強姦(ごうかん)などの容疑で逮捕された柳原浩さん(40)が服役後、無実と分かった富山県警による冤罪(えんざい)事件は10日、富山地裁高岡支部であった再審の判決公判で無罪が言い渡され、法的には一つの決着がついた。だが、冤罪事件は後を絶たず、密室で長時間行われる強圧的な取り調べや、それによって得られた供述調書を事実認定する上で重要視する裁判など、欠陥のある日本の刑事司法の改革が急がれる。冤罪防止策の一つとして注目される取り調べの録画・録音(可視化)を巡る動きや関係者の反応を探った。【阿部浩之、江田将宏】
◇自白強要の密室
被告12人全員が無罪となった鹿児島県議選の選挙違反事件。同県志布志市のホテル経営、川畑幸夫さん(61)は03年4月、県警志布志署の取調室で任意の、しかし、常軌を逸した取り調べを受けた。
何度も机を激しくたたき、大声を出す捜査員に長時間、「自白」を迫られ続け、「早く正直なじいちゃんになってください」などと家族のメッセージに見立てた言葉を書いた紙を無理やり踏まされた。
川畑さんは「狭い密室で大声を出され、家族のことで揺さぶられれば、無実でも誰もが罪を認めてしまう」と振り返る。事件後は、講演などで体験を語り、「任意のものも含め、警察の取り調べ段階から可視化しないと冤罪は防げん。あんな捜査を許しちゃいかん」と訴えている。
日本弁護士連合会(日弁連)は10日の無罪判決後、「取り調べの全過程の可視化をし、これを欠くときは、証拠能力を否定する旨を定めた法律を直ちに整備することを求めて全力で取り組む」とのコメントを出した。民主党も、今国会で参院に全過程の可視化を盛り込んだ刑事訴訟法の一部改正案を提出する方針で、可視化実現の機運は高まってきている。
◇捜査当局の抵抗
検察庁は06年7月、一部の地検で取り調べの録画・録音を試験的に始め、今年9月末までに75件実施している。
しかし、検察の試行の目的は、「取り調べの可視化」ではなく、「裁判員に自白の任意性を分かりやすく立証する方法を検討するため」だ。対象事件や録画・録音の範囲も検察官が「必要」と判断したものに限っている。
警察は「取り調べの可視化は自白率や検挙率を低下させ、治安悪化につながる」などとして、可視化にさらに否定的だ。複数の県警刑事部幹部は「供述が記録されれば、容疑者が心情を吐露しにくくなる。組織犯罪では、自らが話したことを組織に知られることを嫌がって真実を話さなくなる。自身や家族の身の安全が脅かされる可能性もある」と口をそろえる。
◇他の改革も必要
捜査当局の主張に対し、可視化を巡る問題に詳しい龍谷大の中川孝博教授(刑事法)は「検察は都合のいいところだけを証拠提出し、自白の任意性立証を迅速に済ませる狙いがある。今のやり方は、むしろ誤判の原因になる」と指摘する。
また、日弁連取調べ可視化実現本部副部長の小坂井久弁護士(大阪弁護士会)は「可視化導入済みの欧米先進国や香港、台湾などでは問題とならず、むしろ、裁判でいたずらに違法な取り調べを受けたと弁護側が主張しなくなったと好評だ」と反論。「導入は一律でなくてもいい。まずは少年や知的障害者、外国人の取り調べから段階的に始めてもいい」と語る。
一方、取り調べの録画・録音だけで冤罪防止を含む刑事司法改革がなるわけではない。中川教授は「日弁連が言う可視化は、密室捜査を防ぐのに一定の効果はある。だが、その実現ばかりを求めると、警察の留置場を拘置所代わりに使用する代用監獄など、他の重大な問題を覆い隠し、むしろ固定化してしまう弊害がある」と、改革を巡る議論が可視化偏重となることを危ぶむ。
また、甲南大法科大学院の渡辺修教授(刑事訴訟法)は「日本では、長時間、長期間の取り調べが密室で行われる。冤罪防止には、イギリスで行われているように、黙秘権行使など法的助言や捜査が適正かどうか監視ができる弁護人の立ち会いが、録画・録音とセットで実現されなければ不十分だ」として、総合的な改革の必要性を訴えた。
■視点
◇司法の罪、裁かれず
県警取調官の証人尋問は実現せず、捜査手法の実態解明ができないまま再審の幕が下りた。柳原さんは国賠訴訟を起こす方針で、舞台は民事に移る。しかし刑事裁判で起きた誤りは、刑事裁判で究明して正すべきではなかったのか。
柳原さんが求めたのは単なる無罪判決ではなく、真相の究明だった。弁護団は2度にわたって取調官の証人尋問を求めたが、いずれも却下され、傍聴席は大きくどよめいた。藤田裁判長は「再審は有罪無罪を決める場に過ぎず、尋問は必要ない」と述べたが、再審は判例自体が少なく、裁判長の訴訟指揮による部分が大きい。司法の限界を決めてしまったのは裁判官自身と言える。
再発防止に欠かせない捜査手法の解明は、冤罪を生んだ捜査当局、そして司法に課せられた「義務」だった。だが再審判決は無実の被告を監獄に送った警察・検察の捜査のあり方、裁判所が犯した誤審について一言も触れていない。柳原さんの願いと世論の期待を裏切り、責任を果たさなかった裁判所の責任は重い。【茶谷亮】
毎日新聞 2007年10月11日 大阪朝刊