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夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て現在地方の法科大学院の教員(ニューヨーク州弁護士でもある)の私の単身赴任生活。







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2007年10月12日 01時12分20秒 /  profession

ショックのあまり禁を破る

私は立場上、勤務先の大学の問題は告発しても、直接教えている学生の問題は、どんなに社会に問いたい問題があっても、ここでは絶対に書かないようにしようと自戒してきた。(いずれ立場が変われば別の媒体には書く予定だけど)

同じように、よそのロースクールの学生のこともとやかくいうのはやめようと思っていたのだけれど、あまりにもショックを受け、まさかこれが一般的なロースクールの学生の姿ではないですよね(もし、そうだったら世も末だ)、と確認したいがために、禁を破る。

某(うちではない)ロースクールを卒業して、残念ながら今年の新司法試験には不合格だった人のブログに、こんなくだりがあった。

「実務にもし出られたら、みんなに追いつけるよう、また私が実務に出られなかったために苦しんでいる多くの方々のために、そして自分のためにも人より何倍も働かなければならないのですから。」

「私が実務に出られなかったために苦しんでいる多くの方々」って何???

現在は、弁護士の数が増えて、修習生も就職難、量的な過疎化の問題はほぼ解消し、わが県でも、「量より質をどうするか」ということが弁護士会の課題になっているくらいだし、法テラスもあれば、ネット相談もあるという時代、事件を依頼したいのに弁護士がいないということなありえない。

つまり、このブロガーがいいたいのは、俺様は現在弁護士をしている誰よりも優秀だから、この俺様が不合格になったために弁護してやれず、替わりにできの悪い弁護士に依頼しているから苦しんでいる人がたくさんいるってことになる。

この傲慢さはちょっと尋常ではない。

私も大学在学中は、法曹を目指していた。
ご多分に漏れず、社会正義を実現したいと思っていた。

しかし、留年しても論文試験に合格しなかった時、こう思ったのである。

本当に困っている人を助けたいなら、ほかにいくらでも仕事がある。
現に人権派の弁護士として活躍している人の助手になってもいいし、NPOだってたくさんある。

それなのに、「自分が」弁護士になることにこだわるのは、頭のいい自分こそその職業にふさわしいという傲慢さと、ステイタスへのこだわりがあるからではないか、実は、自分の能力にふさわしい知的で偉そうに見える職業に就くということが真の目的で、社会正義云々はただの偽善的な正当化じゃないかと。

その偽善に気づきながら司法浪人はきつい(実際親の援助は在学中すらなかった=学費も本代も全部バイトで賄った)なと思い、就職したのである。

司法試験のように,社会に貢献したいといいながら、機会コストがかかる資格の場合は、そのコスト(とくに、受験勉強の間社会に貢献できない)を正当化するのが難しい。

たとえば、役者を目指して長く下積みをする場合にはそんな偽善的な矛盾はないのだが。

もし、困っている人を助けるために弁護士になりたいというのが本当なら、ありていにいって、受験に要する時間、NPOなどで働いて社会に貢献するよりも、その時間を勉強だけに使っても、弁護士になった方が社会全体から見たら有用だ、と客観的にいえるほど、優秀で正義感にもあふれた人でないと正当化できないのではないか。

旧試験の時代のように学部在学中合格することもできる制度ならともかく、大学を卒業したあと、そうした困っている人を助ける仕事に就く機会を放棄してまで、大学院でさらに勉強しなければならない現在の制度では、弁護士を目指すということは、自分がそういう、よっぽど価値のある人間だと自負しないとできないことなのではないか。

自分こそがその値打ちがあると思う人間であることと、社会的弱者のために身を粉にして働くということが両立するとは思えないのだが。


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