PlayStation.com(Japan)
ID登録/変更ログインログアウトサイト内検索
PLAYSTATION 3PSP「プレイステーション・ポータブル」PlayStation 2SCEJソフトウェアショッピングサポートPS World
ムービーチャンネル広告・イベント情報VOICE!諸兄、ゲームやろうぜ!はじめてのPSPはじめてのPS2クリエイターインタビュー
ホームページ
常にアンテナを立てて情報を収集し、その面白さをあらゆる人に伝えていきたい。 辻本良三
個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。第8弾のゲストは、PSP®の最新大ヒット作『モンスターハンターポータブル 2nd』プロデューサーのカプコン・辻本良三さん。子供のころから、友達と一緒に楽しめるゲーム、人とコミュニケーションすることが大好きだったという辻本さんが過ごした少年時代から、カプコンに入社してゲームプランナー〜プロデューサーになるまでの半生を語る。
取材・文/阿部美香(ライター)
Profile
辻本良三(つじもと りょうぞう)
1973年10月18日生まれ。大阪府・羽曳野市出身。幼年時代からをずっと大阪で過ごし、近畿大学商経学部商学科を卒業後、1996年、カプコン入社。プランナーとしてアーケードゲーム開発に携わり、その後、コンシューマタイトルの開発を担当。PS®ネットワークゲームの先駆けとなった『アウトモデリスタ』ほかのネットワーク部分のプランニング担当を経て、『モンスターハンターポータブル 2nd』でプロデューサーデビュー。現在もプロデューサーとして、PLAYSTATION®3でのシリーズ最新作『モンスターハンター3(仮)』を鋭意開発中。
Q&A
Q 音楽でも映画でも食べ物でも、好きなものを教えてください。
A サッカー
m-flo
沖縄
お酒
北斗の拳
ウイイレ
Q 尊敬する人は誰ですか?また、その理由も教えてください。
A アントニオ猪木
自分の想像を超えた発想力があるから(笑)
Q 今、一番楽しみにしていることは何ですか?
A 子供の成長
Q 今、一番欲しいものは何ですか?
A 最新型ノートパソコン
Q 最近感動したことは何ですか?
A 「モンスターハンターポータブル2nd」が無事に発売されたこと。
Q 時間が出来たらやりたいことは何ですか?
A ゆっくり沖縄に旅行に行きたい。
Q 座右の銘または好きな言葉はありますか?
A 元気があれば何でもできる!
Q もしゲームクリエイターになっていなかったら、どんな職業に就いていたと思いますか?
A 玩具開発
Q 生まれ変わってもゲームクリエイターになりたいですか?
A なりたいです。
Q 今まで手がけたゲームの中でいちばん印象に残ったタイトルは何ですか? また、その理由も教えてください。
A 「アウトモデリスタ」
初めて本格的に関わったネットワークタイトルで、製作以外の運営面でも かなり勉強になったから
辻本良三氏の軌跡
小学校時代
野球とゲームの日々
中学校時代
野球部で厳しい練習の毎日
高校時代
球場でのアルバイト
対戦ゲームにハマる
大学時代
草サッカーチーム結成・市の大会で優勝
3Dゲームに衝撃を受ける
1996年
カプコン入社
2002年
『auto modellista』発売
2007年
『モンスターハンターポータブル 2nd』発売
ショッピング
ジャケット
モンスターハンターポータブル 2nd
【ゲーム特集】
モンスターハンターポータブル 2nd
公式サイト
公式サイトはこちら!
(c)CAPCOM CO., LTD. 2007 ALL RIGHTS RESERVED.

昼は野球、夜はゲームで過ごした小学生時代

photo  辻本良三さんの小学生時代の記憶は、野球とゲームの記憶でもある。学校が終わると、スポーツが大好きな辻本さんは友人を集めて、バットとボールを手にして走りまわっていたという。そんな活発な少年だった辻本さんは、小学5年生のとき、本格的な少年野球チームに入部する。キッカケはスカウトだった。

「少年野球に入ったキッカケは……今から思うとおかしな話なんですよ。あるとき、公園で友達と野球をしてたら、フラッとやってきたおっさんが“キミたち、野球チームに入らないか?”って言うんですよね。“とりあえず今週末に練習しに来ないか?”って。まぁ、よくいえばスカウトですね(笑)。そして友達と“それじゃあ、ちょっと行ってみよか”と週末に出掛けたら、そのおっさんにいきなり帽子を被らされて、“帽子、持って帰ってええよ”と言われて。つまり、行ったとたんに入部が決まっていたという乱暴な話で。まぁ野球は大好きでしたから、なんとなく、何も考えずにそのまま入部してしまいました」

 ふとした拍子に入部してしまった少年野球チームだが、辻本さんは毎週末、真面目に練習に通っていた。「日曜日は必ず野球でつぶれてしまうんで、たまに“雨降れ、雨降れ”と祈ってみたり(笑)」はしたものの、楽しい野球生活を送っていたという。

「もともと野球は大好きでしたんで、楽しく続けてましたよ。腕前のほうもそこそこで……打順は3番。ただし、かなり波のある3番でした。打つときはやけに打つけど、打たないときはさっぱりで。僕、フォームを変えるのが好きな子だったんですよ(笑)。とりあえず、興味があったらやってみるというのがポリシーなんで。プロ野球選手で興味のある選手がいたら、その人の特徴をポイントで取り入れてしまうんですよ。足の運びとか。要は、何か興味を持ったことを分析するのが、子供のころから好きなんですね。ただ、その分析が当たってるかどうかは別問題。常に当たってるんだったら、波のある3番ではなかったでしょう(笑)。ただ、大失敗したこともない。なんとなく上手いこといってたみたいですね」

photo  大阪在住の野球好きなら、やはり阪神タイガースのファンなのかと思いきや?

「いや、僕は違いましたね。当時、好きなプロ野球チームは巨人でした(笑)。基本的に僕、ミーハーなんで。原、クロマティが活躍してた時代ですね。そういえば、クロマティのフォームも真似ようとしましたけど……日本人にはあれは無理でした(笑)。大阪人らしく阪神ファンになったのは、大人になってからですよ。意外に、僕の子供時代は、まわりに熱狂的な阪神ファンは少なかったんです。僕の住んでた羽曳野市からは藤井寺球場が近かったですから、近鉄ファンのほうが多かった。だから僕も、セ・リーグだったら巨人、パ・リーグだったら近鉄が好きでした」

 週末は野球に精を出す一方、平日の辻本少年を夢中にさせていたのは、当時一大ブームを巻き起こしていたテレビゲームだった。小学生らしく、放課後は友達を集めてファミコンとアーケードゲームを遊び、夜は夜で、両親に軽く文句を言われながらも、自宅でゲームに熱中した。

「平日は、放課後は友達や自分の家で『ファミスタ』や『マリオブラザーズ』をやったり、駄菓子屋の店先で『魔界村』や『ハイパーオリンピック』などで遊んで、夜は自分の家で『ドラクエ』とかのRPGやアドベンチャーのようなコツコツ遊ぶゲームをやる、というのが僕のスタイルでした(笑)。基本的には、人と協力したり対戦したりするゲームが大好き。その好みは、今の仕事にも深く繋がってますね。家でゲームをやってると、母親からはちょっとブツブツ言われましたけど、なんだかんだいいながらもゲームを取り上げられることはなかった。わりと理解のある家庭やったと思います」

 ずいぶんと伸び伸びとした小学生時代を過ごした辻本さんだが、その理由は彼が男3人兄弟の末っ子だったことも関係しているのかも知れない。

「兄貴がふたりいるんですけど、けっこう年が離れてるんですよ。一緒にゲームで遊んだという思い出はあまりないですけど、よくガンプラをつくってもらった記憶はありますね。でも、兄貴もそれなりに忙しいんで、すぐにできるわけじゃないんですよ。ときどき、部屋に置いてあるガンプラの箱を開けてのぞいてみると、足だけできてたりとか。それを見ながら、僕は“よしよし、もうちょっとやな”って(笑)。2番目の兄貴とは6歳、いちばん上の兄貴とは9歳離れてますんで、兄貴というよりは、親戚のお兄ちゃんって感じでしたよ。向こうもそういう感覚だったんじゃないですかね。なにより、子供ができないことをやってくれる人が身近にいる、というのは得でしたね(笑)」

厳しい部活でボロボロになった中学生時代

photo  中学に進学した辻本さんは、少年野球を卒業し、中学の野球部に入部する。だが、そこでの練習は独特のカリキュラムで行なわれ、とても厳しいものだった。

「これが、ものすごく厳しい部で、毎日練習するのが当然、という。全く遊んでるヒマはなかったです。時間に余裕ができたのは、卒業直前。部活を引退してからでしたね。だから、中学時代の思い出といっても、全部野球部の思い出になってしまうんですよ。練習の仕方も独特でしたね、うちの野球部は。まず、いわゆるシーズンオフになる秋から春までは、ボールを一切触らず、体力づくりしかやらないんです。その時期は、1日にマラソンランナーくらいの距離を走ってましたね。もちろん毎日。あとは筋トレばっかり。ちゃんと野球の練習ができるのは、1年の半分だけなんですよ。春になると、やっとボールが握れて、実践的なトレーニングをさせてもらえるんです」

 そんな厳しい練習メニューを毎日こなしていたのだから、部の実力のほうもさぞかし?

「……と思うでしょ?それが違うんですよ(笑)。まるで、すごい強豪チームのような練習メニューなんですけど、今から思うと、そんなに強くはなかった。つまりは、その練習方法が間違ってたってことなんですけどね(笑)。成績はせいぜい、市の大会の3回戦どまり。大会って勝ちあがり方式なんで、そこで負けるともうガッカリなんですよ。次の日から、またあの厳しい筋トレが始まってしまうかと思って、負けるのが怖かったですね。先輩後輩の上下関係も厳しかったですよ。僕自身は、わりとのらりくらりしてたので、あんまり辛い思いはしないで済みましたけど。それより監督が怖かった。常にバットを持ち歩いてて、何かあったら“ちょっと来い!”と呼ばれて、バシッと」

 今ならPTAが黙っていないような厳しい部活動を体験した辻本さん。傍目には、さぞかし辛い毎日だったように思えるが。

「いや、そんなこともないですよ。今から思えばいい経験だったと思いますね。先生や先輩に対する礼儀も身につきましたし、そういうなかでどう自分が振舞っていったらいいかの社会勉強ができた。若いうちは、やっぱり一度は体育会でもまれるといいんじゃないかと思いますね。ただ、その当時はね……やっぱり文化系の部活の様子を横目で見て、うらやましいと思ってましたね。坊主頭で何十キロも汗流して走りながら、“ええなぁ、楽しそうやなぁ”“あぁ、俺らは今日もグラブ使わんかったなぁ”って(笑)。おかげで、長距離を走るのは大嫌いになりました」

 練習を終えるとクタクタになって家にたどり着く日々だというのに、やはり家に帰ればゲームに熱中。自宅ではRPGとスポーツゲームで気分転換をし、たまの休日には友達を誘って、ゲームセンターにも通った。

「打ち込んだゲームといえば、ゲームセンターのコインゲーム(笑)。それは単純にコストパフォーマンスの問題で、少ない100円玉で長時間遊べるというのが魅力でした。ルーレット、ポーカー、競馬ゲームなんかをよくやりましたね。コインゲームは、当たりの分析をするのがまた面白いんですよ。ルーレットのゲームだと、4のあとは10が出やすいとか、10のあとは2が続くとか。それが本当かどうかはわからないんですけど、自分がプレイした結果を分析して試して、友達に伝えていくのが楽しいんですよ。数学も得意でしたし。だいたい、僕のゲームの傾向ってそうなんですよね。自分ひとりで楽しむんじゃなくて、自分が体験した面白さを人に伝達することが好きなんです」

 そして、中学3年の秋になり、部活を引退すると?

「ほんの数ヶ月間ですけど、坊主頭をやめて髪の毛を伸ばして、やっと中学生活を満喫できるようになりました。友達とカラオケをしにいったり、女の子にアプローチを始めたり。それまで好きだった女の子についに告白もしました。一度告白したときは断られたんですけど、そのあとすぐに彼女から電話が掛かってきて、付き合ってもいいと返事をもらいましてね。今でもそのときのことは、よく覚えてますよ。振られたと思って落ち込みながら、家でアニメの『はじめ人間ギャートルズ』を観てたら電話が来たんです。そのときはうれしかったですね。結局、付き合いは1ヵ月くらいで終わっちゃったんですけどね(笑)」

自分のために時間を使うと誓った高校時代

photo  そして高校に進学。野球に明け暮れた中学生活を反省(?)した辻本さんは、高校進学を機に、これからの3年間は、自分自身の楽しみのために時間を使おうと決意する。

「高校は、家から数駅先にある私立の男子校に進学しました。あまり高望みもせず(笑)。さすがに野球部は懲りてましたから、部活にも入らず。むしろ、絶対に部活なんかやらないと思ってたくらいですよ(笑)。中学であまりにも野球に染まってしまっていたので、高校くらいは放課後は自分の時間として使おうと思ったんです」

 高校時代は、「まったく普通に過ごしましたね。勉強に、アルバイトに、遊びに、ゲームという感じで」と辻本さんは言う。なかでも思い出に残っているのは、野球場でのアルバイト経験だったとか。

「やっぱり野球に縁があったのか、うちの近所の藤井寺球場で、焼きそば売りのアルバイトをしました。バイト料は日当プラス歩合制なので、焼きそばを売った数でその日の稼ぎがで決まってしまうんですよ。だから、どうやったら効率よく稼げるかを考えるのも面白かったですね。といっても、藤井寺は近鉄のホームグラウンドなんで、そんなにお客さんがたくさん入ることはない(笑)。東京ドームや甲子園なんかの人気球場のバイトとは違って、試合もけっこうじっくり楽しめました。ただ、ちょうど僕がバイトしてた年にパ・リーグ優勝が決まったりして、そうなると、ずいぶんとお客さんも増えて忙しくなる。僕らは、優勝が決まるまでの試合をずっと見てきてますから、優勝のときの感動はひとしおでしたね。よう頑張ったな、近鉄と。あれは、今でもいい思い出です」

 そしてもちろん、ゲームの思い出も。

「ゲームのほうは、友達が持っていたのもありメガドライブ系をよく遊んでました。友達とは相変わらず、対戦ゲームや協力ゲームがメインで。対戦だと勝ちにこだわるタイプだったので、『ストII』の待ちプレイ、ケズリなんかも得意でね(笑)。ヤなヤツですよねぇ。ほかにハマっていたのは『スーパーモナコGP』。ゲーム雑誌を熟読して、裏技を探したりするのも好きでしたね。人の知らない情報を仕入れて、友達に教えて自慢してました」

 これだけゲームをよく遊んでいたと聞くと、かなりマニアックなゲームファンであってもおかしくないのだが、辻本さんいわく「僕も友達も、ものすごく健全なゲームユーザー」だったとか。

「僕のゲーム友達は、みんないたってライトめなユーザーで、遊び方もとても一般的でした。コアだったり、マニアックにゲームに接するタイプの人間がいなかったこともあり、僕自身もゲーム好きではありましたけど、ゲームに対してはいたってストレートに接してました。すごい友達もいましたよ。世の中にDVDが普及し出したころになっても、DVDが何なのかを全然知らないヤツ(笑)。でも今思えば、ゲームというものはそういう、極端なライトユーザーでもシステムを理解できなきゃいけない遊びじゃないですか。そういう友達に囲まれていた経験があるからこそ、ゲームは、万人にわかりやすいものじゃないといけない、と思うようになっていったんです」

思い立ったらすぐ実行! を実践した大学時代

photo  いたってふつうの高校生活を満喫した辻本さんは、大学に進学。進学先は、地元大阪の近畿大学商経学部商学科だった。大学をキッカケに地元を離れることも少しだけは考えたという辻本さんではあったが、やはり住み慣れた大阪がいちばんと、実家からもほど近い学校を選んだ。

「あの学校を選んだのは、商学っていったい何を勉強するのか、すごく興味があったからなんですよ。マーケティングの勉強なんて、高校までの勉強には一切関係のないジャンルなので、どんな話が聞けるんだろうと楽しみで。あと、実家は大阪の南側なので、大阪のどこの大学も遠いんですよ。そのなかでは、近畿大学がいちばん通いやすかった。30分くらいで行けましたからね」

 大学時代の辻本さんを熱狂させたのは、当時、発足したJリーグ。少年時代は野球に熱狂していた辻本さんは、それまであまり興味のなかったサッカーの面白さに取り付かれた。

「なんせ、根がミーハーなもんですから、すっかりサッカーファンになってしまいまして(笑)。もともとスポーツをするのが好きだし、何かを好きになると自分でもすぐに行動に結び付けたくなるタイプなので、それまで全然サッカー経験はなかったのに、大学の友達と草サッカーチームをつくりまして、市の大会で優勝するという輝かしい成績を残しました(笑)。週末はとにかくサッカー。チームの練習がないときは、ひとりでグランドに行ってボール蹴りをしてました(笑)。それも、やっぱり僕の生来の嗜好に関係があって。人と一緒にチームプレイをするのが楽しいし、相手の戦力を分析して戦略を立てる面白さがたまらないんですよ、サッカーは」

 好きになったから、すぐにサッカーチームを結成したというエピソードでもわかるように、辻本さんは思い立ったらすぐに行動に移さないと気が済まないのだという。あるときは……?

「東京の蕎麦つゆが本当に黒いかどうかを、実際に確かめに行きましたね(笑)。友達と“東京の蕎麦の出汁は黒いんやで”“いや、そんなことないやろ”なんて話しているうちに、“だったら今から行って確かめてこようや”という流れになってしまい。ヒマそうな友達に電話して人を集めて、バンに10人くらい乗り込んで、その夜出掛けていきました。帰ってきたのが、次の日の夜。本当に、ただ蕎麦を食べに行っただけの旅でしたね。その旅で得たものは、関東の蕎麦つゆが本当に黒いとわかったことと、想像以上に東京が遠かったことくらいですか(笑)。思えば、アホなことを一生懸命やってましたねぇ」

 ところで、やはり大学生になってもゲームを?

「もちろんですよ。僕の大学時代は、まさにPS、SSが発売され、ポリゴンのゲームがたくさん登場した時期でした。『バーチャファイター』『ウイニングイレブン』『パラッパラッパー』なんか、よくやりましたね。ほかに思い出のゲームというと……3D時代が到来して、衝撃的だったのが『バイオハザード』ですかね。今となっては自社タイトル(カプコン)なので、褒めすぎるのもなんですけど(笑)、あれは本当に怖かったですね」

 そして、活気にあふれた大学時代が終わりを告げるころ、辻本さんは就職先をどこにするか、好きなふたつのジャンルの狭間で悩んでいた。玩具か?ゲームか?

「卒業後の進路は、自分の好きなものを制作する仕事に就こうと思ってました。事務職は向いてないと思ったので、玩具メーカーでおもちゃの開発をするか、ゲームメーカーでゲームを開発するかのどちらかのどちらかをしたいと思っていました。人を楽しませるものをつくる仕事をしたかったんです。それに、大阪を離れる気もそれほどなかったものですから、就職先は自然とカプコンを選んでました」

カプコン入社! プランナーに必要なことは?

photo  1996年、プランナーとしてカプコンに入社した辻本さんは、研修期間ののちアーケードゲームの開発部署に配属される。初めにコンシューマではなくアーケードを経験したことを、辻本さんは「僕にとってすごくいい経験でした」と語る。それはどうして?

「家庭用ゲームと違い、アーケードゲームは、プレイヤーの方が100円というリアルなお金を投じて遊ぶもの。だからプレイヤーに短時間で面白いと思わせる仕掛けと次にコンティニューをしてもらえる仕掛けが必要なんですよ。そういう、人を飽きさせないゲームの構成を考える上で、アーケードの開発はとても勉強になりました。もうひとつ、アーケードゲームから学んだものは、誰もプレイしていない状態で流れる集客デモの重要性ですね。あそこには、あまり長いデモシーンは入れられないので、ひと目でお客さんを惹き付ける仕掛けや演出が必要なんですよ。アーケードゲームの開発というのは、みなさんが思う以上に縛りの多く、調整が難しいものなんです」

 最初に関わったアーケードアクションゲームで初めて本格的に敵キャラづくりを担当し、そこでゲーム制作の楽しさ、面白さを知ったという。

「自分の企画、仕事が、ユーザーの声となってダイレクトに反映されるのがアーケードゲームの面白いところでもあります。家庭用ゲームは、発売されるまでお客さんが遊んだ感想が耳に入ってきませんが、アーケードゲームには本格稼動前にロケテストがあるので、みなさんの感想や、そのゲームのいいところ、ダメなところがすぐにわかるんですよね。リアルタイムでお客さんと知恵比べをしている感覚なんですよ。だから、開発者はかなりしんどい(苦笑)。だからこそ、お客さんの反応がいいときの喜びも大きいんです」

photo  お客さんとの知恵比べこそ、プランナーにとっての腕の見せどころだ。ところで入社以来、企画畑を歩んできた辻本さんは、プランナーという職業に必要なスキルは何だと考えているのだろうか。

「プランナーという職業は決まったやり方のない仕事ですから、人それぞれに重要なことが違うと思うんですが、僕の持論としては、プランナーに必要とされるのは20%の発想力と、80%の情報収集力・情報の選択能力だと思ってます。そして、その全てに必要なのが、コミュニケーション能力ですね。プランナーは、プログラムを組むわけでもないし、絵を描くわけでもない。自分の考えたアイデアを、それぞれの担当者に伝えて形にしてもらうのが仕事です。同時に、担当者からイメージを引き出すこともできなきゃならない。チームメンバーといかにコミュニケーションを上手に取るかで、作品の質も変わってしまうと思います」

 今まで取材をさせていただいたクリエイターのみなさんも、チームの共同作業が必須となるゲームづくりの現場では、何よりコミュニケーション能力が大切とだれもが言う。では辻本さんは、具体的にどう行動しているのか?

「コミュニケーションなんていうと難しく聞こえますけど、難しいことは何もないんですよ。マメにメンバーのところに顔を出して、たあいもない世間話をしたり、仕事の話をしたり。社内の人間ともそうですけど、社外の人とも積極的に話をすることで、新しいアイデアや新しい情報を得ることができるんです。それは、自分のプライベートの友達に対しても同じです。僕がこの業界にいることは彼らもわかってますから、カプコンのゲームに限らず、一般的なゲームの話っていうのは会話に必ず出てくる。たいした話をするわけではないんですが、その中から“ユーザーの感覚”を拾っていくこともできるんです。ゲームはつくる人が満足すればいい“作品”ではなく、あくまでもたくさんの人に届ける“商品”だと思っていますから、よりよい商品をつくるためには、ひとつでも多くの意見、感覚を知っておきたい。そういう意味でも、プランナーもプロデューサーも、アンテナを常に張り続けていることが大事だと思いますね」

『モンスターハンター』の現在と未来

photo  初めてネットワークゲームの開発に関わったのは、『アウトモデリスタ』でした。今でこそ、家庭用ゲーム機でネットワークゲームを遊ぶことにユーザーも慣れているが、『アウトモデリスタ』の発売当時はインフラもまだ整備されておらず、ユーザーサイドも、そもそもネットワークを使って“どんな遊び方ができるのか?”すら、よくわかってはいなかった人が多かった。

「カプコンは、PS2®のネットワークゲームにいち早く手を付けていたので、ゼロからノウハウを蓄積していきました。具体的な僕の仕事は、それぞれのタイトルのネットワーク部分の仕様と運営面を一緒に考えていくこと。それまで、会社としても経験のないジャンルでしたから、苦労も多かったです。ネットワークゲームの遊び方を知ってもらうことからのスタートでしたから。いざ、運営が始まってからも、苦労だらけでしたね。ネットワークゲームはユーザー同士がやりとりをしますから、そこでイレギュラーな事態がとてもたくさん起こる。それをどう上手く僕らが誘導していくかが難しかったです」

 そして辻本さんは、『モンスターハンターポータブル 2nd』で、それまでのプランナー職からプロデューサーへと転身。みなさんご存知のように、このタイトルは前作に続いて、PSP®タイトルとしては群を抜くヒットを飛ばしている。大ヒットの理由は何か?それを辻本さんはこう分析する。

「PSP®というのは、文化をつくりやすい、人が人を呼ぶハードだと思うんですよ。据え置き機と違って、PSP®のゲームは、実際にプレイしている姿を他人が見る機会が多い。もともと『モンスターハンター』は、口コミで人気が出たソフト。友達が実際に遊んでるのを見たり、画面を見ながら内容を説明されたりしながらだと、より面白さがわかるゲームなんですよね。だから、手軽に持ち運んで知り合いにゲームを見せられるPSP®との相性はものすごくいいんです。プレイヤー自身がプレゼンをしてくれるわけですからね。あとは、多人数が同時に楽しめるゲームそのものの魅力でしょうね。PSP®のアドホック機能は、とても簡単に人と繋がる、究極のネットワーク環境だと思うんですよ。遊んだ感覚も、昔、友達と一緒にファミコンを遊んでた感覚に近い。横の友達とワイワイ言いながら遊べるのって、ものすごく楽しいじゃないですか。僕はもともとそういうゲームの遊び方が大好きだったので、『モンスターハンターポータブル 2nd』には、そういうゲーム経験も大いにいかされていると思います」

では実際、『モンスターハンターポータブル 2nd』の開発で特に気を使ったところはどこだったのだろう?

「PSP®のゲームは、ちょっと手が空いたときに、短い時間で遊ぶ人をまず想定してつくりますから、とにかくテンポをよくしようと。例えば、15分とか30分プレイして電源を切ったときでも、早く先をプレイしたいと思ってもらえるような目標がユーザーに見えるようにつくったつもりです。もっといい武器のヒントが出てくるとか、目指すモンスターのヒントが出てくるとか。そうすれば、プレイヤーが次にプレイするまでの時間を、ああしよう、こうしようとワクワクしながら待てるじゃないですか」

 さらに辻本さんは、続いてPLAYSTATION®3で開発中の『モンスターハンター3(仮)』でプロデューサーを務めている。次世代機へと舞台を移したシリーズ最新作の開発状況は現在、どうなっているのだろうか?

「『モンスターハンター3(仮)』の開発は順調に進んでますよ。ただ、このタイトルに関しては最大の懸案事項がひとつあって……いったい『3』をどう読ませるか!(笑)『モンスターハンター2』の『2』は“ドス”と読んでもらいましたけど、あんまりなじみのない外国語というのもピンとこないし……。『3』はいっそのこと、そのまま“さん”にしちゃって、続けて読むと“モンスターハンターさん”になるというのもかわいいですよね(笑)。まぁ、それは冗談としても、次の最新作は次世代機で出す意味が問われるタイトルになりますね。ビジュアルのクオリティが高いのは当然なんですが、それをどうゲーム性に反映していくか。そこはかなり練りこまないとダメでしょうね。あと、目指しているのは、ゲームに登場するモンスターの生態系を描くこと。初代の『モンスターハンター』のオープニングムービーに、そういう表現があったと思うんですが、次はゲーム中にそれを表現したい。そして、ネットワーク機能の強化ですね。ネットワークにはもっと広がりを持たせたいと思います」

PSP®版最新作が出たばかりで、さっそく次というのはいささか気が早いかも知れないが、辻本さんは「近いうちにみなさんに新しい映像をお目に掛けたい」と語ってくれた。ファンのみなさん、次世代の『モンスターハンター』もどうぞお楽しみに!

◇よろしければ今回のインタビューのご感想をお聞かせください。
Back Number
2007年2月 平塚浩志氏
Back Numberはこちら
ページの先頭へ