「沖で待つ」(絲山秋子/文藝春秋)
→第134回芥川賞受賞作。
いやあ、女は強くなったもんだと思った。行き着くところまで行ってしまったのでは?
この先、袋小路だろう。もうどうにもならないんじゃない?
むかしは男の役割、女の役割が少なくともいまよりは規定されていた。
肯定するにしろ、否定するにしろ、役割というのはなければならなかった。
だって、男らしさ、女らしさという決まりがなかったら、そもそも演技ができないでしょう。
型に従う場合も、型を破る場合も、型自体がなければお話にならない。
女らしくない女というのも、女らしさというものがあって初めて成り立つ。
この国のおばさん連中はフェミニズムだかなんだか知らないけど、
女をどんどん壊してしまった。完全に壊れてしまったいまとなっては取り返しがつかない。
型がないから男も女もどう演技したらいいかわからない。
演技に戸惑う男女を描くのが新しいと評価(誤解)された時代もとうのむかしである。
いまは女が強くなりすぎたのである。
絲山秋子はじぶんの強さに戸惑っているようにさえ見える。
この作家の描く世界を要約すれば、「女ってなんて楽チンなの〜」である。
男はすべてセックスが目当て。そんなことをわかりきっているアタシは強い女。
男を品定めして、つまらなかったらポイよ。いま女であることは、ちょー楽しい。
男同様の社会進出も可能。か弱き女性は社会が守ってくれる。
男連中はマンコがないんだから、女性様にかしずくのはあったりめえよ!
少しまえにテレビで見たお見合い特集を思い出す。
結婚できない男の悲哀が切実だった。
番組に登場したのは、男から見たらそう悪くはないおっちゃんである。
40をまえにしてお見合いを決行する。
専門家からファッションの指導を受ける。話し方教室にも通う。
いざお見合いの日である。お相手の女性は30を過ぎた、なんだかなという見てくれ。
男は必死になって女性様の話し相手になっているのである。
この程度の女にこうまで下手に出なければならないのかと愕然としたものである。
それでも交際はNGであった。相手の女性はいう。
「かれは女ごころをわかっていないと思いまして」
死ねよと思ったね。いい男じゃないか。おまえ何様のつもりだ。
しかし、これが現代の男女関係かとふかぶか納得したものである。
絲山秋子の天才はこの現実をコミカルに描写する。ふん、なーにが天才なもんか!
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