|
|
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書くSep 27, 2007
突然だが変な話をしてみたい。
以前、摂理的同時性批判の文章を書いた時、クリスチャン達は、ローマ帝国からの迫害に、愛と犠牲の精神「のみ」で耐え抜いたのではなく、ユダヤ民族を迫害の対象とすることで、犠牲者を別に作り出したことによって、耐え抜いたのではないか?と記しました。 http://plaza.rakuten.co.jp/kuroganeyashiki/diary/200507120000/ また、その過程で、好戦的な性格がキリスト教に内包されたのだと見ることも可能ではないか、とも書いています。 今更ながらだけれど、好戦的な性質を内包したのは「キリスト教が」、であって、キリスト教徒全員がという意味ではない。 それにも関らず、なぜだか知らないけれど、この部分に元栗ことヴェルダンディが反応してしまった意味を考えると笑えますが。。。 まじめな話に戻りますと、そのキリスト教の母体となったユダヤ教徒があつまって作った国、イスラエルも相当好戦的に見えないこともない。 しかし彼らはどちらかと言えば、「神様が、この地を私たちに下さると、アブラハムに約束した」という約束を頑なに守ろうとするが為に、周囲のパレスチナやアラブ系国家と戦っているように見える。 キリスト教はその始祖たるイエス・キリストが激しくサタンと戦われた伝統を引き継いで、内的なサタンとの戦いが最初から要請されていたし、その内的な戦いが外的に展開することも少なくはなかったとは言えると思う。 本来のクリスチャンの戦いというのはサタンとの戦いであって、そこでの闘いに勝利することで、
にある通り、「あなたの姿を通して、神の愛を染み渡らせ、神の愛でこの世を照らす戦いに勝利しなさい」という要請であった。 しかし、人間の堕落性の故なのか何の故かはさておき、実際にキリスト教の版図の拡大の最前線には必ず戦いが付きまとい、征服が伴うという認識を持つ人が少なくない。 実際、神の愛の味を染み渡らせ、神の愛で照らすよりは、「サタンの実体がわが敵である」と認識したとしか思えないような行為も少なくなかった。 宣教師にはそのような動機はなかったであろうが、現実の歴史を振り返る時、そのように見えてしまうことは悲しいことだと思う。 特に他宗教と競合する場合においては、この「敵=サタン」という図式はより如実に現れてきたことは言うまでもない。 そのようなサタンとの戦いの最終決戦者として登場したのが、お父様でありアボジであるという触れ込みで、そのサタンとの戦いへの戦闘要員を募集したのがUCだったが、この募集方法には多少問題があった。 UCがサタンとの戦いに向けての宣戦布告を行ったという看板が掲げられていなかったから、今通っている教会やVCが、そのようなサタンとの戦いの前線基地であるという認識もなかったはずだ。 しかし、なんだか分からないうちにブートキャンプ(修練会)に送り込まれ、新兵としてまずは家族と戦う事を要請され、さらにはこの世をサタンとみなして、この世から万物や人間を武装解除した上で征服し、取り込んでいく事が神側の兵卒として求められた。 もちろん、修練会や礼拝、あるいは様々な機会を通して、神とサタンの闘争の話は何度も行われ、サタン主権であるこの世に対する宣戦布告を行ったのが1954年5月1日の教会創立の日であるとか、そこから7年作戦とか21年作戦とか40年作戦などが数限りなく立案され、作戦行動として21日路程だの40日路程だのが組まれた。 本来は宗教活動のはずだったが、地上天国を建設するために必要であるという名目で、経済活動が奨励され、神が主管する政治を行うためという事で、政治団体も作られた。 当時は宗教を否定する共産主義国家群が威勢を誇っていた時でもあり、UCの信者以外でも、勝共連合の表向きの理念に賛同する人もいた。 この戦いに従事していた兵卒は、自分の行っている活動がなんであれ、神とサタンの戦いの最前線におり、自分の与えられた仕事を勝利する事がサタンへの勝利であると教えられ、必死になって戦った。 その過程において、918ワシントン高地の征服とか、ダンベリー高地の征服とか、モスクワ言論人高地の制服とか、清平入宮高地の征服などの、サタンへの勝利宣言が何度か出されてきた。 中でも1990年2月1日のモスクワ大会の開催は、とうとうあの共産主義の牙城、ソ連にて、反共の闘士の急先鋒であるレバレンド・ムーンがスピーチを行ったものであり、これこそサタンに勝利した証を立てたのだ、と盛んに宣伝されたものだった。 しかし、勝利の凱歌をあげて、サタンが屈服したという宣言も出され、サタンが霊界でお父様の命令によって動いているという証もされたが、そのような大本営発表と比例して、教会の組織はますます混乱の限りを極めていく。 長期戦が続き、数え切れないほど膨大な数の「最後の摂理」というスローガンによる献金摂理が繰り返される中で、数多くの兵隊の胸に、いくつかの疑問が湧き上がるようになっていった。 お父様の勝利そのものと、司令官としての資格に疑問を持つものも現れ、また情報通信技術の発達によって、色々な過去の情報が瞬時に伝わるようになるにつれ、はたして大本営発表どおりに我々は勝利しているのか?という自問をする人間がでてくるのは仕方ないことであったろうと思われる。 果たして、UCが闘っていたサタンとはいったい何だったのか? UCに都合よく解釈された摂理的同時性の前に、既にトインビーが見抜いていたように、歴史は繰り返す。 過去の歴史において、その時の人たちがどのように振舞ったのかを調べてみて、同じような事件が現代においても起こるとすると、今の時代の人間も、ほとんど過去の歴史上の人物達と同じような行動をしていることが分かる。 <「歴史は繰り返す 2」に続く> │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |