[ホーム] [管理用]

数学@ふたば


[掲示板に戻る]
レス送信モード
おなまえ
E-mail
題  名
コメント
削除キー(記事の削除用。英数字で8文字以内)
  • 添付可能ファイル:GIF, JPG, PNG ブラウザによっては正常に添付できないことがあります。
  • 最大投稿データ量は 500 KB までです。sage機能付き。
  • 画像は横 300ピクセル、縦 300ピクセルを超えると縮小表示されます。
  • 雑談・あぷ連絡は半角板へどうぞ。管理人への連絡は準備板へどうぞ。





  • 無題 Name 名無し 07/10/09(火)02:14 No.1571  
    何時何分何十秒地球が何回まわった日?
    >> 無題 Name 名無し 07/10/10(水)19:02 No.1652  
    まず自転か公転かを聞こうか
    >> 無題 Name 名無し 07/10/10(水)21:54 No.1654  
    次に「地球誕生」をいつと定義するか訊かせてもらおうか
    >> 無題 Name 名無し 07/10/10(水)23:47 No.1665  
    出題者は07/10/09(火)02:14時点で地球が何回まわったのか把握しているのかね?
    >> 無題 Name 名無し 07/10/11(木)00:17 No.1666  
    たとえなんと答えようと間違っていることを証明できなければ正しいのだ
    >> 無題 Name 名無し 07/10/11(木)11:05 No.1671  
    そういや今この瞬間に宇宙が出来たと考える事も出来るっていう哲学あったなぁ
    >> 無題 Name 名無し 07/10/11(木)20:34 No.1687  
    >たとえなんと答えようと間違っていることを証明できなければ正しいのだ
    ぶっちゃけ、あまりにも浅慮なのですよ。

    ケプラー予想では1694年にニュートンとグレゴリーの間で議論され、
    ニュートンは12を、グレゴリーは13を主張したのですよ。
    つまり、(ケプラー予想がまだ証明されていない)1694年当時
    少なくても一人が間違ったことを唱えているのですよ。
    従って、たとえ証明できなくても二人とも同時に「正しい」ことはありえないのですよ。
    換言すれば、「たとえなんと答えようと間違っていることを証明できなければ正しい」が真であれば、
    異なる答えが両立し得ない命題に対して異なる答えを示す二人が
    ともに真であることが起こりえるのですよ(矛盾)。

    蛇足なのですが、1998年にトマス・ヘールズが12であることを証明したのですよ。
    >> 無題 Name ベイズ厨 07/10/11(木)21:06 No.1688  
    >1687
    つ反証可能性、検証可能性
    トマス・ヘールズが12であることを証明するまでは、暫定的にニュトーンもグレゴリーも
    同程度に正しい
    方程式で言えば
    12<X<13は言えても
    それ以上はいえない。
    ヘールズの時点でX=12
    >> 無題 Name 名無し 07/10/11(木)21:12 No.1692  
    つアドホックな反証
    >同程度に正しい
    なら同程度に誤りでもある
    つまり、
    証明できなければ正しいのだ=証明できなければ誤りなのだ
    の単なる主観的(解釈依存的)な意に過ぎなくなる
    >> 無題 Name 名無し 07/10/11(木)21:22 No.1693  
    真偽に0,1以外の状態を設けると背理法が全滅するぞ
    基礎論に詳しい人、どうなっちゃうの?
    >> 無題 Name ベイズ厨 07/10/11(木)21:35 No.1694  
    背理法は嫌い
    背理法使うと拡張性がなくなる
    >> 無題 Name ベイズ厨 07/10/11(木)21:39 No.1695  
    >アドホック
    異なる答えが両立し得ない命題に対して異なる答えを示す二人がともに真であることが起こりえるのですよ(矛盾)。
    電子は干渉することから波動性をもち
    同時に粒子性をもつ
    主観的解釈の弁証法的発展こそが科学の発展
    >> 無題 Name 1687 07/10/11(木)21:43 No.1696  
    >真偽に0,1以外の状態を設けると背理法が全滅するぞ
    そもそも真偽に0,1以外の状態が存在しないことが担保されている命題(排中律)でなければ
    背理法は使えないのですよ。

    それに対して1688は数学的直観主義(⇔数理論理学)の立場をとるものと見受けられるのですよ。
    ぶっちゃけ、命題への流儀(立場)が異なる為
    お互いがお互いに正当性を否定しあうことは出来ないのですよ。

    参照:数学的直観主義
    ab=0 から a=0 または b=0 を直接結論することはできない。
    なぜなら、直観主義においては、「a=0またはb=0」が証明できるというのは、「a=0」が証明できるか、
    または「b=0」が証明できることを意味するからである。…
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E7%9A%84%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
    >> 無題 Name ベイス厨 07/10/11(木)22:13 No.1697  
    シンプルに
    12or13だが、
    ひとつに決めるには実験なり方程式が足りないから
    不定
    といったほどの意味です
    >> 無題 Name 1687 07/10/11(木)22:31 No.1703  
    >実験
    ぶっちゃけ、数学は演繹法(普遍的な前提・定義や公理体系からの論証法)を用いて得られる
    (必然的)真理のみを扱う(若しくは真理の把握を行う)学問ゆえに、
    物理のように実験による真理への近似(実証)を行わないのですよ。
    また、その意味において1695の「電子は…」発言は(数学とは直接関係無いため)不適切なのですよ。
    >> 無題 Name ベイズ厨 07/10/11(木)23:03 No.1704  
    証明されてない予想の
    真理値がどうかといわれれば、
    証明されてないけど、否定もされてないから、
    暫定的に真なのでは?
    >> 無題 Name 名無し 07/10/11(木)23:24 No.1705  
    >物理のように実験による真理への近似(実証)を行わないのですよ。

    その理屈だと数学を適用できる範囲が狭くなるのが難点。(それで良いとう潔い姿勢もアリかもしれませんが)
    ソレに対し、統計学の系譜は昔ながらの数学で解決できない命題に対するために成立したものなので、根本からして異質なのですよ。
    もっとも、旧来の数学にはそのままで十分、単独で研究するに値しますよ。

    >また、その意味において1695の「電子は…」発言は(数学とは直接関係無いため)不適切なのですよ。

    適用しようとしてる公理系が異なるので、お互いずっと平行線のままかと。
    正直、お二人の論点は相手を自分の土俵に無理やりいれて、結論を押し付けておられるようにみうけられるのですが・・。
    お二人とも根本的には間違ったことをおっしゃってるわけではないので、余計みてて辛いのです。
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)00:06 No.1711  
    >証明されてないけど、否定もされてないから、
    >暫定的に真なのでは?
    暫定的真というのはいささか乱暴では?
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)00:45 No.1714  
    >1704
    そこは哲学的に議論が割れてる。
    古典的イデア論だと、あらゆる命題の真偽は証明されたかどうかに関係なく定まっている、とするはず。
    対立する立場は…よく知らん(何

    まあ、現状、いかなる証明も人間や計算機という物理的実体が行うしか方法がないので、
    ある種の物理的プロセスによって、最初に証明されたとき命題の真偽が決定される、と考えることも可能ではある
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)10:08 No.1726  
    >まあ、現状、いかなる証明も人間や計算機という物理的実体が行うしか方法がないので、
    >ある種の物理的プロセスによって、最初に証明されたとき命題の真偽が決定される、と考えることも可能ではある
    何とかの猫みたいな話になってきてるけど、数学の世界では命題が与えられた時点で命題の真偽は確定してると思う。
    証明は、人間が命題の真偽を見極めたってだけの意味しかないのでは…。
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)12:42 No.1730  
    >証明は、人間が命題の真偽を見極めたってだけの意味しかないのでは…。

    人間が証明できなくても、事象そのものは変わらない。
    なんだけども、「不明」としてしまったら先に進めなくなるのが問題。
    そのようなケースにおいては、No.1704氏が言ってるように暫定的な真もまた必要。
    たとえば「無の証明」の様に量的困難を伴うものが前提であった場合、暫定的な真偽(確立)をもって証明せざるを得ない。
    >> 無題 Name 1687 07/10/12(金)20:46 No.1744  
    >1705
    >その理屈だと数学を適用できる範囲が狭くなるのが難点。
    寧ろ逆で、直観主義論理に基づく数学によって得られる成果は、
    古典論理に基づく数学(数理論理学)に比べて制限されたものにならざるを得ないのですよ。
    例:ワイエルシュトラスの定理が証明できない、排中律が使用できない、等

    一方、直観論理的な考え方は計算可能理論と親和性が高く、
    またファジー論理や量子論理などへ応用されているのですよ。
    参照:直観論理(下記リンク)、束論
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E8%AB%96%E7%90%86

    繰り返すのですが、数理論理学と直観論理は命題への流儀(立場)が異なる為
    お互いがお互いに正当性を否定しあうことは出来ないのですよ(1696)。
    (続く)
    >> 無題 Name 1687 07/10/12(金)20:48 No.1746  
    (続き)

    >1705
    >統計学の系譜は昔ながらの数学で解決できない命題に対するために成立したもの
    ぶっちゃけ、ここで統計学史を語るつもりはないのですよ。
    統計学は帰納的推論をすすめることで得られる事実を研究する学問であるため、
    統計学自体を純粋な数学の分野として扱う数学者は多くないのですよ。
    ただ、(母集団の定義やサンプリングなどに対して帰納の正当性を評価する目的などで)
    統計学に数学的手法を取り入れることは常であるため、
    数学と密接に係わっている学問であることは否めない「事実」(「真実」ではない)なのですよ。
    参照:数学としての成果というものは他の自然科学のように実験や観察によるものであってはならない。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)21:25 No.1748  
    >古典論理に基づく数学(数理論理学)に比べて制限されたものにならざるを得ないのですよ。

    言葉足らずでしたか、どっちが適用範囲が広いかを論じるつもりはないのです。(苦笑)
    両方用いたほうが適用範囲が広いと言いたかったのですよ。

    >数学と密接に係わっている学問であることは否めない「事実」(「真実」ではない)なのですよ。
    >参照:数学としての成果というものは他の自然科学のように実験や観察によるものであってはならない。

    前述済みですが、そういうスタンスを否定しておりませんよ。
    また、そうやって真理を追究される方々を尊敬もしております。
    ただ、数学を道具としてるだけの人間からすると、古典的な数学”のみだと”使い勝手が悪いのですよ。
    常に真理値が変わり続けることが証明されている事象を古典的な数学は追いかけられますか?
    >> 無題 Name ベイズ厨 07/10/12(金)21:27 No.1749  
    3.1415・・・に
    1、数字の123456789が均等に出てくる
    2、数字の出現に偏りがでてくる
    の命題を考える
    「無限といえども論理によって把握できるから、
    命題は1か2のどちらかが必ず1つ成立する」
    というのがぶっちゃけさんの立場
    「人間が把握できるのは、所詮有限なので、
    わかる範囲でしか、真理値は定まらない」
    というのが私の立場
    ヒルベルトの本読んできたのですが、
    連続的な積分と、離散的な級数が一致する
    量子力学の数学って数学なんですかね、
    物理なんですかね
    >> 無題 Name ベイズ厨 07/10/12(金)21:52 No.1750  
    >また、その意味において1695の「電子は…」発言は(数学とは直接関係無いため)不適切なのですよ。
    波動関数の値が観測以前は不定であることが
    「数学的」に証明されたように、
    数学による認識にもカント的限界があり、
    先験的に真理や論理を認識することはできないのでは?
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)22:43 No.1756  
    ずっとループしそうなので私(1705)のスタンスを先に言っておきます。

    所詮、数学も思考のための道具にすぎない。有意な答えを得るのがことが最重要。
    第一に、古典的な数学を用いて証明できるかを検討し、可能であればする。
    第二に、統計学が有意に利用できるのなら利用する。

    これだけだと誤解されそうなので補足を。
    第一の方法で証明できないと証明されるのは、有意かつ重要と承知しております。
    第二の方法を用いる場合も、条件が妥当であるか常に吟味する必要がある。
    妥当でないことが判明すれば、条件を速やかに修正すべし。
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)22:47 No.1758  
    >参照:数学としての成果というものは他の自然科学のように実験や観察によるものであってはならない

    主義主張を重視するあまり、問題解決の否定をして欲しくはないのです。
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)22:54 No.1760  
    ベイズ厨さんへ
    おっしゃることは間違ってないんです。
    ただ、否定されることに反応するより、(私も含めて)どのような方法があるかを示したほうが良いのかいいのかもしれません。
    出来るできないを論ずるのは、もはや無為です・・。
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)23:05 No.1762  
    今回の命題はどういう意味か、解いて見ます。

    >何時何分何十秒地球が何回まわった日?

    数学以前に、日本語としておかしいですね。
    ・何時何分何十秒=不確定
    ・地球が何回まわった日=不確定
    求めたいがどちらなのかも、また基準にしたいのがどちらも提示されておりません。
    (問題不成立なので)解なしで終了です。

    これだと話しにならないので、
    命題が「地球誕生後現在に至るまで、何時何分何十秒経っており、何回自転(または公転)しているか?」
    だった場合を考えて見ます。
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)23:08 No.1763  
    そうなのか?
    スレ主にYES!お前は正しいとか言ってやれば満足して終わるんじゃないのか
    >> 無題 Name 名無し 07/10/12(金)23:23 No.1764  
    >スレ主にYES!お前は正しいとか言ってやれば満足して終わるんじゃないのか

    うはー、それが一番現実的な答えかも・・
    まぁ、それだとぜんぜん数学的じゃないのですよ(苦笑)
    >> 無題 Name 1687 07/10/13(土)00:37 No.1778  
    >人間が把握できるのは、所詮有限なので、わかる範囲でしか、真理値は定まらない
    賛同致しかねるのですよ。
    上記発言は「(収束し得る)無限級数はその収束値(=真理値)を定めることが出来ない」と同義なのですよ。
    また、フェルマーの最終定理はnが「有限のわかる範囲でしか」証明できない、と言及しているようなものなのですよ。
    ぶっちゃけ、数学が何故「演繹法を用いて得られる事実のみを扱う学問である」のか理解が無いようなのですよ。
    蛇足なのですが、カントの「演繹」は法学的な超越論的演繹を指し(『純粋理性批判』)、
    数学で用いられる演繹法とは異なる使い方をしているのですよ。
    (続く)
    >> 無題 Name 1687 07/10/13(土)00:38 No.1779  
    (続き)
    >1756,1758
    問題を解決する上で演繹がだめなら帰納による方法(実験、観察)を用いることは発想として自然と思うのですよ。
    ただ、帰納法による解決が数学的であるかどうかとは別の話なのですよ。

    数学が未解決問題に対し帰納法による解決を認めていない理由には、
    (帰納による)疎明(確かと思われる数学的予想)を公理系から排斥し、
    (演繹による)自明な「証明」のみを(定理として)公理系(理論体系)に取り込むことにより、
    well-defindな普遍体系を築き上げることで「真理」を把握する学問であるからなのですよ。

    くれぐれも、個人的には直観論理の有用性を否定しているわけではないのですよ。
    事実、前述したようにファジー論理や量子論理などへ応用されているのですよ(1744)。

    ただ、数学に少しでもill-defined(主観的、解釈依存的)な体系を組み込むことになれば、
    以降の体系はすべてill-definedな体系になる(well-definedな体系として構築できない)、
    といった理論の不可逆性を指摘しているのですよ。
    それを、ほとんどの数学者は甘受できないのですよ…。
    >> 無題 Name 1687 07/10/13(土)01:29 No.1784  
    >つ反証可能性、検証可能性(1688)
    >証明されてない予想の真理値がどうかといわれれば、
    >証明されてないけど、否定もされてないから、暫定的に真なのでは?(1704)
    例えば「サイコロを1回振ったとき、その出た目は6である。」であれば、
    (出た目を確認しないうちは)「暫定的に真」であることに賛同なのですよ。
    参照:モンティ・ホール問題

    ただ、これは「結果が一意的ではない」サイコロだから成り立つのであって、
    ケプラー予想のような「結果が一意的である」命題とは本質的に異なるのですよ。
    故に、「証明されてない(命題としての)予想の真理値」の扱いや
    1687の反論としては不適切なのですよ。
    >> 無題 Name 1705 07/10/13(土)02:09 No.1786  
    >それを、ほとんどの数学者は甘受できないのですよ…。

    結局、本質の認識は同じで、言葉の定義づけが違うだけに過ぎないようですねぇ。
    さて落としどころをどうするべきか・・困ったな。
    こっちの主張は自然科学的とでも呼べば折り合いつくのかな?(苦笑)
    >> 無題 Name 1687 07/10/13(土)02:48 No.1794  
    >さて落としどころをどうするべきか・・困ったな。
    ぶっちゃけ、強引に落とすのであれば「非古典論理学でググれ」で落とせるのですよ。
    特に数理論理学(古典論理)の代替としての非古典論理(直観論理を含む)はカオスなのですよ。
    個人的には「砂山のパラドックスでググれ」で落としたいところなのですよ。

    参照:砂山のパラドックス
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B1%B1%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9


    【記事削除】[画像だけ消す]
    削除キー
    - GazouBBS + futaba-