『「いのちの歴史」の物語』読後感
『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社 1700円)が刊行された。 南郷継正師範のご指導のもと、本田克也、加藤幸信、浅野昌充、神庭純子の諸氏が著したものである。 われわれ流派にとっても、待望久しい本であり、喜びに耐えない。わが流派に属する学究の方々が、30年の研鑽を積んで成し遂げた偉業である。 私は入手してからまだ1回通読しただけであるが、深い感動とともに、玄和会で空手をやってきたことの幸せをつくづく味わっている。 本ブログを読んでいただいている方の多くは説明の要はいるまいが、知らない人のために若干説明をしておきたい。 『「いのちの歴史」の物語』とあるように、これは《生命の歴史》を、世界で初めて学問的に、あらゆる批判に耐えるレベルで世に問う著作である。本書でも何度もことわってあるが、これは生物の歴史ではない。あくまで「いのち」の発展過程の謎を解いた本である。 端的にいえば、地球上にどのようにして生命が誕生したか、その生命がいかに実体としての生物となったか、いかに単細胞段階から、高等哺乳類としてのサルにまで進化し得たか、そして最後にサルがなぜヒトになれたかの謎までを一気呵成に解ききった著作である。これまでの人類が、すべての学者が解けなかったこれらの学問上の謎に、論理的な解答を与えるものとなっている。 生命の誕生に関しては、ミラーやオパーリンが謎解きに挑戦したが、果たせなかった過去がある。しかし、その謎を解きたいという人類の悲願がついにここに果たされたのである。また、サルがなぜヒトになれたのかの謎も、誰も解くことは出来なかったが、これもついに全容が解明されることとなった。 これまで南郷先生の本を手にしたことがない方でも、これは人類史上に絶対に残る書籍であるので、ぜひに1冊は購入されるとよいと思う。 タイトルは物語となってはいるが、見事な、これ以上ない学問であり、論理展開がなされている。 私が一読した段階での素朴な感想を述べるならば、これは確かに《生命の歴史》を解いた著作ではあるが、実はそれと直接に弁証法とは何かを初心者向けに説いた著作なのだと思う。全編これ、弁証法である。すべてがつながっている。すべてが流れている。すべてが変化発展している。その態様を見事に弁証法で、論理で、説ききっている。その壮大なスケール、パノラマを見るような広がり、でありつつ、精緻このうえない論理構成となっている。 本書は実は、南郷学派による、21世紀の『弁証法はどういう科学か』ではなかろうか。三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』(講談社)は、教科書としては最高であると、南郷師範は説かれるが、いわば知識的に弁証法を正しく理解するには最適な本であるけれど、弁証法を運動として理解するのは不足している。弁証法とはまさに運動であり、宇宙規模での激動を捉える論理であるということを、この『看護のための「いのちの歴史」の物語』は、《生命の歴史》を解くと直接に、解きあかしたのだ。 三浦さんは弁証法を3法則(量質転化、相互浸透、否定の否定)と矛盾で説いたが、あれはいわば乾燥ワカメのようなものであって、本書でついに(南郷先生の著作を別にすれば)弁証法=ワカメは生きた海に戻されて息づきはじめているのである。それゆえ、私は本書は大きくレベルアップした形での『新版・弁証法はどういう科学か』としても刊行されたのではないかと感じた。乾燥ワカメ(三浦弁証法)を海に戻すと(具体の中に当てはめていくと)、見事な生き生きとしたワカメ(南郷弁証法=生命史観)へと蘇生されたのである。 いまだに「弁証法は正・反・合だ」と信じているインテリは、本書によっても沈黙するしかなくなったのである。 ヘッケルのいわゆる「個体発生は系統発生をくりかえす」の法則も、弁証法の光を当てられて、見事に現代に復活をとげた。このヘッケルの法則までもが弁証法の法則の一つと化した感がある。ヘッケルをおかしなことを言ったバカな学者とあざけったヒトたちは顔色を失うこととなった。 その意味で、本書の最終章にある「第15章 エピローグ “いのちの歴史”の学びを看護に生かすには」のなかにある、弁証法の“学び方”と“使い方”を説いた箇所が最も重要な部分ではないかと感じた。 弁証法の学びは、具体的な事実の一つ一つにあたりながら、これは量質転化、これは相互浸透などと当てはめて学習する(と、南郷師範から教わった)。その学習がやがて、「弁証法というものの形が、アバウトな像として少しずつ頭の中で形成されていくことになる」、これが弁証法の学びである。 次には、その「弁証法の頭の中の像が、具体の像から少し抽象された像へと発展する」これが表象レベルの像である。表象とは具体を残しつつ一般化された像である。これを本書では花の例で説いている。「花の種類を覚えるために、これはタンポポの花、これはレンゲの花、これはアネモネの花と一つ一つの具体の花にあたっていくうちに、“だいたいどの花も同じような形をしているのだ”とわかる頭ができてきます。そしてタンポポの花を見ても、単にタンポポの花と見てとるだけでなく、花々の中のタンポポの花とわかる頭の中ができあがります。つまり“表象レベルの花の中の具体の花”という重層性をもった花の形が像として形成されていくことになるのです。」 「弁証法の学びも、これと同じように、具体の一つ一つに当てはめた量質転化の像が、しだいにある表象レベルの量質転化の像として形成されるようになっていくのです。」 こうした弁証法の修行過程を経ることによって、例えば「目の前の病人の病みがどんな量質転化をしていくのか、つまりどんな過程をたどるのかを見てとれるようになっていく、ということになる」わけである。だから「看護のための」というタイトルになったのだ。だから、《いのちの歴史》と直接に弁証法こそが看護に役立つと説かれるのである。 『看護のための「いのちの歴史」の物語』は、まさにそういう弁証法の学び方の実践編であった。だから、このような弁証法の学習によってこそ、《生命の歴史》が解けたのであり、同時に弁証法の学習方法も白日のもとに明らかにされたのである。 僭越ではあるが、ここで私事を挟むと、本ブログの目的の一つは、弁証法の学びの実践である。だから本ブログで書いてきた具体の一つ一つ、例えばユダヤ闇権力の問題にせよ、在日の日本社会への浸透にせよ、あるいは予防接種の闇にせよ、個々の事象に当てはめた弁証法の像が、しだいに表象レベルの量質転化の像として形成させてみたいという野望を私は抱いてきた。それを一応は踏まえてブログを書き続けてきたのである。 だから「花々の中のタンポポの花とわかる頭の中」になるごとくに、これまでブログで取り上げた世の中のことであれ、歴史上の人物(秀吉や園部秀雄)であれ、現代に生きる人物(宇梶剛士や川井郁子)であれ、それらは大きな社会の(あるいは歴史の)弁証法としての捉え方のなかのある社会事象、ある人物だと理解できるよう説いてきたつもりなのである。むろんまだまだ修行中の身である。 これからもまた、《生命の歴史》と弁証法、認識論の研鑽を積んでいきたいと、あらためて本書に闘志をかきたてられた。弁解するわけではないが、まだ私はたった1回しか読んでいない。これが10回、20回と読み込むにしたがい、どのような深みを見せてくれるのか、私自身の理解がどう量質転化化するのか、楽しみである。 |
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