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少年の名前をここでは分かりやすいように、A、B、C、D、E、F、Gとした。
主犯格の無職のA(当時18歳)は東京都足立区綾瀬に両親と妹の4人で住んでいたが、父親は証券会社の仕事が忙しく、母親もピアノ教師として多忙であったため、Aは両親の愛に恵まれずに育った。また、両親は家庭内離婚の状態にあった。
Aは幼い頃から気性の激しい子だったが、中学では柔道をやっていて、それによって推薦で都内の私立大学付属高に進んだ。だが、Aは強すぎたために先輩のイジメに遭った。そのうっぷん晴らしにAは街でツッパリやオヤジを殴り、家では母親に全身打撲になるほど殴る蹴るの暴行を加えた。こうして家庭は崩壊し、Aは1年の3学期に退学した。その後、タイル工として働きながら、暴走族にも入っていた。小遣い稼ぎにひったくりなどをやっているうちに、シンナー常習者になり、ヤグザとも付き合うようになった。
サブ・リーダーの少年B(当時17歳)は小学3年のとき、両親が離婚しており、母親は水商売で働き、Bをほったらかしにしていた。姉が1人いる。中学ではAの1年後輩。私立高に進んだが、1年の2学期に退学。その後、定時制高に2ヶ月ほど通い、配線工などの職を転々とする。
事件の舞台になった少年C(当時16歳)の家も、診療所の事務長をしている父親と同じ診療所の看護婦の母親の夫婦仲が悪く、イザコザが絶えなかった。兄が1人いる。中学ではAの2年後輩。工業高校に進学するも1年で中退。その後、定職につかずブラブラしていた。
看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。
少年D(当時17歳)は5歳のとき、両親が離婚しており、母親は美容師だったが、多忙でDにかまう暇がなかった。父親はのちに交通事故死する。姉が1人いる。中学ではAの1年後輩。工業高校に進学するが、すぐに退学した。その後、職を転々とした。
Aにはカリスマ性があったから、暴力団の青年部のような組織「極青会」を作り、リーダーとして飲食店などに花を売りつけるなどの行為をしていた。B、C、Dとは強い繋がりがあった。
AはCの兄のバイクを盗んだ犯人探しを手伝ううちにCの自宅に出入りするようになり、さらにAはDの姉と交際するようになったので、DはAの子分のようになっていた。
少年たちの親は、子どもを恐れており、無軌道な行動に対し叱責できずにいた。4人は毎晩のように、Cの自宅の2階をたまり場にして集まり、Aの新車シルビアで “女狩り” やひったくりのドライブに出かけていた。
1988年(昭和63年)11月8日、A、B、Cの3人が足立区内で自転車で帰宅中の女性(当時19歳)に声をかけ、3人で輪姦した。このときはAが運転するシルビアにB、Cが乗り込み、ドライブの誘いに応じないとみるや車を横づけにして行く手をはばみ、Bが自転車の鍵を奪って嫌がる女性を車に乗せた。逃げられないように常磐高速道路に入り、「少年院を出てきたばかりだ」「大洗(おおあらい)に行こう。大洗の海は寒いし、波が高いぞ」などと脅し、観念させてホテルに連れ込んだのだった。
11月25日午後6時ころ、AはCの自宅に行き、Cに対して、「今日は給料日だから金を持っているやつが多い。ひったくりに行こう」と誘った。Cは友達からバイクを借りて、2人で出かけ、ひったくりをした。
午後8時過ぎ、埼玉県三郷(みさと)市内をバイクで走行中、アルバイト先から自転車に乗って帰宅する途中だった県立八潮(やしお)南高校3年生の古田順子(17歳)を見かけると、AはCに対し、「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命じ、Cは言われた通りに、バイクで順子に近づき、左足で右腰を思いっきり蹴って、角を曲がって様子をみていた。
順子はバランスを失い、自転車に乗ったまま転倒、側溝に落ちた。そこへ、Aが近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。俺も脅された。危ないから送っていってやるよ」と言って、近くにある倉庫の暗がりで「俺はヤクザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている。セックスさせれば許してやる」と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。
午後10時ころ、Aは自宅に戻っていたCに電話をかけると、そこにはBの他にDがいたが、Aはこの3人を外に呼び出した。その後、4人の少年たちは東京都足立区綾瀬のCの自宅の2階のたまり場に順子を連れ込んだ。
この日、Cの父親は3日間の社員旅行で沖縄に出掛けたため、自宅には母親とCのひとつ上の兄がいた。
11月28日、Aは「いいモノを見せてやる」と言って、呼び出されたE(当時17歳)とF(当時16歳)が加わって、家人が寝静まった深夜に順子を輪姦した。順子は必死の思いで抵抗した。階下の母親は目を覚ましたようであったが、寝具などで顔面を押さえつけられたため、叫び声を上げることはできなかった。さらに、陰毛の一部をカミソリで剃られ、さまざまな異物を性器に押し込まれるなどの虐待も受けた。
11月30日午後9時ころ、Cの母親は、このとき初めて順子の顔を見ている。Cに対し「早く帰しなさい」と言った。だが、1週間経っても順子がいることに気づき、直接、順子に「すぐに帰りなさい」とは言ってみるもののなかなか帰ってくれなかった。
また、この頃、順子に自宅へ電話をかけさせ「家出しているのだから、私の捜索願いは取り消して欲しい」と言わせている。それも、一度きりでなく、5日ごとに3回に渡って電話をかけさせており、順子の親は家出だと思っていたという。
その後、昼夜の別なく、順子の体を弄び、そのあまりの暴行に、順子が気を失うと、バケツの水に頭を漬けて気を取り戻させて、また犯すということを繰り返していた。その間、交代で見張りを続けた。
12月初めの午後4時ころ、、順子は少年たちが夜遊びで昼寝をしていた隙を見て、2階から1階の居間に降りてきて110番に電話した。だが、運悪く、近くで寝ていたAに気づかれてしまった。すぐに逆探知で警察からかかってきた電話に、Aが出て「なんでもない。間違いです」と返事した。
AとBは、このことをきっかけとして、順子に対し、手荒いリンチを加えた。殴ったり、蹴ったり、手足の甲にライターの火を押し付けたりして火傷を負わせた。また、シンナーを吸わせたり、ウィスキーや焼酎を飲ませて楽しんでいた。
Aは武田鉄矢の『声援』という歌に「がんばれ、がんばれ」という歌詞があって、いじめているときにそれを歌いながら順子に対し「お前も歌え」と言って歌わせた。自分たちが何もしていないときにも順子は小さな声で「がんばれ、がんばれ」と自分に言い聞かせているときがあった。
12月5日、東京の中野駅構内で、電車の追突事故が起きた。Aは順子に「あの電車にお前の父親、乗っかっていて、死んだってテレビでやってた。お前見たか」とからかった。順子は不安そうな表情を見せると「どんな気分だい」と訊き、「悲しいです」と答えると「実はウソだよ」と言ってはぐらかした。こんな調子でAとB、Cの3人は「死んだ」「生きている」を何度も繰り返し、心理的に順子を追い詰めていった。
12月10日ころ、順子は「家に帰りたい」と言い始めた。すると、Aが「家に帰ったら母親に何て言うんだよ」と言うと、順子は「今まで新宿で遊んでいました」と答えた。それに対し、Aは「新宿で、学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴ったり蹴ったりの暴行を加えた。さらに、火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけた。熱がって火を消そうとするのが面白いと何度も繰り返した。
12月中旬、小便で布団が濡れたことを理由にBとCが殴った。果てしなく続く殴打によって順子の顔面が無惨に腫れあがり、凸凹のない別人の顔になった。
「なんだお前、でけえ顔になったなあ」
誰かが言うと、また笑い声がした。
暴行がエスカレートするのにともない、順子に与えられる食べ物もおざなりになっていった。それは主にCの兄のG(当時17歳)の役目であったが、監禁当初は出前を取ることもあったのに、12月末には、1日に牛乳を1本、たまにパン1枚与える程度になっていった。トイレにも行かせず、飲料用紙コップに排尿させられるようになり、その尿を飲まされたりした。
順子は「なんでもするから家に帰して」と必死に哀願するが、全裸で踊らされたり、自慰を強要され、さらに、直径3センチの鉄棒や「オロナミンC」のビンを陰部に挿入させられた。
Cの両親は異常な気配に気づいていた。両親はそれ以上追及すると、開き直られるのを恐れて、2階の物音には耳を塞いでいた。
順子はリンチによる足の火傷が化膿して動けなくなった。全身は衰弱し、悪臭もひどくなった。Aはその臭いが嫌だと言って、寄りつかなくなった。
少年たちはそんな状態になった順子を見て、持て余すようになっていた。だが、解放すると警察に知らされる。いっそのこと、死んでくれればと願うようになる。
順子がいないところで次のような会話が交わされている。
「女は殺して埋めるのかな?」「殺すならミンチがいいですよ」「ドラム缶に入れて焼けばいい」「コンクリート詰めにして海に棄てればバレない」「自殺に見せかけて殺しますか? 富士の樹海で首吊りでもさせますか?」
お笑い半分、冗談半分、面白半分、暇つぶし、といった感じであった。
1989年(昭和64年)1月4日、監禁から41日目のこの日、午前6時半ころ、Aは徹夜マージャンで10万円ほど負けムシャクチャしていた。その腹いせとしてAは順子をその対象にした。
B、C、Dの3人は順子の火傷の臭いを嫌ってDの自宅でファミコンをしていた。AはDの自宅に立ち寄り、3人を誘って、Cの自宅の2階に上がった。
小泉今日子の『なんてったってアイドル』という歌のリズムに合わせて、順子は3人に次々と殴られて、鼻や口から血を流し、血だらけの状態になった。
ロウソクに火がつけられ、順子の顔にそのロウを垂らし、顔はロウだらけになった。
Dは自分の手に血がつくのを嫌がり、Aがシンナーを吸ったビニール袋を手に巻き、順子の肩や足にパンチを浴びせた。やがて、順子は身体を硬直し、ブルブルと痙攣し始めた。
Aは1.7キロもある鉄球付きの鉄棒を持ち出すと、Dは順子の腹に落とした。Aが暴力を振るうと、今度はB、C、Dが「ウケ」を狙って、面白半分に暴力をエスカレートさせた。Aはリンチの途中で順子の死を意識した。
午前10時ころ、リンチが終わった。Aは順子が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると、4人はサウナに出掛けた。
翌5日朝、死体の処理に困った少年たちは、死体を毛布に包み、旅行鞄に入れて車に乗せ、近くの工場から盗んだドラム缶に鞄ごと入れてセメントを流し込んだ。セメントは、Aが以前、タイル工として働いていた店に電話をかけて、セメントと砂利を調達して作ったものだった。
Aはこのとき、当時人気のあった長渕剛主演のテレビドラマ『とんぼ』(TBS系列/金曜日21時〜21時54分/1988年10月7日〜11月25日)の最終回のビデオを探した。それは、順子が拉致された日、『とんぼ』の最終回を楽しみにしていて、アルバイト先から家路に急いだが、その後、監禁されたために最終回は見ることができずに、そのくやしい思いを何度か口にしたからで、そのビデオも一緒に入れようと思ったからだった。女子高生や遺族にとって何の救いにもならないことだが、Aが見せた唯一の人間らしい一面だった。だが、このことについてAはのちに「可哀相というよりは呪われたくなくて・・・」と話している。
午前8時ころ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。
1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。午後2時36分、小渕恵三官房長官により新元号を「平成」と発表。翌8日から施行された。昭和64年は7日間しかなかったことになる。
ちなみに、1926年(大正15年)12月25日午前1時25分、大正天皇が崩御したときは即日、「昭和」と改元されたことから、午前1時25分までが「大正」、それ以降が「昭和」と1日の中に2つの元号があったことになり、昭和元年は6日と22時間35分しかなかったことになる。
1989年(平成元年)1月23日、AとBは昨年の12月に足立区内でホステス(当時19歳)をホテルに連れ込み乱暴したとして、婦女暴行容疑で綾瀬署に逮捕された。
3月29日、東京都足立区綾瀬警察署から2人の捜査員がAとBが収監されている練馬の鑑別所にやってきた。この少年たちの自宅を捜索したところ、女性の下着が見つかったため、同署では窃盗の余罪があるものと思い、事情聴取にやってきた。
捜査官が「お前、人を殺しちゃダメじゃないか」と言ってみた。すると、Aは他の少年が警察に女子高生殺害の件を言ったのだと思い、「すいません、殺しました」と言った。驚いたのは捜査員の方だった。カマをかけただけだったからだ。Aは鑑別所に入ってから幻聴や幻覚がひどく何度も自白しようと思っていたという。
一方、女子高生殺害の事件後、Cは別の婦女暴行事件で逮捕され、拘置されていたが、この事件で4月1日に再逮捕となった。さらに、D、E、F、Gも逮捕され、事件の性質上、未成年ながら、家裁から地検に身柄送検された。
『週刊文春』(1989年4月20日号)ではこの事件の加害者たちを実名で報道した。
1989年(平成元年)7月31日、東京地裁でA、B、C、Dの4人の初公判が開かれた。
わいせつ誘拐、監禁、強姦、殺人、死体遺棄などズラリと並んだ起訴事実に対して罪状認否を求められた少年たちは「書面の通りです」と答えたが、BとCの弁護士は「傷害致死」を主張し、Aは「殺意はなかった」としながらも「このまま暴行を続けていけば死ぬかもしれない」という認識はあったとして「未必の故意」を認めた。
Aはこの日の初公判終了後、そのまま倒れ込み、失神する騒ぎを起こしている。
1990年(平成2年)5月21日、東京地裁で検察側の論告求刑公判が開かれたが、刑事裁判では過去に例を見ないような最大級の厳しい言葉が並んだ。
「本件はわが国の犯罪史上においても希にみる重大かつ凶悪な犯罪」「被告人らの動機には酌量の余地がない」「およそ常識では考えることのできない凌辱の限りを尽くしている」
公判を傍聴したある司法担当記者は「過去のあらゆる刑事裁判の論告で使用された字句をすべて述べたようだ」と感想を漏らしたという。
7月19日、東京地裁はAに懲役17年(求刑・無期懲役)、Bに懲役5〜10年の不定期刑(求刑・懲役13年)、Cに懲役4〜6年の不定期刑(求刑・懲役5〜10年の不定期刑)、Dに懲役3〜4年の不定期刑(求刑・懲役5〜10年の不定期刑)の刑を言い渡したが、検察側は刑が軽過ぎると控訴した。
1991年(平成3年)7月12日、東京高裁はAに懲役20年、Bに懲役5〜10年の不定期刑、Cに懲役5〜9年の不定期刑、Dに懲役5〜7年の不定期刑を言い渡した。判決では「成人に比べてつねに一律に軽い量刑をもって臨めば足りるわけではない」とした。残りのE、F、Gの3人は少年院に収容された。
被告人 | 求刑 | 1審 東京地裁 |
2審 東京高裁 |
A | 無期懲役 | 懲役17年 | 懲役20年 |
B | 懲役13年 | 懲役5〜10年の不定期刑 | 懲役5〜10年の不定期刑 |
C | 懲役5〜10年の不定期刑 | 懲役4〜6年の不定期刑 | 懲役5〜9年の不定期刑 |
D | 懲役5〜10年の不定期刑 | 懲役3〜4年の不定期刑 | 懲役5〜7年の不定期刑 |
加害者の4人の少年の両親は被害者に謝罪を申し入れたが、これを受付けられず、「お墓参りをしたいので、場所を教えて欲しい」という申し出もきっぱりと拒絶された。
Aの母親は家を売って作った5000万円のお金を被害者の遺族に渡している。
Bの父親も少しでも遺族に償えればと、勤めを終えたあと、アルバイトをして賠償用の積み立てを始め、弁護士に口座を管理してもらっていることが明らかにされた。
評論家の赤塚行雄は、この種のような犯罪を通り魔的「狂宴犯罪」と名付け、先駆として、1983年(昭和58年)の「横浜浮浪者襲撃殺人事件」、1988年(昭和63年)の「名古屋アベック殺人事件」、そしてこの「女子高生コンクリ詰め殺人事件」を挙げている。横浜浮浪者襲撃事件の詳細についてはこちら、名古屋アベック殺人事件の詳細についてはこちら
赤塚行雄・・・1930年(昭和5年)、横浜市生まれ。日本大学芸術学部大学院卒。日本大学助教授、ソルボール芸術大学客員教授を経て、評論家として活躍。主な著書・・・『戦後欲望史(転換の七、八〇年代篇)』(講談社文庫/1985) / 『戦後欲望史(黄金の六〇年代篇)』(講談社文庫/1984) / 『戦後欲望史(混乱の四、五〇年代篇)』(講談社文庫/1985) / 『気の構造』(講談社/1974)
2004年(平成16年)7月3日までに、知り合いの男性(当時27歳)を車のトランクに入れて連れ回した上、監禁して殴るけるの暴行を加えてけがを負わせたとして、逮捕監禁致傷の疑いで、埼玉県八潮市のコンピューターオペレーターの神作譲(かみさくじょう/当時33歳)が逮捕されていることが分かったが、この男は、女子高生コンクリ詰め事件の東京高裁控訴審で懲役5〜10年の不定期刑で服役し、その後に出所したBであった。
2005年(平成17年)3月1日、東京地裁は神作譲に対し懲役4年(求刑・懲役7年)を言い渡した。
判決理由で菊池則明裁判長は「更生が期待されながら犯行に及んだことは社会に大きな影響を与えた。前の事件を脅し文句に使っており、真に反省し再出発を図ったか疑問の余地がある」と述べた。一方で「前科が周囲に知れ、更生意欲をそぐことにつながったことも否定できない」とも述べた。判決言い渡し後、菊池裁判長は「責任を果たしたら今度こそ、本当の意味での再出発を期待しています」と説諭した。その後、被告側は東京地裁での判決を不服として控訴した。
5月13日、神作は控訴を取り下げ、懲役4年が確定した。
女子高生コンクリ詰め殺人事件を元に製作された作品に、『女子高生コンクリート詰め殺人事件』(監督・松村克弥/主演・北川悠仁(ゆず)/東京計画[ビデオ安売り王])がある。この作品はレンタルではなくセルビデオだが、製作・販売元の「ビデオ安売り王」が倒産したため、今では入手困難になっている。
同じく、事件をモデルにしたノンフィクション・ノベル 『十七歳、悪の履歴書』(渥美饒兒/作品社/2003)を原作として、『コンクリート』(監督・中村拓/出演・小森未来&高岡蒼佑&・・・)というタイトルで映画化されることが決定し、2004年(平成16年)5月29日から銀座シネパトスで公開される予定だったが、4月27日急きょ公開中止になることが分かった。製作サイドによると、ネット上での誹謗・中傷や劇場への抗議、悪質な嫌がらせ電話などが相次いだためとか。ビデオは予定通り6月に発売する。関係者は「少年犯罪を社会問題として提起し、少年たちの未来に対して警鐘を鳴らすという意図が理解されず、このような状況になり残念」と話している。6月1日、製作委員会は7月3日から1週間、渋谷のシアターのアップリンク・ファクトリーで同作品を公開することを発表した。
参考文献・・・
『かげろうの家』(共同通信社/横川和夫・保坂歩/1990)
『犯罪心理分析マニュアル』(同文書院/古村龍也&雀部俊毅/2000)
『文藝春秋』(2001年新年特別号)
『毎日新聞』(2004年4月17日付/2004年4月28日付/2004年7月4日付/2005年3月1日付/2005年6月8日付)参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『うちの子が、なぜ!−女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社/佐瀬稔/1990)
『女子高生コンクリート詰め殺人事件−彼女のくやしさがかわりますか』(社会評論社/門野晴子/1990)
『密室−女高生監禁殺害・コンクリ詰め事件 幼女連続殺害事件』(森毅&大塚英志&芦沢俊介/春秋社1/1990)関連サイト・・・
News Web Japan → バックナンバー → 「女子高生コンクリ殺人」加害者少年たちのその後
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