2004年08月03日

ユーザーイリュージョン―意識という幻想このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加


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・ユーザーイリュージョン―意識という幻想
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■情報とは生成するまでに捨てた情報量と生成の難しさである

デンマークの科学ジャーナリストが著した、意識をめぐる情報科学の本。歴史的名著といっていいのではないだろうか。個人的には、ここ数年で最も面白かった。★★★★★。

前半は情報科学の歴史が総括される。情報とは何かというテーマについて、近代〜現代の科学者、思想化家たちがどのように定義してきたかの変遷を概観する。

20世紀前半の情報の定義で有名なのは、クロード・シャノンによる情報エントロピー理論である。”情報量”という概念を導入し、通信ケーブルを流れるビット数でその量を計測できるとした。情報量が多ければ多いほど、情報の不確実性が低くなり、間違いなく情報を伝達することができる、という考え方だ。

シャノンは情報通信企業の技術者でもあった。広帯域に大量の情報を流せば流すほど、情報をたくさん伝達することができるという考え方は、ナローバンドよりブロードバンドの方が良いということだ。張り巡らせた電話線をもっと利用してもらいたいと考える情報通信産業にとって、打ってつけのコンセプトだった。

かくして情報マッチョ志向の情報システムの時代が到来する。情報量は多ければ多いほどいい。たくさんの情報を受け取れば、正しい決定ができるようになるという考え方である。

だが、私たちの日常の意思決定プロセスを考えてみると、情報量がすべてではないことがすぐに分かる。私たちは何かを決定するときには、やるか、やらないかの判断材料が欲しいだけである。それは0か1のほとんど1ビットの情報量になる。正しい意思決定ができるのであれば、扱う情報の量など少ない方がいい。意味のある情報が適度な量あるのが一番いい。

情報の意味を測る方法を1990年にチャールズベネットが考案し、数学モデル化する。


したがって、メッセージの価値は、その情報量(絶対に予測可能な部分)や歴然とした冗長性(同じ言葉の繰り返しや数字の登場頻度の偏り)にあるのではなく、むしろ隠れた冗長性とでも言うべきもの、すなわち予測可能だが、予測には必ず困難が伴う、という部分に備わっていると思われる。言い換えるなら、メッセージの価値とは、その発信者が行ったであろう数学的作業あるいはその他の作業の量であり、それはまたメッセージの受信者が繰り返さずにすむ作業の量でもある

彼はこの尺度を論理深度と呼んだ。送り手がメッセージを仕上げるのに苦労すればするほど論理深度が大きくなる。大量の情報に接した上で、よく考え抜かれた結果こそ、価値のある情報ということが言えるようになった。

情報は圧縮することができる。何百ページの本も、意思決定に必要な1行に要約することができる。結論の1行の価値を決めるのは、表面的な情報の量(文字の長さなど)ではなく、捨てた情報の量と、それを生成するのがどれだけ難しかったかであるという理論だ。
無論、情報深度にも突っ込みどころがある。官僚的な仕事は大量の書類と、複雑怪奇な膨大な手続きという、苦労の果てに、実につまらない情報を生成する。形式的な手順で、ある情報の論理深度を測ることは難しい。

私は遺跡だとか化石が大好きだが、それはこれらのモノが今ここに残って存在するまでの、人類や地球の歴史プロセスを知っているからだ。考古学マニア以外にとっては、それらは、単なるつちくれであり、地面にあいた大穴に過ぎないかもしれない。

■<外情報>と<会話木>によるコミュニケーション

コミュニケーションの中で考えたとき、論理深度はより大きな意味を持つかもしれない。
たとえば新聞の記事は表面的には何百字、何千字の文字である。だが、それを書くまでに記者は膨大な情報ソースに当たり、識者の意見を聞いて、考えたはずである。敢えて書かなかった情報が大量にある。

ある人物が大統領に選ばれたということは、落選する可能性もあったことや、対立候補者の顔ぶれや、打ち出していた公約の内容や、テレビ討論でのパフォーマンスの成功とも関係がある。

新聞記事は、ありえたかもしれない無数のマクロ状況のうち、ひとつが選択されたというミクロ状況を伝えている。読者はミクロ状況を表象するメッセージを受け取り、背後のマクロ状況を想像しながら、その意味を考える。マクロ状況を書き手と読み手が共有していないと、情報はうまく伝わらない。

著者はこのマクロ状況とミクロ状況の伝達プロセスを<会話の木>という図で説明している。メッセージの送り手は、巨大な木構造の中から、枝葉を捨ててあるパターンを選び、メッセージに託す。受け手はそのメッセージから、木構造の全体を想像して、パターンを自分の頭の中に再現しようとする。再現された木構造の大半は、意識にはのぼらないかもしれない、捨てられた情報である。著者はこの捨てられた情報を<外情報>と呼んだ。<外情報>量こそ、生成された情報の意味の価値を表す指標であるとする。

<外情報>で、情報の価値を測ることができるという考え方を支持する脳科学の研究成果もある。脳の活性化状態を電位測定すると、たんに何かを報告するときよりも、会話しているときの方が活性化していることが分かる。情報処理よりも<外情報>処理の方が、コストがかかっていることが分かる。故に出てくるのは、論理深度の深い情報ということになる。

■ナローバンドで、0.5秒遅れる意識

「論理深度」や「外情報」の研究が面白いのは、それまで情報科学が避けて通ってきた情報の「意味」を解明しようとする試みだからだ。

個人や組織が何テラバイトもの情報アーカイブを持ち、いつでもどこでも好きに情報ソースに触れることができるようになった情報マッチョ環境において、情報の量ではなく、意味の持つ重要性は広く認識されるようになってきたと思う。

私たちの意識はブロードバンド対応ではないという研究がこの本ではいくつも紹介されている。私たちの感覚器官は毎秒、何ギガバイトもの情報量を受け取っているが、意識に上るのは僅かに16ビット〜40ビット/秒程度に過ぎないのではないかという。具体的に何ビットなのかというのは重要ではないだろう。環境から受け取る情報量に比して、とても僅かな情報量しか、意識が処理できないという指摘こそ、意味がある。

また、意識は無意識に、無意識は脳の物理的プロセスの上に成り立っている。米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットは、人間が何かを決意してから、意識するまでに0.5秒のタイムラグがあることを実験で証明した。人間が何かをしようとする直前に、脳には「準備電位」というシグナルが発生している。準備電位が発生した瞬間こそ、何かをしよう(背中を掻こうとかコップを手に取ろうとか)と決意した”今”なのだ。その今から遅れて0.5秒後に、その決意が意識にのぼる。人間には自由意志というものはなくて、無意識が決めた後に意識が承認するだけということになる。

これとは別に、複数の感覚器官の入力自体にもミリ秒レベルでの時差がある。光や音や触感が脳に伝わる時間にはズレがある。脳はこの時差を統合し、擬制としての「今」を制作している。結局のところ、私たちは、あらゆる意味で、現実そのものを経験することができない。

では私たちの経験の正体とは何か?。

■ユーザイリュージョン

この本のタイトルになっているユーザイリュージョンとは


パソコンのモニター画面上には「ごみ箱」「フォルダ」など様々なアイコンと文字が並ぶ。実際は単なる情報のかたまりにすぎないのに、ユーザはそれをクリックすると仕事をしてくれるので、さも画面の向こうに「ごみ箱」や「フォルダ」があるかのように錯覚する現象を指す

という意味。

私たちの意識はユーザイリュージョンそのものだというのが、この本の論旨である。顕在意識にのぼる<私>とは別に無意識の<自分>がいる。より多くの情報を現実から受け取る立場の<自分>は0.5秒前の存在で、私たちはそれをつかまえることができない。

しかし、私たちは<自分>の存在を知ることができる。その向こう側にある本当の世界の無限の可能性に目を向けることができる。意識と<私>が万能でないことを知るときがきたと著者は言いたいようだ。イリュージョンであることを意識して、先へ進めということか。


意識の文化と文明は途方もない勝利を収めてきたが、また同時に大きな問題を生み出している。私たちの存在に対する意識の支配力が強くなればなるほど、それが持つ情報の不足が大きな問題になる。文明は他者性と矛盾を奪い取っていき、イエスマンばかりに囲まれた独裁者に見られるのと同じような狂気へと、人を駆り立てる。

私たちはすべての支配権を手中にしているわけではなく、いつも意識を働かせているわけでもないことをあえて喜ぶべきだ。さらに無意識の生き生きした様を楽しみ、それを意識の持つ規律や信頼性と一体化させるべきだ。人生は意識していないときのほうがずっと楽しい。

清明な意識を持つこと、平静を得ること。それこそが最も捨てた情報の量が多く、生成困難でコストのかかる情報処理である。宗教の悟りの境地に至るまでに長く厳しい修行があることと、同じなのかもしれない。

■情報とは何か、意識とは何かを深く考えるガイドに最適

この本は、デンマークの科学ジャーナリストが1985年に書き、いくつかの賞に輝く。ベストセラーとなり、本国で13万部を突破。この数字は人口比換算で日本では250万部に相当する驚異的な数字だそうだ。その後8カ国で発売され高い評価を得ているようだ。翻訳はよいが、内容がやさしい本ではない上、500ページもある。読むのが大変だが、著者の論旨が明確で、洞察に富んだ読む価値のある本だと思った。夏休みの知的格闘に最適。


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Posted by daiya at 2004年08月03日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
Comments

Posted by:   at 2004年08月09日 14:57

この前の人工知能学会全国大会の特別講演で「意識とは何か」という話があり,「バカの壁」の話よりは面白かったです.意識とは「違うものを同じだと認識する」ことだそうで,例として「りんご」と「自分」が挙げられていました.それぞれ異なるインスタンス(りんごの実体)からクラス(りんごという概念)を作り上げるのは意識で,同じように昨日と自分と今日の自分を同じ自分だと思わせているのも意識だそうです.そして,明日もその先もずっと自分が存在していると思わせるのも意識で,だから死ぬのが怖いのだそうです.そうすると,完全に意識を捨て去れば死ぬのが怖くなくなる(悟る?)のでしょうか.

Posted by: 中西英之 at 2004年08月13日 01:49

高機能自閉症、アスペルガー症候群の人は、我々とは違って「フィルターなし」で膨大な情報が入ってきて意識が翻弄されるそうで「私は情報の洪水の中、立ち往生してまう。」という意見を本で読んだことがあります。私たちは、他者とのコミュニケーションを無意識のうちに難なくこなすが、彼らにとっては、わざわざ意識して過去の記憶に照合し、推論して個別に対応しているので、特に複数の人との会話ともなれば、情報処理に時間がかかり苦労しているようです。また「クオリア」も理解が難しく共感できないことが多いいようです。これらは脳の情報処理システムの違いからくるそうです。(私が読んだ本より)

Posted by: hana at 2004年12月21日 03:22

高機能自閉症、アスペルガー症候群の人は、我々とは違って「フィルターなし」で膨大な情報が入ってきて意識が翻弄されるそうで「私は情報の洪水の中、立ち往生してまう。」という意見を本で読んだことがあります。私たちは、他者とのコミュニケーションを無意識のうちに難なくこなすが、彼らにとっては、わざわざ意識して過去の記憶に照合し、推論して個別に対応しているので、特に複数の人との会話ともなれば、情報処理に時間がかかり苦労しているようです。また「クオリア」も理解が難しく共感できないことが多いいようです。これらは脳の情報処理システムの違いからくるそうです。(私が読んだ本より)

Posted by: hana at 2004年12月21日 16:24
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