発達障害はなぜ起きる(下)
《2》 毎日新聞の記事見出しには、「周囲の理解 救いに」とある。まるで周囲の人間の無理解が悪く、自分たち障害を持った子どもはその無理解のせいで苦しんでいると、言っているようだ。これは責任転嫁ではないのか。周囲が理解してくれれば、救いになるって、どういう意味なのか、はっきり言ってほしい。例えば、床屋で待っているあいだ、子どもが暴れて周囲の人に迷惑をかけるかもしれませんけれど、障害ある子だと大目に見てくれ、ということか。お宅のお子さんが理由もなく殴られても、ウチの子は病気なんですから、我慢してください、というのか。“理解してくれ”一般ではわからない。床屋で順番を待っている間、障害のある子が、そこらのものを壊したり、大声を上げたりすれば、大人が怒るのは当然ではないか、迷惑なんだから。それをどうしろというのか。 周囲にわかってくれと言うだけではダメだと、私は言いたいのであって、決して、障害児は隔離しろとか、世間に出すなと言っているのではない。正しい教育をするべきことなのだ。それなら、“周囲の人”も理解してくれるはずなのである。ただ我慢しろ、わかって協力してくれ、では人は納得しない。正しい障害児の教育とは、先に紹介したように、『学城』に掲載された北嶋淳氏と志垣司氏の論文にある教育実践である。 実に、この毎日の記事も専門家と称するカウンセラーも、問題を曖昧模糊として捉えていて、何か善意があればとか、相談しさえすれば解決するとでも思っているようだ。病名がわかって、どうしてあげれば子どもが満足するかわかったら、それでもういいのか。そうではない。もっと正しく科学的な究明がなされなければならない。 何度もこのブログで書いてきたが、発達障害には必ず原因がある。それも必ず原因は親自身の生活過程にある。あるいは生活過程で創られた認識(個性)に原因があるのだ。障害児になってしまったものは、いわば取り返しがつかないのだから、あくまで子どもが発達障害にならないような原因究明がなされなければならない。 その原因とは、例えば親が若いころに茶髪に染めていたとか、ジャンクフードばかり食べていたとか、タバコやシンナーを吸っていたとか、刺青をいれちゃたとか…。そのほかもっと極め付きに重大なことは、人工授精で赤ん坊を生んだことである。これは実体の遺伝子そのものが傷つくのだ。人工授精をしておいて、障害のない子に育ってくれとは、ムシの良い言い分である。何度もブログで書いたが、人工授精の危険性を言わない医者どもは犯罪的である。 まだある。育て方だ。赤ちゃんに粉ミルクだけ飲ませたとか、紙おむつを使ったとかでも、健全な発育が阻害される可能性はある。紙おむつを使えば、おむつが取れる時期が遅れる可能性が出てくる。親は、自分がこんなオムツやオッパイでイライラするよりは、楽な育児をして、その分、心穏やかに赤ん坊と接するほうがいいのだと、自分勝手に決め込む人がいるが、そんなことをすれば子どもからシッペ返しを受ける。粉ミルクでは母乳に入っている母親の大事な人間としての遺伝子が子どもに伝わらないで、代わりにウシの遺伝子が赤ん坊に注ぎこまれる。 粉ミルクで育った赤ん坊がやがて、ウシの遺伝子に浸透された頭脳として育ち、友達をいきなり殴ったり、噛み付いたりするのだ。あるいはいくら教えてもものを覚えないとか、授業中に席を立って動き回る。トイレにいかずにおしっこしてしまう。まさに人間のやることではなく、動物の行動である。ああウシの頭脳にさせられたのかと思えば、納得がいくではないか。それがいわゆる“発達障害”と医者が名づけるものの原因である。だから正しくは“ウシ化症候群”とでもするべきである。母乳の時期に、ウシの乳を飲ませることが最悪なのであって、離乳後一般の食べ物として牛乳を飲むこととは別である。 だからそういう意味では、親の責任は逃れられない。厳しい言い方になって気の毒だが、これが真実である。むろん平然と業者からリベートをもらって粉ミルクを出産直後の母親にプレゼントする病院の責任は重い。病院や乳業会社は将来の発達障害の子を作るために新生児に粉ミルクを与えるのか、と疑ってもいいほどだ。それほど犯罪的なことである。 どうしても母乳が出ない母親だっているぞ、という反論はあるだろう。だからそれはその女性の生活過程が悪かったのだ。不妊のことを説いたときに説明したからくり返さないが、不妊も生理痛も母乳が出ないも、帝王切開も基本的にはみな同じ、生活に原因があったのである。 自閉症はまた別の問題であり、生活よりも親の行動が問題になる。 発達障害の子を持った親の苦しみはまことに気の毒である。だからどれほど女性は子どものときから、生活過程に注意して、将来母親になる準備を怠ってはならないか、なのである。中学生になれば、食事から睡眠から、生活すべてに渡って母親になる努力が必要であって、それを怠り、甘くみたからこそ、無残な出産で泣かなければならなくなったのである。それを周囲が障害のある子を理解してくれないと不満を言うのはスジがはずれている。 障害児になってしまったものは、しかるべき施設で、科学的な正しい教育を受けることである。その障害児教育がどこもはなはだ心もとないのが困った話である。なかには障害をいいことに、平気で性器教育を施してしまうバカなサヨク養護教師がいるほどだ。 発達障害にどう理解を世間に持ってもらうかといえば、一つはそういう子どもを生まないためにどうするかであり、もう一つは障害児を正しく人間として教育することなのである。 コメント欄に“鉄下駄”さんから、以前私が推奨した“太陽石”を使っているという嬉しい報告を頂戴した。鉄下駄さんによると、周囲ではそんなものは「オカルトだ」とせせら笑うそうである。水が直接どうのとは言わないまでも、そういうせせら笑って健康を甘く見る人が、やがて女性であれば、生理痛、不妊、帝王切開、そして最悪の場合障害児を出産してしまうことにもつながる。すべて体調管理を甘くみたツケである。 私も高校生くらいのときから、食事に気をつけている話を友人にすると、みんな「そんな神経質なことを言っていたら、食べるものがなくなる」とせせら笑っていた。世の中はバランスがとれているもので、そういう健康に気遣うことを嘲笑した人があとになって、悲しい人生を迎えなければならないことにもなる。男ならインポとか糖尿とか、挙げればキリがない。 ところが、不妊の女性も、糖尿の男性も、障害児も、みんな自分のせいではないと思いたいのだ。みんな「病気」というものがあって、不運にも自分にだけ“かかった”、だから誰のせいでもないと言い張る。 私は、それでは悲劇はなくならないと、訴えているのだが…。 |
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