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〜「底が突き抜けた」時代の歩き方〜

334−沖縄の「集団自決」からみえてくるもの

 1982年、沖縄戦に関する教科書検定が最初に大きな問題となった。81年度の検定で江口圭一愛知大学教授が教科書原稿にはじめて、《6月までつづいた戦闘で、戦闘員約10万人、民間人約20万人が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、戦闘のじゃまになるなどの理由で、約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。》と記述したことに対し、検定意見は「数字の根拠は確かでない」、「日本軍の手で殺害されたということ自体疑義がある」、「出典の沖縄県史は一級史料ではなく、回顧談や体験談を集めたもので、学者の研究書ではない」などの理由で日本軍による住民殺害の事実を否定したために、《6月までつづいた戦闘で、軍人・軍属約94000人(うち沖縄県出身者約28000人、鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女をふくむ)一般住民約94000人が犠牲となった。県民の死者は県人口の約20%に達する。》と修正し、検定をパスした。
 この「県民殺害」の削除に対し、日本中で大きな抗議運動が起こり、9月4日には沖縄県議会は、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり、特に過ぐる大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般住民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、歴史的事実である県民殺害の記述が削除されることはとうてい容認しがたいことである」という全会一致の意見書を採択して抗議した。82年6月には前年度の教科書検定の実態が発表され、大きな社会問題となり、日本の中国侵略・朝鮮の植民地支配、南京大虐殺などの記述が検定で削除・修正させられていたことが明らかになって、7月には中国と韓国が正式に日本政府に抗議し、教科書検定問題はついに国際問題にまで発展した。8月12日に日本政府は「政府の責任において是正する」と声明を発表して、一応の外交的決着をつけたが、沖縄戦について文部省は住民殺害の事実は認めたものの、その後の教科書検定で住民殺害の記述に検定意見をつけない代わりに、「集団自決」を書くように強制するようになった。
「集団自決」の記述の強制は、「沖縄県民の犠牲のなかには、日本軍のために殺された人も少なくなかったことは事実であるが、集団自決が一番数が多いのであるから、集団自決の記述を加えなければ沖縄戦の全貌がわからない」というものであり、家永三郎・元東京教育大学教授が提起した第三次教科書訴訟における被告国側が東京地裁に提出した準備書面で、「原告は、集団自決の実態からすれば『日本軍のために殺された』といえる事例もあると主張するが、仮に原告主張どおりであったとしても、軍人が直接手を下した殺害行為とそうでないものとでは質的な違いがある」と主張する。『裁かれた沖縄戦』[安仁屋政昭編、晩聲社、核時代44年(1989年)12月発行]で、編者は原告家永三郎側の主張を次のように整理している。
《第一に、「日本軍のために殺された」という記述は、直接日本軍将兵に県民が殺害された事例のみをさすのではない。壕追い出し、壕内での幼児殺害、収容所襲撃、「自決」の強要など、間接的にも日本軍によって県民が犠牲となった例を総称するものであって、天皇の軍隊が自国の国民に敵対して犠牲にしていった沖縄戦の特徴を描いたものである。
 第二に、「集団自決」は必ずしも自発的になされたというものではなく、現地守備軍によって「玉砕」を強いられたり、手榴弾を配って自決を強制・誘導するなど、その実態からすれば「日本軍のために殺された」といえる例も多くある。「集団自決」ということばを原稿記述に入れなければ、沖縄戦の理解が妨げられるとはとうてい言えない。
 第三に、「集団自決」を書くことを強制するのは、「集団自決」はあくまでも住民が自らの意思で命を絶った事件であり「日本軍のために殺された」犠牲には入らないという認識が前提となっている。「集団自決」について、「崇高な犠牲的精神の発露」として強調・強要するところに、検定の思想審査的意図が現われている。》
 裁判では「集団自決」の背景と客観状況が大きな争点となり、88年2月9、10日の沖縄出張裁判では原告側証人の尋問が行われた。研究者・大田昌秀(琉球大学教授)、体験者・金城重明(沖縄キリスト教短大教授)、住民の体験記録の編集者・安仁屋政昭(沖縄国際大学教授)、高校日本史の教育者・山川宗秀(普天間高校教諭)の《4証人は、「集団自決というのは日本軍の圧倒的な力による強制と誘導によって起きた肉親同士の集団殺し合いであり、言葉の本来の意味において集団自決はなかった」ときびしく反論し、住民の「集団死」と天皇の軍隊による住民殺害は同質同根であることを事実をあげて立証した。/「自決」というのは、「みずからの意思で、責めを負うて命を絶つ」ことである。乳幼児が自決をすることはできないし、肉親を自発的に殺す者もいない。住民の「集団死」と牛島司令官らの自決とは、まったく別の次元のことがらである。天皇の軍隊によって強制・誘導された住民の「集団死」を、「集団自決」と表現することは不適切であり、ことの真相を正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くものである。文部省の主張は、住民殺害等の天皇の軍隊の残虐行為を免罪にし、県民の戦争被害者の多くは自らの意思で死んでいったのだと強弁するものである。多くの研究者たちが長年にわたって実証的に記録してきた県民被害の実相を無視し、戦争体験者たちが苦痛と屈辱をのりこえて証言してきた歴史の真実を否定しているのである。》
 45年6月22日に摩文仁の洞窟で自決した沖縄守備軍牛島満司令官については、安仁屋証人が裁判所に提出している意見書のなかで次のように記している。45年5月下旬、第32軍が首里を放棄して摩文仁へ撤退したとき、牛島司令官は八原大佐に、「余が命をうけて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存する限り、戦い続ける覚悟である。」と語っている。《このような方針によって、必要以上に戦闘を長びかせ、必要以上に戦線を拡大し、住民の犠牲を大きくしたのである。国体護持を唯一至上の任務とした皇軍は、住民に対する配慮と責任感を欠いていた。》
 ソ連の参戦が伝えられ、二個の原爆が落とされた段階でも、軍部の徹底抗戦派は本土決戦を叫び、「1億玉砕の覚悟」で米上陸軍に一大打撃を与えれば、敵はひるみ、交渉により妥協的和平(有条件降伏)に持ち込めると主張していたのだから、沖縄の司令官に降伏や休戦の権限が与えられている筈もなく、また「玉砕」が脳裡にあっても投降の二文字はなかったと推測される。だから、「必要以上に戦闘を長びかせ、必要以上に戦線を拡大し、住民の犠牲を大きくした」のは東京の大本営本部であった。牛島司令官は進退極まって自決したが、自決の前に最後の軍司令官命令を発している。
「全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり 然れども今や刀折れ矢尽き軍の命旦夕に迫る 既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は困難となれり 爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」(『沖縄方面陸軍作戦』)もちろん、この自決は、《数千人の住民を砲爆撃下の戦場に放置し、住民を救うための米軍との交渉、その他の努力を全くしなかった。「軍官民共生共死」の方針を貫徹し、一般住民をも「皇軍の玉砕」の道づれにした》ことを意味したのである。つまり、米軍側からすれば、敵軍の最高責任者の自決によって降伏ないし休戦の交渉が断たれ、沖縄戦は終わりのない戦闘になってしまったのだ。
 原告側の主張は「集団自決」などはなかった。あったのは「集団死」であって、牛島司令官の自決のような「みずからの意思で、責めを負うて命を絶つ」ことはありえず、「日本軍のために殺された」犠牲と捉える。安仁屋証言の意見書によると、「集団自決」は慶良間諸島を筆頭に、読谷村波平のチビチリガマ、伊江島、南部戦線などで確認されており、以前に言及したチビチリガマ以外の「集団自決」の実相についてこう記している。
《伊江島のアハシャガマでは20世帯以上の約150人の住民が避難していた。4月16日に伊江島に上陸した米軍は6日間で島を制圧した。追いつめられた住民は、4月22日、防衛隊の持ち込んだ爆雷で死んでいった。これも、軍と行動をともにさせられ恐怖と狂気のなかで起きた事件である。戦後の遺骨収集で100体が収骨されている。
 慶良間(けらま)諸島では、3月26日の米軍上陸直後に、慶留間(げるま)島・座間味(ざまみ)島・渡嘉敷(とかしき)島などで凄惨な「住民の集団死」事件が起きている。》
 意見書は続いて渡嘉敷島の「集団自決」を次のように取り上げている。45年3月23日沖縄諸島に見舞った米軍の激しい空襲、24日艦砲射撃。米軍の上陸《作戦のねらいは沖縄本島総攻撃にそなえて水上機基地と艦隊投錨地を確保し、神山島を占領して沖縄上陸の掩護砲撃をする》ことにあったのに、日本軍は《米軍が沖縄本島攻略後に二次的に上陸することはあっても、沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えた》。したがって、《地上戦闘の準備は全くしていなかった》ので、26日、《米軍は空と海からの砲爆撃の支援のもとに、阿嘉(あか)島・慶留間(げるま)島・座間味(ざまみ)島に上陸、その日のうちに各島のほぼ三分の二を占領》。27日、渡嘉敷島に上陸、29日、慶良間諸島全域をほぼ手中に収めた。
《米軍は3月31日までに慶良間諸島の主要な地点を占領し終えると、それ以上の深追いはせず、いよいよ沖縄本島の上陸作戦にむかった。慶良間海峡には米軍の艦船がひしめいて停泊した。/この戦闘の間に、慶留間・座間味・渡嘉敷の島々では凄惨な「集団自決」が発生したと言われている。慶留間島は直径1qの円い小島で、孤立した約100人の人々はパニックにおちいり、家族単位で死んでいった。命を絶つ道具は鎌と縄であった。木麻黄(もくまおう)の木に顔を真黒にして人びとが群れてぶらさがっていたという。座間味島では米軍上陸直後に壕内で集団で死んでいる。手りゅう弾とカミソリが多くつかわれ、わが子を火になげこんだり、石にたたきつけて殺す親もいた。ネコイラズを飲んで死んだ者もいる。》
 渡嘉敷島では赤松嘉次大尉(25歳)率いる第三海上挺進隊員104人が特攻艇100隻、120s爆雷210個を装備して戦闘にそなえ、他に基地隊の配属部隊として西村大尉の161人、木村中尉の整備中隊55人、斉田中尉の指揮する特設水上勤務百四中隊の一小隊(下士官・兵13人、朝鮮人軍夫210人)、防衛隊70人などが配備されていた。3月23日の正午すぎから始まった米軍艦載機の渡嘉敷島空襲で、部落はほとんど全滅し、全島が山火事となり、24日には艦砲射撃も加わり、島は砲煙に包まれた。しかし、「企図秘匿上適当ならず」という大町大佐の命令で、《特攻艇は一隻も出撃することなく自沈した》。26日、米軍の砲爆撃が激烈となり、赤松隊長は戦隊本部を渡嘉志久から島の東側山地(西山陣地)に移動させ、特設水上勤務隊や資材も移動した。
《27日9時ごろ、米軍は猛烈な砲爆撃の支援のもとに、渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸を開始した。住民は砲撃に追われて日本軍陣地周辺に避難してきた。住民の避難場所について防衛庁の記録では、「村の兵事主任新城真順から部隊に連絡があったので、部隊は陣地北方の盆地に避難するように指示した」としている。住民は恩納河原の谷間で一夜を明かした。米軍は日本軍陣地とその周辺に迫撃砲と機関銃で集中砲火を浴びせ、一帯は前後の見分けもつかないほどの煙と火に包まれた。
 住民の「集団的な殺しあい」は、一夜あけた3月28日に起こっている。すでに米軍の上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が渡されており、いざという時にはこれで「自決」をするように指示されていた。また、防衛隊員が手りゅう弾を住民の避難場所に持ち込んで「自決」を促した事実がある。しかし、手りゅう弾は不発弾が多く、「自決の手段」は必ずしも手りゅう弾だけではなくカマやクワで殴り殺したり、縄で首をしめたり、石や棒切れで叩き殺したりして、この世の地獄を現出したのであった。死者は329人であった。》
『ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モスコウ記者は45年3月29日付で、「渡嘉敷の集団自決」の見出しで次のように報じた。
《3月29日、昨夜、われわれ第七七師団の隊員は、慶良間最大の島、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、一晩そこで野営することにした。その時、1マイル程離れた山地からおそろしいどよめきの声、悲鳴、うめき声が聞こえてきた。手榴弾が6発から8発爆発した。「一体何だろう」と偵察に出ようとすると、闇の中から狙い撃ちされた。仲間の兵士が一人射殺され、一人は傷を負った。われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。
 そこには200人ほど(注・Gリポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。木の根元には、首を締められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる35歳ぐらいの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、両手を背中でぎゅっと握り締め、前かがみになって死んでいた。自分で自分を締め殺すなどとは全く信じられない。死を決意した者の恐ろしさが、ここにある。
 小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。軍医は助かる見込みのない者にモルヒネを与え、痛みを和らげてやった。全部で70人の生存者がいて、みんな負傷していた。その中に、二人の日本兵負傷者がいた。担架班が負傷者を海岸の救護施設まで移動させる途中、日本兵が洞窟から機関銃で撃ってきた。師団の歩兵がその日本兵を追い払い、救護が続いた。
 生き残った人々は、アメリカ兵から食糧を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げ「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指揮者への怒りが生まれた。そして70人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている所に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった。何とも哀れだったのは、自分の子供達を殺し、自らは生き残った父母らである。彼らは後悔の念から泣き崩れた。自分の娘を殺した老人は、よその娘が生き残り、手厚い保護を受けている姿を目にし、咽び泣いた。また別の島でも同様な自殺、あるいは自殺未遂があった。慶留間島の洞窟では12人が絞殺されていた。第七七師団の歴戦の猛者達も、このありさまをわが目で確かめるまで信じられなかった。日本兵だけでなく、日本の住民まで、アメリカの野蛮人に捕まるくらいなら死ぬ方がましだ≠ニいう信念で自殺する狂気の沙汰が実際に起ころうとは………》(上原正稔訳編「沖縄戦アメリカ軍戦時記録」)
 この記事を意見書の中に抜粋している金城証人は18歳の兄と二人で、母と小学校4年生の妹と6歳の弟に手を掛け(途中ではぐれた父も絶命)た体験者として、こう記している。《死の異常性と混乱の中にも、愛する者弱い者の命から先に断っていくといった、一つの筋道みたいなものがあったように思う。従って我先に死に赴く非人情な男性は一人もいなかったのである。非人間性の中のヒューマンなもの、とでも言えるのだろうか。しかし凡ては狂気の沙汰でしかなかったのである。
「集団自決」の阿鼻地獄が末期に近付くにつれて、生き残ることへの恐怖と不安が高まってくるのを、ひしひしと感じた。「生き残ったらどうしよう。早く死ななくては」、といった異常心理が働く。そのような末期的状況の中で、自分ではどうしても死にきれずに、「殺してくれ」との哀願に似た悲鳴が聞こえてくる。生き残ることへの恐怖と絶望の故に、死を求めている人に手を貸さないことは、かえって無慈悲ですらあったのである。
 私共は運命共同体だった日本軍も他の住民も凡て死滅して、自分達だけが最後の生存者だと思い込んだ。(…)生は最早希望の対象ではなく、呪いでしかなかった。(…)
 兄と私が死の順番を話し合っている所へ、一人の少年が駆け込んで来て次のように訴えるのであった。「どうせ死ぬに決まっている。ここでこのような死に方をするよりは、敵軍に斬り込んで一人でも多くの敵を殺してから死のうではないか。」彼の言葉は最も恐れていた形の死への誘いだったのである。最初は大きな抵抗を覚えた。敵に捕らえられることは、残酷な方法で殺害されるだけでなく、皇国民・天皇の臣民として、最も恥ずべきことである、と信じて疑わなかったからである。少年少女数名の者達は、武器もなく文字通り無鉄砲で敵に体当たりすべく、集団自決の修羅場を後にした。
 敵の所在も分からず、ただ足の向くまま前進した。皮肉なことに私共が最初に出会ったのは、米軍ではなく全滅したと思った日本軍だった。その時の衝撃は計り知れないものがあった。「何故自分達だけが、こんな酷い目に会わなければならないのだ」、と腹の底から憤りと不信感とが込み上げてくるのを禁じえなかった。
 更に他の多くの住民が生き残っていることを知らされた時、第二のショックを受けた。その時生き残って良かったとの心情は毛頭働かなかったのである。「生きたい、生き延びよう」といった本能的欲求すら、圧殺されていた。唯死への思いのみが、内面を支配していたのである。「戦争は長引くであろう。再び死ぬチャンスが訪れるに違いない」、と将来の死に望みを託して、今暫しの余命を繋ぐといった絶望的状況に投げ込まれていた。しかし再び死ぬ機会は訪れて来なかったのである。》
「集団自決」があった地域となかった地域を比較して、安仁屋証人は「日本軍と住民が雑居していた地域」で「集団自決」が起こったことを指摘している。「米軍が上陸してきても、そこに日本軍がいなかった地域では起きていない」という証言は、日本軍の存在が住民の「集団自決」に大きな影響を与えたことを浮かび上がらせている。金城証人は米軍が島に上陸する3月27日以前は、「日本軍と運命を共にするとかそういう悲愴感みたいなものはなくて、軍に守ってもらえるという程度のことでした。しかし米軍が上陸しますと、そのときから軍と運命を共にするというふうに、そして、部落に残ってはいけないということで、途中戻ろうとした人は皆追い返されちゃったという現実ですね。だから、そういう意味では、具体的には軍と運命を共にするという気持ちが高まってきたのは27日あたりからです。」と証言している。
 安仁屋証人の意見書には、《渡嘉敷島における「集団的な住民の死」の背景には、天皇のために死ぬことを最高の国民道徳としてきた皇民化教育があった。とくに沖縄戦においては、「軍官民共生共死の一体化」ということが強制され、「死の連帯感」が醸成されていた》として、《在郷軍人会・翼賛壮年団・県や市町村の上級官吏など地元沖縄の有識者層の果たした役割》の大きさを取り上げている。《赤松隊から手りゅう弾を渡されたとき、島の指導者たちは「イザトイフ時ノ全住民ノ死」を当然のこととして受け入れたのであるが、これを「集団自決」の「任意性・自発性」と考えることはできない。皇軍の命ずる「死」を拒むことは不可能な時代であった。
「鬼畜米英」への極度の恐怖も、人びとに死を選ばせる要因となった。「満州事変」以来の大陸における日本軍の中国人虐殺の体験が広く語られており、「まけ戦さ」になった場合の一般住民の運命について、人々は米軍による略奪・強姦・虐殺を予感し絶望したのであった。「米軍が住民虐殺をするはずはない」と考えた移民帰りの人びともいたが、「スパイ容疑者」と見られていた移民帰りが積極的な発言をする場はなかった。そのような発言をすると、たちまちスパイとみなされたのである。
 姉妹や妻を「鬼畜米英」の陵辱にまかせ残虐な殺されかたを見るよりは、「いっそ一思いに」わが手で殺してやるのが肉親の愛情だと倒錯した思いにかられた人もいた。「愛情の深さ」が「殺しの徹底」となってあらわれた。
 皇軍のスパイ狩りへの恐怖も、住民の絶望感を倍加した。軍事機密を知る住民を、絶対に敵の手に渡さないというのが軍の方針であったから、米軍の保護下に入るということは、スパイと見なされた。日米両軍の狭間に置かれた住民は、極限状況のなかで「死」に追いつめられていったのである。
 逃げ場のない島で、砲爆撃によって生きる希望が断たれ、無惨な死を予感したことも、人びとが「死に急いだ」原因の一つであった。
 渡嘉敷島における「集団的な死」は、これらの諸々の要素が複合して集団的なパニックが起き、共同体のなかで親族殺しあいとなったものである。恐怖と狂気の嵐が村落共同体を支配したのであった。》
 この記述から、住民を守るための軍隊と思い込まれていた日本軍が住民をますます選択不可能な状況へと追い詰めていく役割を果たしていたのが読み取れる。つまり、日本軍が存在することによって住民は敵の脅威に晒される恐怖と不安を取り除かれるよりも、逆に日本軍が駐屯していたために米軍に激しく攻撃され、同時に日本軍の厳しい管理下に置かれて、恐怖と不安がますます募る状況に追い込まれていったことが推測される。その状況下で「軍官民共生共死の一体化」が強制され、「死の連帯感」が醸成されていたとすれば、日本軍が米軍に追い詰められていくそのままに住民も追い詰められ、もうどこにも逃げ場がないと判断された時に「集団自決」が惹き起こされるのは不可避であったと思われる。ところが、住民と共に「自決」していた筈の日本軍は赤松隊長を筆頭に死なずに生き残ったのである。
 沖縄に限らず、戦前、戦中の日本では、天皇のために死ぬことが最高の国民道徳とされる皇民化教育が徹底されていたとして、その皇民化教育は皇軍である軍隊でこそ最大に貫徹されている必要があった。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓にしても、戦闘員にこそ最大にその身に刻み込まれていなくてはならなかった。日本軍が非戦闘員である沖縄の住民にもその戦陣訓を強制したとしても、順番からすれば誰よりも日本軍の兵士こそが戦陣訓を遵守する必要があった。しかし、日本軍も住民も追い詰められた挙句の果てに住民は「集団自決」を行っているのに、日本軍は死なずに生き残っているという事態は納得いかないだけでなく、裏切りですらあった。「軍官民共生共死の一体化」もクソもなかった。沖縄の住民からすれば、住民の「集団自決」を前に日本軍が生き残っているという事態は到底許されないことであったにちがいない。
「集団自決」についての最大の問題は、本来的に「集団自決」すべきであった日本軍が生き残り、死ななくてもよかった住民が「集団自決」へと「死に急いだ」点にあった。日本軍と同じ極限状態に追い込まれながら、恐怖と絶望が余りにも早く村落共同体を直撃したといえるかもしれない。チビチリガマの「集団自決」がそうであったように、「どうせ死ぬのなら」という気持が住民を包み込んだのであろう。だが日本軍が生き残ったという事実は、少なくとも彼らは「どうせ死ぬのなら」という絶望に追い込まれることはなかったということをあらわしているようにもみえる。そして住民の「集団自決」も日本軍の「集団自決」を促迫することはなかった。住民はあたかも勝手に「集団自決」に至ったかのように放置されている印象を受ける。
「小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に協力できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの命を絶つ者も生じた」(『沖縄方面陸軍作戦』)と記す防衛庁の見解に安仁屋証人は反駁し、沖縄の住民はあくまでも自らの意思で死んでいったと強弁する文部省の主張に、原告側証人は一致して「日本軍のために殺された」と応酬する。住民の「集団自決」は「自らの意思」のかたちをとった「国のために死ねる国」の意思の発現という点では、「日本軍のために殺された」といえなくはないが、だがそう捉えてしまうと、なにか重要なことがみえなくなってしまう気がする。「集団自決」へと行きつくありようの中に、見据えなくてはならない多くの重要な問題が詰まっているように感じられて、それらが解明されるなかでしか「集団自決」の問題は真にみえてこないだろう。                            2002年10月13日記
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