水を運ぶメディア
サウジ戦の敗退を受けて、26日付けのスポニチは「3連覇夢散…オシム監督負け惜しみ連発」という見出しを掲げている。
またはじまったな……という感じ。
トルシエ時代に何回も味わった感覚だ。
代表チームが負けると、スポーツ新聞が待ってましたとばかりに、監督解任世論を煽りにかかる。
彼らにとって、解任アジテーション報道は、どっちに転んでも損にならない。
まず、そのまんま解任という結末になったとして、それはそれでオッケーだ。新監督関連のあれこれとか、オシム総括とか、注目度の高い記事をだらだら書くことができるから。
すったもんだの末に留任というシナリオも悪い展開ではない。解任騒動の裏で、確執報道だの観測記事だのご意見番の一言だのといった、与太な注目記事をずらずら並べることができるから。
つまり、マッチポンプですよ。
記事の全文を読むと、見出しから受ける印象ほど偏向しているわけではない。ただ、一般人(非サッカーファン。見出ししか読まないライトなファン)にアピールするのは、ほとんど見出しだけだ。そのことをよくわかった上でデスクはあくどいヘッドラインを立案している。
結局、駅売りでのアイキャッチが生命線であるスポーツ新聞は、鬼面人を驚かすテの見出しをブチ上げていないと商売にならないわけだ。
で、この種の悪目立ちな見出し(トルシエ乱心とか、オシム解任へとか、俊輔激怒とか)を瞥見したパンピーの皆さんは、「ああ、なるほど、代表チームにはどうやら内紛があるんだな」ぐらいな印象を胸に抱いて、忙しい朝の駅頭を通り過ぎて行くのでありました。まったく。
あるいは、この記事を書いた記者は、代表監督を正面から批判する記事を書いた自分の勇気を、ちょっと自慢したい気分でいるのかもしれない。
でも、記者君。そりゃ勘違いだ。キミの記事にきちんとした論拠があるのかどうかはともかく、外国人の代表監督を批判するjことは、この国のサッカー界では、反骨のジャーナリストの仕事ではなくて、むしろ、チキンなリーマン記者や、協会べったりのおべっかライターの持ち芸ということになっている。つまり、一見、代表監督という「権力者」に対して昂然と刃を向けたように見えるこの種の記事の眼目は、実は、「協会幹部」というよりデカくて身近な権力におもねるところにあるわけだからね。
外国人の代表監督は、しょせん、何年か後にはこの国からいなくなる雇われマダムみたいなものだ。媚びを売ったところで、せいぜい向こう2年間ぐらいの利権がゲットできるに過ぎない。リーマン記者にとって、そんな短期利権は、まったくもって魅力を欠いて見える。第一、早晩、石もて追われることが分かり切っている人間と、誰が本心からの付き合いたいをしたいと思う? 縁起でもない。だって、オレらの国では、恥は、伝染病扱いだ。誰かが恥辱を受けると、そのまわりにいたすべての人間が、えんがちょになる約束になっている。だとすれば、そんなヤバい感染症を患っている潜伏期間の患者と肩を組むなんて、組織人として、ありえない決断じゃないか。実際、行きずりの、すげ替え用の人形首である監督ご本人は、恥辱コミコミで報酬を貰っているわけだから、それでオッケーなんだとして、オレの側に、そんな地雷処理業者と心中する理由はないのだよ。埴輪じゃないんだから。
と、であるから、オシムの側に立つ人間は、社員記者の枠組みの中からは現れない。トルシエの時もそうだった。結局、外国人監督は、代表がヘタを打った時の、責任の捨て場に過ぎないのだ。
というわけで、トレセンの機能不全や、代表マッチのスケジューリングの失敗や、協会の拝金主義による狂ったマッチメイキングといった、本来は監督の権限の外で起こっている出来事も、ぜんぶ監督の責任に帰される。
そういうふうに、外部からやってきた「赤鬼」や「白髪鬼」みたいな、「異界の風来坊」がすべてを責任を背負い、あらゆる負債を精算した上で国に帰ってくれるからこそ、協会幹部のクビが守られる仕組みになっている。ま、極論と言えば極論だが。
そこまでうがった見方をしなくても、代表監督と記者の間には、必ずやすきま風が吹く。
なんとなれば、単純な話、記者のレベルが低いからだ。
代表チームが闘うピッチには、数十万人のライバルとの競争を勝ち抜いてきた、選り抜きの宝石が走り回っている。
代表監督もまた、世界中にあまたいる数万という監督候補の中から選ばれた一握りの人間のうちのひとりではある。
そんな、サッカー界のスーパーエリートがひしめく代表戦のプレス席には、当然、苛烈な取材競争を勝ち抜いてきた選り抜きの記者が座っていなければならない。
そうなのだ。代表戦のプレスルームというのは、アマチュアサッカーのピッチや、リーグ戦のプレス席での闘いを通じて、あらゆるライバル記者たちを出し抜いてきた、スポーツジャーナリズムの俊英たちが光り輝くような言葉で語り合っていなければならない、特別な場所なのだ。
その意味で、代表戦のミックスゾーンは、厳しい上にも厳しい場所であるべきだ。ダサい記事を書いたライターや、共同会見でヌルい質問を発した記者が、恥ずかしくて二度と顔を出せないような、そういう、激越な競争の場であってくれないと、代表選手たちが闘っているゲームの価値と、バランスが取れないから。
だろ?
日本中の注目を集める、第一級の仕事場に、バカがまじっていて良い道理はないはずだろ?
が、うちの国のプレス席には、リーマンが座っている。
いや、難しい入社試験を通ったという意味では、彼らはエリートなのかもしれない。
でも、彼らは、サッカージャーナリズムの取材競争や、サッカーに関するテキストのクオリティー勝負で勝ち抜いてきたという意味でのエリートではない。卒業した大学の名前だとか、入社面接の印象だとかが優秀だったという意味でのエリートに過ぎない。
しかも、その種のエリートは、司法試験を通った弁護士や、公務員試験をパスしたお役人や、医師免許を獲得したお医者と同じく、二度と試練を受けない。
つまり、一度新聞社の記者章をゲットすると、その記者の一生は保障されるのがこの国のジャーナリズムの構造なのだ。ショボい記事を書こうが、間抜けな取材を展開していようが、昼過ぎに出社して居眠りを決め込んでいようが(山岡、お前のことだぞ)、一度組合員になった記者は、決してクビにならない。だから、山岡は食い物の味みたいなけちくさいことに目くじらを立てる、矮小な人間になってしまった。
ちょっと話がズレてきているな。
でも、オシムが、ここのところやたらとメディアに対してケンカ腰になっているのは事実で、その理由は記者のレベルが低いからだ。この観察は、たぶん、外れていない。
大新聞の記者や大手出版社の編集者が、多くの場合、非常に優秀な人たちであることは、私だって、よく知っている。
ただ、うちの国のシステムは、そういう優秀な人間をスポイルするように出来ていて、それが外国人監督を苛立たせている、と、そこのところが問題なのだ。
どういうことなのかというと、元来、才能に恵まれていて、一生懸命努力すれば必ずや良い仕事ができるはずの人材が、けっこうな頻度で腐っているということだ。
走らないファンタジスタや、守備をしないミッドフィルダーの話をしているのではない。
私は、まじめに働かないエリートの話をしている。
先日、とあるライターさん(←編集者出身)と話していて意気投合したのは、「大手出版社のエリート編集者と、中小の編集者の違いは、《感じの良さ》に尽きる」ということだ。
何百倍という競争率の入社試験をくぐりぬけてきた大出版社の社員さんや、大新聞者の記者君たちは、一見して感じが良い。見た目もすっきりしているし、話にも隙がない。出過ぎるでもなく、ガチガチに緊張しているでもなく、身のこなしも自然で、要するに、初対面の相手にストレスを感じさせないマナーというのか、オーラみたいなものが自然と身についている感じがするのだ。
対して、中小の出版社の編集者さんには、奇妙な印象を与えるヒトがけっこういる。口のきき方にヘンなクセがあったり、きちんとこっちの目を見て話せなかったり。なるほど。これじゃ面接は通りにくいだろうな、という感じ(で、「結局、面接っていうのは、初対面の感じの良さぐらいでしか人間を分類できないんでしょうかね」という結論が出ました)。
でも、ここが大切なところなのだが、一緒に仕事をみると、零細出版社の挙動不審な彼も、きちんとした仕事のできる、有能な出版人であることが判明するのだ。
「大丈夫かなあ、このヒトは」
と思っていた、過緊張タイプの編集者が、何回か会ってうち解けるうちに、とても深みのある個性を持った青年であることがわかったりということは、珍しいなりゆきではない。
逆に、デカい出版社の、いかにもデキそうな社員が、けっこうな抜け作であるという例もそんなに少なくない。
いや、抜け作な彼が、本来は優秀な男であることはわかっている。第一、優秀でなければ、ああいう試験は通らない。
でも、三十代にして一千万をはるかに超える年収を約束され、海外取材分のマイレージだけでプライベートのシンガポール旅行ぐらいはまかなえてしまう職業生活をしていたら、誰だってユルむ。
オレも必ずユルむ。っていうか、働きません。決して。モロな山岡タイプになる。「一週間後に本当の豆腐を食わせてやる」とかなんとか、そういうきいた風なことをほざく、文化人気取りのクソ野郎になる。ぜひ。
ということはつまり、日本のマスコミ企業というのは、元来優秀な人間を、老舗旅館の三代目みたいな調子のユルい人々に変貌せしめてしまう、なんとも罪作りなシステムなわけだ。
人間が能力を発揮するためには、持って生まれた才能もさることながら、その才能を発揮し続けなければ生きていけない必然性みたいなものに恵まれていなければならない。
オシムの言う「水を運べる選手」というのはそういうことだ。
ただボール扱いが巧みだったり、天性のスピードや体格に恵まれているだけでは足りない。むしろ、サッカー選手としての、有効性は、その選手が「必死で走っているのか」というポイントにより多く依存している、と。
であるから、編集者やライターは、あんまり恵まれていてはいけない。
といって、あんまり悲惨な境涯も良くない。
ひねくれるからね。
結論を述べる。
たとえば、ライターなら、月に換算して5本から10本ぐらいが、頃合いの仕事量ということになる。で、二年に1冊ぐらいな頻度で本が出る。でも、増刷はしない。不労所得は人間を堕落させるから。ちなみに、知名度も低めの方が良い。テレビだとか講演みたいなことでチョロく稼げるようになったら、誰も文章みたいな面倒くさい仕事はやらなくなるから。
と、以上の条件を満たすと、一生懸命がんばってようやく食えるぐらいの、理想的な……うん、そうだとも、オレのことだよ。
はい、そうです。お察しの通り、オレは自慢をしてます。
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コメント
はじめまして。
この記事、「サポティスタ」で見つけたんですが、
大手と中小の編集者の違いは、結局「第一印象」で、
実は後者のほうが仕事が出来る場合が多いのでは?
てな感想については全く同感です(笑)
面接での印象みたいな、大して使えない基準がまかり通ってるのは、
日本人が「形から入る」傾向が強いからなんでしょうね~
ぶっちゃけ、ちょっと気持ち悪い人の「実力」なんかより、
たとえ抜け作でも、見た目さわやかで如才ない人の「印象」のほうを、
結局はより高く評価しているような、そういう社会。
諸外国ではそのへん、どうなってるのか、
ちょっと知りたいところではありますけどね。
それはそうと、「大手」タイプの人間ばかりが集まって、
サッカーもろくに知らないまま、
ツンデレ爺さんオシムの「印象」だけを見て、
悪し様な記事を書いてるんだとすると、
これはちょっと目も当てられない状況ですね~
投稿 デルスー | 金曜日, 7月 27, 2007 07:05
小田嶋さんの知見からして、山岡士郎って、いかにもいそうなタイプの新聞社員なんですか?私は、単に、「見かけはグータラなダメ社員が、実は隠れた才能を持っている」類の意外性を出す演出だと思ってました。
投稿 Inoue | 金曜日, 7月 27, 2007 08:00
はじめまして。
いつも記事拝見してます。
ご指摘のようにスポーツ新聞やテレビなどの報道は、確かにマッチポンプですよね。
オシムさんとの会見でのやりとりを見ても、「アナタハ ナニヲ キキタイノデスカ?」と感じることがいっぱいです。
ネットが普及する以前は、テレビや新聞が様々な情報を流す役目をしていましたが、今はネットが情報流通の役目を果たしつつあると思います。(正しい情報かどうかは個人の情報選別力によりますが)
オシムさんはサッカーを語るのが大好きみたいで、時間があれば一晩中議論してくれるような感じがするので、スポーツ新聞記者ではなく、小田嶋さんを初めとした、ネットやBlogでちゃんとサッカーを語ってる方々と「サッカーを語る会」みたいなことをしてくんないかな?といつも思ってます。
投稿 じれす | 金曜日, 7月 27, 2007 08:12
貴方も組織どっぷり生活に嫌悪してる人ですね。私もやっと肩書きのない憧れの隠居生活でサッカーを楽しんでいます。
投稿 自遊人 | 金曜日, 7月 27, 2007 08:47
>inoueさま
>「見かけはグータラなダメ社員が、実は隠れた才能を持っている」類の意外性を出す演出
いや、作者の意図は、そのへんにあるのでしょう。
ただ、「オレには才能があるんだから、リーマンの服務規程は眼中にないわけだよ」と言わんばかりな勤務態度を貫いている山岡士郎の人となりが、「いつも和服を着ている社主」や「人間国宝の陶芸家」や「資産家の茶人」、そして「脱俗のホームレス」あるいは「著名な芸術家」といったいかにもな人々(←「権力のトップにいる人たちって、キミらが思っているより洒脱で清潔なんだよ」)に愛されているという、そのどうにも虫の良い設定が、鼻につくということです。原作者が元新聞記者だったりすることも含めて。
行間から、「オレら新聞記者は特別な存在なんだから、一般人用の野菜の等級規格みたいな、画一的なものさしで判定されたんじゃかなわないわけだよといった感じの不遜な思いこみが感じられるのですね。
あのテの「オレは、大物だから上司の顔色なんかうかがわないんだぜ」式の態度を、これみよがしにふりまわすタイプの社員は、おそらく、どこの会社にでもいるのでしょうし、そういうヤツが新聞社にいること自体はかまわんのです。ただ、超高給エリート組織である新聞社が、その種の逸脱について寛大であったりするお話の進み方に、なんだかシラけるわけです。
会員制文化サロンを外から眺めてる感じで。
……って、ムキになって説明するような話でもなかったですね。
投稿 小田嶋 | 金曜日, 7月 27, 2007 09:18
大のサッカーファンと自称する、朝の番組「とくダネ」のかつらオヤジが、突然オシム解任を叫んだ。
ああ、こいつも電通をよいしょしなきゃメシ食えねえしな、とすぐわかるのに、クロウト面しやがって、ミエミなんだよ。
オシムは、サッカーをカネ稼ぎのイベントとしか思ってない電通やフロントのゴロから、体張って守ってるんだ。
溜飲が下がった。ありがとう。心ある者は、みんなそんなカラクリわかってる、がんばれ。て、誰に言ってるのか。
投稿 モモ | 金曜日, 7月 27, 2007 10:42
はじめまして。時々読んで納得してます(笑)
昔、中田英に試合後に馬鹿な質問をしたインタヴューアがいましたけど
彼らのスタンスが“なぁなぁ”なんですよね。楽をして言葉を引き出そう
としている。洋画の発表会でもそう。プレスリリースに載ってる事柄を
わざわざ聞いてきたりする。下調べもなにもヤツラはしてないんですよ
ね。私の邪推ですが。
オシム監督は、記者に対して「サッカーに対して真剣に取り組んでます
か?サッカーと向き合ってますか?」と絶えず問いかけているように思
います。
それなのに記者達はサッカーではなく、選手(キャラ)のネタを求めて
しまう。
ネタはネタとして楽しいけど、そんなもんこちら(視聴者)はもとめて
いないのに。
投稿 豆 | 金曜日, 7月 27, 2007 11:26
で、そういうメディアがいてくれることで、あなたはそれを批判するネタを得ることができて、大満足ってわけですねw。
投稿 ほるほる | 金曜日, 7月 27, 2007 11:27
おお?大変化?
それはさておいて、今まで「ビビリ」「チキンハート」を売りにしていたというか、保険をかける先回りの心配り行き届きライフを38年間お送りして参りましたのですが、今を想うにいかがと。至り成しまして。そう名乗るのはやめようと決めました。難しそうですがなんとかやってきます。
投稿 ムルハンひじきごはん | 金曜日, 7月 27, 2007 14:20
あと。モロは師岡だと思います。
思うだけです。
投稿 ムルハンひじきごはん | 金曜日, 7月 27, 2007 14:23
話がなげーよ。3行でまとめる文章力を身に付けて出直してこい。
投稿 a | 金曜日, 7月 27, 2007 14:41
日本のマスメディアが馬鹿ばっかりなのはほんとなんとかならんもんですかね。「勉強馬鹿」みたいのですらない、それ以前の単なる長年の不研鑽による知性の欠如、というよりはさらにそれ以前の緊張感使命感の弛緩、みたいのを文章で垂れ流されてもゲンナリするばかり。
ああいう文章を書いていてお金を貰う、というのは素朴に恥ずかしくないのかな人間として。と思う。
投稿 欣 | 金曜日, 7月 27, 2007 14:51
>昔、中田英に試合後に馬鹿な質問をしたインタヴューアがいましたけど
あの時(確か「決意の欧州遠征」とかいう素晴らしいキャッチフレーズの時ですよね?)もインタビューしたのはテレ朝。カタール戦でオシムをキレさせたのもテレ朝。ただ件の中田の時は、遠征二戦目にはそこそこ考え込んだ質問をしてたと記憶してるんですけど、今回のアジアカップでは二戦目以降も全然ダメでしたね。退化してるじゃん、と思いました。
投稿 t | 金曜日, 7月 27, 2007 15:19
話を長くするのが腕だとご存じない。
投稿 ムルハンひじきごはん | 金曜日, 7月 27, 2007 15:23
日本代表チームの取材においては、的確な質問をしてしまうような
記者は情報漏えいを引き起こすのでよろしくないのではないか、と。
オシム氏も馬鹿な質問を上手くあしらえるようなマスコミ対応をしてくれ
るといいんですけどね。なんかこう、叱るような感じになるから
プライドの高いマスコミ連中の反発を招いてしまう。
投稿 まる | 金曜日, 7月 27, 2007 20:14
こんばんは。
>なんかこう、叱るような感じになるから
>プライドの高いマスコミ連中の反発を招いてしまう。
でも、それはある意味仕方ないのじゃないでしょうか。
旧ユーゴのような文字どおり「血で血を洗う」内戦だの空爆だのを
体験してきた、いわば頑丈な鉄筋の入った人から見たら
日本のマスコミ人種の大半なんて平安逸楽をむさぼる高等遊民
みたいに見えるからだ、と私は思ってますが。
>小田嶋さんを初めとした、ネットやBlogでちゃんとサッカーを語ってる
>方々と「サッカーを語る会」みたいなことをしてくんないかな
大賛成!
小田嶋さま、何とか実現できないでしょうか?
投稿 Cor Leonis | 金曜日, 7月 27, 2007 21:49
初めまして
メディアのレベルは
本当にそう思います
メディアに邪魔されてつぶれて行く人は
限りないですけれど・・・
投稿 一眠爽快 | 金曜日, 7月 27, 2007 22:01
ま~中田英寿も、金子達仁とか、村上龍とか、小松成美とかと“なぁなぁ”だったしねぇ。
「決意の欧州遠征」の一件も、日本語は主語がねぇ~からどうのこうの(←お前は森有正か!)、B型の俺の友人はどうのこうの(←血液型性格診断なんか信じてるのか? へぇ~w)とか、人格形成が決定的に間違ったんだなぁと思わせる材料を提供し続ける、最近週刊誌でネガティブな記事が目立ち始めた“自分探しの旅人”なのであった。
投稿 あ~胸糞悪い | 金曜日, 7月 27, 2007 22:08
>ほるほるさま
> で、そういうメディアがいてくれることで、あなたはそれを批判するネタを得ることができて、大満足ってわけですねw。
えーと、これは私に向けたレスでしょうか。
皮肉ですか。
文末の w は、片頬笑いか何かですか。
オダジマは、批判できる対象を見つけると大満足するパーソナリティだ、と、そういうことですか?
とすると、私はコンビニの店員にぞんざいな態度であしらわれたり、映画館で見た映画が駄作だったりした時に、いちいち大満足せねばならないわけですが、現実のオダジマは、そういう場合、素直にうんざりします。ええ、普通の人と同じです。いやなことがあったら、いやな気持ちになる。あたりまえのことです。ですから、サッカー報道が低調であることについて、私は、満足を感じたことはありませんよ。
たとえば、自分のブログのコメント欄に半端な皮肉が書かれていたとして、そういうものを見つけた時に「おお、批判するネタができたぞ」と大満足するような生き方は、私はごめんです。貴殿にもおすすめしません。イヤなものを見つけたら、ぜひ率直に罵倒してみてください。
投稿 小田嶋 | 土曜日, 7月 28, 2007 03:27
>aさま
>話がなげーよ。3行でまとめる文章力を身に付けて出直してこい。
うっせえな。読むのが面倒なら来なきゃ良いだろうが。
ここは2ちゃんじゃねーんだ。二度と来るなクソ野郎。
これで良いですか? 3行で胸襟の裡にあるすべてを言い尽くしましたが。
投稿 小田嶋 | 土曜日, 7月 28, 2007 03:31
>そのどうにも虫の良い設定が、鼻につくということです。
小田嶋先生、それはファンタジーを受け入れて楽しめるか、「そんなのありえねーだろ!ふざけるなよ」と拒絶するかという読み手の問題でしょう。
『課長島耕作』と本質は一緒。妻とは別居しているけれど、娘は現在でも自分を父親と呼んでくれて、時々会ってくれる。そのくせ家族に気兼ねなく、いい女は食い放題で、しかも、向こうからよってくる。たまに自分に敵対する上役がいたりするが、勝手に失敗して失脚するので、何もしなくても溜飲を下げられる。
あれを読んで、「うん、サラリーマンの理想ってこうだよな」と幻想に浸れる人が多いから、ベストセラーになるんでしょう。
私は鼻白むタイプですけど。
投稿 Inoue | 土曜日, 7月 28, 2007 07:18
おじゃまします。
特殊法人に天下りする役人の仕事ぶりについて、業者に丸投げであると批判することがありますが、彼らのいいところは素人の分際で現場に出てくるようなことがないということだともいえると思います。
内部文書のように枠にはまった記事しか書けないサラリーマンしかいないんなら、新聞社はもう徹底的にフリーライターに丸投げすることを選べばいいんじゃないでしょうか。
投稿 ブログ漫画館 | 土曜日, 7月 28, 2007 16:08
マスゴミもダメだけど、
オシムもダメじゃん。なにからなにまで。
ゴミとゴミとでどっちが汚物かの勝負してるんでしょ。
投稿 んんー | 土曜日, 7月 28, 2007 16:38
はじめまして。面白かった・・・というか不思議な読後感。
最初はそんなに目くじらたてなくてもいいんじゃない?って感じで、「あくどいヘッドライン」なんてイタリア、スペイン、ブラジルなんかでも似たようなものではないかと。気軽に楽しめたりします。実況もBSみたいなコアなのも緊張感あっていいし、テレ朝の居酒屋実況みたいのもコントみたいで楽しいです。両方があるって、いい状態ではないかと。「聖なる愚者」も世の中必要というか。。。
外国人監督、別の意味で日本人監督よりいいと思ってます。翻訳が必要になるから記者との間にフィルターが入って。言葉が通じないって、ある面いいと思います。良質の雇われマダムなら、退任後の協会との関係とか考えないで好きにやってくれるでしょう。日本人だとそうはいかないんじゃないかな。
でも、読み進むうちに、本題は別のところにありそうに思えてきて、読んでいて高揚感がありました。話がズレてきてからが面白かったです。
ところで、「岡山、お前のことだぞ」これって犬飼さんの「岡野、お前のことだぞ」のパロディでしょうか?ここ、個人的ヒットでした。
投稿 さとる | 土曜日, 7月 28, 2007 22:07
はじめてコメントいたします。a氏への逆襲、笑えました。小田嶋さんのご意見に賛同するか否かは人それぞれだと思いますが、とにかくいつも面白く読ませていただいています。本当に長い文章を書くのもなかなか出来ないことです。これからもお変わりなくお願いします。
投稿 nora | 日曜日, 7月 29, 2007 21:42
小学館”L”誌連載終了以来ずっとチェックしております。あの雑誌の変質が最近残念でならないのですが、小田島さんの編集者気質についての解説で、納得できるような気がする。新編集部の、世の中に”ちょい悪オヤジ”を気取れる輩がどれ程居るかという読みは、シンゾー君の景気判断並なのだろうと思う。沢木耕太郎氏も大手メディアの記者よりも、フリーライターのインタビューの方がレベル高いと言ってましたね。問題は良質な情報が大手メディア情報の大量排出によって、結果的に隠蔽されていることだと思う。結局現在の日本においても、嘗てモスクワ特派員が、プラウダの小記事を拾い読みしていたのと同じように、知りたいことを自分で探す意識を持つしかないのでしょうね。
投稿 くらびぼー | 木曜日, 8月 02, 2007 01:13
日経ビジネスオンラインに宮田という人が「オシムジャパンはなぜ負けたか」
という論考(?)を寄せていました。
戦術分析かなと思いながら読むと、本業の片手間のヨットレースでの失敗と、
サッカー日本代表の敗退とを、精神論で総括するという、なんとも強引な結論でした。
でもコメント欄を読むと、結構賛同する人が多いのですね。
さすがにこれがスポーツジャーナルなら笑い話で済まないとは思いますが、
メディアの質の問題は、相当程度受け手のレベルに還元されるのでは愚考した次第です。
投稿 bbdqn | 土曜日, 8月 04, 2007 10:18