2007/10/09

三島大社は箱根原住民の監視施設

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発売日:2003-09-10

三島はあちこちにある
北条氏のインチキ
三島と沼津は仲が悪い
日金山霊場
箱根権現
三島大明神のスキャンダル
伊豆の国府
三島が三島と呼ばれるには

さて、いつまでもズルズルと引きずっていてもしょうがないんで、そろそろ結論を出そう。三島はどうやって三島になり、今の三島大社が出来たのか、という事なんだが、歴史に出てくる伊豆というと、三島より熱海のほうがずっと古いわけだ。熱海には鎌倉時代に沈んだ海中遺跡があるそうなんだが、その研究をやってらっしゃる方のサイト。日金山についての考察なんぞも面白いんだが、この人によると、古代の伊豆国府は、まず、熱海に作られたというわけだ。

伊豆國については大変に古く、応神天皇の時に伊豆國に10丈(三十メートル)の船を作らせ、神功皇后から更に後、伊豆國造が置かれた4世紀中期以前より有ったと考えられます。大化の改新の律令制国家形成によって伊豆國は実質的に解体し、律令制国家での租税徴収(特に稲の徴収)に符合させる為の準備として駿河國に吸収統合されてしまう。尚、伊豆國は大半、特に東伊豆地区は稲作に不向きもあり、伊豆各地の郡里制度や班田収受法による収税調査が開始された。律令制租税収受が出来るとされるまでに30年以上の年月が掛かり、681年に駿河國から分離され、新生「伊豆國」となる。一つだけ言えるのは大化の改新に於ける反体制の勢力と見る事が出来るが、いずれにしても中央の従属に対して反対し、従わなかったと思われる。

当初の大和政権というのは、ごくゆるやかな連合であって、その権力というのはさほど強力ではない。交易みたいにして特産物と都の産品を交換する程度のモノだったんだが、大化の改新で米中心の支配体制に移行する。ところが、熱海をはじめとして東海岸というのは、今でもほとんど米なんか獲れないわけだ。伊豆で古代から稲作していたのは、主に田方平野だ。

では、何で三宅島から現在の三島へ移ったかですが、それまでに有った足柄道が富士山の噴火で閉鎖され、急遽箱根道が整備される事となった。そのために関所としての社(三島明神)を設置し、新たなる街造りと関所造りを行ったと思われる。しかし、大化の改新に伴って伊豆國は駿河國に統合されてしまう。後に再び伊豆國が戻されるが、二郡に分かれてそれまでの伊豆の國府であった阿多美から現在の三島へ移されてしまうが、朝廷の思惑によるものか大仁に伊豆國の國府である田京を中途半端に造っている。

894年(寛平4)紀長谷雄、伊豆國の國府長官赴任の話が残るが、殆ど阿多美に滞在。
この当時、国府は三島と思われるが、滞在記録が三島には残っていない! 本当なのか?

延暦の大噴火は西暦800年~802年なので、その頃に三島大社が出来たというわけだ。その頃には、もともと熱海にあった国府が田京経由で三島に来ていて、大穀倉地帯である田方平野の支配体制が完成していた。伊豆の新勢力は、田方平野の稲作をバックボーンとしていたのだ。で、たまたま面白い文献を見つけた。伊豆の古い瓦が、どこで作られたのかを調べた人がいるわけだ。瓦というのは重いので、それほど遠くから運んで来るわけに行かない。

私たちは2年間の研究で、伊豆国内にある鎌倉時代までの「瓦葺き屋根を持つ建物」7軒のうち6軒から152点の瓦を手に入れ、分析しました。「宗光寺廃寺」の2点(静岡県西部方面で作られた)を除く150点すべてが「花坂古窯群」で作られていたことがわかりました。つまり、「伊豆国内」の古代瓦の産地は、「花坂古窯群」として良いでしょう。

花坂というのは、伊豆長岡だ。伊豆中央道が通っているあたりなんだが、中央道のトンネル工事の時に大量の粘土が出てきて、おいらの知人の陶芸家が貰いうけている。この粘土は耐火度が低いので、普通の釉薬が使えない。なので、その陶芸家は低い温度で融ける成分の釉薬を使っているんだが、屋根瓦を焼くには、むしろ耐火度の低い粘土のほうが使いやすい。ちなみに伊豆長岡というのは、頼朝が流された蛭ケ小島のすぐ隣だ。

奈良時代から平安時代に移行するにつれて、伊豆では田方平野の稲作が経済の中心となり、中央の権力が出先機関としての国府を三島に作り、田方平野を支配するようになる。古代の海洋民族の末裔どもは稲作をせずに、奈良時代になっても箱根山で狩猟生活をしていたり、西伊豆で海賊やってたりするんだが、そんなモノはホッタラカシだ。税金取りに行っても逃げちゃうので、どうしようもない。ところが、延暦の大噴火で情勢が変わる。どうしても三島から箱根を経由しないと東国に行けなくなってしまう。で、この「まつろわぬ民」というのが問題になってくるわけだ。

彼らは、箱根権現とか日金山とか大瀬神社なんぞを拠点としていた縄文系民族で、山や海で生きている。箱根にもうじゃうじゃいるわけだ。で、田方平野を統治するだけなら国府や国分寺だけでもいいんだろうが、「まつろわぬ民」をなんとかしないと東国へのライフラインが確保できない。そこで、平氏系の権力に近い関係のあった三島明神をわざわざ誘致して原住民系の旧勢力・八幡社を追い出して国府の隣に置いたのではないか、とも考えられる。頼朝は源氏再興を願って三島大社に日参したと言われているんだが、おいらの考えでは反対であって、国府のとなりの三島大社に毎日顔を出して、謀反を企んでいない事を証明するのを義務付けられていたのではないか、と思うわけだ。まぁ、少年院出たものの、保護司のところに顔を出さなきゃならない非行少年みたいなもんだな。実際、頼朝は三島大社の監視の目が緩くなる夏祭りのドサクサに乗じて挙兵し、縄文系原住民の神、箱根権現の別当に助けられている。

そもそも、神社とかお寺とかいうモノは、権力が民衆を支配するための出先機関として作られたのではないか、と、おいらは思うんだけどね。

トマトと塩辛のパスタ

もう、おいらのパスタには塩辛は欠かせない。田子のカネサ鰹節商店製の700gで800円という激安ながら添加物ナシ、完全に塩とカツオの内臓だけで作った一級品なんだが、以前、おいらのサイトで紹介したら通販の注文が突然ドカドカ舞い込んで、オバチャンが驚いたらしい。最近じゃ、減塩ブームで塩辛が売れないのだ。市販のヤツは添加物で甘く、口あたりよくしてあるので、よく食中毒を起こすんだが、ここの塩辛はそんな軟弱なモノではない。むしろ、三年くらい寝かせると味が良くなる。旨みが熟成されて来るわけだ。なお、ちょっとサイトが分かりにくいんだが、塩辛も通販しているので、あちらの掲示板に「塩辛は通販しないんですか?」と書き込まないようにw もっとも、小瓶だと送料の方が高くつくらしい。

で、今回のレシピなんだが、トマトで作ったソースだ。といっても手間がかかっている。まずは、オリーブ油でニンニクスライスと唐辛子を炒める。油だけを残して捨てる。そこに今回はベーコンフレーバードビッツを投入。サラダにトッピングされる事が多い、アレだ。いつもは本物のベーコンを細切れにして使うんだが、ビッツは日持ちするから常備しておくと便利だね。そこに塩辛を投入して弱火でよく炒める。塩辛の量は一人前で小さじ1/2程度だ。入れすぎるとショッパクなるので要注意。

かくしてソースのベースが出来たところで、細切れに刻んだトマトを投入。大きいのがひとり前一個くらい。実はおいら、トマトは大嫌いなのだ。生のトマトは嫌いなんだが、火を通すと食える。つうか、大好きだ。トマトは強火でガンガン炒める。少なくとも5分間は炒める。粗挽き胡椒もガリガリと挽き入れる。クタクタになったトマトが塩辛ソースと絡んだ頃には鍋で茹でているスパゲティも食いごろになっているので、合わせてからめて出来あがり。表面上見えているのはトマトだけなんだが、ニンニク、唐辛子、黒胡椒、ベーコンフレーバードビッツ、塩辛と、見えないところで多くの脇役がトマトを支えているという、贅沢極まりないパスタだ。よく熟れたトマトでコレを作ると、みんな目の色変えて、皿を舐めるほど夢中で食べるのだった。

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三島が三島と呼ばれるには

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三島駅で降りて、南口から坂をくだって来ると白滝公園に出る。そこで東に曲がって桜川沿いに歩くと三島大社に出るんだが、その角に赤いポストがあるわけだ。このポストはインチキで、飾られているだけ。たまに郵便物を投函しようという人がいて、口がふさがれているので戸惑っている。で、桜川から分流した一部が、搗屋のみちに沿って流れ、御殿川となって赤橋に至る。赤橋には丸勝製麺所の売店があっておいしい麺類を売っているんだが、それはさておき。

赤橋のある裏通りは、実は鎌倉古道の跡である。鎌倉古道というのは何か? 実は、延暦年間に富士山が大噴火を起こして、旧来の道が使えなくなったために、箱根を越えて芦ノ湖に至る道が開発されるわけだ。これを鎌倉古道と呼ぶ。それまでの、都と東国を結ぶ道はどこを通っていたのかというと、三島は通っていなかった。静岡大学小山研究室の研究によれば

 延暦噴火堆積物によって埋めつくされたという「足柄道」が御殿場付近から足柄峠を越える道だと考えると,その付近に堆積した3)のスコリア層の厚さが,等層厚線図から考えて2cmに満たないことは確実である.仮に延暦テフラが他の湯船第3スコリア群中の一枚だとしても,足柄付近の厚さが薄いことに変わりはない.よって,富士→三島→御殿場→足柄峠という富士山南麓~東麓を通る東海道のコースを考える限り,「噴火堆積物に道をふさがれた」という記述は実際のテフラ分布と矛盾する.
 これに対し,古代東海道が富士宮→富士五湖→籠坂峠→御殿場→足柄峠という富士山北麓を通るコースであったと仮定すると話は一変する.延暦噴火においては,富士山北西斜面においても天神山―伊賀殿山噴火割れ目(宮地,1988,地質雑)の噴火がおき,それにともなう降下スコリアと溶岩流が富士山北西麓の広い範囲をおおったことがわかっている.

まぁ、富士の宮ではなく沼津から大岡を経由して246号線を東に向かったという説もあるんだが、いずれにせよ、延暦年間までの東海道は三島を通ってなかったという事になるわけだ。まぁ、常識的に考えて、御殿場を経由するんだったら、わざわざ三島を通る必要はないわけでね。実際、国鉄の東海道本線もまた、丹那トンネルが開通するまでは沼津から御殿場にまわっていた。古代の沼津は今よりズブズブで地盤の悪い湿地帯だったらしいので、そこも避けるとなると、富士の宮から北上するというのは自然だ。なんだか遠まわりのようにも思えるんだが、目的地は東京ではないので、別に遠まわりでもない。

で、話は伊豆の国府だ。

天武天皇9年 (680年) 7月に、駿河国から田方郡と賀茂郡の二郡を分割して設けられた。大宝元年 (701年) から和銅3年(710年)までの間に、仲郡(後の那賀郡)が成立し三郡となった。律令法においては遠流の対象地となった。これは伊豆諸島が隠岐・佐渡と並んで辺境の島であると考えられ、伊豆半島はその入り口とされた事が背景にあると言われている。江戸時代(文禄から元禄の間)に君沢郡が分けられ、四郡となった。

というわけで、7世紀になって駿河の国から分割して作られている。つうか、そもそも7世紀の末まではあまり中央の権力が及ばない化外の地だったんじゃないか、という気もしないでもないんだが、三島における人間の足跡というのは旧石器時代から続いているわけだ。縄文、弥生、古墳時代の遺跡が発見されるとともに、奈良時代に箱根で狩猟生活をしていた人がいる事も判っている。観音洞(かんのんぼら)遺跡というのがソレなんだが、箱根西麓には縄文遺跡が多くて70箇所もあるんだが、時代がさがって奈良時代にもまだ、縄文のままの生活をしていた人がいるわけだ。この時代、伊豆でも平地では稲作が始まっているのだが、山の奥深くで、税金を払わずに縄文生活をしていた人がいた証拠だな。で、そんな縄文人の末裔と、稲作をはじめた弥生人の末裔とが暮らしていた土地に、中央の権力の象徴である国府がやって来る。

 伊豆国の創建当初の国府はどこにあったかについて諸説があります。例えば
1 大仁町田京にあったのを聖武天皇(724~749)のころ蝦夷征討のため三島へ移した。
2 平安時代延暦年間(782~806)に箱根山路開通によって国府、国分寺を共に移した。
3 当初から三島にあった。
などです。

『三島市誌(昭和33年版)』は関係遺跡などを調査発掘の結果、奈良時代の条里(じょうり)遺跡(いせき)、それ以前の寺院跡、その他を考察して、伊豆国府は当初から三島にあったと考えられると結論づけています。
 ただし、国庁の位置などで、今後も議論、研究が続くものと思われます。

もっとも、今ではけっこう細かいところまで判明している。文頭であげた搗屋のみちなんだが、あのあたりが国府の建物があった場所らしい。

 奈良時代に造られた国庁は現在の芝本町の辺りで、南は芝本町と本町の境の東西道路、北は楽寿園の南側、東は圓明寺、西は源兵衛川の辺りに2町四方(218m四方)の広さをもっていて、築垣で囲まれた役所だったと推定されます。

 現、ツバメタクシー営業所の東を北に入った池田病院の石垣の一角に、軽部慈恩(かるべじおん)日本大学教授の建てた「国庁跡」と刻んだ石碑が残っています。国庁とは国司の行政役所のことです。国司は中央から派遣される朝廷官僚ですので、国庁は今風に言えば中央政府の地方役所ということになります。その国庁の所在地を国府と言いました。この三島の地が伊豆国府であったわけです。
 平安時代の中ごろになって、国分寺・国分尼寺が焼失したため他の寺に移され、国庁もこの両寺のある町の東方の元の長谷町(現、大社町)に移されたものではないかと言われています。

もっとも、国府の建物というのはずいぶんと広い範囲にあるわけだ。なんせ古い時代なので、今の静岡県庁みたいに高層ビルを建てたりしない。みんな平屋だ。なので広い敷地を必要とする。今のところ判明しているのは、三島大社の境内から発掘された掘立柱が国府の跡ではないか、とか、御殿川沿いの中島遺跡が、田方郡の役所であり、水運を利用した倉庫だったのではないか、とか、言われている。

さて、ここで古代の三島を考えてみる。まず、
三島は三島という地名ではなかった。三島が三島と呼ばれるようになるのは三島明神が誘致されて三島大社という神社が出来たからであって、それは平安中期以降という事になっている。680年に現在の三島市に国府が出来ると、天武・持統両天皇の仏教化政策によって全国に寺院建立ブームが起き、独立間もない伊豆国でも国府に、大興寺(市ヶ原廃寺)、山興寺(塔の森廃寺)、天神原廃寺が建てられる。伊豆国分寺が建てられるのは天平時代だ。まず、国府の関係官庁が赤橋の丸勝製麺所周辺に作られ、郊外にいくつかの寺が作られる。更に、国府の西側に国分寺が建てられ、やがて、平安中期以降になって三島明神が今の三島大社に誘致される。その際、そこにあった若宮八幡社は国分寺の外側まで追い出される。

と、ここまで来てやっと、今の配置が完成するわけだ。東から、三島大社、国府、国分寺、若宮八幡社という位置関係だな。コレが何を意味しているのかは、夜食を食ってから書きます。

2007/10/08

伊豆の国府

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さて、おいらは文学部なので今回は日本古典文学で始めよう。といっても、おいらは明治大学の仏文科中退なんだが、それはさておき。「東関紀行」という文献があるんだが、中世三大紀行文(ほかに海道記、十六夜日記)のうちの一つといわれ、作者不詳だが、仁治3年(1242年)の紀行を書いていると言われているわけだ。これに、三島大社と伊豆の国府が出てくる。

伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらくおとづれて庭の気色も神さびわたれり。この社は伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞く

で、十六夜日記なんだが、こちらはちょっと長く引用してみる。どうせ著作権切れてるしw 当時の東海道の様子が判る文章だ。

廿七日、あけはなれてのちふじ河わたる。あさ川、いとさむし。かぞふれば十五せをぞわたりぬる。
冴わびぬ雪よりおろすふじ河の川風こほる冬の衣手
けふは、日いとうらゝかにて、たごの浦にうちいづ。あまどものいさりするをみても、
心からおりたつたごのあま衣ほさぬ恨と人にかたるな
とぞいはまほしき。いづのこふ(伊豆の国府)といふ所にとどまる。いまだ夕日のこるほど、みしまの明神へまゐるとて、よみてたてまつる。
あはれとやみしまの神の宮柱唯こゝにしもめぐりきにけり
おのづからつたへし跡も有ものを神はしるらんしき嶋の道
尋きてわがこえかゝる箱根路を山のかひある知べ(*しるべ)とぞ思ふ
廿八日、いづのこふをいでてはこねぢ(箱根路)にかゝる。いまだ夜深かりければ、
玉くしげ箱根の山をいそげども猶明がたき横雲の空
「あしがら山はみちとほし。」とて、はこねぢにかかるなりけり。

で、伊豆の国府なんだが、コレが三島のどこにあったのか不明なのだ。三島大社の近くだろうと言われているんだが、定かではない。定かではないと言えば、実は三島大社の由来というのもよく判っていないところがあって、たとえば大三島の大山祇神社なんだが、

日本各地に一万社余りある山祇神社、三島神社の総本社とされるが、一部の三島神社(主に東国)については静岡県の三嶋大社の分社もある。また、三嶋大社自体を大山祇神社の分社とする説や、逆に大山祇神社の方が三嶋大社の分社とする説があり、まったく別の神社とする説もある。

前のエントリでおいら、書いたんだが、もともと三島大明神というのは伊豆七島をウロウロしていた海洋民族の神なのだ。ところで神というのは何なのか。日本における神というのは、ユダヤ教起源の一神教の神と違って、自分の先祖だったり、自分が滅ぼした敵だったりするわけだ。現実に存在する人間以外のタマシイの存在を全て、神と呼んだのかも知れない。で、改めて三島大社の由来だが、

創建に関しては極めて古く不明であるが、三宅島(現 富賀神社)→下田・白浜海岸(現 伊古奈比咩命神社)→大仁町(現 広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承がある。他に、伊予国大三島の大山祇神社からの分社との説もある。

延喜式神名帳には「伊豆国賀茂郡 伊豆三島神社」として記載されている。延喜式が書かれた平安時代初期には賀茂郡の下田・白浜海岸に正妃・伊古奈比咩命を祀る神社と並んで建っていた。白浜海岸には現在、伊古奈比咩命を主祭神とする伊古奈比咩命神社がある。

現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府の近くに新宮として分祀されたものであるとされる。

というわけで、今の三島大社を脳裏に浮かべて判断してはいけない部分があるわけだ。今の三島大社は、平安中期以降、国府のすぐそばにわざわざ作られたモノである、というのがポイントであって、元は八幡系の神社があった。それを追い出して今の三島大社が出来たのだ。で八幡神社なんだが

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雨が降っているんだが、徒歩五分なのでちょっくら行ってみた。ついでに肉屋でコロッケも買う。ご覧のように、あまりパッとしない神社だ。おいら、このあたりで生まれ育ったので昔からよく知っているんだが、昔からずっとこんな感じで、雰囲気が薄暗くてひと気がない場所だ。行ってみて気がついたんだが、境内に天神社がある。

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ここにある天神社は、いつからあるのか判らないというほど古くからあるようなんだが、ここでハタと気がつく。天神さんというのは菅原道真公をおまつりしているわけで、いわば、罪を得て島流しにされた罪人を神さまとして拝んでいるわけだ。これ、日本独特の風習で、祟りを恐れて神として拝むわけだ。コレが、三島大社に広大な敷地を乗っ取られた八幡さんにあるというのもまた、味わい深いモノがあるわけだな。いわば、平安時代になって伊豆にも国家体制が浸透してくる中で、既得権益を奪われた「抵抗勢力」や造反勢力の拠点だったのではないかと思われる。で、八幡さんといえば、そらもう、源氏の守り神なわけだ。

八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。

まぁ、八幡さんというのもよく判らない神さまなんだけどね。で、たまたま今日の毎日新聞を見ていたらこんな記事が出ていた。 私の3作:民俗学者・谷川健一さん/中 「青銅の神の足跡」 というんだが、柳田國夫の民俗学が稲作文化中心に偏りすぎているという批判なわけだ。まぁ、柳田は 農商務省農務局農政課に勤務 早稲田大学で「農政学」を講義するという経歴で、貴族院書記官長までつとめるなど、長く役人をやっていたので無理もない部分もあるわけだ。あの時代にしてみれば、柳田のやった仕事というのは実に革命的な物なので、日本の文化人類学というか民俗学というのは、まだまだ「柳田のやり残した仕事を追及」しているわけだ。で、

 ところが、タケルの足跡を実地にたどり、地名や伝説、信仰、神社の由来、氏族名などの伝承資料を丹念にほぐしていくと意外な事実が続々判明した。タケルの足跡は「ことごとく銅や鉄や水銀などの精錬に関係をもつ。ヤマトタケルの最晩年の悲劇、それは古代の金属精錬集団の悲劇の反映にほかならなかった」。足の悪化の具合も水銀中毒の症状そのものだったのだ。

 同じように金属民の足跡を全国に追い、悲劇だけではなく、特異な技能者たちが躍動していた古代像を浮かびあがらせることができた。

 しかし、8世紀ごろを境に彼らは稲作民に圧倒されてゆく。金属民の伝承も、後には稲作民のものにすり替えられてしまったようだ。それは稲を重視する天皇制の確立期とも重なる。「特殊な能力を持つがゆえに珍重されてきた金属民も、今度は特殊なるがゆえに阻害されていった」

稲作文化をその中心にした民というのは、まぁ、言ってみれば国家権力の飼い犬なわけだ。前から言ってるように、農地に縛られる農民というのは逃げられない。木地師とか鍛冶とか漁師とか猟師とかそういう連中は、税金払えと言うと逃げてしまう。国家権力にしてみれば、住所不定の連中を追いかけるより、定住している農民を絞った方が効率が良いわけだ。なので、国家権力が強くなると、システムが農耕中心に組み直される。それが、谷川氏が言っている「8世紀ごろを境に彼ら(金属民)は稲作民に圧倒されてゆく」という事なんだな。で、伊豆の国府がどこにあったのか、なんだが、とりあえずソレも近所なんで、ちょっくら見に行ってきてから続きを書きます。

セーラー服と一晩中

おいらの育った伊豆北部では、セーラー服というと三島北高だったな。県立の女子高で、比較的成績の良い娘が行く学校だった。白いラインが二重で、角に星があしらってある。あの二重線と星を見ただけで胸がドキドキしたもんだが、大仁には大仁高校という県立女子高があって、こちらはラインの角が「大」の字にデザイン化されていた。こちらもなかなか良かったが、なんせ郡部なので田舎臭い娘が多い。ほっぺが赤くて、学校帰りに豚の交尾を観察しているような、そんな感じだ。で、ほかの高校はブレザーが多くて、あまり好ましくなかった。おいらの出た高校も女の子は少なくて、しかも喪服みたいな黒のスーツだった。勘弁してもらいたい。同級生の50人の娘には、そこそこの美人は一人しかいなかった。あとは成績が良いだけが取柄の不細工ネーチャンだった。まぁ、どうでもいい話なんだが。

そもそも、なんで日本で女の子の制服にセーラー服が採用されたのか疑問なんだが、脱がせやすいとか、どこからでも手が入れられるとか、おいら育ちが悪いのでロクな理由が思い浮かばない。セーラー服というのは本来、水兵さんの制服であり、男の服なのだ。それが、20世紀初頭には「子供の服」として定着する。ビスコンティの映画にセーラー服の美少年が出てくるんだが、アレだな。子供は男の子も女の子もセーラー服を着せられていた。日本で女の子にセーラー服を着せるようになったのは、そこら辺の影響だろう。で、女子生徒のセーラー服の起源について論争になっているそうで、

 女子生徒のセーラー服の起源は京都かそれとも福岡か--。学校法人「平安女学院」(京都市)が「日本で初めてセーラー服を導入したのは1920年の当校だ」と発表し、波紋を広げている。これまでは1921年導入の学校法人「福岡女学院」(福岡市)が発祥とされてきた。福岡女学院は「今のスタイルはうちの制服が起源だ」と、一歩も譲らない構えだ。

毎日新聞のNEWSなんだが、リンク先には画像もあるのでお楽しみください。で、おいらむかし、骨董屋でこの時代の女学生の日記を発見した事がある。買って帰ってジックリ読んでみたんだが、素敵なお姉さまとのいけない悪戯・・・なんていう期待していた記述は皆無で、食い物のことばかり書いてあった。色気より食い気。

 少子化で生き残りにしのぎを削る私学にとって、学校の独自色や伝統は生徒集めの重要な要素となる。平安女学院の広報担当者は「服飾史を覆す新事実だ。これまで伝統を売り込もうという意識が足りなかった」と話し、今後大々的に情報を発信していく考えだ。一方、収まらないのは福岡女学院。「多くの学校がうちの制服を参考にして、セーラー服を導入してきた。入学パンフの記載を変えるつもりはない」と広報担当者は強気だ。

まぁ、どっちもどっちで、どうでもいいです。それよりどこか、ブルマーを復活させてくれ。ブルマーに包まれたお尻は永遠の憧れだ。

で、考えてみたら、おいら、カメラマンだった。3年ほど前には写真集を4冊も出していたんだった。テーマはセーラー服の春夏秋冬。ずいぶんむかし、自販機ポルノ業界でカメラマンをやっていた時代には、ちょっと事情があってセーラー服モノはあまり撮ってないんだよね。なので、なんかやり残した仕事があるような気分に駆られて、一気に撮ったわけだ。使ったセーラー服はすべて、ヤフオクで落としたモノ。昭和レトロというか、一周おくれのトップランナーみたいなもんです。おいらの本はあんまり売れなくて発行部数も少ないので、絶版になって10年もするとプレミア付くことが多いんだが、まぁ、お好きな方はどうぞ。

Sakurahime Shojoka

さくら姫―浜ひとみ写真集   処女香(ム・ス・メ・ノ・カ・ホ・リ)―一ノ瀬悠写真集

Namanusume Hinaotome 

天然生娘―阿立未来写真集     雛乙女 ヒ・ナ・オ・ト・メ 藍沢ゆうな写真集

誰でも1万円札が刷れるようになります

日本貨幣カタログ〈2007年版〉 日本貨幣カタログ〈2007年版〉
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まぁ、どう考えてもキチガイ沙汰としか言いようがないんだが、よりによって
造幣局と国立印刷局を民営化という話が出てきた。理由としては、造幣局は黒字であって、政府がカネを出す必要がないし、国立印刷局もけっこう稼いでいて、さしてカネがかからないので、国立である必要がない、というんだが、おいおい、ちょっと待てよ、民営化ってどういう意味なのか、バカ役人どもは判って言ってるのか?

 政府は6日、現在進めている独立行政法人(独法)の整理合理化に関連し、101ある独法のうち、予算に占める国からの財政支出の割合(財政依存度)が低い20法人以上の民営化を目指す方針を固めた。
 2007年末に整理合理化計画を策定し、閣議決定する予定だ。民営化の対象には、造幣局や国立印刷局、日本万国博覧会記念機構などがあがっている。

バンパク機構なんざ跡地の地主しかやってないんでどうでもいいんだが、造幣局というのは貨幣を作っているわけだ。また、金塊買ったりすると刻印が押してあるんだが、アレも造幣局、さらに宝飾品の18Kとかの刻印も造幣局。それらを「民営化」するという事は、つまり、どっかの得体の知れない会社が勝手に500円玉作ってばら撒いたり、メッキのアクセサリーに18Kの刻印をバンバン押したりしてもいいという事になる。民営化っていうのは、そういう意味だろ? 違うとは言わせないぞ。

独立行政法人 造幣局(どくりつぎょうせいほうじん ぞうへいきょく)は、硬貨の製造、勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業を行う日本の機関。

で、もっと恐ろしいのが国立印刷局の民営化だ。500円玉の偽造なんていうのは、どっかの隣の国が国家をあげてやっているんだが、国立印刷局が民営化されると、誰でも1万円札を作っていい事になる。

独立行政法人国立印刷局(どくりつぎょうせいほうじん こくりついんさつきょく)とは、紙幣・切手・旅券・郵便貯金通帳・証券類・政府刊行物等の印刷を主に行う独立行政法人。東京都港区に本局をおく他、全国に7工場(虎の門、滝野川、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)を運営している。特定独立行政法人であり、職員の身分は国家公務員とされている。

そもそも、だ。造幣局も国立印刷局も、「営利企業ではない」という部分で、その信用を保っているわけだ。ソロバン勘定優先で「印刷ちょっとズレたんで捨てなきゃなんないけど、勿体ないから横流しして稼ぎました」とか「お得意さんの持ち込んだ金が、ちょっと純度低いけど、なんせお得意さんなんで刻印押しちゃいました」とか言っていたら、信用が保てない。で、民間企業というのはそういう行為の上で成立している。民営化されて営利企業になった会社が紙幣や貨幣を作りはじめたら、いったい、どこの誰が、その価値を保証してくれるんだ?

ところで、国家機密であまり知られてないんだが、日本の国立印刷局では日本だけじゃない、よその国の紙幣も作っている。世界には、まともに紙幣なんぞ印刷できないような国が多いのだ。で、仮にそれだけの印刷技術を持っている国でも、それが民間企業だったら、とても任せられない。何故なら、民間企業にお札なんぞ印刷させたら絶対に横流しするからだ。なので、おいら、予言しておく。造幣局や国立印刷局を民営化したら、絶対に偽札だらけになるぞ。

2007/10/07

ヨット教室が始まった

新米ヨットマンのためのセーリングクルーザー虎の巻―これ1冊でセーリングをマスター外洋ヨットの入門書 新米ヨットマンのためのセーリングクルーザー虎の巻―これ1冊でセーリングをマスター外洋ヨットの入門書
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:2007-02

このサイトから応募して来られた方も含めて、11名でAmiヨットクラブの秋季ヨットスクールがオープンした。主にこの34フィートクルーザーを使って、他に20フィートのヨット、52フィートの帆船といったラインナップでヨットマンを養成します。

なお、来年の1月から3月までの冬季ヨットスクール生徒も募集中。伊豆は暖かいので冬でもヨットに乗れます。つうか、風や天気の具合は冬が一番です。お問い合わせは下記アドレスまで。

Infogif

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お馴染み、内浦造船所なんだが、ここは北条水軍の拠点であった長浜城の隣だ。奥に見える小山が長浜城址。Amiヨットクラブのヨットマン養成講座は、まず、ヨットのメンテナンスから始まるのだ。まぁ、お金持ちだったらマリーナに預けっぱなしで、送られてくる請求書の金額も見ないでどんどん払ってやればそれでいいんだが、なかなかそうも行かないわけでね。

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昨日、すでに貼りついた貝殻はこそげ落としている。この船はふた夏もほったらかしだったのでボロボロだ。

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スクリューを外したところ。まだジンクが貼りついているので、これも外す。

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ここまでむき出しにしてしまう。

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スクリューにも付着物がいっぱい付いている。これは丁寧にサンダーで磨く。

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電動工具で怪我をしないように要注意。

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ここまでピカピカになったが、細かい部分までは届かないので、残りはサンドペーパーを使って手で磨く。

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船底塗料を塗るためのマスキング。仕上がりを決定するので、落ち着いてゆっくりやろう。曲線のきつい部分は継ぎ足ししながらでないとうまく行かないかも知れない。

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ローラーで塗っていくのだが、タップリ塗料を含んでいると垂れるので、奥から手前に引くようにすると塗りやすい。作業が終わる頃には出来の悪い殺人犯みたいに顔や手が赤く染まっているかも知れない。

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本日の作業はここまで。スクリューの構造は船によって違うんだが、コレは複雑なタイプだな。まだ、スクリューにも専用の塗料を塗って組み立てる作業があるわけだ。で、船底塗料塗りは二度塗り。何年かに一度は、スクレーパーで徹底的に剥がして塗り直しする。また、レース艇なんぞでは、徹底的に下地を作って、なおかつ刷毛で横向きに塗るといった手間の掛け方をするらしい。

で、夜には帆船Ami号で花火大会に繰り出した。Amiヨットクラブは現在、三隻の船を所有しているので、なんだか常時メンテナンスやってるような気がする。

三島大明神のスキャンダル

海上の道 海上の道
価格:¥ 1,365(税込)
発売日:2005-07

日本人はどこから来たか、という話は延々と論争が続いているんだが、何も、難しく考えなくても結論は出ているわけだ。地中から湧いて出てくるわけもないし、空から降って来るわけもないので、海を渡って来たに決まっている。

で、かつてスカンジナビア号があった木負という土地なんだが、内緒なんだが、東京の船会社が跡地を買い取ったそうだ。巨大なマリーナを建設するんだそうで、伊豆箱根鉄道が持っていた土地なんだが、約7000坪ほどある。ところが、なかなか開発が厄介なんだが、知ってるのかな? あすこは縄文時代の遺跡があるところで、掘るとボコボコ土器や貝塚が出てくるらしい。で、木負から沼津方面にちょっと戻って、蜜柑倉庫の脇から山に入って行くと、田方平野の大仁に出る。その道の途中に雄飛滝というのがあるんだが、そこにも縄文時代の遺跡があるそうだ。

現代人は、海を渡るには大きな船が必要だろうと考えるんだが、実はそうでもない。大きな船が必要なのはエンジンなんか積むからで、エンジンは燃料がないと動かないので、船も大きくなる。個人所有で日本でもっとも大きなクルーザーは、加山雄三の光進丸なのかも知れないが、アレ、いつも伊豆の安良里港に停泊しているわけだ。ずいぷん大きくて100屯くらいありそうだが、アレでグアム島まで行くとなったら大冒険。太平洋横断なんて考えられない。というのも、太平洋をエンジンで渡るには、途方もない量の燃料が必要なのだ。ところが、昔の船はエンジンがないので、小さくても遠くまで行ける。アウトリガーのカヌーに帆を張れば、どこに行くにも楽ちんだ。嵐が怖いのだったら、岸沿いにノロノロ走って、天気が悪くなったら港に入ればいい。遣唐使船なんぞはよく遭難しているんだが、アレは船が大きすぎてかえって不安定だったそうだ。むしろ北九州や対馬あたりの漁民の小さな船の方が、朝鮮半島に楽々、渡っていたという説もある。

日本の古代史における海運というのはまだまだ研究が進んでないんだが、日本海を中心に次第に解明されつつある。で、文献が残されてないんだが、もちろん太平洋側にも海運はあったらしい。

 日本海航路は文献などでも見られるが、太平洋航路の利用の証拠は少ない。しかし伊豆地方などには京でつくられたと見られる平安仏が多数見うけられ、中には沖で難破した船から漂着したとの伝承を持つものもある。また、法住寺での狼藉の咎で伊豆に流された文覚上人は、ちょうど伊豆から船で年貢を鳥羽まで運んできた伊豆国府の在庁官人の戻り舟に同乗して伊豆に至ったと伝えられている。これらのことから、太平洋航路も平安時代後期には頻繁に利用されていたと推定される。

伊豆半島は古くから海産物を都に献上していた。乾しアワビとか乾しガツオなんぞ送っていたようだが、田子とか戸田みたいな陸の孤島みたいな土地から陸路で運んでいたとも思えないので、当然、船で運んでいたのだろう。風向きの良いうららかな午後に、西伊豆をヨットでフワフワと漂っていると、そうした古代人の旅というのが実感できるような気がする。

で、三島大社だ。ここはネットゲリラなので、らしく、スキャンダルなど取りあげてみよう。三島大社の神様にはおメカケさんが沢山、という話で。

 伊豆の三島神社は、最古のものは三宅島にまつられたといふ。伊予の三島明神の分れとされるが、伊豆諸島では三島の神は事代主(ことしろぬし)神とされることが多い。火山列島の伊豆諸島に住む人々は、御神火を恐れて暮らしてはきたが、事代主神が火山の噴火のたびに島を広げてくださるといふ信仰があるといふ。

 三島明神の主な后神は次の島にまつられてゐる。
  波布比売(はぶ大后)  波布比売命神社 大島
  伊賀牟比売(伊古奈比売)  后神社   三宅島伊賀谷
  佐岐多麻比売  御笏神社  三宅島神着
  久爾都比売(泊御途口大后明神)  泊神社   新島
  阿波売命(三島神社の本后)  阿波命神社   神津島

伝承によれば、三島明神は三宅島から伊豆の白浜に上陸したと言われているんだが、何の事はない、三宅島に女が二人、そこから神津島に渡ってそこでも女を作り、さらに新島でも女を作り、大島でも女を作り、そこから対岸の白浜に渡って来たという事になる。港々に女あり。なるほど。

ところで、最近、箱根外輪山が活発に地震を起こしているという話があるわけだ。凄いね、いきなり話が歴史から地質学に移るんだもの。さあ、みんな脳味噌を理系に切り替えてくれ。で、伊豆半島というのはフィリピン海プレートに乗っかっているわけで、それが本土に衝突してズリズリと押しあげているわけだ。で、辛抱タマランと持ちあがってしまったのが富士山なんだが、このあたりの火山活動というのは、南側から順番に北上してくる、という特徴がある。そういえば、三宅島が噴火して、大島が噴火して、そう来たら次は箱根だよね。で、箱根の次は富士山。有史以来、富士箱根火山帯は何度もそれを繰り返している。

で、ここからはおいらの勝手な推測なんだが、どこかから黒潮に乗ってやってきた連中がいるわけだ。あるいはペルシャ系難民かも知れないし、ユダヤの失われた氏族かも知れない。で、ソイツらが三宅島に上陸する。やれやれ、ココが安住の地だ、とひと息ついたのも束の間、三宅島大噴火、あわてて隣の神津島に逃げるんだが、今度は神津島が噴火、・・・というようなわけで、北上するたびに大噴火に遭遇するわけだな。奇しくも、富士箱根火山帯の活動パターンと北上が一致してしまうわけだ。そこで、逃げる渡来民には、火を恐れ、火をカミとして崇拝する信仰が生まれる。で、伊豆山神社(日金山)の祭神は火の神である火牟須比命(ほむすびのみこと)だし、箱根神社の祭神のひと柱は彦火火出見尊であり、これは「コノハナノサクヤビメが火中で生んだ三神の末子で、火が消えた時に生まれたのでホオリ(ホヲリ)と名附けた」という神だ。伊豆という土地は、気候も温暖で過ごしやすいんだが、地震が多くてたまに噴火騒動があるのが玉に瑕なんだが、まぁ、古代人もそんな気持ちを火の神信仰によって紛らわしたのだろう。で、三島大社なんだが、ここは何故か、火の神ではない。

大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)、御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称しています。

大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます

三島大社の祭神については江戸時代から平田篤胤による指摘があって変更される、などの経緯があったようなんだが、とりあえず現在では上記のようになっている。で、神社の縁起については

創建に関しては極めて古く不明であるが、三宅島(現 富賀神社)→下田・白浜海岸(現 伊古奈比咩命神社)→大仁町(現 広瀬神社)→現在地と遷宮したとの伝承がある。他に、伊予国大三島の大山祇神社からの分社との説もある。

延喜式神名帳には「伊豆国賀茂郡 伊豆三島神社」として記載されている。延喜式が書かれた平安時代初期には賀茂郡の下田・白浜海岸に正妃・伊古奈比咩命を祀る神社と並んで建っていた。白浜海岸には現在、伊古奈比咩命を主祭神とする伊古奈比咩命神社がある。

現在の三嶋大社は、平安中期以降に田方郡の国府の近くに新宮として分祀されたものであるとされる。

というわけで、白浜の伊古奈比咩命神社との関係がはっきりしているんだが、その伊古奈比咩命神社の祭神はというと、「伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)、その夫である三嶋大明神(みしまだいみょうじん、三島大明神や三嶋明神などとも書く)、および夫の随神である見目(みめ、女神と言われる)、若宮(わかみや)、剣之御子(つるぎのみこ)の五柱」という事になっているわけだ。で、三嶋大明神が各島に后や子を置き、各島と当地を廻りながら末永く暮らしたとする伝承があるのだそうで、ここでやっぱり、港々に女あり、という話になる。どうも、正史と伝承との乖離が見られるんだが、古い事なのでどれが正しいとも言えないわけだ。で、

西暦645年、大化の改新によって天皇を中心とした新しい国づくりが始まり、701年大宝律令の制定によって中央集権的な国家ができあがりました。
680年、伊豆は験河国から分かれて独立しました。国の中心であるいまの県庁にあたる、国府の位置については明らかではありませんが、平成元年に三嶋大社の境内から発掘された掘立柱の建物跡が注目されました。
そこは三島の中心で、田方郡内であり、中世の文献に記されているように三嶋大社の近くです。そこで「静岡県史」ではこの遺跡を伊豆国府跡の一部と推定しています。

最近の発掘調査では、長く所在不明だった伊豆の国府が、実は三島大社の境内にあったのではないか、という跡が出てきている。そもそも、今の三島大社はもともとあった若宮八幡社を乗っ取るようにして平安時代にやってきたという話もあるので、どうもそこら辺が臭うような気がするんだが、結論はまた続きで書きます。

麻生太郎は隠れ共産主義者

ブルブル ロディ (レッド) ブルブル ロディ (レッド)
価格:¥ 1,554(税込)
発売日:

ネットでは大人気の麻生さんなんだが、ありゃ、首相になれないよ、という声があがっているようで。フジテレビにインタビューされた時の返事なんだが、

麻生2ちゃんねる?たまに書き込んでますよ
「(掲示板に)書いたりすることは、時々やったりすることがある」
「2ちゃんねるに」
「新聞記事なんかよりよっぽどいいとこをついてますよ」

というわけで、佐藤立志のブログで笑われてます。ちなみに佐藤さんは2ちゃんねるが大嫌いw

●麻生太郎が「2ちゃんねる」に書き込み
 今日のフジTVの「ハッケン!!」で、「2ちゃんねる」に書き込んでいたことを告白した。きっと若者に人気あると思って言っているだろうが、損害賠償金を踏み倒されている被害者が聞いたら怒るよ。
 漫画に「2にちゃんねる」ですか、ちょっと総理になる品格に問題ありかw

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まぁ、2ちゃんねる見るヤツなんか人間の屑ですから。つうか、このインタビューは麻生さんち事務所だったようだが、背後にゲバラのポスターが見えているんだが、いつから麻生さんは共産主義者になったんだろうw つうか、壁紙にゲバラって、どっかのインチキサイトじゃないんだから(以下14文字末梢)

で、もういっちょ。アカシックレコードさんちでも
麻生は首相になれない説をやってます。もっともこちらは「拉致問題依存症」について、の考察なんだが。拉致問題依存症というのは、アベッチがコレで潰れましたという恐ろしい病で、アカシックレコードさんちの見解によれば、「帰って来ない拉致被害者はもう死んでいる。なのに、安倍はそれを隠して人気取りに使っていた」というモノだ。事の真否は不明。つうか、北朝鮮の絡む話はすべて信用できないので、おいらの見解は控えるが。

2007年9月17日、自民党総裁選の大阪での街頭演説で、麻生も「拉致被害者は全員生きている」と口走ったので(産経新聞Web版2007年9月17日「福田氏、拉致解決に意欲 『圧力』必要と麻生氏」)、麻生も安倍と同じ「依存症」にかかっており、米国から見て信用できない政治家であることが判明した。したがって、米国は今後麻生が首相になることを許さないであろう。
麻生ファンの皆さん、残念でしたね。

ところで、むかし、平山連浣というマニアックなSM読者がいた。25年前にSM誌の編集やっていた人ならだれでも知ってるんだが、この人、とにかく浣腸にしか興味がない。で、とにかく熱心なのだ。毎号、便箋10枚以上の感想文を送ってくるんだが、結論は常に、「もっと浣腸を!」で終わるわけだ。その当時のSM誌というのは今ほどマニアックではなかったので、人気があるのは陰毛剃ってバイブ挿入して、極力、修正なしでそれを見せるというコンテンツだったんだが、とりかく、オッサンの浣腸攻勢が凄いわけだ。で、初心者の編集さんが騙される。SM誌なんて、実は滅多にファンレターなんか来ないからね。今と違って素人の投稿もなかったし。

「むかしなあ、」と、古い編集者が教えてくれたんだが、昭和30年代、女相撲マニアというのがちょっと流行った事があるわけだ。で、当時のマニア誌というと「風俗奇譚」とかあったんだが、やはり、女相撲マニアの投稿がドカドカ届くわけだ。もっと記事を載せてくれ、もっと写真を載せてくれ、と。「日本中に、物凄く熱心な女相撲マニアが5人くらい、いたんだよ。そいつらが名前を変えて何通も送って来ていたんだ」というわけで、女相撲だらけになった変態雑誌が続々と潰れるという事態が起きて、以後、エロ本業界では「マニアを相手にするな」という教訓が生まれるんだが、とかく、人気とかアンケートとかいうのは信用できないわけだ。2ちゃんねるの世論というのもまた、平山連浣や女相撲マニアみたいなもんで、声が大きいだけでの少数派なのかも知れない。つうか、ネット通を自慢するだけなら金豚もやってるそうで。

金総書記「ネット専門家」を自称=韓国通信社
 【ソウル5日時事】韓国の聯合ニュースは5日、北朝鮮の金正日労働党総書記が3日の盧武鉉大統領との南北首脳会談で、「インターネット専門家」を自称していたと報じた。金総書記はIT(情報技術)分野に詳しいとされており、2000年に訪朝したオルブライト米国務長官(当時)に電子メールのアドレスを尋ねたこともある。

ジョンナムのメール友達という話は前にどっかであったけどな。で、元祖人気取り政治家のアベッチは拉致依存症が悪化してすっかり腑抜けになってしまったようで、民主党が証人喚問を準備しているというネタにブルって自宅ヒキコモリ、某議員が電話した時は、電話口から嗚咽(おえつ)が聞こえたとか、とても人前に出せる状態じゃないとか、ゲンダイネットに出てます

「民主党が安倍前首相の証人喚問を準備しているというのです。なぜ、政権を投げ出したのか、理由を聞くつもりです。一時は“脱税疑惑”が理由だと囁かれた。その真相を問いただす方針です。なにより、当初、小沢代表が党首会談に応じなかったことを退陣理由に挙げたことにカンカンになっている。しかし、証人喚問までやられたら、安倍晋三の政治生命はホントに終わってしまう。それだけは絶対に避けたい。そこで国会会期中は自宅療養する。さすがに、これなら民主党も証人喚問を要求できないと計算しているようです」(政界事情通)

なんだか、みっともない事になったもんだ。死者に鞭打つのか、という声が聞こえてきそうなんだが、おいおい、まだ死んでないぞw つうか、まだ国会議員だぞw まぁ、清和会は今までせっせと政敵を潰しまくって来たんだから、そら、追われる立場になったら相手も容赦なしだろう。恐怖政治というのはそういうもんだ。

僕の考えでは、福田内閣の役割は、何もやらないことである。小泉・安倍政権が、あれもこれもと、思いつきやひらめきでやってきた「改革ごつこ」に終止符を打ち、安定した保守政治を再構築することにある。「日本は遅れている」「改革しなければ日本は沈没する」という前提認識が根本的に間違っている。すでに日本は、どのような国も到達できなかったような「豊かで幸福な国」に到達している。「改革ごっこ」に夢中になったから、小泉・安倍政権下の日本は国家的に衰退し、国際的に地盤沈下したのである。

口先では「改革」「改革」と叫びつつ、やって来た事は旧利権を握るヤツを潰し、自分たちが新利権を漁る事だけだったんだから、そら、国がメチャクチャになるわけだ。アメリカの圧力で、とか言い訳する人もいるんだが、それを許容するばかりか、利用までして来たんだから、アメリカのせいにしちゃいかんよ。まぁ、そういうヤツは、今度は何でも中国のせいにするんだろう。

2007/10/06

毒吐きてっくサイトが消滅

人間失格 ぶっかけザーメン地獄 新藤玲菜・松坂樹梨 人間失格 ぶっかけザーメン地獄 新藤玲菜・松坂樹梨
価格:¥ 2,850(税込)
発売日:2007-01-13

個性的なブロガーがどんどん潰れているようで悲しいんだが、とりあえず、おいらとか二階堂.comとかは潰れない。憎まれっ子、世にはばかると言うからな。迷走気味のキムチさんちとかどうなるのかね? で、以前からくすぶっている毒吐きてっく問題なんだが、きち@石根さんちで怒ってます

御皇室の安寧を謳って浄財を募った責任を軽く考えてはならない。
説明が出来ないのなら詐欺でしかない。
こうして国民運動は活力を削がれる。
巧妙な情報工作テクニックである。
集まったのは至純至誠の浄財と心であることを忘れてはいけない。

愛国心は無頼漢の最後の拠り所byアンブローズ・ビアスという言葉もあるわけだ。世の中に存在する、いわゆる「右翼」とかいう人たちの多くが、国士を気取った単なる恐喝屋さんだったり、ネットウヨクの多くが実はネットカフェ難民やヒキコモリの坊やだったりという事実はあるんだが、まぁ、とりあえずおいら、あんまり偉そうな人間は眉に唾をつけて三歩さがって眺める事にしてます。

で、オフィスマツナガだ。おいら以前に書いたんだが

この人のブログを見て面白いので本を書かせてみよう、と考えた人がいて、連絡を取った。で、実際に書き始めていたんだけどね。コレがなかなかまとまらない。この人のブログを見ると判るんだが、ほとんどが引用なのだ。やたら引用しまくって、それにヨイショのコメントを追加するというスタイル。おいらも他人の事は言えないが(笑)それでは単行本にはならない。大学の卒論レベルだな。で、何度も書き直しさせていたんだが、とうとうまとまらないまま空中分解、と、まぁ、ありがちな話ではある。

というわけで、それがオフィスマツナガさんちだったわけだ。マスコミ人というのは左巻き人間が多いとネットでよく叩かれるんだが、実は右も左もないんでね。商売なんだから、儲かるか儲からないか、というそこが大事。もっと直接的には、どれだけの反響があるのか、という事だ。せっせと為政者を持ち上げてもいいんだが、それでは誰も面白がってくれないし、カネにもならない。他人の粗探しして、厭味な姑風情でネチネチやると売れる。ただ、トレンドとしては右巻きが売れるんじゃないか、と目を付けたスタッフがいて、てっくに本を書かせようとした、という事実はあるわけだ。商売の前には思想もへったくれもない。右翼も左翼も等価。コレを右往左往という(嘘)。で、その経緯をオフィスマツナガさんちで暴露してます

 単行本の企画、プロデュースの仕事をしている北岡記者は、ブログの交流で「てっく」としりあい、実は、うちの松永に紹介して、そこで「お人好し」のボスが「保守系の若い論客」として、「てっく」をとりあげてもいいだろうと、おもうようになり、当方の事務所が企画して、「てっく」の本を出版するということになったのでした。しかし、企画としては一度、通りましたが出版中止となりました。

 北岡記者はこの件で、事務所離脱という判断をしました

まぁ、コレが毒吐きてっくだと思うから腹が立つんで、石川啄木か太宰治だと思えば腹も立たないんだが、こういうタイプの物書きというのは、昔からいくらでもいるわけだ。ただ、書くモノが面白ければとりあえず目を瞑る。それが業界の暗黙の掟だ。それに、てっくがやった事と言うのは、旧宮家復活キャンペーンのために協賛金寄こせと言ってカネ集めて、自分で使ってしまった、という程度の事なわけだ。そら、ユニセフがカネ集めて、集めたカネの多くが職員の給料になってしまいました、というのと似たり寄ったりの程度でしかない。幕末の勤皇の志士とかいう連中も、商人にたかって集めたカネで芸者あげてドンチャン騒ぎやっていた筈だ。おいら、某NPOに100万円ほど寄付した事があるんだが、自分の目で見て、決めたらもう、どう使おうが勝手なんで報告も要らないと渡してやった。半年して訪れたら、タイの山奥においらの名前のついた小学校が出来ていて笑ったんだが、この事件について言えば、カネを出した方も貰った方も修行が足りませんな、という事に尽きる。で、マツナガさんちのコメント欄が面白い。

4. てっくは京都    2007年10月06日 05:15
 京都です。民事の裁判たくさんくらっています。実家はサラ金の担保にはいっています。共謀者は、通称、バリ在住の平沢です。あと、よくいっていたのが、ロスチャイルド代理人の某氏です。石油と絵画の詐欺グループ。おたくのボスはそれを見破ったか、調査したのでしょう。てっくは、松永さんと、遠藤さんと、あと数人の政治家秘書は、自分の手下だといってました。また西尾幹二の原稿は自分が書いているとも。安倍総理からはよく電話がきて、麻生さんとは秘密の携帯ではなしているそうです。なお、二階堂は、嘘つきで詐欺師で、警察庁が逆マークしているといってました。
 そうそう、亡国のイージスの作家とは腹違いの兄弟で、あれを映画化したのは本当は自分で、オフイスマツナガはウソをいっているといってました。
5. てっくは京都    2007年10月06日 05:30
 あと、喜多龍之介は、自分の女で、北岡隆志は、女で松永の愛人。他にも2人愛人がいて、その愛人にブログを書かせいているともいってました。
 奥田先生は、ホモで精神不安定。オレが面倒みている。中国のらんさんは、オレと一回寝たらころりとまいったそうで、それでしょうがなくて本にしてやった。真名さんは、被害妄想で心身症だそうです。山崎行太郎は乞食で、金がないから、大学を世話した。
 ちなみに、スイスのUBCとかいうプライベートバンクに、数億円の個人資産がってそこのカードで決済しているそうですが、なんかいつも置き引きにあって財布やカードをなくしてしまって、あちこちから、3万円、5万円と金を借りまくっていました。私も5万円、貸してしまいました。その割には、安物のスーツきてましたね。

今回は誰もてっくの弁護をする人がいないようなので、ちょっくら弁護してみました。つうか、憂国の志士を気取るにはちょっくら登場人間がお粗末すぎるきらいもないではないが、まぁ、騙すのも騙されるのも自己責任という事でw