2007年10月11日

オーマイニュースの記事『「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」の卑劣さを考える』がネット上の論文をインスパイアしている件について

「おさむちゃんを救う会」はリアル死ぬ死ぬ詐欺だと産経新聞社が誹謗中傷Birth of Blues

http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50452987.html

「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」の卑劣さを考える - OhmyNewsオーマイニュース “市民みんなが記者だ”

http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000001995

「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」の卑劣さを考える
特定のネットワーク上でしか通用しない「真理」音羽 理史(2006-10-05 07:59) 

「死ぬ死ぬ詐欺」に関するスレッド数は10を超える (撮影者:OhmyNews) 重度の心臓病を患った少女、さくらちゃんが海外で心臓移植手術を受けるために、行われている募金活動に対してネット上、主に匿名掲示板「2ちゃんねる」で批判が噴出している。

 匿名の批判者たちは、さくらちゃんの両親がNHK職員で高収入であることなどを理由に、両親たちは自らの資産を使うことなく社会に甘えて募金活動をしているのではないかなどと、糾弾している。

 「死ぬ死ぬ詐欺」というのは、彼らの糾弾のキャッチコピーのようなもので、そのサイトを見たぼくの感想は「馬鹿なんじゃないの?」だった。

 そして、ひたすら下劣な言葉による不快感。さくらちゃんの命がかかっているのに「死」と言う言葉を安易に使い、しかも繰り返すというのは思いやりが無さ過ぎる。なんというか、口にするたびに胸の中で黒いもやもやが広がってくるようで、邪悪とさえ言ってしまいたくなる。はっきり言って、ぼくはそんな言葉を臆面もなくキャッチコピーに使える人たちの神経を疑ってしまう。

 批判者たちの言う根拠も有り体に言ってしまえば、他愛もないものだ。単なるげすの勘繰りに過ぎない。

 「NHKの職員は高収入だろう」と言っても、NHKの職員の給与水準の内情が分かるわけではないから「〜だろう」ということぐらいしか言えない。素人の憶測に過ぎない。

 「はじめから多めに募金を集めて余った金を横領しようとしているのではないか?」と言う批判にいたっては、もっとお粗末だ。心臓移植手術の費用の確実な試算が出来ない限り、必要な募金の目標額も分かるはずがないからだ。

 さらに言えば、「募金に頼らず、両親の資産を使うべきではないのか?」という批判も同様だ。さくらちゃんの治療費は今現在もかかっており、術後も当然費用がいるだろう。が、それがいくらぐらいになるのか、今の段階ではとても分からない。

 つまるところ、批判者たちが分かってることなど何1つないのだ。お粗末極まりない。

 なにが邪悪であるかと言うと、この「祭り」(ネット上の騒動を表すジャーゴン)において募金をしたものなどおそらく1人もいないのに、悪戯みたいな書き込みを続けていることだ。

 いわゆる「2ちゃんねらー」(「2ちゃんねる」のヘビーユーザーを表すジャーゴン)と言うものは本質的にそうである。彼らは集団の力を無邪気に使い、それが自分たちの実力だと自惚れているが、彼ら1人ひとりができることと言えば子供の悪戯みたいなことだけである。彼らは本質的に子供なのだ。

 それにしても、彼らの「検証」というのはお粗末のひと言なのであるが、ネット上に「2ちゃんねるの人たちの検証能力はすごすぎ」という文言が散見され、彼ら自身もそう信じているように見えるのは、いったいなんなんだろうか。

 思うに、それはやはりある種のネット使用者のあいだで「コード」が共有されているというのが大きいのではないか。

 「コード」というのは慣例、規定、符号、暗号などの意味があるが、この場合は、拠って立つ「ことば」である。例えば、彼らが「サヨク」の「国旗」や「国歌」などの単語に対する意味の置き方をあざ笑うとき「サヨクのコード」をあざ笑っているのだ。

 そして、「コード」はカッコ付きのいわゆる「真理」と繋がっているのだ。例えば、「サヨクのコード」において「国旗・国歌」が必ず「軍国主義」に繋がっているように。それは他の立場の人から見れば真実ではないかもしれないが、「サヨクのコード」に拠って立つ人からすればそれは「真理」に見えてしまうのである。

 それにインターネットの特性が絡む。既存のメディアとは違い、誰でも好きなだけ情報を発信できるメディアだと考えると、そこで発信されるのは「自分たち」の生の声、「生きている声」なのだ、と思いがちである。だからそのネガとして、「自分たち」以外の「声」、すなわち「死んだ声」をはなから眉唾物としてみるのである。

 その結果、「自分たちの『コード』で示される情報は『真理』である』という思い込みにつながる。ある特定のネットワーク上から外に出てしまえば矮小でしかない言説が、「コード」の力である種の空間においては「真理」とされてしまう。

 真理であるか、否かの基準が内容にあるのではなく、「コード」にあるのだとしたら、「真理」として示されているのは、ある特定の1つだけの「真理」なのだ。

 そんなふうに、ある特定の、カッコ付きのいわゆる「真理」が常に繰り返して示されることを哲学者のジャック・デリダ再現前(リプレゼント)と名づけた。

 インターネットというのは、そんなふうにコードの専制が顕著な空間である。

 こんな風にある種のコードが横行するのは、OhmyNewsも例外ではない。

 まず、「自分たちの言葉」であるからといって信用する前に、それを疑ってみてほしいのだ。貴方が「自分たちの言葉」を語りだす前に、それを疑ってみてほしいのだ。「自分たちの言葉」が、「生きている声」が、どれくらい卑劣か、まず考えてみてほしい。

仲正昌樹さんインタビュー(1083)

http://www.bund.org/opinion/1083-5.htm


 大きな物語も小さな物語も終わった
大上段から「正義」押しつける左翼な人々
金沢大学助教授 仲正昌樹さんに聞く(上) 
  2002-7-25
  左転回はじめたポスト・モダニスト
救世主に立候補した柄谷行人
マイノリティを代弁するという欺瞞
  (続き)マイノリティ、望んでなったわけじゃない
アイデンティティ・ポリティクスの問題
「一般の人に教える」という傲慢
革命から暫定的改良へ
 


仲正昌樹さん 
左転回はじめたポスト・モダニスト
――近著『ポスト・モダンの左旋回』のテーマから話してください。

(中略)


 はっきり言って日本のポスト・モダニストで、これ以上きちんとした理由を言っている人はいないと思います。これに対して、デリダあたりだと、自分の「左旋回」の理由についてきちんと語っています。その内容は『ポスト・モダンの左旋回』を読んでもらうとして、デリダの話が出たついでに、「エクリチュールによるパロールの支配」というデリダの分析に即して日本のポスト・モダンの左転回を批判していきましょう。
 ――何か難しそうですね。
★ポイントはすごく簡単です。むしろ左翼運動をやってきた人はよく分かると思います。左翼の人々はよく「生きた言葉」という言い方をします。「現場の生の声」とか、新左翼になればなるほど、「生の、生の」といいます。
 しかし「生の言葉」と言っても、生に生きている人間はいろいろなことをしゃべっている。別に「革命の言説」ばかりをしゃべっているわけではない。むしろそれはごく一部でしょう。いわゆる疎外意識を持っていない人でも、そういうつもりで聞けばそういうこともしゃべってくれます。それを聞いた方が「生きた言葉」だと言っているだけのことです。
 左翼の人々に特有の決まったコードがあって、そのコードにあったものだけが「生きた言葉」だと、特定の左翼集団の中だけで再現前化=リプレゼント(represent)される。リプレゼントという言葉は、表象=再現前化とよく訳されますが、「代表」ないし「代弁」と訳しても全然問題ありません。いわゆる代弁主義というのは、まさに代表=表象の問題なんです。
 どんなに「生き生きとした言葉」などと言っても、結局のところ「意味の連関」を与えられていないと、言葉としてまったく生きてこない。そういう文脈の中で自分が生きてきたから、「これは生きている言葉だ」と感じる。それ抜きで「生きている言葉」なんてあり得ません。
 このことは、吉本隆明なんかもちゃんと説いていたはずなんですがね。なんだかそれが、単純に「庶民を知れ」というレベルになってしまうと、余計おかしなことになる。いわゆる庶民なんて、言葉の中にしかいないものです。もし、庶民性とか日常性という言葉が意味をもつとすれば、それは自分が対抗している相手の、庶民性や日常性の欠如を批判するときだけです。そうではない庶民性一般だとか、日常性一般なんていうのは、自己正当化の論理でしかありません。
他者の痛みが本当にわかるか  政治的に言うとそういうことなのですが、もうちょっと抽象的・哲学的に言うと次のようになります。「私がこういうふうに思考している」という事実は絶対に確実な事実である。普通デカルト以降の近代哲学はそこから出発します。
 しかし「自分が考えている」と言っても、そのときの自分の言葉は、やっぱりどこかから与えられた言葉なんです。日本語なり英語なりドイツ語なり、私たちは人からもらった言葉でパターン化して認識し、「私はこう考えている」と考えているわけです。つまり私たちの「自我」は、記号の媒介性を通じて自分自身の中で再現前化されている。
 キリスト教には、「聖書は、死んだ文字ではなくて生きた言葉だ」と繰り返し説いてきた歴史があります。デリダ的に考えれば、「生きた言葉」というのは、実はこうしたキリスト教的伝統からきている。けれども、イエスが語った言葉を知っている人は、原初キリスト教会においてもほとんどいない。死んだ文字=エクリチュールによって再現前化された「生きた言葉」でしかないのです。それを「生きた言葉」と言うことの矛盾は、キリスト教をやっている人間だったら、しみこんでいるはずです。
 キリスト教圏に起源を持つマルクス主義は、そうした矛盾には無自覚なままに「生きた言葉」という言い方だけを継承した。日本のマルクス主義者はおそらくそれを無意識的に輸入したのでしょう。それが今やマルクス主義者ではない人、自分では右翼的だと思っている人間でさえ、「生きた言葉」とかと言い出すようになっている。
 デリダは、そういう意味でエクリチュールの問題にしつこくこだわっています。デリダは、生きた言葉なんてことを語ることがいかに不毛で、場合によっては非常に危険なことをちゃんと知っていました。だから、そう簡単に「生きた言葉」なんて言えなかった。
 ところが日本でデリダを研究してきた人たち、例えば高橋哲哉のような人は、デリダに関する著作の中ではそうしたことをきちんと解説しているにもかかわらず、自分が例えば「従軍慰安婦」問題について発言する段になると、なんかやたらとナイーブになって、素朴に「代弁」してしまう。でもマイノリティの女性たちの言葉をきちんと代弁することなんてできるのか。

(中略)

  なかまさ・まさき
1963年生まれ。1996年東京大学総合文化研究科 地域文化研究専攻博士課程終了。現在、金沢大学法学部助教授。社会思想史・比較文学。著書に『貨幣空間』『〈隠れたる神〉の痕跡』他。 

# インスパイアの許諾は得ているのでしょうか?やっていることは2ちゃんねらーと同じですよ(笑)。

関連エントリ

2ちゃんに出回っているテンプレ:イザ!

http://osakasi.iza.ne.jp/blog/entry/273001/

 

貨幣空間

集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス 1084)



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コメント一覧

1. Posted by kingcurtis    2007年10月11日 22:26
おぉ〜凄げぇ!
改めて恐れ入りましたw
2. Posted by mhlr    2007年10月11日 23:00
でもkingcurtis氏のインスパイアに騙されそうになったのは秘密ですw

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