2007-10-11
■ [軍事]軍隊の余裕と、軍隊の文民統制
はじめに
笠井潔『国家民営化論』一億総ゲリラ戦理論の大穴というid:JSF氏の記事について、本稿では「日本は島国なので海上封鎖されたらお手上げ」
という結論に関して大筋ではその通りであると考えるが、しかしながらその一面的な論述に二つの観点から問題を提起する。
確かに、日本は島国であり、海上封鎖によって容易に干上がってしまうという危険性を有している。しかしながら、その事実は笠井潔の提起する考えを否定するものの、市民軍やゲリラ戦の思想そのものを否定するという意味ではない。そのような観点からJSF氏の議論について再検討をする。
軍隊の厚みの問題
さて、プロフェッショナル・アーミーとマス・アーミーにはそれぞれ有利な点、不利な点がある。プロフェッショナル・アーミーは概ねマス・アーミーよりも練度が高く、戦闘効率が高い。またより高性能な装備を保有、運用することが可能である。マス・アーミーは概ねプロフェッショナル・アーミーより練度が低く、装備も低劣で運用も稚拙である。
しかしながら、マス・アーミーはプロフェッショナル・アーミーに無い利点をいくつか備えている。まず、第一に言えることは数が多いことである。質的には劣勢であるものの、数的に優越する可能性がマス・アーミーの方が高い。第二にはプロフェッショナル・アーミーが本質的に傭兵であり命よりも金を優越させる可能性がある、端的に言えば士気の点で難がある場合も見受けられるのに対して、マス・アーミーは自らの共同体を自らで守るという性質上、概ね士気が高くなる傾向にあるという点である。但し、士気は水物の側面があり、訓練を積んだ兵士の方が恐慌に陥りにくいということも考慮すれば、これに関しては必ずしも言えない場合がある。しかしながら、歴史を顧みれば士気や信頼という意味で言えば共同体の戦士によるマス・アーミーの方がその点では優越してきたと言えるだろう。
さて、ここで軍隊の厚みについて二つの観点から問題が提起されたわけだが、後者の士気の問題については自衛隊が職業軍でありながら、しかし自衛官の多くが善良な市民であるがゆえに、共同体の戦士としての地位にあるものと考えるのでこれは横に置く。そうなると問題は数的な問題になるのだが、この数的な問題は単純にぶつける戦力の数の問題以上に、軍隊の厚み、そして余裕という軍隊の根幹に関わる問題へと大きく関わってくることを考えよう。
さて、軍隊の戦闘力は有限であり戦闘やそれ以外の行動によって損耗する。そして、そうであるがゆえに指揮官は兵力をやりくりして様々な行動を主宰するわけである。これについて、ナポレオンは軍隊の大きな問題として集中と分散を考え、そして現代の指揮官も予備と遊兵の合間で悩んでいる。
つまり、戦闘力は攻撃を受けないように分散しなければならないし、攻撃をするために集中しなければならない、同時に決定的な点*1に投入するべく予備を確保し、同時に戦闘力を経済的に使用するために遊兵化を避けなければならない。さらに、損耗してもシステムを維持するためにシステムを多重化し、余裕を設けなければならない。
クラウゼヴィッツは戦争には摩擦があるということを論じた。時に情報は錯綜し、指揮官は五里霧中になり、部下は独断専行し、命令は上手く届かず、将兵は混乱する。このような摩擦が発生するなかで、これを押える潤滑油とは何か。それは高度な情報システムではない。高度な情報システムは機械的公差の縮小であって潤滑油ではない。この軍隊というシステムの潤滑油は人的、物的、精神的余裕である。機械的公差が縮小しシステムが繊細になればなるほど潤滑油の重要性は増していくことも考えなければならないだろう。
つまり、戦争という特殊な状況下で行動しなければならない軍隊には絶対的に余裕が必要である。経済的で効率的な軍隊は大いに結構である。また現代の先進国の間では金銭的、人的コストの高騰によって効率的にせざるを得ない部分もあるだろう。しかしながら、それでも過度のコスト削減、効率化というのは軍隊にとってその余裕を奪う諸刃の剣でもある。そして、プロフェッショナル化を目指す軍隊はこの罠に陥りやすい。
教師はどうやって育っていくか(命を絶った新任女性教諭のニュースを読んで)というエントリでも触れられていたが、昨今の学校教育を取り巻く問題の一部にも仕事量の増加と人員の削減による必要に迫られた高効率化、そしてそれによる「余裕」の喪失という問題が見え隠れする。今の社会においては民営化、規制緩和のかけ声によって多くの場所で効率化が求められているというのもあるだろう。しかし、本稿での議論の通り、その結果はシステムの余裕がなくなり、ちょっとしたことでシステムが機能停止してしまうという事態が多発している。
軍隊は特殊なシステムであり、自己完結性が求められ、そして戦争という異常事態の下でシステムを維持し運営しなければならない。内部の人間が死傷し装備品が意図的に破壊されることが当然のシステムにおいて余裕がないということは、破滅を意味する。現代のプロフェッショナル・アーミー化は効率的で強くなったように見える反面、そのような脆弱性を孕んでしまっているように私は思えてならない。こと軍事に関しては抗堪性というものを重視しなければならないだろう。
主体的文民統制の問題
第二の問題として考えられるのが主体的文民統制としての問題である。一般にマス・アーミーは主体的文民統制にとって有利である。ハンチントンに言わせると文民統制は文民の軍隊への影響力を最小化し軍隊をプロフェッショナル化させ政治への影響力を排す客体的文民統制と文民の軍隊への影響力を最大化し積極的に従わせる主体的文民統制という二つの文民統制がある。ハンチントンはドイツ参謀本部を意識し、客体的文民統制を優位に置いたが、第一次世界大戦を見れば分かるように、客観的文民統制は軍隊の理屈*2による暴走という事態を惹き起こしかねない。
さて、ハンチントンの議論は横に置いて主体的文民統制の観点からマス・アーミーを評価すれば市民=軍隊であるということは、それ自身によって文民(=市民)の意志からは外れにくくなるということが容易に想像される*3。
軍隊の意義というものは、本質的には主権の担保である。また、国家というものはウェーバーの言う通り合法的に暴力の独占を求める集団である。そして、その主権、暴力の源泉は国民一人一人に根ざしており、であればこそ、本質的に民主主義の軍隊は市民軍であることが要求され、プロフェッショナル・アーミーというものは、それの経済、社会的な特殊事情に基づく代替手段に過ぎないはずである。
もちろん、現代の自衛隊が市民から遊離しているとは私も思わない。多くの自衛官は北朝鮮の問題よりも人事院勧告の方を重要視しているし、自分の家族や地域、仲間を愛し、酒を好み、バカな話ばかりしている。しかし、プロフェッショナル化の名の下にギリギリと締めつけることはこういう自衛隊の普通さを失わせないかと心配でもある。
おわりに
確かに、今の日本で徴兵制を敷くことは経済的、社会的事情が許さないだろう。また、予算厳しい折でもあり、自衛隊も野放図に定員を増やすことも出来ないだろう。しかしながら、それでもプロフェッショナル化の弊害について考えることは必要であろうし、また古代より続く市民軍の理想は民主主義国家としての根幹を為すものであり、これについては無視をしてはならないと私は考える。
そして、JSF氏も指摘した通り、ゲリラ戦は市民に大きな損害を発生させるものの、本質的に自らの意志で防衛をし応戦すると決断した市民社会はその多少はあれど損害を覚悟せざるをえなく、その点で多くの人に当事者意識を有してほしいと切に願うところではある。
最後になるが、ゲリラ戦そのものの例えば毛沢東の作戦理論等は現代のRMAの観点から見れば様々な可能性を有しているであろうことを指摘したい。これについては、現在、論文を執筆しているのでそのうち公開したいと思う。
nameless 『ふつープロフェッショナルアーミーは自国民で構成されてて,で自分の共同体の為に戦うってものじゃなかろーかと思う私は間違ってますか?』