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『Poesia (ポエシーア)』   [灯里x藍華xアリス]


 ネオ・ヴェネツィアの秋は、実にしっとりと訪れる。
 夏の緑葉はすっかりと紅く染まり、風にその身を委ね、ゆらりゆらりと水面に波紋を描く。 紅葉の紅色、イチョウの黄色。色鮮やかな落葉が、まるで絨毯のように水面全体を覆っている。
 そんな色とりどりの世界をゴンドラの上から眺めて、水無灯里はにへらと笑った。
 水上の表面を駆け抜けてきた秋風が、彼女の全身にぶつかってくる。その何ともいえない清涼感に、自然と口元があがった。
「ちょっと灯里。なにニヤニヤしてるのよ?」
 左右に結った青みがかった髪を宙に浮かせて藍華が振り返った。不思議そうな顔で灯里を見上げている。
「だってー、紅葉が綺麗なんだもん」
「あー、もうすっかり秋だしねー」
 藍華はごろんと寝転んで空を見上げた。その衝撃でゴンドラが揺れ、灯里は少しバランスを崩す。
 オールを漕ぐ角度を変え、てこの原理でバランスを正常に保った。
 灯里が位置取りに四苦八苦している間に、うぐ、とも、あう、とも言いがたい奇妙な声が灯里の耳に聞こえてきていた。
「あ、ごめん。当たっちゃった」
 身体を起こし、藍華は苦笑交じりに言う。
 アリスは背中をさすりながら藍華を恨めしそうに睨んでいる。どうやら藍華が寝転んだ拍子に船首に腰掛けていた彼女の背中を蹴ったらしい。
「アリスちゃん、大丈夫?」
 灯里は心配そうな顔で尋ねる。
「藍華先輩、ゴンドラの上で寝転がるのは止めてください」
「うぅ、だからゴメンって」
「でっかい迷惑です」
 そう言ってぷいっとそっぽを向いてしまった。
「にゃにおーー!?」
「わわ、藍華ちゃん、立たないで、立たないで」
 歳下のアリスにはっきり言われたのが悔しかったのか、藍華は、むきー、とも、うがー、ともとれる奇声を発していた。立ち上がった藍華の影響で、再びゴンドラが大きく揺れる。
 二人の騒動は次第におさまり、ゴンドラの上では沈黙が訪れた。
 落葉する紅葉の中を、ゆっくりと、ゆっくりとゴンドラが抜けていく。
 自前の髪に落葉が触れるたび、どこかくすぐったい気持ちになっていく。
 自然と落ち着いた空気。水路を進む水の音。賑やかな通りと対称的に、水路は心安らぐ静けさが漂っている。
 賑やかなのも好きだけど、こんな水音に支配された空間も好きだなぁ、と灯里は思う。
 ちゃぷんという音が耳に届くたび、外音から隔離されたような、そんな感覚が頭をよぎる。
 トンネルの真ん中でビー玉を落としたときに聞こえるような反響音に似ている、そんなことを考えた。
 水上案内人のシングル二人とペア一人のいつもと変わらない合同練習の風景。
 灯里は大きく息を吸い込んだ。
 曲がり角に差し掛かる。右と左、どちらに行こうか思考を巡らした。
 少し考え、灯里はオールの柄の部分を右壁側面へコツンと当てる。ゴンドラは緩やかな弧を描き、進行方向を右へと変える。
 直線の水路。100メートルほど先に見える広い海路。
 上を見上げれば、過去の罪人がヴェネツィアの絶景を眺めて哀愁のため息を洩らした橋。
 サンマルコ広場へ続くこの水路に近づくたび、灯里はいつだって心が弾む。
「灯里ー、灯里ー」
「え? なに?」
「そろそろ三時だから休憩にしない?」
 藍華の提案に、アリスがびしっと手を上げた。目がらんらんと輝いている。どうやら、賛成の意図らしい。
「うん、私も賛成ー」
 灯里は笑顔で答え、オールを漕ぐスピードをわずかに速める。
 灯里のゴンドラはいつだってゆっくりスピードで進んでいるので、意識して初めて通常のスピードになる。
 ためいき橋のアーチをくぐり、吸い込まれるような光のトンネルを抜けると、大海原が視界に広がった。空には大型飛行船がゆったりとその身を浮かしている。
 高い空。かすむ地平線。
 潮騒の音、そして香りが三人の顔に触れ、そして後方へと流されていく。
 三人とも、言葉を紡がない。
 一言の言葉で形容できるほど、この眺めは単純でも簡素でもない、と灯里は思った。
 本当に心打つ景色に出会ったとき、人は言葉を失うものだ。
 はじめて見る景色ではない。だけど、いつだってここは新鮮な心にさせてくれる。
 灯里はそっと目を瞑り、口元を上げた。
「よーし、それじゃ、船着場に向かうねー」
「おー」
 灯里の声に、二人の手が空に向かって上がった。灯里は笑いながら方向転換をして船着場を目指す。
 サンマルコ広場の船場。大鐘楼、寺院が一望できるこの広場はいつだって大勢の人で賑わっている。
 待ち合わせの場所として、また、人と人との出会いの場として、この壮観で偉大な広場は存在していた。
 船着場にゴンドラを寄せ、三人は広場へと降り立った。鐘楼が重く、そして響きある音色で時報を告げている。
 三回の鐘の音。その音が深く灯里の心へと響いてくる。
 灯里はゴンドラ漕ぎで滞った血液を全身に促すため、空に向かって大きく背伸びをした。
 空へ飛んでいってしまいそうなぐらい、高く伸びる。
 この町に来てまだ二年と少し。この広場は灯里にとって、まだ新鮮な場所。
 年代物の石壁も、老朽化を思わせるような寺院の外見も。
 そして灯里は何やら口論を始めている藍華とアリスを見た。幼き頃からこのネオ・ヴェネツィアで育った二人はこの広場がどう見えているのだろう、そんなことを考える。
 いつまでも、この広場を見るたびに幸せな気持ちでいたい、と願うのは贅沢なことなのだろうか。
「ねぇ灯里。やっぱりおやつはプリンよね。プリンが食べたいよね」
「灯里先輩、プリンはこの間食べました。ここはサン・マルコ広場のオープンカフェでケーキです」
「はひっ!?」
 突然話題を振られ、灯里は思わずびくっとなる。
 先ほどから二人がケーキやプリンという単語は聞こえていたが、特に意識をしていなかった。
「だから、おやつはプリンがいいか、ケーキがいいか」
「灯里先輩はどっちですか?」
 ずずいっと二人が迫ってくる。藍華とアリス、二人のあまりに真剣な表情が可笑しくて、灯里は思わず吹き出した。
「ちょっと灯里? 何よ突然」
 藍華が腰に手をあてて、憮然とした顔で尋ねる。アリスは訳がわからないといった表情で首を傾げている。
 そして、灯里は鼻歌を歌いながら広場へと歩いていく。呆気に取られていた二人も慌てて後を追ってきた。
「ちょっとぉ、どうするのよ?」
「灯里先輩?」
 広場の中腹にある時計。待ち合わせ場所として良く使われるこの近辺では、いくつかのベンチが備え付けられていた。ちょうど三人が座れる長さの椅子が空いている。
 灯里はそのベンチを指差した。
「それぞれお持ち帰りにして、ここで食べようよ。私、アイスが食べたいんだ」
 サンマルコ広場での小休止。
 ネオ・ヴェネツィアの中心街で幸せを噛み締めたくて、灯里は提案をする。
 藍華とアリスは互いに顔を見合わせ、そして、苦笑まじりの表情になる。
「たまにはそんなのもいいかもね」
「そうですね」
「うんっ!」
 ふんわりとした気持ちが灯里の心を包んでいる。秋らしからぬ、暖かい気持ち。
 同じ目標を目指す友人達と、一緒に頑張って行けることが何よりも幸せなのかもしれない、そんな風に思う。
「ねぇ藍華ちゃん。アリスちゃん」
 鐘楼を見上げて灯里はつぶやく。顔は笑顔でほころんで。
「私って、贅沢者だよねぇ」



Fin

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