映像オンチ

わたしの映画への感想ほど信用できないものはない。
映像を観る目がまるでないのである。自覚している。弱点としてだ。
佐藤真監督の「阿賀に生きる」がどうしてつまらなかったのかは簡単に説明がつく。
わたしが映像オンチだからである。
どういうことか。映画を観ながら、映像をまったく味わっていない。
むしろ味わうことができない。映像が苦手なのである。
では、映像を観ながらなにをしているのか。
映像をあたまのなかでシナリオに翻訳している。
映像を文字に変換しているわけだ。
原因は子どものころにテレビがなかったからだとじぶんでは思っている。
中学校に入るまで家にテレビがなかった。母の教育方針だった。
幼いころから映像に慣れ親しんでいないがゆえに視覚の発達が遅れた。
これが映像オンチの理由ではないだろうか。

佐藤真の「阿賀に生きる」はシナリオを読んだところで、ちっともおもしろくないのである。
すべてが名もなき庶民の生活の断片に過ぎぬ。
シナリオで読んだところで筋もなにもないのである。
この映画の魅力はおそらく映像自体にあったのだと思う。
しかし、そんなものをわたしが理解できるはずもない。
佐藤真とおなじドキュメンタリー映画作家の原一男をわたしは師と仰いでいる。
原一男の映画は採録シナリオで読んでもなかなかおもしろいのである(出版されている)。
映像がわからなくても、いわば意味の世界だけで楽しめる。
感覚でわからなくても、意味で映画の世界観を認識することが可能である。
佐藤真と原一男のちがいである。

ご大層な映画論や芸術論をぶちたいわけではない。
ただこういう人間がいることをお伝えしたいだけだ。
からっきし映像の魅力がわからないのである。
たとえば、そうだな。卑近な具体例をだそう。
わたしはアダルトビデオのどこがおもしろいのかさっぱりわからない。
理由は「阿賀に生きる」の場合とおなじで、シナリオ化しても意味をなさないからだろう。
ほとんどのアダルトビデオは脳内でこう変換されてしまうのである。
「男女が性交している。女のあえぎ声がうるさい。
男が上になった。今度は女が上になった。男が果てた」
こんなシナリオのト書きから情欲をかきたてられるわけがない。
何度か観る機会がなかったわけではないが、すべて早送りしている。退屈なのだ。
アダルトビデオと芸術作品を混同するつもりはないけれども、
「阿賀に生きる」を観ながら、数えきれないほど早送りの欲望にかられたものだ。
田舎の農民漁民の実生活などセックスみたいなものだろう。
いちいちこれ見よがしに撮影上映するものではあるまい。早送りするものではないか。

ひとそれぞれである。「阿賀に生きる」に感動するものもいるのだろう。
アダルトビデオに情欲を刺激されるものもいる。
かれらにはわたしには観えぬものが観えている。
これは賭けだが「阿賀に生きる」のファンはアダルトビデオも好むはずである。
だから、どうということはない。上品下品の問題ではない。
言うなれば、持って生まれたものの相違である。
きのうの記事で「阿賀に生きる」を酷評したが、あれはこのような事情による。
それだけだ。どうしようもないことなのである。
お気づきのかたもいようが、この「本の山」には描写が極めて少ない。
あっても少量で、どれも熱が入っていない。稚拙ということもできよう。
理由はおなじことである。視覚が発達していない。映像理解力に乏しい。
これは書く場合のみならず、読むときにもマイナスとなる。
風景描写がえんえんとつづくような小説は苦手である。
風景よりも人間である。人間ならば、外見より心理を見たいと思ってしまう。
以上でくだらぬ自己紹介は終わりである。ここまでおつきあいくださり感謝しています。

COMMENT

下流オンチ URL @
10/11 16:24
映像オンチさんへ. 
 午後の昼下がり、1匹のドウテイが森の中を歩いていました。

 高い木の枝からぶら下がっている一房のセックスの下で立ち止まると、
「おや、孤独の渇きを癒すのにちょうどいいものがあったわい」
そこで、やや後ずさりをすると、ドウテイはセックスめがけて跳び上がりました。だがもう少しのところで届きません。もう一度、更に二三歩後ろからセックスに向かって飛びつきました。やはり届きません。

 終いにドウテイはあきらめて、元の道を歩き出しました。

「セックスは不潔だからな」

 人は手に入れられなかったものを簡単にけなすものです。
Yonda? URL @
10/11 21:09
下流オンチさんへ. 

すてきな物語ですね。感動しました。








 

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