破滅願望?

安酒をのみながら秋の夜更けにふと思うわけだ。
幸福って、つまらないよね?
だれもがあこがれる幸福。わたしだって、どれだけ望んでいることか。
しかし、想像してみる。じぶんが幸福になった未来図。
先生なんて呼ばれて、おカネもうなるほどあって、モテモテの毎日。
つまんねえだろうな。くそみたいな生活じゃないか。
これを書いてはおしまいなのだが、幸福よりも不幸のほうがおもしろいのではないか。
この際、なにをおもしろいと見るかにもよるのだけれども。
少なくとも、いいかな、幸福は劇的ではないよね?
不幸のほうが劇的ということができませんか。これは同意していただけませんかね。
わが師の原一男先生もしきりに言っていたな。
「不幸じゃないやつは表現なんてするな!」
追い込まれないと人間は必死にならないという理屈である。
NHKなんかに入ってしまったら表現者の人生は終わりという考えかたである。
大学のゼミ合宿で温泉へ行くとき、列車のなかで原先生にうかがったことがある。
しかし、なんと質問したのかは、いくら考えても思い出すことができない。
ただ師匠の言葉だけ覚えている。
「不幸のほうがいい。不幸だと、こう、わーっと元気が湧いてこないか。
やるぞという気力が、わーっと。負けちゃいけない。がんばろうと思う」
あたかも、こう言っているかのようであった。
表現者たるもの、みずからをなかば意識的に不幸へ追い込まなければならない。
あちこちに子どもを作る原先生の生きかたは、単なる女好きだったのか、
それとも深い意図があったのか。弟子がどうこう言える問題ではない。
ふたたび、幸福って、つまらなくはありませんか。
不幸のほうがよほどいい。安穏とした生活など反吐が出る。
追い込まれたい。追い込みたい。
そうでもしないと見えてこないものがあるのではないか。
なら、なにを見たのかと問われると困るのだが。
ほんとうのじぶんが見たいというのは、あまりに古臭い。
だがしかし、不幸でなければ見えてこないものがやはりあるのではないだろうか。
鬱病というのは、その面から考えると、絶好のチャンスなのである。
なにもかも不幸に見えてしまうのだから。
死と隣り合わせ(=鬱病)になって、はじめて見えてくるものがあるはずである。
こんなわたしでも気づくと平穏な生活を送っている。
忘れるなとじぶんを叱咤しなければならぬ。
不幸を忘れるな。死を忘れるな。
たまに無性に異性に会いたくなるのは、この性癖ゆえだろう。
受け入れられるのを求めているのではない。正反対だ。
かたくなに拒絶されることをこころのどこかで求めている。
自己否定をされたいというこの欲望をマゾと即断するのは、
あまりに人間を知らない所業である。
もしかしたら人間の不幸の何割かはじぶんで作っているものなのかもしれない。
なぜなら不幸は劇的で楽しいからである。

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