株式会社 赤福 ◆プロフィール◆
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〜こだわりが伝統を継承する〜
伊勢神宮、おはらい町。ここは、神宮関係の建物、みやげ物屋、旅館、餅屋、酒屋、などが並ぶ、伊勢神宮、内宮の鳥居門前町として発達してきた。
赤福創業は1707年。時は江戸時代。門前町の一角に餅屋として誕生する。
当時、「おかげ参り」と称して伊勢参宮が庶民の間で爆発的に流行した。中でも文政13年(西暦1830年)のおかげ参りは500万人(当時日本の総人口の5分の1)にも達したとされている。
しかし、昭和50年代頃より、モータリゼーションの発達、レジャーの多様化に伴い、内宮参拝後、おはらい町には立ち寄らず、他所へ移動する観光客が増え始め、「日本一滞在時間の短い観光地」と揶揄されるほどの衰退を見せ始めた。
この状況を危惧した(株)赤福は当時の年間売上に匹敵する事業費をかけて、伊勢の再生とおはらい町の活性化のために、動き始めた。その先鋒として、浜田益嗣代表取締役会長(現在)に抜擢されたのが濱田典保氏。活性化のひとつとしておはらい町の一角に設立した「おかげ横丁設立準備室」の総責任者となる。当時28才だった。
− 御社がおかげ横丁を立ち上げた思いはどんなものだったのでしょうか。
今から20数年前、このおはらい町は門前町としての魅力が非常に薄れていました。おそらく今と全然違う様相だったと思います。団体バスで内宮さんの鳥居まで行って、参拝して、目の前のお土産物屋さんにちょっと寄っただけで、直ぐに鳥羽とか志摩へ移動し、宴会に行かれる、というお決まりの観光コースができてしまって、このおはらい町に魅力が少ないために、お客様の滞留がなかったんです。
赤福の本店は、内宮さんから500メートルほどおはらい町の奥に入ったところにあり、明治10年の建物で非常に古く、うちの最も大事な土台なのですが、当時はそこに全然お客様が入りませんでした。内宮さんの宇治橋のたもとに内宮前支店という、うちの直営売店があるのですが、お客様はここが赤福の本店だと思われていたんですね。
父(現・会長)はこういった状況を見て、「これではだめだ!」と。「これではこの町自体が地盤沈下をして、どんどん人の記憶からなくなっていく…」と。「やはり町を活性化せないかん!!」ということを考えていました。うち以外の地元の方々もみんな同じ思いだったんですね。そこで町の活性化に向けて動き始めたのです。もともと伊勢というのは、20年に1度伊勢神宮の建て替えの御遷宮行事に合わせてお客様がたくさん見えますので、自分達で商売をやろうという投資意欲が湧くんです。それをずっと20年サイクルでやるのが、この伊勢のサイクルなんです。だから、変わることにはそれほど抵抗はありませんでした。
その変化の「視点」を自分の商売だけではなく、全体的・総合的な「視点」で、町をみんなで変えていこうという機運が、平成5年の御遷宮の時だったのです。その中の一つとして、赤福本店周辺でお客様をぜひおもてなししたいということで、「おかげ横丁」という赤福独自で展開する町づくりを考えたというのがその背景です。
− まるでプロジェクトXですね(笑)。どのような形でスタートさせたのですか?
最初の準備段階は少ない人数で始めました。でも、いろいろなタイプの人間が集まってくれたんですね。たとえば、松下政経塾でまちづくりをずっと勉強していた伊勢出身の男がいたり、地元のスーパーの店長をやっていた人間とか、あるいはシイタケ農家をやっていて転職で赤福へ入ってきたとか。プロパーの社員以外に、そういう異色な人間達とこのプロジェクトをスタートさせました。
− おもしろいですね。おそらく、普通このようなプロジェクトだと、広告代理店などを選びそうなところを、あえてそういう人を選んだ意思みたいなものはありましたか?
人選自体は、たまたまこのプロジェクトがあって選ばれたと思うのですが、ただ、代理店を使うという発想は、今でもそうですが、うちの会社にはないですね。やはり、外部のブレーンに頼むのであれば、自前でやってしまうというのがうちの発想なんですよね。今もいろいろと新しいこともやっていますけど、どちらかというと、うちの場合は、入社して全員が制服に袖を通し、そこから立ち上げるということをやっていますね。
赤福はずっと赤福餅だけをまじめに作ってきた、ものづくりの会社ですから。それが原点なんですね。
おかげ横丁がうまくいった原因はいろいろありますが、一つには、町づくりを、物を作る視点で考えていますので、単に右から左へ物を売るというのではなくて、自分たちでまず考え、得心いくまで作りこんで、そこからはじめたというのが根底にあります。各お店を開くときも、物を作るという発想が生産者の方もしくは供給者の方と共感できた部分があったと思います。
− なるほど。そうなんですね。ただ、新しいことをはじめると内外からいろいろな反発や不安が起こると思います。社長自身にもプレッシャーがのしかかってきたと思いますが、どのように対処していたのですか?
今から考えると、土地と建物一切含めて100億円を超えるプロジェクトだったんです。あの当時の最盛期の売上に匹敵するだけのプロジェクトですから、本来だったらものすごい責任と重圧がのしかかると思うんですが、あまり感じていなかったですね(笑)。逆に若い分、「自分たちが会社に新しい風を吹き込むんだ。」という、モチベーションのほうが強かったように思います。ただ、赤福がこれだけ社運を賭けてやるということで、これはオープンしたら、絶対に続けなくちゃなりませんから。例えばゴルフ場経営のように、どこかで事業をやったけど結局だめで売却して終わり、借金は残ったけどいい勉強でした、というわけにはいかないんですね。そういう意味では赤福がやるということに対する、経営的な構想というよりも、「赤福の暖簾を汚してはいかん!」という使命感が、僕もそうだし、みんなあったと思います。
− 予測ですが、多分そうやって社長がある意味伸び伸びとできたという背景には、もしかしたら、今の会長のお口添えといいますか、関係がとてもよかったのではと思うのですが。多分世の中の多くの会社は、この関係がとてもぎこちないものが多いのに、そこをすごくうまく乗り切っていたような気がするんですが、会長に対してはそのときどういう思いだったのですか?
毎日喧々諤々でしたけどね(笑)。おそらく、会長は僕の数倍は焦っていたと思います。そもそもスタートしたのがタイミング的に遅かったのですが、6年の間に店舗設計、経営の基本計画を作り、商品の仕入れから人員を新たに250人くらい入れて、採用計画から、教育をどうしていくかとかすべてをやったのですが、僕らは自分たちなりに絵を描きまして淡々とやっていましたが、会長の思っているペースは多分違ったと思うんです。ですから、日々いろいろなやりとりですわ(笑)。
ただ、みんなの思いは、伊勢を愛して伊勢で何かをやりたい、というところで共通していました。伊勢を出て行く人は多いのですが、伊勢に残って伊勢で骨を埋めるというか。そういう僕のこだわり処(ところ)は会長に信頼してもらっていたと思いますね。
今から思うと、この「共通点」がプロジェクトの成功にもつながったと思います。みんな能力もキャリアもさまざまな仲間たちでしたが、この「共通点」はゆるがなかった。
だから動きは各自の強みを生かして個々でやっていたけれど、最終的にはすぐにそれがひとつにまとまったんですね。
例えば、会長は木造建築とか見たりするのが好きで、ライフワークなんですよ。今でも古いお座敷や町並みを見たりするのが好きなんですね。ある日、お店の商品として三重県の美杉というところに、地玉といってこんにゃくを玉にして手で丸めた素朴なこんにゃくがある、これは三重県の郷土の味で健康にもいいだろうと、こっちが地元の商工会の婦人会の皆さんと話している間に、店舗の絵が出来上がってくるんですね。
正直、みんな初めてのことだから、想像がつかないわけですよ。やっている僕らも、きっと会長自身もどんな形になるのか明確なビジョンがあったわけではないと思います。だから、これが必要だという部分をそれぞれが自分の感性と強みに合わせてショットガンのように動き続けたことが、きっと6年という短い時間での完成につながったと思っています。
− なるほど、まさにビジョンではなく使命(ミッション)で動く、という感じなのでしょうね。
そうですね。事業としては絶対に間違いはないと思っていたでしょうね。
今、この時期におはらい町という、赤福にとって一番の心臓部ではあるけれど、ここで事業を興さないといけないという手ごたえは間違いなくありました。だからやることに関して迷いはなかった。
もちろん、内外からの反発というのもたくさんありました。話し合いも何度も持ちましたし。この町の性格はこうで、これによっておはらい町も絶対活気が出るし、自分のこどもたちがここにまた戻ってくる環境ができるということを言ったんですけれど、やはり論理の段階では無理ですよね。僕もかなり悩みました。でも、自分だけで悩んでいたら段階論を取っていたりして、今とは違う形になっていたかもしれません。やはり、会長のバックアップというか、僕が壁にぶつかるたびに会長の中にあるゆるがない「使命」が僕を叱咤してくれたと思います。しかし、もう一度あれをやれといわれても、難しいですよね。あの6年だったからできたと思いますね。
◆株式会社 赤福◆ | |
本店所在地:〒516-0025 三重県伊勢市宇治中之切町26番地 |
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