富山に引かれるわけ

――07825日付北日本新聞文化欄[越中讃歌]から――

 

 

 

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滝沢客員教授

(国際政治)

 

複雑な国際関係を分かりやすく解きほぐすベテラン

 

「皆さま、着陸態勢に入りました。シートベルトをしっかりお締めください」

客室乗務員のアナウンスが流れ、眼下に富山湾が見えてくると、決まって、我が家に帰ってきたような安らぎを覚える。一体、なぜなのだろうか。

 

東京生まれだから、富山は私のふるさとではない。今は横浜に住んでおり、非常勤教員として富山国際大学で教えるため、週に2日ほど飛行機で通っているに過ぎない。何でもそろっている東京や横浜と違って、「行くところがない」という学生の嘆きもよく聞く。

 

では、何が私をこれほどひきつけるのか。改めて、富山とのかかわりを振り返ってみた。

 

 富山には足掛け10年住んだ。東京で国際報道を担当する新聞記者を28年間やり、熊本大学にスカウトされて、同大で国際政治を10年間教え、定年前に自分の意思で富山国際大学に移った。

 

 「先生、富山のような田舎で、国際政治の研究なんて出来るんですか」――学生が不思議がった。しかし、インターネットを活用すれば、どこにいても、即座に最新情報を入手出来るので、ほとんど不便は感じなかった。それどころか、一体何が起こったのか、世界中の人々がキツネにつままれた2001911日の米中枢同時テロの直後、新聞社でも国際大でも同僚だった岡倉徹志教授(当時)と2人で、同テロの全容を解明する大学主催の緊急講演会を行い、北日本新聞ホールを満席にした。このテロが原因で、2003320日にブッシュ米大統領がイラク戦争を起こすと、翌日の北日本新聞1面にすかさず「“1極支配”終わりの始まり」という解説記事を書いた。その時点で、今日のイラクの大混乱や米国の苦境をすでに正確に予測した記事だったので、今でも教材に使っている。

 

しかし、インターネット活用のこうした成果は、どこにいても出来たはずだから、これが富山にひきつけられる理由とは言えない。

 

富山に住むようになって、強く印象付けられたことは、空気と水、そして食べ物のおいしさである。特に、東京では料亭でしかお目にかかれないような、新鮮でおいしい魚介類が、普通のスーパーで安い値段で買えることにはびっくりした。交通渋滞がほとんどなく、ほぼ予定通りに目的地に行けるのもうれしかった。普通の道でも新緑が鮮やかで、冬は白銀に輝く立山連峰の美しさに息をのんだ。

 

もっとも、記者時代に取材で訪れた外国にも、おいしいもの、美しい景色はたくさんあった。今住んでいる横浜も、未来都市を思わせる「みなとみらい地区」の高層ビル街、ムードたっぷりな外人墓地、本場の味を楽しめる中華街など、かなり魅力的だ。では、富山に安らぎを感じる最大の理由はどこにあるのか。

 

昔、取材で訪れた米国南部アーカンソー州リトルロックでのあるパーティで、星条旗をスカーフ代わりに首に巻いた愛国的な?中年女性とカクテルを飲みながら懇談したことがあった。「この街がすごく気に入った」と言うと、彼女は「それは違うと思うヮ」と自分の意見を述べた。人がある土地を好きになるというのは、そこの景色や食べ物が気に入ったというよりは、そこで会った人たちを好きになったからだというのだ。「いつか、その場所を再訪しても、知り合った人たちがもういなければ、あなたが感じるのは寂しさだけョ」

 

その通りだと思う。富山でいろいろな人に会うことが出来た。少人数の大学だから、ゼミの学生たちとは深い交流が出来た。超保守的な県と聞いていたのに、平和憲法を守ろうと「9条の会」などを立ち上げた意欲的な草の根の活動家たち、ケータイが子供の心の発達に与える悪影響に気づいて、いち早く立ち上がった保健師、教員らとも知り合えた。

 

授業と並行して、地域での講演活動にも力を入れてきたが、その最大の理由は、知的レベルの高い聴衆の存在である。私は父の半生を描いた拙著「名優・滝沢修と激動昭和」で平成17年度「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞したが、「過去の俳優」の話なのに涙を流して感動してくれる聴衆がいなかったら、そもそも本を書こうという気さえ起きなかったに違いない。声色まで使う講演手法に自信があるわけではなかったが、先日、自らも講演をする女性研究者がくれた「先生の講演はすでに“芸術”の域」というメールにはとても励まされた。いつの間にか71歳になったが、「生涯現役」を目指して、私を励まし、成長させてくれた富山のすばらしい人たちとの交流を続けていきたい。(完)