「日本への遺言」

「日本への遺言 福田恆存語録」(中村保男・谷田貝常夫編/文春文庫)*再読

→本書は論客、福田恆存の言葉の断片を集めた名言集です。
福田の論調をなぞるように言葉について考えてみたいと思います。
いまから書くものを、これは福田の言葉かわたしの言葉かと問われても困る。
なぜならほんらい言葉とはそういうものではないからであります。
言葉は個人が所有できうるものではない。はじめに言葉ありき。
我われが言葉を使うのではなく、言葉から使われるのが我われということだ。
この認識があれば、
言葉の所有者を詮索したりするのがどれだけ愚かなことかわかりましょう。
我われの生まれるはるかむかしから言葉があったということを忘れてはなりません。

昨今、言葉があふれかえっています。無駄な言葉が泥流のように氾濫している。
新聞、雑誌、ブログ、2ちゃんねる――、言葉、言葉、言葉です。
なぜどれもくだらないのか。切実ではないからです。言葉が軽んじられているからだ。
ほんとうに追い詰められたところから吐きだされた言葉が極めて少ない。
新たな言葉を造ってみましょう。いまは小論文時代ではないか。
いま小論文時代が始まったというのではありません。
教育の世界で個性尊重などという標語が
重んじられるようになって幕を開いたこの時代が、
いま終わりに近づこうとしている。現代は小論文時代の末期であります。
小論文ほどくだらない試験科目はない。
入学者をふるいわけたいのなら、大学側はあくまでも受験者の知識のみを問うべきだ。
個性などというあってないようなものをだれが見分けられるのでしょう。

小論文が高校生にどのようなことを問うのか。
環境問題をどう思うか。安楽死を認めるか否か。死刑制度の是非。
ぱっと思いついたものを書き上げました。
設問に受験生は答えなければなりません。僕はこう思います。私はこう考えます。
各人の思考に採点がなされる。
わたしはこういう難題に白紙を提出する学生こそ、誠実な人間だと思っております。
地球全体の環境のことなど食うに困る経験をしたことのない僕にはわかりません。
安楽死の問題は、じぶんの立場によって意見が変わる。
しかも、その発言によって自己あるいは他者の生命の存否が決定される。
そのような重い問題を、分量も時間も制限され、答案用紙に書くことはできない。
最終的には、その場に立ってみないと僕はどう考えるかわからない。
死刑制度の是非は周囲に犯罪者も犯罪被害者もいないのでわかりません。
わからないことをわかったように書くのはにせものだと思う。
しかし、これらの白紙答案はどれも0点をつけられて終わりであります。
いっぽうで新聞の社説めいたことを、
つまりどこかで聞きかじった言葉を、答案用紙に並べられる人間は優秀だと判断される。
これが小論文の正体であります。いまという時代の価値観だ。
言葉がインフレを起こすゆえんです。

ほんとうに切実な問題にだけ口を開くようにしたらよろしい。
そのとき、我われは言葉の重みを再認識するでしょう。
いまという時代に、言葉の価値などというと笑われるかもしれない。
なぜならいまや言葉は文字通り値段さえつかないものだからです。
駅へ行ってごらんなさい。多様なフリーペーパーが山と積まれている。
小説はちっとも売れないのに懸賞小説の応募は少しも減っていないという。
文芸社や新風舎のような自費出版会社は隆盛を極めている。
言葉はなんと安っぽいものに成り果ててしまったことでしょう。
言葉の権威は地に堕ちたというほかありません。

しかし、言葉はそんなちんけなものではない。
日本人が言葉に言霊(ことだま)を見た時代と比べて、
今現在なおもわずかたりとも言葉の価値は失われてはいません。
我われは言葉を舐め始めているが、ところがどっこい言葉はいまも重みを失っていない。
言葉を軽んじていると、手ひどいしっぺ返しを言葉から食らうかもしれません。
言葉は小論文で点を取るだけのものではない。
合コンで異性のご機嫌を取る手軽な装飾品とばかり思っていてはいけません。
言葉は断定する。一度言い放った言葉を引っ込めることはできない。
言葉がじぶんを縛っていく。言葉に人生が決められてしまうことさえある。
言葉によって人間は取り返しのつかない窮地に追い込まれることもあれば、
おなじ言葉によってその絶体絶命の場所から抜けだすこともできるのです。
そのような言葉は美しい。美しい言葉を忘れてはなりません。
かつて恋文という制度が男女間でありました。
ある一行を書くか書かないかで真剣に悩む男女がいたのです。
それは杞憂ではない。実際にその一行の有無がかれらの人生を変えた。
僕はきみを愛するという一行をどう書くかで多くの人生が変容していった。
書いてしまったらいまのは間違いだったと書き直すことはできないのです。
削除ができない言葉というものがあります。それが真剣で切実な言葉だ。

言葉は相手を追い詰める。
困惑した相手は口にするつもりはなかった言葉を吐きだすかもしれない。
言葉が言葉を生む。言葉の劇的機能であります。芝居のただ中の言葉はどれも重い。
が、劇場へ行かなくても、我われは言葉の重さを日常で容易に知ることができます。
もしあなたがサラリーマンだったら、
積もり積もった不満を上司にぶつける情景を想像してください。
一歩間違えたら馘首(かくしゅ)されるかもしれない。
おのがクビをかけて上司に言葉を投げかけたいと思ったことはありませんか。
むろん、けしかけているわけではありません。
軽々しく上司に歯向かうのは、かえって言葉の重みを知らないともいえましょう。
夫婦喧嘩を想像してください。たとえば両親の夫婦喧嘩を見たことのない人間は少ない。
犬も食わないというのは大嘘です。
夫婦喧嘩で問われているのは双方の言葉の重みだからだ。
妻はいうかもしれない。あのときあなたはあたしを幸福にしてくれるといった。
夫は反論する。きみは僕に尽くしてくれる、ふたりで幸福を築こうといったじゃないか。
ストリンドベリが夫婦喧嘩を好んで芝居に仕立てるのは、
この劇作家が言葉の劇的機能を知り尽くしていたからです。

残念だときみは薄ら笑いを浮かべるかもしれません。
僕には殺したいような上司はいない。いまのところ気になる女性もなし。
夫婦喧嘩をしようにも、そもそも結婚していないのだから。
わたしは答えます。一向に構いません。それでも言葉の重みを人間は知ることができます。
ペンと紙を1枚用意してください。
たしかにいまみなさんはキーボードのまえにいますが(携帯かな?)、
やはり紙のほうがよろしい。なにを書くのか。遺書を書いてください。
僕には財産などないというかもしれません。それでも構わない。遺書をお書きください。
だれも愛するひとはいないと自嘲するかもしれない。それでも遺書を書きなさい。
じぶんの死体を発見する見知らぬ人間へ遺書を書いてください。
書く必要などないと断定できる人間はどこにもいません。
なぜならひとはおのが死期をひとりとして知らないからです。
今日交通事故で死亡したひとのうち、
ひとりでも昨日じぶんの未来を予想したものがいるでしょうか。いるはずはありません。
ですから、遺書を書いてもまったくふしぎはないのです。
最後に、時代に向けて言葉を投げかけてみましょう。
どこかの大学でこのような小論文の設問を出題してはいただけませんでしょうか。
「1200字以内であなたの遺書を書いてください」
採点基準も模範解答例も作ることのできない問いです。
しかし、我われはこの問いを忘れてはならない。
無関係の事件に首を突っ込むひまがあるのに、
人間はどうしてこの問いからは逃げるのでしょうか。
むろん、正解のない難問だ。
だが、どうして答えのない問いに向き合ってはいけないのか。向き合わないのか。

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