
武蔵文化財研究所「千代田区有楽町二丁目遺跡の発掘調査の概要」