レイヴ・カルチャー ―ロック文化との比較から 

 

 

序章 ・・・・・・ 2

 

第1章 レイヴ ・・・・・・ 2

 

第2章 ロックとテクノ ・・・・・・ 4

            2−1.ロックにおける歌詞

2−2.テクノにおけるリズム

2−3.「リズム」に集う

 

第3章 レイヴの中の女性たち ・・・・・・ 9

3−1.女性にとってのロック

3−2.レイヴの中の「踊り」

        3−3.女性たちの身振り

 

第4章 レイヴの力 ・・・・・・ 15

4−1.ロックフェスティバルに見るロックの力

・共同体から音楽市場へ

・ロックの力の再現

4−2.レイヴパーティに見るレイヴの力

・レイヴのDIY精神

・新たな音楽の力

 

結論 ・・・・・・ 24

 

参考文献表 ・・・・・・ 25

 

 

 

 

 

 

 

 

序章

 

 「レイヴ(RAVE)」とは1988年にイギリスから始まったテクノという電子音楽で踊る、野外でのダンスムーブメントのことである。毎晩あらゆる所で大音量を鳴らし踊り狂う光景は、「レイヴ(RAVE)」という言葉が、「うわごとを言う、わめく、夢中になって喋る、(風・海などが)荒れ狂う」という意味を指すその通りのような熱狂ぶりで、「現代の「おかげまいり」、テクノ版「ええじゃないか」」[1]という言葉にその雰囲気が感じ取ることができるだろう。

 しかし、イギリスにおいて始まったレイヴは1970年代のパンク・ロック以来の新しい音楽の熱狂であった。

レイヴの中にある音楽、テクノはロックとは全く形態の異なる音楽であるが、かつてのロックがイギリスの労働者階級の文化やアメリカの若者文化からヒッピー・カルチャーまでを支えていたように、「レイヴ・カルチャー」としてひとつの文化を作り出し、支える力を持っている。若者たちの代表的な音楽であったロックと同じように、今、ダンスミュージックが様々なジャンルを持ち、若者たちの間で支持され始めている。

ロックは若者文化を代表するものでもあり、社会にも大きな影響を与えたが、その影響力は失われつつある。その中で、レイヴとテクノはどのような力を持つのだろうか。

この論文では、ダンスミュージック(テクノ)の文化としてのレイヴ・カルチャーを、同じように音楽が強烈な存在を持ったロックの文化との比較によって考察したい。

 

 

第1章 レイヴ

 

ここではまずレイヴがどのようなところから始まって、どのような特徴を持った文化であったのかを表面的に見ていこうと思う。

 

レイヴの爆発的な流行は、イギリスにある。

アメリカで流行したディスコミュージックのひとつであった「ハウス」と呼ばれるダンスミュージックが、イギリスに入ってきた。このようなダンスミュージックが流行り始めた頃、1987年末、ロンドンの4人組のDJがスペイン領のイビザ島で行われていたダンスイベントの熱気を持ち帰ったのと、シカゴで生まれた「アシッド・ハウス」と呼ばれるタイプの音楽がイギリスに流れ込んできたことをきっかけに、1988年一大ダンスムーブメントが起こった。

それまでは服装で客を選んでいたようなクラブの中に入ることができなかった一部の人間が、クラブではない会場でアシッド・ハウス・パーティを開き、そのような屋外の広い場所を利用した野外パーティが広まっていく。これがレイヴの始まりであり、その後野外のダンスパーティは急速的に広まって、大流行した。

どのくらい流行したかというと、法律でこの行為を制限しなくてはならないほどのものだった。一晩中踊り続けるという尋常でない行為を「快楽」にさせたのには、ドラッグの存在は否めないのだが、そのことが警察との対立を生み出した。そして、このドラッグ使用時の事故で死者が出た。20代の女性だった。このことはマスメディアのモラル・パニックにさらされ、警察はレイヴの中の麻薬を取り締まるためにも、大きく動き出した。

一方でレイヴの熱狂はますます加速し、若者たちは警察の手から逃れるためにインターネットなどの情報を通じてレイヴの開催場所や日時を探したり、レイヴが行われていそうな場所をドライブしながら探したりするなどして、レイヴを続けていた。そのような状況に対して、1994年、イギリス政府は「クリミナル・ジャスティス・アクト」という、反レイヴ法を制定した。この法律は「100人以上」の集団が「野外でレペティブ・ビーツ(一定のリズムを繰り返す音楽)という性格を持つ音楽」を聴いていて、「警官がそれを危険と判断した場合に」取り締まることができるというものだった。判断の裁量は警官に任されていて、黙秘権は認められていない。レイヴというパーティが始まってから、非合法ドラッグの問題や騒音問題で警察と小競り合いをしていたレイヴは、とうとう法律で完全なる「敵」とされた。

 

法律で取り締まられるようになって、初期のレイヴにあった本当に自由で開放的で爆発的な空気はなくなったものの、レイヴは「セカンド・サマー・オブ・ラブ」とまで呼ばれた。この呼称の「セカンド・サマー・オブ・ラブ」とは、「ヒッピー・カルチャー(=サマー・オブ・ラブ)の再来」を意味している。

「サマー・オブ・ラブ」は60年代、アメリカの若者たちによって生まれたヒッピー・カルチャーのことである。ヒッピーと呼ばれた若者たちは、ベトナム戦争に反対し、アメリカの資本主義社会の体制に対抗し、愛と平和を唱えた。彼らは資本主義社会への対抗から家を出て、自分たち独自の共同体(社会)を作って生活した。

彼らは、資本主義社会を生み出すあらゆる要素の変革を求めた。テクノロジーへの対抗から自然の中での生活をはじめ、新しい社会の思想の拠り所として東洋思想を求めて、フリーセックスやグループ結婚など親の世代の家族のあり方から抜け出そうとした。

このような傾向を持ちながら、彼らは緊迫して社会と戦っていたのではなく、「ラブ&ピース」を文字通り実践することによって社会に対抗するという、笑顔に満ち溢れた集団だった。

レイヴも、そのような笑顔に満ち溢れた集団であった。このような集団があちこちにパーティという共同体を作っていったことが、「サマー・オブ・ラブ」のヒッピーコミューンを思い出させたのである。

実際両者ともドラッグと共に広がり、東洋思想の聖地を「利用」していたが、ヒッピーたちのLSDが彼らの思想の展開を助けていたのに対し、レイヴァーたちのMDMAは踊る快楽を高めるための身体性に結びつき、ヒッピーたちにとって思想の拠り所であった聖地は、レイヴァーたちにとっては気兼ねなくパーティを開ける観光地になっていた。レイヴは、ヒッピー・カルチャーのように社会への明確な対抗を表す集団ではなかったのである。

 

「クリミナル・ジャスティス・アクト」以降、警察に許可を得たパーティと、そうでないパーティとに分かれるようになった。警察に警備名目でお金を払うことによって許可を得たレイヴには、大きなスポンサーがつく。一方無許可のレイヴは、山奥で行われたり、国外などで盛んに行われたりするようになった。いずれにしても、その後もレイヴ自体は終わることなく広まっていった。

それまでイギリスの若者たちの中心にあったロックの音楽シーンも、クラブやレイヴでかかった音楽が、そのままイギリスのヒットチャートに現れたりするなど、ダンスフロアはイギリス若者たちの音楽の流行をはじめ、ファッションなど若者たちの文化そのものを作り出す場となった。

そしてレイヴはドイツ、オランダ、ベルギー、旧ユーゴスラビアのヨーロッパ各国から中国や日本にまで広まっているのである。

 

 

2章 ロックとテクノ

 

まずは、ロック文化とレイヴ・カルチャーを比較するにあたって重要な比較のポイントである、それぞれの文化の中にある音楽、ロックとダンスミュージックという音楽の違いと、その音楽が各々の文化の中でどのような役割を持っていたのかを見ていく。

 

2−1.ロックにおける歌詞

 

ロックというと、荒々しく暴力的なイメージが伴う。このイメージはロックの音楽性に留まらず、ステージに立つロックミュージシャンの身振り、服装、ファンの行動など、ロックという音楽に関わるあらゆる要素によって強調されている。しかし、これはロックが若者たちの間で流行し、彼らによって付け足されていった要素である。では元々のシンプルなロックとは、どのようなものだったのだろうか。 

ロックの原型は、ロックンロールにある。普段両者とも同じ意味として何気なく使われているが、ロックはロックンロールから派生した「別物」である。

「ロックンロール」という言葉はアメリカで白人が聴く黒人のブルースのことを指していた。1955年の映画『暴力教室』の中の挿入歌だった『ロック・アラウンド・ザ・クロック』[2]が、ロックンロールの最初のヒット曲と言われている。映画の中で自由気ままに大騒ぎして大人たちを困らせる少年たちとこの曲の雰囲気が合致し、ロックンロールはそのような破天荒な若者たちというイメージを持つ。

このロックンロールはイギリスにも渡り、特に労働者階級の若者たちの間で人気を得る。「テディ・ボーイ」や「ロッカーズ」といった、服装や身振りにロックンロールの影響を強く反映した若者たちを生み出す。ビートルズはこのようなロックンロールの影響下のもと、様々なロックンロールのサウンドを生み出していった。

そのようなロックンロールが「ロック」に変わったのは、ボブ・ディランの登場にあるという。[3]中流階級たちのフォーク・ソングから「低俗な」ロックンロールに転向したボブ・ディランによって、「フォーク・ロック」が生まれる。身振りや服装だけでなく、歌詞がロックンロールの中で慎重に扱われるようになった。つまりここで音楽性にだけではなく、詞の意味を問われるものになったものが、ロックになったと言えるだろう。

 詞が強烈な存在を持つようになって、ロックはアメリカでヒッピー・カルチャーという若者たちの改革である対抗文化に取り入れられていった。彼らの中で、ロックはあらゆる面で社会や大人への対抗の精神を代弁してくれる媒体であった。この時ロックは単なる音楽以上の力を持った社会性を帯びていて、対抗文化の中の武器となった。

イギリスではビートルズを始め、ロックのサウンド面で発展してきていて、ロックが社会性を持ったのは、アメリカでヒッピー・カルチャーが終焉を迎えた後に現れたパンク・ロックが流れ込んだときである。

1975年に結成された「セックス・ピストルズ」というパンクバンドは切り裂いた服を着て髪の毛を逆立てさせる身振りと、『アナ―キー・イン・ザ・UK[4]という曲の中で直接的にイギリス社会を批判する言葉を叫んだ。ロックという音楽がその文化そのものを担う大きな力を持っているものであることは、例えばセックス・ピストルズに「その衣装をやめなさい」というのではなく、「その歌をやめなさい」と言われる点からわかるだろう。

『アナ―キー・イン・ザ・UK』は放送禁止の指定を受け販売も中止されたが、2枚目のシングルCD『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』[5]は、ヒットチャートの1位となった。

一言にロックが強い影響力を持ったと言っても、ロックという音楽が作り出していった要素は様々で、ファッションや身振りによっても訴えるロックらしさはある。しかし、ロックンロールの中で歌詞が「詩」となって意味を持ったところにロックの原点があり、音楽として最も直接的に訴えかけるロックの力とは、やはり「声・言葉の力」であった。

 

2−2.テクノにおけるリズム

 

一方レイヴを支えている音楽は、テクノと呼ばれるダンスミュージックである。

「テクノ(Techno)」はテクノロジー(Technology)という言葉からきていると言われるように、機械によって作られる音楽である。一言にテクノと言っても「ハウス」や「ゴア・トランス」、「ミニマルテクノ」、「ドラムンベース」などその種類(ジャンル)は様々であるが、これらの「電子音楽」を総じて「テクノ」と呼ぶようになっている。

レイヴのムーブメントを作り出したのは、「アシッド・ハウス」と呼ばれる音楽だ。「アシッド・ハウス」は「ハウス」と呼ばれるジャンルのうちのひとつで、TB303という機械を使って作られた音のことである。

レイヴが発展していくにつれて、ドイツで発展していたテクノなどあらゆるテクノを取り入れるようになり、今では様々なジャンルの電子音楽がレイヴの中で流れている。

これらの特徴としては機械で作られた音がメロディとリズムを作る音楽である。ロックがギターやベースといったいくつかの楽器を鳴らしていたのとは違って、ひとつの機械からあらゆる音とリズムが作られる。

このような機械を使って音楽を作り出す手法は、アメリカのヒップホップの誕生にある「サンプリング」という技術が生まれたことから始まる。「アシッド・ハウス」もシカゴで生まれ、イギリスへ流れてきたものだ。アメリカではこの流れがヒップホップへと結びつき、イギリスではダンスミュージックとして爆発的に広まり、レイヴとなった。

 

色々な社会的な問題(騒音問題、ドラッグ、建物の占拠など)を抱えて広まっていくレイヴに対して政府が出した規制は、再び音楽に向けられている。

「クリミナル・ジャスティス・アクト」はレイヴに関して、「反復ビートの連続的放出("the emission of a succession of repetitive beats")」を禁じている。

テクノミュージックにおいて規制されているのは、リズムである。ロックが歌詞を危険視されたことと同様に、テクノの中でリズムが危険視されているというのは、リズムの力を公に認めたことにもなる。

この「クリミナル・ジャスティス・アクト」が制定されるとき、様々な反対運動が行われたが、その中で「オウテカ」というテクノ・ミュージシャンは『Anti EP[6]というレコードの中で、「“ Warning. ’Lost’ and ’Djarum’ contain repetitive beats. We advise you not to play these tracks if the Criminal Justice Bill becomes law.”(警告!”Lost“と”Djrum“には反復ビートが含まれています。Criminal Justice法案が法制化された場合には、これらのトラックをかけないようお薦めします)[7]と表示して、リズムを規制することを茶化しつつも、それがテクノという音楽の本髄を封じ込めてしまうことであることを証明していると言えるだろう。

 

ロックでは、歌詞が重要な位置を占めていた。しかし、テクノには歌詞というものがない。

テクノは基本的に無機質な機械の音でリズムとメロディが構成されていて、その中に、人間の声による歌のパートは存在しない。人間の声や歌詞はあったとしても、歌詞ともいえない単語や一文であり、それは「歌」ではなく人間の声という「音」の要素のひとつである。その言葉が、曲全体のイメージを固定してしまうような意味のあるものでないことがほとんどだ。曲の中で人間の声によって流れる言葉は、曲を構成する「音」のひとつとして、機械からなる音と同様に流れる。

 テクノは、そのような直接的なイメージを与える「言葉」というものを持たない音楽である。では、ヒッピーやパンクスたちのようなロック文化を「言葉を持つ音楽による文化」として、レイヴを「言葉を持たない音楽の文化」とした時、その違いとは何だろうか。

 

2−3.「リズム」に集う

 

両者における音楽の重要な位置が、「言葉」であるか「リズム」であるかという違いは、その音楽が思想によって理解されるのか、身体によって理解されるのかという違いがある。つまり、音楽がアタマを通して理解されるものであるか、カラダを通して理解されるものであるかという違いである。

もちろん、ロックの音に感じる「ロックらしさ(破壊的、暴力的という言葉で表される荒々しさ)」はカラダで感じるものであるが、ロックが言葉に重点を置くようにもなってそれらは同時に言葉によっても理解され、結局のところアタマを通さずして感じることはできないものになった。またアタマを通したロックこそ、社会的な影響力を持ったのである。

しかしロックの歌詞は明確な伝達方法であると同時に、イメージや受け手を限定していく。

「ロックンロール以降の音楽は一面では、男たちがうたって女の子たちが聴くという関係のなかに生まれた。男から男へといったとき、聴き手は歌のなか、あるいは歌やミュージシャンに自己を同一化させ傾向にある」[8]と言うように、ビートルズのラブソングは女の子たちを夢中にさせ、イギリスのパンク・ロックの怒りには労働者階級の男たちが賛同した。ロックは歌詞によって、誰に向けるものであるか、また誰の共感を得ていくのかということを、あらかじめ限定してしまうのである。

人の声を持たない=テーゼを持たないテクノは、受け手を限定しない。言葉を持たないテクノが鳴らされるレイヴは、言い換えれば、言葉の壁がなく、10代後半から20代後半の中流階級を中心に労働者階級も含めて、また男女共に参加でき、人種をも問わない集団を生み出すことができた。「踊る」という人間の体の反応=本能的な部分によって集まることによって、「混沌とした」集団を生み出すことができたのである。

 例えばイスラエルでは「パレスチナ人とイスラエル人が一緒にレイヴパーティをやるという現象も起きはじめていた」[9]、また「アムステルダムでは「国民国家」レヴェルでは敵対しあっているクロアチア人とセルビア人が一緒にパーティのシーンを作ろうとしていた」[10]と言うように、「テクノで踊る」という単純な行為ではこのような共同体も存在できるのである。

 

ロックバンドがレイヴに大きな影響を受けて、「アシッド・ハウス」のようなサウンドを取り入れ、「踊れるロック」を生み出したマンチェスター・ムーブメント(198788年)という流行がある。

ダンスミュージックの力を取り入れることによって、ロックがもはや声の力だけでは発揮できなくなっていた社会への影響力というものを取り戻そうとしたのである。

リズムによる身体的な快楽をロックに取り入れることによって、ロックの新たな魅力を生み出すことができ、このマンチェスター・ムーブメントから出てきたバンドは、実際に大きな影響力を持ってたくさんの若者を惹きつけた。これ以降、ロックとテクノの融合と言われるような現象が起こり、ロックはダンスミュージックの要素を取り入れることによってロックの力を取り戻していく。

これらのことから、テクノは、ロックが意味性という束縛によって露呈されてきたあらゆる行き詰まりから動けなくなったことへの打開の方法として捉えることできる。

ロックの本髄であった声の力は、受け手に限定を与えてしまう面があることを、テクノというリズムの音楽の台頭によって明らかにしてきた。このようなリズムの音楽の台頭が、ロックという音楽が様々な「装飾」(ファッションなどの流行、商業化など)を付随してきたことからの立ち返り、または反動でもあり、対抗文化の中の文脈で衰退してしまった「意味としての音楽」に変わる再生として、テクノのリズムが持つ力を評価できるのではないだろうか。

 

 

第3章 レイヴの中の女性たち

 

レイヴの研究者には、女性の姿が多く見られる。[11]テクノの言葉からの解放によって、「混沌とした」集団に参加できていくことができた女性の姿に注目するからである。

ロック文化とレイヴ・カルチャーの中で、女性の関わり方はどのように変わったのだろうか。

 

3−1.女性にとってのロック

 

第2章で見てきたように、ロックは男性が歌って女性が聞くという関係の中にあるのが主で、そのような言葉のセクシュアリティの限定によって、女性たちは周縁的な位置にあった。

イギリスにおけるサブカルチャーの中では、テッド・ボーイやモッズといったものには女性の姿はなく、女性がロックンロールと叫んでバンドを組めばフェミニストとして扱われ、「女性」というフィルターを通さなくてはならず、男性と同様の立場から「反抗」できなかったことにより、ロックは男性中心の世界だったことが露呈されてきた。

アンジェラ・マクロビーは「女性にスタイルがないのではない。サブカルチャーのスタイルはまず第一に男のものなのだ。スタイルをおおっぴらにひけらかす儀礼のあれこれによって、グループのみんなが内輪で誉めあい、また(一時だけでも)男同士の自己完結に酔いしれるのだ」[12]と言って、サブカルチャー研究の視点の批判と男性主義のサブカルチャーの姿を指摘し、レイヴを研究する。

 男のものと言われたイギリスのサブカルチャーを支えていた音楽も、ロックが殆どである。

ロックは若者たちのアイデンティティの証明として奇抜な音楽であったと同時に、これまで大人によって守られてきた(隠されていた)「性」の姿をあらわにするものであった。

「私たちはロック・サウンドの物質性に反応し、ロックの体験は本質的にエロティックなのだ」[13]と言うように、言葉によるもの以外にも、ロックにはセクシュアリティの要素が潜んでいる。

歌詞や声、身振りの中で性が表現され、ステージの上で女性たちが夢中になるロックスターは男性たちの理想の姿であった。そのような関係において「少女たちは、男たちのアクセサリーか性的欲望の対象としか描かれない」[14]のである。ロック文化の中では女性たちは「男性たちのロック」を彩る役割であった。

それでも、70年代に入ると女性のロックシンガーが増えてくる。わけだが、それはやはり「女性のための女性の自己表現」というもので、ロックが性の境界線を崩すことはなかった。

女性はロック文化の中で、絶えず自らの性を意識してなくてはならなかったのである。

 

3−2.レイヴの中の「踊り」

 

ロックの衰退と代わって現れてきたダンスミュージックの台頭は、若者たちの音楽の楽しみ方におけるスタイルを変えた。若者たちが日常ではラジオやテレビ、レコードというものを中心にしていた音楽の体験を、ダンスフロアという現場的な体験へと移行させた。ロックにもライブやフェスティバルがあるが、これは日常の楽しみではない。ディスコという空間は、日常の延長線にあって毎週末体験できるライブであった。それは、新たな音楽の楽しみ方だった。

その中で「ディスコ体験は「現在性」の圧倒的な体験であり、アルミ亜硝酸塩のようなドラッグでさらに高められる体験であり、踊りが完全に自己中心的になれると同時に、自己を忘却でき、完全にセックス化できると同時に、ジェンダーの点ではまったくセックスなしにでもできる体験なのだ」[15]と言うように、音楽に踊りが伴うことで音楽から享受できる楽しみが個々人の中でおさまり、男性にとっても女性にとってもパートナーとなる性を求めずしても快楽が得ることができるようになった。

しかし、ディスコの体験=ダンスの体験そのものはパートナーを必要としないものでも、ディスコという空間は深夜に男女が集う社交の場としての意味を生み出し、ダンスにセクシュアリティを付随させた。

しかし、レイヴの中でのダンスフロアは、セクシュアルな場から離れているという。『現代英国における女性性の文化の変容』の中でこのような記述がある。

1990年代ダンス・クラブ文化において魅力的なのは、セクシュアルなナンパな雰囲気がないという点である。少年や男性たちが、セクシュアルなガール・ハントのための行動をほとんどとらないために、少女たちは、より自分たち自身で楽しめると感じている。ほかでもないここ、すなわち、この特定の空間において。彼女たちは皆、「音楽に身を任せる」時の、強烈な身体的な快楽を口にする。これはまた、新しい文化の次元の身体性と=官能性をもたらしたのだ。それらは、過去においては、若い女性たちにとって、つかのまの、一時的な快楽、パートナーを見つけるまでの徴候に過ぎないようなものであった。」[16]

女性たちがレイヴにその価値を見出すのは、この点にある。女性たちはかつてダンスフロアにあったナンパの対象としての「女」の役割を降りて、踊りに集中できるようになり、ダンス文化に主体的に参加できたのである。なぜこれまではできなかった「踊ることに集中すること」が、レイヴの中では可能になったのだろうか。

 

これまでダンスフロアで女性が踊る主体になることを妨げていたのは、まず男性たちの視線である。しかし、男性の視線というのは女性にとって、ダンスフロアの価値でもあった。ダンスフロアで踊る女性たちは、男性の視線を浴びることに快感を得ていた。短いスカートや露出の高い服を着て、男性の視線をいかに自分に向けることができるかが女性たちのダンスフロアのステイタスだったと言っても過言ではない。

その「男性の視線を浴びること」という女性にとってのダンスフロアの価値が、レイヴの中では「踊ること」に変わった。レイヴにおいて踊ることが価値を持つのは、それがクラブやディスコの中で持っていた男女のセクシュアリティを見せ合う場所への副次的な意味合いではなくなったからだと考える。

クラブやディスコなどにあるダンスフロアの空間も踊る空間であるが、踊るという身体性を伴う行為によって現れるセクシュアリティは、やがて深夜に男女が集う場所の意味を強め、セクシュアルな場になった。踊りや酒やドラッグは、男女の出会いの場に副次的についてくるようなものとなったのである。

しかし、同じダンスフロア・ダンス文化でありながら、レイヴの中のダンスフロアでは「踊ること」からセクシュアルな部分が排除され、ダンスフロアはセクシュアリティを見せ合う場から遠のいた。なぜレイヴでは「踊ること」が中心になりえたのだろうか。

クラブという空間は、毎週同じところで何時から始まるというように、定期的に行われていてどこでどのようなことが起こるのかあらかじめ予測可能な楽しみである。

一方レイヴは、場所はもちろん時間もその時のDJも一回きりしかないような予測不可能なイベントである。「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の最中は警察の取締りを避けなければいけなかったので、インターネットなどを通じて宝探しでもするような感覚でレイヴパーティの開催を見つけなくてはならなかった。車に乗って深夜レイヴの現場を探し求めることや、レイヴの開かれる山奥の遠い田舎に向かうことはそれだけでスリルやレジャーのような感覚を持ち[17]、特別な機会となる。

そのような一回しか訪れない時間に対して、人々は会場で何が起こるかわからないといった期待を寄せて自らが積極的に場を盛り上げるためにとにかく楽しむのだと意気込む。クラブにおいてもレイヴにおいても、そのイベントがいいものだったか・楽しいものだったかはどんなにDJが頑張って曲を流したところで評価はされない。ダンスフロアで、人々がどれだけ盛り上がったかによる。たった一度しかないレイヴパーティを自分が参加したものとして楽しかった、行ってよかったとその価値を高めるのにパーティを盛り上げるためには、みんなが「踊ること」に集中していなくてはならない。

この「踊ること」に集中できたのも、「踊ること」でダンスフロアの中に十分な快楽がもたらされたからだ。レイヴで「踊る」ということは、何かしらの形や振り付け持って踊ることとは違う。大音量で流れる音楽のリズムにあわせて頭を振り続けることも踊っていることになるし、ピョンピョン跳ねているだけでも踊っていることになる。

カッコよく見栄えよく踊る必要はなく、レイヴでの踊りの価値観はいかに音楽に陶酔して踊れているかということにあって、その芸術性を競う踊りとは違う。誤解を避けるためなら、レイヴでは「踊る」というよりは「はしゃぐ」「動く」などもっと単純な動きを連想させる言葉のほうが合っているかもしれない。

そのような「踊り」によって、快楽がもたらされる。人は大音量の音のリズムに合わせて無意識に体を動かしていると、ランナーズ・ハイのような状態になる。つまり過度の体の動きと呼吸が加わることによって、脳内にエンドルフィンに似た脳内物質を分泌させ、テクノのような反復するリズムと合わせて脳がコントロールされ、陶酔を生み出すのである。その陶酔感こそがレイヴの「踊る快楽」であり、これがMDMAというドラッグによってさらにその力を増していた。

レイヴで「踊ること」というのは、一般に思い浮かぶ「踊り」の持つ機能とは違う。つまり、カッコよく踊るから素敵だとか、踊りがうまいから好きだとか、踊りに向けての感情・感覚の持ち方が違うのである。レイヴでの踊りは、各々が自由気ままに体を動かすことと言う意味の変換によって、振り付けや形のある「踊り」が伴う性的なニュアンスを排除していると言えるだろう。それによって、女性自身がダンスフロアで踊ることに直接的な性的な意味合いを感じさせなくしたのだ。

 

3−3.女性たちの身振り

 

女性がダンスフロアで踊ることに対して自分の性を問われない快感を得たからと言って、男性たちにとって踊る女性は全く性的魅力のないものになってしまったのだろうか。男性たちにガール・ハントをさせないものとは、何だったのだろうか。

 

『実践カルチュラル・スタディーズ』の中で日本のレイヴの状況を記述したものの中で、男女のこのような会話がある。女性たちは、「「さあ、今朝も一発〈男〉になってくるか!」」[18]と言って踊りに向かい、男性たちは「「今日来てる子たち、いいねえ」「ああ、きっちり〈男〉入ってて、格好いいねえ。見てても気持ちいいよ」」[19]と女性たちの踊る姿についてこのように話すのだと言う。

同著では男同士の会話について、「この表現が使われるとき、セクシュアルなナンパのニュアンスはない。この場合、男たちは踊っている彼女たちに性的魅力を感じているし、できれば知り合いたいと思っているが、踊るのに「忙しく」、そういうことをする気にはならない。ここで「男入ってる」と彼らが言うのは、その女性が「男性的である」と言っているのではないのはもちろんである。屋内のクラブパーティにはよくいるような、女の魅力を匂わせ、ふりまきながら、場合によっては見知らぬ男たちに自分の肢体を見せつけ、接触させるようなタイプとは全く対極の仕方でガツンと踊っている女性を指して、この表現が使われている。」[20]つまり、「〈男〉入ってる」の「男」は「気合」や「意気込み」と言った言葉に当たるだろう。

男性たちは決して、女性たちに女性としての性的な魅力を感じていないのではない。女性は女性としてダンスフロアで十分に魅力的な存在なのだが、男性もまた踊ることに夢中であること、そして、男性たちの女性への性的欲望はガツンと踊る女性たちに向けてと色気を振りまいて踊る女性たちとはその向け方が違う。ガツンと踊る女性に対しては、ナンパやガール・ハントという行動に結びつかないのである。では、ガツンと踊る女性、すなわち踊りに夢中になる女性たちに、なぜ男性たちは声をかけないのだろうか。

 

前述の『現代英国における文化の女性性の変容』で取上げられているシーラ・ヘンダースンの研究は、15歳から25歳の女性集団を対象とした研究で、その中で女性たち全員がたくさんのダンス・ドラッグを定期的に服用していること、また薬物の取引が女性たちの間で友情を通して行われていること、「どの薬でも一度はやってみる」という大胆さを少女たちが持っていることが書かれている。また、エクスタシーなどのドラッグはダンス経験と不可分に結びついていることが指摘されている。[21]まだ一般の認識で少女や若い女性たちのドラッグの服用が、女性像に反し、非常にショッキングなことである中で、レイヴの中で女性たちはその服用量について慎重に自覚的になりながら[22]、ドラッグを取り入れていっている。

サイモン・フリスは「男の子と同じように飲んだりドラッグをしたりというわけにはいかない。なぜなら冷静さを失うことは即、その結果に直面することだからだ。妊娠はその第一のものだし (「私がパーティで飲んじゃったら)、もっと一般的には悪い評判 (「彼女はスゴイ) が立つことだった。女性の魅力が男の視線によって定められるかぎり、女の子はつねに自分の外見を整えるようなプレッシャーを持つことになる。彼女はやりたい放題というわけにはいかない。」[23]と女性たちにとってドラッグの使用は、女性という性にとって非常に危険を伴う行為を意味していたことを明らかにしている。

ドラッグによって錯乱した意識が、男性にとって格好の性の標的になることがある。またドラッグを服用することは、世間の女性像に反するものでもある。女性たちはドラッグを安易に服用しないことで自分の性を守っていたのだが、それは逆に男性に服してしまう女性の立場を強調していた。

レイヴの中では、女性たちは積極的にドラッグを服用している。ドラッグを服用する女性の姿がレイヴの中でよく見られるのは、単にドラッグに触れる場面が多いからではない。女性たちはドラッグを服用しない選択権も持つ中で、快楽を高めるために服用することを自ら選択している。それはどうなってもいいとやりたい放題ではなく、その服用量に慎重になっていて、自覚的にコントロールしている。

このように男性と同じ快楽を得ることができた女性たちは、ダンスフロアで男性と同じ快楽の享受をできる能力を持つという点で、立場を同等にし、女性にとって男性に服さないの新しいドラッグのあり方が示されていると言えるだろう。

ロック文化の中でステージの上のロックスターを追いかけるとか、ダンスフロアの中でもいかに男性の視線を集めるかというように、これまでの女性の快楽のあり方は男性を通じて形成されてきた。ドラッグを自らの快楽のために服用していく女性たちの姿は、男性によって快楽を決定、また限定されない「自立的」な女性の姿である。

ナンパという言葉に、「女をひっかける」という意味合いを持つように、ナンパと言う行為は直接的な女性蔑視を表してしまう点で、ナンパは男性にとって自分より立場の低い女性に向けて行われる行為を意味する。しかし、女性たちは踊りに夢中になることによって、まず女性たち自身の中から男性たちの視線を排除し、「女性がドラッグを服用する」という世間一般の女性像を裏切ることによって、男性の追従的な意味合の女性像に落ち着くことのない女性を実践した。このことが、男性たちをナンパという行為に至らせないのだと考える。

そこで注目したいのは、これらの女性たちの「自立的」な行為に対する男性たちの意識である。

女性が男性に望まれる存在を拒否する動きは、60年代ヒッピー・カルチャーの中ですでに実践されていた。

60年代、ヒッピー・カルチャーの女性たちは、家父長制に反対していたために、伝統的な女性の役割、つまり家の中におさまって一人の男性のために従事する女性像を拒絶した。

ヒッピーの女性たちは、なぜ女性だけが化粧しなくてはならないのか、なぜ体毛を剃らなくてはならないのかと言って女性たちは身体性の女性性を排除し、またなぜ女性が性行為に走ってはいけないのかというフリーセックスを実践してきたのである。

身体的な性においての女性性の排除が、ヒッピー・カルチャーの性の解放である。社会において作られてきた女性像、つまりジェンダーに立ち向かうために、ヒッピー・カルチャーの中で女性たちは自分たちにまとわりつく「女性」=セックスを放棄するという形で、性の解放を試みた。

しかし、それらは男性にとって、逆に性的な意味の女性を強め、男性の性的対象としての女性の意味を強めてしまった。

レイヴ・カルチャーに見られる女性たちは、自分たちの身体の「女性」を放棄してはいない。また彼女たちはダンスフロアでガツガツと踊ることを取り入れ、ドラッグを取り入れ、ダンスフロアの主体となったが、男性たちはその姿を「かっこいい」と言い、そのような彼女たちの踊りっぷりを「女を捨てている」ではなく、「男が入っている」と表現するところに、レイヴ・カルチャーの中では女性が性的に生きていること、そして男性たちには好意的に見られていることを感じることができるのではないだろうか。

「男入ってる」という表現の中で、女性たちに対してズカズカと男の領域に土足で上がってきたというような敵対した見方はしておらず、自分と同じように夢中になって踊っている女性の「自立性」を誉めているように感じられる。踊る快楽を享受している女性に対して、親近感や立派であるという視点が感じられるのである。

「やせこけたキース・リチャーズはやせこけたジャニス・ジョプリンやグレース・スリックよりもずっとグラマラスにアピールする」[24]ように、女性の「〈男〉入ってる」様子は男性と同等の評価を受けることはなかったことを考えると、このような男性の視点もまた、

レイヴにおいて特筆するべきことだろう。

 

「セックス、ドラッグ、ロックンロールは少女にあてはめられなかった」[25]と言うように、ロックの快楽は男性の視線や世間の目によって女性たちには享受できなかった。

レイヴの中で女性はダンス文化の快楽を男性と同等に享受することができるようになったのは、自分たちの性=セックスは捨てずに、ジェンダーを変化させるという新たな方法の実践が、レイヴの中で可能になっているのである。

 

 

第4章 レイヴの力

 

 ロックは言葉によって限定もしてきたが、力を持つこともできた。しかし、やがてその力を失っていく。

第2章で見てきたテクノの力は、レイヴの中でどのようにはたらくのか、またロックと同じように衰退していくのか、レイヴが持つ力とはどういうものなのかを、ロックフェスティバルとレイヴパーティとの比較において考えてみたい。

 

 

4−1.ロックフェスティバルに見るロックの力

 

・共同体から音楽市場へ

 

 サイモン・フリスは「1969年のウッドストック・フェスティバルは、巨大な規模のロック「共同体」を象徴するばかりでなく、巨大な規模の音楽市場をも象徴しているのだ。」[26]と言う。

このウッドストック・フェスティバルはアメリカでヒッピー・カルチャーが全盛期のときに行われ、5万人程度と思われていた予想を大きく上回って、40万人の観客が集まった野外のロックフェスティバルであった。ロックフェスティバルとは野外で、たくさんのミュージシャンがそのフェスティバル期間中の数日の間に一挙に集まって、一日中次から次へ演奏していくという巨大な野外のロックコンサートである。このウッドストック・フェスティバルからロックの商業化について見ていこうと思う。

初めてのロックフェスティバルというのは1967年の「モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバル」だった。このフェスティバルはまさにヒッピー・カルチャーの最中に行われ、ヒッピーたちのフラワー思想のもとに、5万人を集めて行われた。広い会場の中で、みんなでロックを味わうことを共有し、自由で楽しい彼らの大きな理想郷がそこに再現された。出演者たちはこのフェスティバルに無料で参加し、16.5ドルのチケットの売上は病院などに寄付された。ヒッピーたちの共同体の理想形が、このフェスティバルの中で実現されていた。

このフェスティバルに続くのが1969年の「ウッドストック・ロック・フェスティバル」であったが、これはモンタレー・フェスティバルとは違う形相を見せた。

40万人という、会場に溢れんばかりに集まった若者たちは、降り続く雨に泥まみれになりながら、それでもこのイベントを楽しんでいた。しかし、前述のサイモン・フリスの言葉通り、このフェスティバルではロックがいい商売になることを証明するものだった。

集まった若者たちは、18ドルのチケットを持っているのかいないのかも確認されることのないまま会場に入り込み、出演者にも高額なギャラが支払われ、このフェスティバルは主催者側にとって大きな損失をもたらしたのだが、後にこのフェスティバルのドキュメント映画の収入がその損失を埋め、さらには利益を生み出すという巨額の金銭の動きを、このフェスティバルの中で見せた。

このことによって、ロックがどれだけの人を集め儲かるものになるのかを証明した。「ウッドストック・フェスティバル」によって「共同体」が市場となり、ロックは巨大な産業として成立する力を持ってしまったのである。

そして、このフェスティバルでは3人の死者を出した。

 この2つのフェスティバルは、ともにヒッピーたちの集まった愛と平和の集会であったが、モンタレー・フェスティバルからウッドストック・フェスティバルの移行の中で、ヒッピーたちがロック音楽と共に掲げていた世の中とは違う自分たちの「共同体」としての理念が、崩れていくことがわかる。

ウッドストック・フェスティバルのときにも確かにみんながラブ&ピースのモットーのもと、雨と泥にまみれた過酷な会場の中でも助け合い、笑い合えていたのだが、死者を出した事実は「愛と平和」の共同体にとってあってはならないことだろう。また、損失と利益という金銭的な動きがこのフェスティバルの中で如実に現れていたことは、彼らが嫌っていたはずの資本主義にまさに取り込まれていっているという大きな矛盾だ。

 では、モンタレー・フェスティバルからウッドストック・フェスティバルへの流れの中で、商業化によって崩れた共同体を支えていたものとは何だったのだろうか。

 モンタレー・フェスティバルのとき、出演料は無料で、チケット代もたくさんのミュージシャンを見ることができながら今では考えられないほど安いもので、主催者はその収益金を寄付している。

ウッドストック・フェスティバルのときには、主催者は観客から、出演者は主催者から、金銭を受け取り、その循環がうまくいかなかったために、このフェティバルの運営にお金というものがなくして成立しなかったことを露呈してしまった。フェスティバルを成立させたのが金銭によるものか、自分たちの意思によるものかの違いである。

「意味としてのロック」が機能しなくなってしまったのは、まさにロックが商業化に飲み込まれていったことによるものだということを、モンタレー・フェスティバルからウッドストック・フェスティバルへの移行を見ていくことでわかる。「S・フリスはその64年から67年までを、ロック音楽の絶頂期としてとらえている。」[27]と言うように、ロックが「意味としてのロック」として捉えることができるのは、モンタレー・フェスティバルの時期までだと言えるだろう。

 

・ロックの力の再現

 

ウッドストック・フェスティバル以降に開かれていくロックフェスティバルは、流行のミュージシャンを出演させ、商業色の強いものであった。しかし、その中で、商業化と一線を引いた独自のスタイルで、現在まで30年続くグラストンベリー・フェスティバルというロックフェスティバルがある。このフェスティバルでは、今もなおどのようにして商業色に染まらずにいられるのだろうか。

 グラストンベリー・フェスティバルは、イギリスのロックフェスティバルである。イギリスは数々の世界的なロックバンドを生み出してきたこともあって、夏になると様々なロックフェスティバルが行われる。その中でもグラストンベリー・フェスティバルは格別なものとして、ミュージシャンからも参加者からも絶大な支持を得ている。一体このフェスティバルは何が特別なのか。

グラストンベリー・フェスティバルは1970年に、牧場主のマイケル・イーヴィスという人物が自らの牧場を開放して開催したことに始まる。1500人の参加者から始まったこのイベントは、現在15万人もの人を集めるまでに大きくなった。

現在あるイギリスの様々なフェスティバルの多くは出演するアーティストには高額なギャラが支払われていて、ウッドストック・フェスティバル以降ミュージシャンたちにとって「フェス=おいしいバイト」[28]でもあり、現在の時流に乗った流行のミュージシャンが出ることが多い。グラストンベリー・フェスティバルでは、「かつては「グラストンベリーのギャラは相場の半額」が基本」[29]であったし、年々ロックに偏らない様々なジャンルのアーティストを出演させるようになったことは、商業主義からの回避でもあった。

またグラストンベリーの収益金のすべてが、グリーンピースやNGOに寄付されている(80年代はCNDに寄付していた)ことは、マーケットとの決定的な線引きの意思だ。「DIY精神は経営面でも発揮されている」[30]と言うように、それらは、自分たちで運営していこうというDIYDo It Yourself)精神である。

「経営面でも」というように、他の面にもDIY精神は見られる。会場の端から端まで歩くと3時間かかるとまで言われている広大な土地で開かれるこのフェスティバルに、人々は車でやってきて、テントを張って、3日間を過ごす。食べ物や飲み物を売る売店があったとしても、普段の生活のように冷蔵庫を開いてすぐ取り出せるわけではない。普段の便利な生活や都市で開かれるイベントにはない、広大な自然の中でのキャンプ生活は、現代社会の利便性を排除するというDIY精神を持っていると言えるだろう。

このような運営方法の特色は、創始者のマイケル・イーヴィスがかつてのヒッピー時代の理想郷を描き、それをこのフェスティバルの精神としようという意志のもとにある。それは、モンタレー・フェスティバルに見られた共同体の理想形の再現であると言えるだろう。収益金を寄付し、社会とは別の自分たちの共同体を、大自然の中に作るという利便性の排除から、商業化を拒否している。

現在もロックフェスティバルにおいての商業化との対峙は、このようなスタイルにおいて維持することができるものの、それが対抗文化のときにモンタレー・フェスティバルを成功させたことと同じ意味を持つことはない。グラストンベリー・フェスティバルが、社会を揺るがすことにはならないのである。

グラストンベリー・フェスティバルの参加者たちは、かつてのヒッピーたちのように社会への反発を抱いているのではない。マイケル・イーヴィスの世代にとってはノスタルジーとして、また自然の中で音楽やキャンプを楽しむというある種のレジャーとして、このフェスティバルの形態は価値あるものとなって存在している。

 

 

4−2.レイヴパーティに見るレイヴの力

 

・レイヴのDIY精神

 

基本的にレイヴパーティにはロックコンサートのように大仕掛なしかけも、パフォーマンスもない。ただDJが次々と曲をかけ、ダンスフロアの人間は踊るのみである。言葉でその光景を表すと単純で陳腐なイベントのように思われるが、かける曲の流れと人々が踊ることで得る快感の頂点が見事に融合してその場がとてつもない熱狂の渦の変わるとき、レイヴは最高にドラマチックである。

レイヴには基本的にはただ大音量の出るスピーカーと、それを置いて曲を流すことができて踊ることのできる場所、そして踊る人たちがいればいいのである。しかし、イギリスではレイヴが法律によって取り締まられるようになって以来、許可を得てスポンサーをつけてイベントとして行うか、できるだけ人目のつかないところで行わなくてはならなくなり、純粋な「踊る快楽」を求めるために、「非合法」のレイヴは続いた。

主催するものたちは自分たちで会場となる場所を見つけ、スピーカーや曲をかけるためのターンテーブルといったサウンドシステムを自分たちで運び、0890電話(イギリスのダイアルQ2)やホームページの中で情報を流したりして開催の告知をしていた。参加者たちはそのような情報を頼りに、ドライブしながら場所を探していた。自分たちのスペースを自分たちで開拓・確保し、自分たちで作っていくというスタンスはDIY精神であり、自分たちのパーティを自分たちの運営によって行っていくというやり方は、現在では、「どこのレーベルやグループもそれぞれに凝ったサイトをもっており、メーリング・リストによるパーティ情報やレポートの交換も盛んである。」[31]というように、レイヴの活性化はコンピュータのネットワークによって行われている所が多い。

レイヴのDIY精神も自分たちでパーティを動かしていくことにあるが、グラストンベリー・へスティバルやかつてのヒッピーたちにあったDIY精神と違ったのは、自らの共同体を築いていく上でDIY精神はあらゆる社会のネットワークから離脱しなくてはならないがゆえに、原始的な形の共同体を築くことで社会から距離を保っていたのに対して、レイヴパーティはコンピュータの巨大なネットワークに乗っかって、その運営が行われていることである。

このような巨大なネットワークに参加しているレイヴは、巨大な産業にすでに取り込まれていっているようにも思える。しかし、「ヨーロッパで許可をとっていない非合法のパーティでは直前までウェブページがしばしば使われた〈フライヤーを作らないことで警察の監視の目をかいぐることができる。〉」[32]と言うように、コンピュータのネットワークは、その見えない社会性を活かしてレイヴパーティを続けていくために利用されていた。

 アップル・コンピュータ社の創始者スティーブ・ジョブスが、かつてヒッピーであったことは有名だ。コンピュータが作るネットワークが、目の前にある社会とは別の場所であり、そこに個々人が主体となったネットワークを築くことができるという点で、ヒッピーたちの共同体の理念と適ったのだ。ヒッピーたちはDIY精神に、目の前にある大きな社会と背反するという意味を持たせたが、結果的にはコンピュータは彼らが対抗していた社会よりももっと大きなネットワークを築いてしまったわけで、彼らが本来持っていた共同体のあり方であり、社会への対峙でもあった自然回帰や利便性の排除とは相反するものになってしまった。

コンピュータのネットワークは社会のインフラとなってひとつの巨大な社会を築いたわけだが、そこに身を置くことが必ずしも社会の歯車の一部となるのではなく、むしろ強化させることができるのがコンピュータのネットワークであった。コンピュータの中では人は主権を持って、共同体を実体のある社会とは別にして、維持することができる。その意味では、コンピュータは巨大なネットワークを持ちながら小さな「共同体」を強化してくれる。

レイヴがコンピュータのネットワークを使って各々の独自のサイトを持ち、その「共同体」の特色を強めようとする傾向、また「非合法」のレイヴを続けていくためにインターネットを利用していたことはまさにそのようなレイヴパーティという共同体の強化である。

実際のところ、現代においてコンピュータのネットワークから離脱することは不可能に近い。「利便性の排除(自然回帰)=コンピュータのネットワークの離脱=社会との背反」という図式は、もはや本当にただのヒッピー・カルチャーのノスタルジーや、グラストンベリー・フェスティバルのようなレジャーとしてしか現代社会においては成立しないことは、私たちの身の回りのテクノロジー浸透振りを改めて見直さずしてもわかる。

レイヴパーティのDIY精神はコンピュータのネットワークを通じて活かされているが、これは社会のシステムに飲み込まれていっているのではなく、それはむしろレイヴパーティ独自の共同体を維持するための手段である。

 

さらにレイヴのDIY精神に基づく共同体の中には、このような一面を持っている。

『実践カルチュラル・スタディーズ』ではレイヴの内部に「貨幣に基づく交換、市場経済よりも、ある種の贈与や象徴交換による社会性、共同性を優先する「ギフト・エコノミー」の志向を持っている」[33]が「それは前近代的なもの、あるいは共同体(ゲマインシャフト)への回帰や逆行ではいささかもない。」[34]として、「ギフト・エコノミー」がより原始的な形での共同体(=自然回帰)ではなく「ギフト・エコノミー」の身振りへの回帰によって、あるということを示している。

 前著では、例えば日本のレイヴにおいては、食べ物や飲み物を分け合うという行為や日本社会には稀な握手や抱擁、アイコンタクトという行為がレイヴの共同体の中で行われることが示されている。

またレイヴの現場で流れるテクノという音楽そのものに、「ギフト・エコノミー」が存在する。「ダンスやテクノの音楽の中で高度に展開してきたサンプリング、DJ、ミキシングの技術と方法は、「コピーライト」〈著作権〉ではなく、「コピーレフト」(著作権放棄)を戦略的に実践することを一般的なものにしていった。」[35]

レイヴ・カルチャーの中では「ギフト・エコノミー」の意味合いにおいて、あらゆるものが資本に代替されていくことを否定している点を、社会への反応として見出すことができる。

 

レイヴのDIY精神がコンピュータのネットワークによる共同体の強化とギフト・エコノミーの要素を持っているというロックフェスティバルとは違った形で展開していることから、レイヴパーティがただのノスタルジーやレジャーにならない、現代において能動的な意味を持つものとして機能していると言えるだろう。

 

・新たな音楽の力

 

レイヴにはこのような個性がある中で、ロックの力が商業化によって希薄化していったように、レイヴも商業化によってレイヴの力・テクノの力を希薄化させていくのだろうか。

 

商業化したレイヴはどのような展開を見せているのだろうか。ドイツの「ラブ・パレード」は、現在各国で行われているレイヴの中でも一番規模が大きく、商業化したレイヴである。

ラブ・パレードは1989年にイギリスでのレイヴが過熱化したのを受けて、150人があるDJの誕生日を祝ってサウンドシステムを乗せた車とともに、「政治デモ」という名目でベルリンの街中を踊り練り歩いたことから始まった。

年々車の周りに集まる人たちは増加し、今では各国から集まった何十台もの車と群集が町を占拠するようになった。1997年には100万人、2000年には200万人を集めるまでに至った。極端なまでに参加人口を増やしたラブ・パレードは、政府の管理下に置かれた。しかし、イギリスのようにこれを取り締まって封じ込めるのではなく、ベルリンの町の風物詩として歓迎されたのだ。政府に管理されたことによって、レイヴはますます巨大化し、他国からも参加する者たちが増えた。ベルリンにとっては、ラブ・パレードは非常に大きな経済効果をもたらすものとなった。

 ラブ・パレードが年々巨大化し、商業化していった。それに対して反発するアーティストは、アンチ・ラブ・パレードをラブ・パレードの開催日と同日に開くようになった。

 

ラブ・パレードに基本的に、政治デモとしての意味をなくしている。「世界一のレイヴ「ラブ・パレード」のスローガンをみても、そこにほとんど「意味」がないのは明らかである(「FUTURE IS OURS」「 PEACE ON EARTH」「 WE ARE ONE FAMIRY」「 LET THE SUN SHINE IN YOUR HEART」など。)」[36]と言うように、政治デモとしての毎年のスローガンは、群集を賞賛するための装飾でしかない。

またラブ・パレードは年々参加者を増やしていったことで、ゴミ問題を生んだ。(現在までで最高の参加人数(200万人)だったときには、200トンのゴミが出たと言う。)このことを受けて政府はもはや政治デモとしても扱いきれないとして、その開催を危ぶまれたことがあったが、主催者側は再びこれはデモ行進であるという申請をしてラブ・パレード開催の許可を得た。その中でやっていることは同じで、ひたすらみんな踊っていて政治デモを匂わせるところは何もない。スローガンを掲げることや、ゴミ問題についての対処を迫られ、むしろ政府によってラブ・パレードがきちんと機能することを手助けされたことは非常に皮肉なことだと思う。

そして、ベルリンの風物詩となったラブ・パレードに参加する人がこのお祭り騒ぎに興味はあっても、みんながテクノミュージックに興味があるとは限らないし、普段は全くレイヴとは縁遠い人もいるだろう。誰にでも参加できるレイヴだからこそ、誰もが「踊る快楽」に夢中になるとは言えない。非合法ドラッグの服用や所持による逮捕者は毎年いて、1999年には刺殺事件を起こしている。

ドラッグの快楽が踊る快楽を消し去ってしまう危険性もあるし、大きな集団の中から起こる問題は山積みである。規模が大きくなって、政府に管理され、DIY精神を失っていることによって共同体としての意味は希薄化しているのが実情である。それは、モンタレー・フェスティバルからウッドストック・フェスティバルへの流れのようである。

 

商業化したラブ・パレードそのものに意味を見出すことは困難だが、ラブ・パレード自体はここで終わっていくのいくものではないことを、ラブ・パレードの拡大化によって感じることができる。

 2000年、ラブ・パレードは同じ名前を持って、イギリスのリーズで20万人、オーストリアのウィーンで20万人、イスラエルのテルアヴィブで30万人、南アフリカのケ−プタウンで300人、メキシコのメキシコシティの2000人を集めて開催され、テルアヴィブでは「You Cannot Stop Love」というモットーで、ケープタウンでは「Day of reconciliation(和解の日)」に行われた。[37]

現在このように、様々な国や地域でラブ・パレードが始まっているのである。テクノで踊るという共通項を持って、それぞれの社会でラブ・パレードは解釈されている。

グラストンベリー・フェスティバルがどんなにモンタレー・フェスティバルを再現しても、モンタレー・フェスティバルの価値は、モンタレー・フェスティバルの中でしか生きることができず、流動性を持っていなかった。

しかし、レイヴはテクノという音楽の特性=言葉をもたないことによって、流動し、そこでの意味を作り出していく。

第2章で見たパレスチナ人とイスラエル人が一緒にレイヴパーティを作っていくこと、クロアチア人とセルビア人が一緒のパーティを作っていくことは、とても特異なことである。この特異な状況を作り出していくことが、レイヴの力ではないだろうか。

一時的にとは言え、そこでは現実に起こっている対立が「解決」されている。そこで、レイヴはひとつの解決の手段として存在しているのである。

 しかし、テクノが全ての国境や人種を越えていくという単純なものではない。

 「戦時下に近い状況がすっと続いているために、モロッコなどのアラブ諸国でオーガナイズされた互いパーティが中止になったり、あるいは開催されても外交上の理由からイスラエルのバンドやDJが入国できなかったりといったこともあり、レイヴやパーティの文化が人種間の対立を超えてゆく可能性について楽観しできる要素は少ない。かつて愛と平和を旗印にしたロックが戦争や世界の矛盾をのりこえることができなかったのとこれは同じである」[38]と言うように、レイヴがぶつかる壁はある。

 ただ注目するべきところは、そのような混沌とした共同体を作る「機会」を生み出していく力がレイヴにあるということである。ただテクノで踊るという行為によって達成される集団が示す、社会との「ズレ」を提示するのである。

 「例えば日本の様々なパーティでイスラエル人のレイヴァーたちと会話することは、全く政治に無関心で非社会的ですらある多くの若者に、社会、民族問題に関心を持ち、理解していく機会を与えている。」[39]そして、その中で生まれる対話に「デモや(政治)集会と同じくらい重要な「もうひとつの政治」がある。」[40]

 このことからわかるのは、レイヴがロックフェスティバルのような巨大化において意味を持つのではなく、拡大化することが可能で、拡大化によって意味を持ち始めることである。

テクノというメッセージ性を持たない特性を活かして拡大化していくことによって生まれてくる問題を、どのように実際に日常へ移行させていくかはこれからの課題かもしれないが、ここに商業化=巨大化によって終わっていかない流動が可能であることから生まれる「レイヴの力」を感じることができるのではないだろうか。

 

 

結論

 

 レイヴをロック文化と比較してみると、ロック文化のような強烈な印象はない。それはヒッピー・カルチャーやロックフェスティバルには、若者たちの意思を示した言葉があったのに対して、レイヴは「声」の集団ではなく、踊るという「行為」の集団であり、ロック文化のように直接的に伝わる意味はないからだ。

 

 しかし、テクノはロックと違って言葉を持たないため、直接的なイメージを与えない分、受け手を限定せず拡大していくことができた。

女性たちの参加はそのひとつであり、ロックの中にある言葉や、ロックが生み出すセクシュアリティのイメージによって主体となれなかった女性たちが、ダンスフロアではセクシュアリティのあり方を変えて、男性の存在というワンクッションを置かずに音楽を純粋に楽しむことができるようになった。それはテクノという音楽と、レイヴという空間によって可能になったのである。

そして、人種の壁をも越えていくようなレイヴの勢いやラブ&ピースのような空気によって、「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれたレイヴは、かつてのロック文化のような若者の巨大な力を持った文化としてその役割を課せられた。

しかし、ロック文化のときと同じことを繰り返すのではなく、リヴァイバルやノスタルジーに終わらない現在における能動的なDIY精神を持って運営され、商業化によって終わっていかない力を持っていることを、拡大化の中に見ることができた。

 

鶴見済は、「ダンスムーブメントはガマンの限界を超えたカラダが一斉にやりだした大々的な貧乏ゆすりなのだ。この死ぬほどさえない一言に尽きる」と言った。

「貧乏ゆすり」することそのものには、意味はない。レイヴそのものに意味付けを行うことが無意味であることは、ラブ・パレードに「セカンド・サマー・オブ・ラブ」を期待するようなスローガンを掲げても、社会に具体的に何を向けるのかという生産的なことが生まれてこないことからわかる。

 レイヴは、その拡大化した現場の中で個々に意味を作り出していき、その中で具体的な実践に結びつく可能性を持つものである。

もしレイヴが社会的に影響を持ち、意味を持つとすれば、それらの実践がどのように展開されて実を結ぶのかというこれからにあるのだと思う。

そのような建設的な実践の場を作り出していっていることが、レイヴとそれを支えるテクノの力なのである。

 

 

 

 

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[1] 上野、毛利、p155

[2] ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ、1955

[3] 渡辺、p.71

[4] 1976

[5] 1977

[6] 1994

[7]http://www.goethe.de/techno/Jp/framesetj.htm (トム・ホラート『反復的ではあっても必ずしも退屈とは限らない ―ジャズ、テクノなどなどの反復性に関する変動的評価のメモ』)

 

[8] 渡辺、pp.190191

[9] 上野、毛利、p.167

[10] 上野、毛利、p.170

[11] 上野、毛利、p.199(アンジェラ・マクロビー、サラ・ソーントン、シーラ・ヘンダースンなど)

[12] ターナー、p.229

[13] フリス、p.199

[14] 渡辺、p.192

[15] フリス、p.289

[16] マクロビー、p.160

[17] マクロビー、p.162

[18] 上野、毛利、p.200

[19] 上野、毛利、p.201

[20] 上野、毛利、p.201

[21] マクロビー、pp.161162

[22] マクロビー、p163

[23] フリス、p.284

[24] フリス、p.285(キース・リチャーズはRolling Stonesというイギリスのロックバンドの男性ギタリスト、ジャニス・ジョプリンとグレイス・スリックはヒッピー・カルチャーの中にいた女性ロックシンガー)

[25] フリス、P.285

[26] フリス、p.126

[27] 渡辺、p.80

[28] 鈴木、p.177

[29] 鈴木、p.178

[30] 鈴木、p.178

[31] 上野、毛利、p.175

[32] 上野、毛利、p.175

[33] 上野、毛利、p.176

[34] 上野、毛利、p.176

[35] 上野、毛利、p.179

[36] http://home.att.ne.jp/gamma/miyamiya/raver.html (宮坂清『ヒッピーからレイヴァーへ ―「理想」による紐帯と「快楽」による紐帯―』)

[38] 上野、毛利、P.168

[39] 上野、毛利、P.168

[40] 上野、毛利、P.168