臓器提供を決断するまでの記憶はあいまいだ。神奈川県に住む男性(63)は「4人の子どもと話し、妻の遺志だから、かなえようとなったと思う」と言葉少ない。一方、妻の様子は鮮明に覚えている。「まだ足が温かく、脳死といっても脊髄(せきずい)反射で体が動く。生きているのではないかと何度も思った」
妻(当時58歳)は05年冬、ぜんそく発作で倒れた。「脳死状態です」との医師の説明を聞いた長男が切り出した。「お母さんは臓器提供カードを持っていたよ」
男性はしばらく考え、やっと思い出した。半年ほど前、晩酌をしている横で妻が記入していた。だが妻の姉や兄らは提供に反対し、「一日でも長く治療を」と訴えた。
心臓や腎臓などを提供した後、男性の口から「これでよかったんですよね」という言葉が出た。妻の姉(64)は「ギリギリの判断をしたんだと思う。最初は提供を受け入れられなかった私たちも『よかったと思うよ』と言うしかなかった」と振り返る。
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臓器移植法は提供にあたり、臓器提供者(ドナー)本人の生前の意思表示と、家族の同意を求める。ドナーの多くは、突然、事故や病気に見舞われた人だ。家族は短時間に死を受け入れ、提供するかどうかを決断しなければならない。家族内の意見対立も起こりうる。
ドナーの家族に対する社会の無理解もある。「臓器を売って、いくらもうけた?」。こんな言葉を投げかけられた家族もいる。「判断は正しかったのか」と悩んだり、「遺志を尊重しただけ。なぜコソコソと生きなければならないのか」と話す家族もいるという。
00年、交通事故に遭った次女(当時27歳)が脳死になり、臓器を提供した東京都文京区の田中和行さん(66)は、ドナー家族たちが集まる会を始めた。年1回、近況を語り合い、励まし合う。「残された家族の置かれた環境はさまざま。これまでは家族同士が情報交換する場すらなかった」と田中さんは話す。
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厚生労働省は02年、ドナー家族の心情把握のための作業班を設置した。精神科医らが、ドナー家族からの聞き取り調査を始めたが、当初は家族に会うこともままならなかった。家族側に「研究材料にされる」との警戒心が強く、社会に認められない疎外感などから心を閉ざす人もいるためだ。
作業班座長の吉川武彦・中部学院大教授は「ようやく9家族に話を聞けた。家族の心情や苦しみを知り、どのような支援体制が必要かを検討していきたい」と話す。
米国で亡くなった長女(当時24歳)が臓器を提供した東京都杉並区の間沢洋一さん(68)は00年、「日本ドナー家族クラブ」を作り、家族からの相談を受けている。米国では、ドナーは「沈黙のヒーロー」として高く評価され、ドナーの出身校に記念公園が造られることもある。放置されがちだったドナー家族が、支援の必要性を地道に訴えた成果という。
間沢さんは、法改正論議で繰り返される「臓器不足」という言葉に違和感を持つ。
「移植医療はドナーがいてこそ始まる。ドナーと家族は、単に『もの』を提供しているのではない。数を増やすという一面だけから議論するのではなく、移植医療への社会の理解を深めることから始めるべきではないか」=つづく
毎日新聞 2007年10月13日 東京朝刊