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2007/10/02

「軍関与」復活の可能性

 やはり、超党派で11万人の県民大会の影響は多大だったようです。文科省は検定修正についての検討をはじめました。
 しかし、沖縄では本土政府から何度も裏切られているいきさつがあり、「結果を見るまでは安心できない」という声も上がっています。
 しかし、政府の本音は、沖縄では普天間基地問題が継続しており、ここで教科書問題が長引くのは得策でないと考えている部分もあるようです。
 このような政府の動きは、小泉、安倍政権ではまずありえないことで、同じ靖国派の流れを継承する麻生太郎が総理になっていたら99%無視されたことでしょう。

 教科書会社はすでに記述を戻す方向で動いているそうで、これは良い結果が多分に期待できそうです。

 もし、検定が撤回されれば、現在進行中の「大江・岩波」裁判にも少なからぬ影響を与えることは必至で、軍国主義・靖国派が痛手を被ることは否めません。

 今回の教科書問題について良くわからない人は、今日、10月2日付けの朝日新聞朝刊2面に掲載されている「ニュースがわからん」のコラムを読むと、基本的なことがわかりやすく書かれています。

Dsc00002

 「大江・岩波」裁判では、当初上の写真の3冊の本が提訴の対象になっていました。
 『沖縄ノート』(1970年 大江健三郎)、『沖縄問題二十年』(1965年 中野好夫・新崎盛暉)、『太平洋戦争』(1968年 家永三郎)です。このうち『沖縄問題二十年』に関しましては2006年9月1日の、第5回公判で取り下げられました。
 いずれも30〜40年も前に出版された古いもので、大江さんの『沖縄ノート』などは、岩波新書になる以前に、雑誌『世界』に連載されていました。
 したがって、この訴訟には「なぜ今さら」という感があります。

 僕が『太平洋戦争』を読んだのは、それこそ何十年も前のことで、集団自決についてどのような記述があったのか記憶が定かでないし、いまさら再読して探り当てる気もないので、一か所のみについて述べれば、旧版213ページにある次のような記述に神経をとがらせたと思われます。

 「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ、柔順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺を遂げた。
   (中略)
 座間味島の梅沢隊長は、老人子どもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が命を失った。」

 まず、この本が発行された当時、『鉄の暴風』(1950年 沖縄タイムス)に代表されるように、ここに記述されたようなことは定説であって、その他の著作や生存者の話からも否定されるものではありませんでした。
 その後、「自分は隊長から直接命令はされていなかった」と証言する人が一部に現れました。そのために、真実について混乱が生じたことも事実です。
 しかし、戦争中の沖縄では、駐留した日本軍は住民を避難させず、軍民一体となって軍の指示のもとに行動していました。それが悲惨な結果を作り出したことは周知の通りです。
 軍隊は厳密な縦社会ですから、上官の命令なくして配下に指示が行き渡ることはありません。「自決」やそれをにおわせる指令は、隊長から直属の部下へ、さらに役場や警察を通じて住民に下ったという筋道がごく普通であって、直接隊長が住民の間を走り回って「自決命令」を出したとするほうが不自然なわけです。
 軍隊では、仮に伝令によってもたらされた命令でも、それを指示した人間からの命令ということになりますから、住民側は「隊長に命令された」と受け取ることになります。
 多くの証言から判断して「赤松隊長から自決の命令を受けた」という表現は、以上のような状況をいっていることも含まれると結論できるわけです。

 さらに、日ごろから「鬼畜米兵が上陸してくれば、女は犯され男は八つ裂きにされて戦車でひき殺される」と教え込まれていましたから、いざとなったら自決を選ぶことは住民にあらかじめインプットされていました。
 その状況下で米軍が上陸し、日本軍の兵士によって手榴弾が配られれば、「今こそ死ねということだ」と受け取るのはまったく自然なわけです。

 何を根拠にそのようなことが言えるのか、と疑問を持つ人は、『沖縄戦と民衆』(林博史)に詳細な研究がありますから読んでみるといいでしょう。

 したがって、隊長から何らかの指令、あるいは命令が下っていたことは、状況と証言から事実以外の何ものでもなく、両隊長にまったく責任がないとは言い切れません。

 『沖縄ノート』には、赤松、梅沢両隊長の名前は一切出てきません。しかし、208ページに次のような記述があります。

 「……新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自決をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。」

 この守備隊長が赤松秀一元大尉であることは「想像」できます。「想像」できるから訴訟対象になったのでしょうが。
 ここにも、直接命令を下したとは書かれていなくて、「集団自決をひきおこす結果をまねいた」と表現されていることに注目すべきです。

 一つは敵に、一つは自決用にと二つの手榴弾を渡された事実は、複数の地域の多数の生き残り住民による証言があります。
 手榴弾は兵器であって、軍が厳重に管理しているものです。それが住民の手に渡るということは、軍命なしには考えられないことです。それを、守備隊の最高責任者が「知らない、責任がない」などと言えるものではありません。

 赤松、梅沢元守備隊隊長が、住民に直接自決の命令は、伝えたかも知れないし、伝えなかったかも知れません。しかし、軍隊という縦の命令で動く組織を考えるならば、両隊長に何らかの方法で命令かあるいは命令と受け取れる言動があったことは間違いありません。そうでなければ、一介の兵士が勝手に武器庫から大量の手榴弾を持ち出して住民に配るなどということはあり得ないからです。

 軍人の間には「戦陣訓」という心得があって、そこには「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」という言葉があります。そのために、捕虜になることを「恥じ」として、多くの兵士が助かる命を落としました。
 沖縄の住民にも自決をすすめたことは、このような戦陣訓にのっとっただけではなく、敵に投降することで、日本軍の内状を知られることを恐れたからでもあります。

 沖縄戦と住民についての詳細な研究は、前述の『沖縄戦と民衆』(林博史)が非常に優れていますので、これを中心に枝葉を広げて行くと、非常によくわかると思います。

Dsc00003 先日、大田昌秀さんからご紹介いただいた『生き残る——沖縄・チビチリガマの戦争』(下嶋哲朗)がつい先日届いたばかりです。これは早急に読んでおこうと思っております。


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コメント

体験がすべてではありませんが、体験の中から読み取れるものがたくさんありますね。
一個人の体験と記憶であっても、重要な部分と結びついているケースも多々ありますし。
それを辿っていく作業は並大抵ではありませんが、必ずやるべきでしょう。
しかし某局の参加者過少申告は誤報なのか、意図的なのか大変気になります。

沖縄戦での「集団自決」にいたる経緯は一通りではありません。それを無理矢理画一的に描こうとすると、そこに誤解が生じます。
10人の証言をとれば、そこに10通りの物語があり、真実がどれなのかわからなくなります。
ぼく自身、その部分で壁にぶちあたっていました。
それが最近、ようやく全貌が見えかけてきた気がします。
真実は、それらの証言のさらに向こう側にあるということを。

・・・このくらい徹底的にくわしくページを割いて記載すべきでしょうね。今日の日記には一面的でない複雑に絡んだ事情が背景にあったことがよくわかります。
安易に結論を決めつけず、これを見てどう思うか、そこまで考える余地を与えるのが教育でしょう。

くわしい解説ありがとうございます。

それにしても某局が当初「11万人集会」をどういうわけか「1万人」と報道していたそうです。意図的に数を過少申告したなら問題ですね。

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