たとえば、中島みゆきの「時代」から――。
「そんな時代も あったねと いつか話せる 日が来るわ
あんな時代も あったねと きっと笑って 話せるわ
だから今日は くよくよしないで 今日の風に 吹かれましょう」
作家にとっていちばん幸福なのは不遇時代なのだと思う。
逆説でもなんでもなくて、言葉の意味どおりに解釈してください。
なにものでもないじぶんがいる。
とても納得できない。
なにものかになりたいじぶんがいる。
こんなものではない。こんなものじゃないんだ。
既成の価値を批判しながら、おのれはさらに上を目指すのだという矜持。
しかし、だれも認めてくれないという矛盾。
野心。野望。嫉妬。自負。失意。落胆。悲嘆。憤懣。怨恨。懇願。忍耐。気力。胆力。度胸。
腐った嫉妬心の発露のようだけれど、いまの純文学系作家さんはかわいそうだとさえ思う。
もう作家という地位を得ている。なら、なんのために書くのさ。
自己表現? じぶんのことをわかってほしい?
ひとたび作家になった人間なら、
そんなことはどれもつまらないことだとわかっているはずである。
皮肉な笑いとともに言うかもしれない。職業だ。おカネのために書いている。
だったら、悪いが、それはもう純文学ではない。
古臭い議論なのは百も承知だが、カネをもらわなくても書くのが文学ではないか。
いな、カネの有無を問わず、書きたいこと、伝えたいことがある。
この精神のなかにしか文学はないとわたしは現代でもなお思っている古い人間だ。
なったこともないのに独断するが、社長さんなんかもつまらないものだと思う。
毎日、部下からあたまを下げられ、おいしいものを食べ、愛人の数人もいる。
いざ、そんな立場になったら、こんなものかとがっかりするのではないか。
社長になるよりも、なろうとがむしゃらだった時代のほうがはるかに充実していた。
報われるか報われないか見当もつかない生活を、
それでも懸命に生きていた時代がどれだけ幸福だったか。
自信がない。しかし自負はある。自己不信と自負とのあいだで大揺れする毎日。
「こんなものだ」と「こんなものではない」が、文字どおり殴りあうような日常。
だれも認めてくれない。認めているのはひとり、じぶんだけである。
この孤独からしか生まれないものがある。
そして、実は生まれたものより、製造過程のほうが価値があるという皮肉。
大家とよばれるような文学者の書いた文章のなんと気がゆるんでいることか。
比して、いまだなにものでもない無名人の筆なる文章のどれだけ輝いていることか。
満足した文章と不満の文章。どちらがひとを揺るがすであろうか。
若き日の宮本輝の小説がどれだけ人間に救いをもたらしたか。
高校中退の演劇くずれに過ぎなかった柳美里の文章がどれだけ美しかったか。
自負と不安が書かしめる文章の光彩と陰影こそ、ひとを打つのではあるまいか。
不安だけではダメなのだ。しょせん素人ですから、といったような文章はよくない。
かといって、俺様はいくつも文学賞を受賞しているベストセラー作家だ!
なんていう自信にみなぎった文章は、もはや活力を失っている。
いい文章というのが近頃ようやくわかった。
正確にはいい文章ではなく、わたしの好きな文章である。
というのも文章に普遍的な是非などあるわけがない。好き嫌いしかないのである。
人間の目指すことの可能なのは、おのが理想の文章、好きな文章くらいだ。
感情の入っている文章がわたしは好きだ。書きたいと思っている。
怒りと悲しみ、喜びと哀しみの混じっている文章を理想としている。
そのためにいまこうして研鑽を積んでいる。
願わくば、である。いつかこんなことを言われてみたいものである。
「あいつはブログで管を巻いていた時代がいちばんよかった」
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