2007年09月11日 (火)視点・論点 「ギュル新大統領と今後のトルコ」

一橋大学教授 内藤 正典

 8月28日、トルコの第11代大統領に、アブドゥッラー・ギュル元外相兼副首相が就任しました。
誰がトルコの大統領になるかが、そんなに重要な事件なのかと思われるかもしれません。
 トルコという国、国民の99%はイスラーム教徒です。
今の世界を見てみますと、イスラーム圏のいたるところで、紛争が起きています。
イラクでは、毎日のようにスンニー派とシーア派というイスラーム教徒どうしが殺戮を繰り返しています。
パキスタンでも、イスラーム神学校に過激な学生たちが立てこもり、政府軍と衝突しました。
アフガニスタンでもタリバンによる韓国人拉致事件がありました。
イスラーム教徒の国々で、なぜこのような衝突やテロが起きるのでしょうか。

 直接の原因は、これらの国の政府が、過激なイスラーム組織の暴走を止められないことにあります。政治や経済に不満のある民衆は、イスラームの教えに従って政治をしないから格差が広がったり、民意が反映されないのだと考えます。
とくに、イスラームの国だと名乗っていながら、政治にイスラーム的な道徳が反映されないのでは、民衆の怒りを止めることはできません。
 イスラームという宗教、私たちが考える宗教観とは大きく違う点があります。
私たちは、宗教というと、心のなかにあるもの、人の生き方に指針を示すものと考えますが、イスラームでは、個人だけでなく、社会や国もまた、イスラームの道徳にしたがって、行動しなければならないと考えるのです。
イスラームでは、弱者の救済を重視します。ですから、国内に格差が広がったり、権力者が金儲けに走ったりすると、民衆は、「イスラーム的な公正に反する」と考えて、政権に反発します。
それが激しくなると、紛争やテロに発展します。
イスラーム圏には、神を否定する社会主義や共産主義は根付かないので、不満はイスラーム組織が吸収し、反政府運動へと発展していくのです。
 ところが、トルコという国は、イスラーム圏のなかにあって、唯一、憲法で厳格に国家と宗教を切り離しています。
つまり、イスラーム国家ではありません。
日本でいう政教分離が徹底していて、イスラームを政治に持ち込むことは禁止されています。
そればかりか、イスラーム教徒の女性がかぶるスカーフやヴェールでさえ、学校、議会などの国の機関で被ることを禁止してきました。
これが、トルコ独自の世俗主義です。
 ヨーロッパとの戦いで独立を勝ち取った建国の父、アタテュルクは、西洋化による近代化しか、トルコを発展させる道はないと確信しました。
世俗主義の原則も、フランスをモデルにしたものです。
独立戦争の主役であった軍は、いまもアタテュルクの世俗主義を断固として守ろうとします。
 しかし、建国後80年以上たって、経済や社会的格差に不満をもつ人たちが、再びイスラームに傾斜していきました。
90年代には、たいへんイスラーム色の強い政党が一時政権をとりましたが、軍が介入して首相を退陣に追い込みました。
しかしその後も2002年と、今年の7月に行われた総選挙で、より穏健化したイスラーム政党の公正・発展党が圧勝しました。
経済格差の大きいトルコでは、民主化が進むにつれて、どうしても、イスラーム政党が勝利してしまうのです。
 そして、議会は、外相だったアブドゥッラー・ギュル氏を新大統領に選びました。
ギュル大統領は、元々、90年代に解散させられたイスラーム政党でも閣僚をつとめているイスラーム主義者の政治家です。
表向きはソフトで親しみやすい人物ですが、政治家としてきわめて有能で、疑いの目を向けている軍部にも、決して、あからさまに敵対しません。
外相として、EU加盟交渉の先頭に立ち、EU諸国が、理不尽な要求をつきつけても、冷静、かつ論理的に反論してきました。欧米諸国からも、その手腕は高く評価されています。
ですから、欧米のメディアも、ギュル大統領の誕生を、穏健なイスラーム主義と民主主義を両立させた選択として歓迎しました。
 しかし、イスラーム主義者の彼が、なぜEU加盟交渉に積極的だったのかを、よく考えてみなければなりません。
そこには、公正・発展党の、周到な戦略があります。
一言で言えば、世俗主義に目を光らせている軍部の干渉を避けるためです。
EU加盟国のなかで、厳格な世俗主義をとっているのは、実はフランスだけで、あとの国は、意外なくらい、政教分離にはゆるやかなのです。
もちろん、キリスト教会が直接、政治に介入することはありませんが、たとえばドイツやオランダには「キリスト教政党」がありますし、公教育の場で宗教教育をすることもできます。
 EUに加盟できれば、政教分離を多少ゆるめて、もっと自由に、イスラームを、おおやけの場に登場させることができます。
しかも、EUは、軍に対する文民統制(シビリアンコントロール)を厳しく監視していますから、トルコ軍は、政治に干渉できなくなります。
つまり、EUに加盟したほうが、イスラームを政治に反映できることを、ギュル大統領は、よく理解しているのです。
 トルコの大統領は、軍の最高司令官にあたります。
イスラームが政治に出てくることを強く批判し続けてきた軍は、ギュル新大統領の動向を警戒しています。
今年4月、参謀本部は、ウエブサイト上に出した声明で「言葉ではなく、信念で」世俗主義を守らなければならないと訴えました。
建国以来の国家の大原則が、皮肉にも民主的な選挙の結果、崩れていくことを深く懸念したものです。
就任直後、大統領官邸のホームページには、ギュル夫妻の写真が掲載されました。
夫人は、髪だけでなく喉元も完全に覆い隠すイスラームの教えに従った服装です。
歴代大統領夫人が、スカーフをつけない洋服姿であったことと対照的です。
夫人は、スカーフを取ることを拒んだため、大学教育を受けられなかったとして、欧州人権裁判所に提訴したことがあり、いわば、世俗主義に公然と抵抗した過去をもっています。
さらに、夫妻の背景には、モスクの写真が写っています。ギュル大統領は、国家元首として、初めて、敬虔なイスラーム教徒であることを明示したのです。
7月の総選挙で、世俗主義の支持を訴えた政党は敗北しました。
国民は、世俗主義の堅持というイデオロギー的な論争よりも、与党の公正発展党が示した成長路線の経済政策を支持したのです。
したがって、国民の多くがイスラーム化路線を支持したとは、まだ言えません。
与党側は、社会や経済の自由化と民主化を強く打ち出しています。
そのなかには、一連の憲法改正によって、国家と宗教の厳格な分離というトルコ独特の世俗主義を緩めていくことが、暗に含まれています。
これまで、自由に身に着けることができなかったスカーフを、おおやけの場で着用できるようにすることも、その一つです。ギュル大統領夫人のスカーフ姿のポートレートには、この点で象徴的な意味があります。
今後、トルコでは、世俗主義を死守しようとする軍部と、自由化の名の下にゆっくりとイスラーム化を進める政府との緊張が高まることは避けられません。
ただ、世界中でイスラームを掲げた衝突や暴力が繰り返されている今、国家と宗教との境を曖昧にしていくことが、果たして民主化と安定をもたらすのかどうか―私は、欧米諸国のように楽観してはいません。
逆に、緊張した関係のなかで、やはり政教分離の原則を守っていくことが、結果として、混迷する中東のなかでのトルコの存在を、大きなものにしていくと考えています。
名実共にヨーロッパとイスラーム圏との接点にあたるトルコにとって、ギュル大統領就任による、世俗主義と民主主義の葛藤は、大きな試練と言えるでしょう。

投稿者:管理人 | 投稿時間:23:00

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