光藏寺の由来

観音様から見た光藏寺
観音様を背に−光藏寺−

光藏寺の興りと天台宗

 光藏寺は延喜四年(九百四年)に滋賀比叡山の五大院安然和尚が滋賀郡神出村に開基されたのに始まり、後に徳島の国分尼寺の里にある天台宗直系の尼寺として移基されました。ご本尊は不動明王様(秘仏)です。

 光藏寺の属する天台宗とは天の台(台とは星の意)を支える天の三台(三つの連星)を祀る宗派です。天台宗は今の感覚で言えば夜空に輝く星の教団といったところでしょうか。なかなかロマンチックでしょう?


内谷の庵と光藏寺の中興開山

 現在、光藏寺のある内谷には約二百年昔に寂心照空尼(没年一八一五年(文化三年)八月五日)により開山開基された庵がありました。寂心照空尼は秋田県に生れ、縁あって阿波の国長生にて佛門へ入られ吉祥庵で得度、本尊の御大師様を背負って托鉢行脚を続けられていましたが、後に内谷の奥に庵を結ばれて衆生済度に努められました。

 内谷の庵は二代三代と栄えましたが、後に廃寺されて時の流れと共に人々の記憶から忘らていきました。それから約百六十年後、寂心照空尼縁の秋田家において嫁の夢告による「忘れられし秋田家の霊地あり」という御催促がなされる様になり、その解決と指導を徳島市矢三町仙香寺の元木哲順老師に仰がれます。

 老師は眉山中腹にあった天台宗直系の由緒ある光藏寺を復興盛大ならしめていましたが、昭和二十年七月四日の大空襲により、ご本尊を持ち出したるのみにて焼失の憂き目にあわれ、再建を祈願して日夜尽力されて居られる処でありました。老師は光藏寺ご本尊の御利益を受けていた秋田家からの内谷での再建発願を受けて自ら発起人となられ山杯を寄贈され、内谷有志九名の方々の協力のもと、昭和二十四年内谷に光藏寺の再建に着手され翌年五月二十日に目出度く入佛式を執り行い、翌二十一日落慶法要の後、光藏寺住職の役に就かれ内谷の鎮護と人々の済度に努められました。


祈願寺としての光藏寺

 光藏寺は人々の祈願を受ける寺として建立されました。毎日欠かさずお百度参りをして人々より承った願いの成就を祈願したり、相談事を承ったりしています。また、祈願寺である上に尼寺でもあり、住職が女性ですので、女性からの相談事等も良く受けております。

 尼寺と言うと男子禁制等と思われるかも知れませんが、光藏寺では男女の隔て無く克つ男女の差異の良否を正しく受け取って導くべきと考えていますので、より女性に親しみやすい老若男女分け隔てない祈願寺として光藏寺を運営しています。


光藏寺の歴史

 904年 延喜四年
 比叡山五大院安然和尚により開基される

1635年 寛永十二年
 光藏寺再建の記録

1800年
 寂心照空尼により内谷に庵開基

1890年 明治二十三年九月二十二日
 政府より宗教法人として登録される
 滋賀県神出より兵庫県神戸市上橋通へ一時移基

1902年 明治三十五年十二月四日
 神戸より徳島市眉山中腹へ移基される

1904年
 開基千年期 1945年 昭和二十年七月四日
 徳島大空襲、光藏寺焼失

1948年 昭和二十三年
 夢告により内谷の庵跡へ光藏寺再建を発願

1949年 昭和二十四年
 光藏寺再建に着手

1950年 昭和二十五年五月二十日
 内谷へ移基され入佛式、二十一日落慶
 中興開山初代住職として元木哲順老師を迎える

2000年 平成十二年五月二十一日
 内谷中興開山五十周年法要




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