お願いです 投稿者:理工OB
投稿日: 1月17日(土)06時53分56秒
私は1968年9月4日、機動隊の封鎖解除に対し「バリケード死守」で篭城を決意しました。
その時の経緯をこのホームページに記しています。
今でも語れない壮絶なゲバルトも何度か経験しました。
でもそれは昔話を誇るつもりで書いたのではありません、伝えたいのです。
同じ理工学部の仲間より、
「バリケードの徹底抗戦の時も残る勇気も真の仲間もいないで結局盗聴すると言う事で中大の学館に逃げた??ような苦い記憶もあります。(原文)」と書かれ、「日和った」という思いを持っている便りを頂きました。
私は返事で
「私はあの当時参加していた仲間は、誰一人「日和った」とは思っていません。
全共闘に参加し、バリケードストに寝泊りする事自体が日常を超え、勇気の要る事だったと思っています。
色んな事で「勇気比べ」をするため参加したのではないと思っています。
ささやかな勇気を持った者が思い切って参加し、自分の勇気の範囲で出来る事を行い、強制されなかったからこそあの「日大闘争」があったのだと思います。」
と書かせていただきました。
経闘委さんより「経済では毎晩皆が議論した、その場ではあの秋田さんでも皆と平等だった」という内容のメールを頂いています。
その点は理工学部も同じですし、全ての学部でそうあったと信じています。
何の基準が全共闘であったのか、
私は「個人の意思で参加し、個人の意思で行動し、何者もの強制を受けなかった」事だと信じています。
たとえそれを他人がどう規定せよ。
だからこそ、あれだけの広範な運動になり、その思いを今にもち続ける事が出来ていると思います。
できれば「不毛な議論」はしないように、お願いします
書初め 投稿者:水中のみずすまし
投稿日: 1月17日(土)20時12分33秒
理工OB管理人さん、初めて書き込ませて頂きます。
小生は随分以前から、他人に自分が日大全共闘の一員であったことを暴露した時は必ず「全学連ではありません。日大闘争は百姓一揆のようなものだったのです。セクトの政治闘争のような高級なものではありません。なぜならば…」と付け加えている。
小生の父方の本家は、九州の山の斜面にへばりつく集落で果樹園と自作農で命をつないでいる。少なくとも六百年前から存在していたようだ。自作農だから年三百万円程度の現金収入があれば教育に金のかかる子供がいても食べていける。
大都市のように金を浪費する場所もないのだが「食べていける」とは「正に食べ物がある」だけの話。従って、菜っ葉が収穫できる時期は朝から晩まで菜っ葉がおかず。食費は農協から購入する米程度。やがて子供達は都会に出る。小生もこの生活は嫌いである。
女房の実家は新潟の県境に近い福島の山の中。同じく自作農だが四反程の水田を持ち、酒屋も兼業してるので比較的裕福である。しかし、雪が5メートルほど積もる豪雪地帯。町営のスキー場が近くにあるが雪が降りすぎると閉鎖する。リフトが動かなくなるし肝心のお客がこれないからだ。
昔から、秋には山で取れるきのこ、クルミ、沢で取れる葉類を水漬けにし、川で釣った魚を囲炉裏の上に吊り下げ、雪解けまでの食料にする。珍味なのだが毎日となると飽きる。
両家とも「お上」に逆らうことはしない。我慢する。いくら年貢がきつくても…。しかし、一旦怒りが爆発すると「極めて」激しい反応を示す。また、怒りが収まるか、思いが通じないことを悟ると、途端に元に戻る。従順な百姓に…。近年の「秩父困民党一揆事件」の顛末にも重なる。
小生が日大闘争を「百姓一揆」と称する理由がここにある。
唯一つの違いは、日大全共闘で自然発生した「直接民主主義」。当時は「個人主義」とも呼んでいたし、間違えて「アナーキー」とも言っていたようにも記憶する。
ちいと前振りが長すぎました。
当掲示板への周五郎さんの書き込み『一揆は一揆のように終息していった。けれども土は残る。今もなお』
絶賛します。人違いかもしれないが、小生の存じ上げている周五郎さんの顔を思い浮かべながら。
もし貴兄なら不毛な議論は好きではないですよね。
また、最近の理工OBさんの経闘委HPへの書き込みだったでしょうか「機動隊との最前線で目立ったヘルメットは、黒ヘル芸闘委と赤ヘル農闘委と記憶」とありました。彼等は「田舎の校舎」から来て、面も割れていないから神田三崎町で跳ね上がる。銀ヘル文闘委も同じ。
農闘委、特に1闘委は事実「跳ね上がり」だった。9.30が終った後、電車がないので徒歩で経闘委と一緒に経済バリに入り、食対がかき集めたパンと牛乳を支給した。食べながら涙を浮かべていた奴がいた。跳ね上がるけど皆良い奴なんだ。(後日、農闘委からお礼の日大農獣医製造ソーセイジ缶詰が送られてきた。うまかった)
この跳ね上がりの一人が、当掲示板を騒がしている「水闘委」である。残念ながら彼とは付き合いがある。
一本気・感情激情派で良い男なのだが、焼酎を飲むと心身頭脳が暴れ出す。先の「非紳士的書き込み」の件は、酔った奴に代わってお詫びします。(この書き込みを見た奴は、きっと小生に抗議の電話をよこすだろう)
長々と失礼しました。気晴らしの投稿ごめんなさい。
水中のみずすましさん 投稿者:理工OB
投稿日: 1月17日(土)21時18分30秒
水中のみずすましさん。
おしゃる通りです、わたしのミーハーな憧れは「芸闘委の黒ヘル」と「農闘委の赤ヘル」でした。
度を越した汚い格好・・・(済みません、でも本当でした)、長い丈のコートや米軍の払い下げの戦闘服を羽織ったいでたち、夜ににぶく光るヘルメットは、法経や理工にない「アナーキー」な雰囲気を持っていました。
一番最初に突っ込んで行ったのも貴方たちでした、生き証人の私が証明します。
個人主義の理想を突き詰めていくとアナーキズムに行き着くのでは、と浅学な私は思っています。
左翼の嫌いな我が学科の旗は黒旗、陥落翌日の早朝、誰よりも一番は早く安田講堂のてっぺんに駆け上がり掲げた我が学科の黒旗は単純に自慢でした。
右翼を自称してはばからなかった学科の幹事は、啄木の詩にでてくるアナキズムに触発され、バクーニンやクロポトキンは良い、といつも言っていました。私は何が良いのか分かりませんでしたが。
毎晩のバリケードでの全体会議は、口から泡をとばし激論する場面もしばしばありました。
でも任侠のような強い絆がありました。
特に9月を越した頃から、その絆は益々固くなったと思っています。
何を書いているのか分からなくなりました・・・・。
水闘委さんもSuugorouさんも私は皆好きです、仲間だと思っています。
水中のみずすましさん、お気持ちのこもった書き込み本当にありがとうございました。
オカマに怒られた 投稿者:水闘委
投稿日: 1月18日(日)13時01分17秒
花園神社の隣町の住民から、抗議の電話が入った。その昔我らのたむろ場所に、いつの間にか住み着いていた『オカマちゃん』であった。開口一番、『あんたオOOを馬鹿にしないでよ!−−−−−−−−−−(意味不明の言葉を連発。)アイツどこかの掲示板からRカードを貰ったみたいだけどね。ねちっこく、恨み辛みを言っているよ。あんな意味不明の奴と一緒にしないでよ。』ガチヤ。ちなみに彼は、いや彼女は、ガサ入れ時、体を張って闘ってくれた。内容は、恥ずかしくて言えない。これ以上刺激すると、彼女達が徒党を組んで『オカマ全共闘』を名乗るやもしれない。恐ろしいことになる。意味不明な者とは、議論しないこととします。管理人殿、お騒がせいたしました。
お願いです 投稿者:薮
投稿日: 1月18日(日)23時11分10秒
水中のみずすましさん
Syuugoro さん、水闘委さん。お願いいたします。
当時を知らぬ皆が読んでます。
「不毛な議論」、、。辞めてほしいです。
始めたら、不毛な議論を好む連中のロムの巣になる可能性があります。
お願い致します。大人の感慨を書く場を大切にしてほしい。
お願いいたします。
軟弱文連 投稿者:Syuugoro
投稿日: 1月19日(月)00時26分39秒
こんばんわ。全共闘運動の中にいても、僕は喧嘩は嫌いでした。
高校時代、ベトナム戦争で米軍が使うボール爆弾の材料を作って、それを米軍に売っていた
新明和工業へのデモで機動隊の並身規制を受けたのが、最初の体験だったでしょう。高校の中
で反戦会議を作り、大阪大学のバリケードに行って大学生の活動家の話を聞いたり、高校では
制服の撤廃などの校則変更の要求や反戦活動をし、テレビカメラの中で、校長をはじめ高校側
代表と団体交渉をやりました。僕がテレビに映っているのを見た兄に「家族が迷惑する」と殴
られました。
同志社大学に入ってからは、機動隊の膝蹴りに有って意識が遠のいたこともありましたし、
早朝ビラまきで、まだ人気もない新町キャンパスで民政の襲撃を受けて、2メートルの塀を乗
り越えて、危うく難を逃れたこともありました。1971年には日比谷公園で、分裂したブン
トの竹槍の内ゲバを目の当たりにしたこともありました。
しかしどんな時も、喧嘩は嫌いでした。相手が機動隊でも話せばわかると思っていました。
「悪法は破ることによって意志表示する」と。
僕はオーケストラにいたので、学生運動をしているのを渡りに船と、上部団体の文化団体連
盟の常任委員にさせられ、3年の時には委員長にさせられ、全学闘争委員会傘下の軟弱な部隊
の代表にさせられてしまいました。
全学闘の中で最も軟弱な部隊として、ビラ撒きや、デモの員数を要請され、その一方で、文
化団体連盟の行事をこなしているうちに、最大時には4千のデモ隊を組織した運動もどんどん
下火になって、百人や二百人のデモ隊を組織するのがやっとになって行きました。
そうして4年になった時には、すっかり下火になって、大学は平静に復していました。
しかし、情勢認識が間違っていたことは沢山あったけれど、民主主義とヒューマニズムに対
する確信というのは、30年後の今も、全く変わっていません。そして今も喧嘩は嫌いです。
「不毛な議論」、、? 投稿者:経済OB
投稿日: 1月19日(月)04時44分24秒
とは思いません、また、ケンカとも見受けられませんが、あまり、字句にこだわるとそのように思われるのでしょうか、活字にするととんがるのかもしれません.
ともあれ、議論する人は、みんなお仲間です.
全共斗は、ことに、日大全共斗は、全体会議での大ケンカをはじめとして、よくケンカ腰の議論をしました。
でも、ただ一つの目的に対して、一致団結して、ことに当たりました.
自治権奪還=日大闘争の勝利です.
それは、やがて、全国学園闘争の勝利=他大学の闘争に連帯支援するものへと目を開きました.
敵=総権力がそれを強いたからです.
いま、私たちが目を向ける対象は何でしょう.
敵は、どこにいるのでしょうか.
そのことについて、議論しようではありませんか?
いま、大胆に、私たちを抑圧する者の正体は何ものか?
それを、議論しませんか?
私からの提案です.
内ゲバ・・・ 投稿者:理工OB
投稿日: 1月19日(月)07時08分36秒
おはようございます。
出勤前の早朝ですので手短に書きます。
71年の日比谷でのブント同士の内ゲバ、私は真横で見ていました。戦旗派と対立する同じブントの派(赤軍派?)同士の内ゲバだったと思います。
ここでやっとsyuugoroさんと時代がクロスしました。
でも、この時私はもうヘルメットを被っていませんでした、セクトの引き回す全国全共闘には関心はありませんでしたので。
どの派も全国動員でかき集めて、事情の分からない1年や2年の学生が戦闘部隊の主だったのでは(間違っていたら御免)。
その頃は私は既に少々くたびれた4年坊で、簡単に動員に乗るほど意気盛んではありませんでした。
詳しい事はわかりませんが、集会に赤軍」派が参加するのを拒むための対立だったと聞いています。
野外音楽堂の中では全国全共闘の集会をやっていたと記憶していますが(記憶は曖昧)。
薄暗くなった公園内で両派がお互いに旗を水平に構えまともに激突しました。
片方の部隊から石灰の入ったような袋が投げられ煙幕が張ったようになり、隊列横からも遊撃隊が襲っていました。
BUNDファンの私には何とも悲しい風景でした。
>いま、大胆に、私たちを抑圧する者の正体は何ものか?
>それを、議論しませんか?
>私からの提案です.
難しくは言えませんが、世界を圧巻していく「グローバリズム」だと感じています。
人を人としてみない拝金主義が「人生の目的」のように市民権を勝ち取り、人生の価値の様になっています。
私は今「平成維新」が必要と思っています。
大風呂敷を広げてしまいましたが・・・。
昔を「総括」して再びたたかいを組織しよう 投稿者:遅れて来た全共闘世代2
投稿日: 1月19日(月)10時41分41秒
上手くは言えませんが、そういうことです。
僕は「遅れて来た全共闘世代」です。全共闘世代に影響を受けたのが中学時代。67年の三派全学連の佐世保闘争の時は中学2年。中核派時代の糸井重里氏がぺらぺら喋っていたのを記憶しています。68年は全共闘運動とベトナム反戦の最盛期。69年は高校入試がありましたが、東大安田講堂での攻防戦を食いるように見ていました。
それから高校ー大学と1976年まで活動をしていましたが、その後していません。先日、私のやっているラジオ番組にアメリカ事情に詳しいY氏に出演いただきました。彼は地元の高校出て暫くぷーたろうをしていましたが、1971年に一念奮起し単身渡米、
以後アメリカでビジネスを取得し、アメリカで生活基盤をこしらえた人間です。
その彼はこう言いきりました。「今回のイラク戦争は間違いだ。不名誉な撤退以外ありえないだろう。「9・11テロ」以来、アメリカの良さはなくなった。アメリカには希望はない。」
団塊世代の彼は、リタイヤ先をアメリカでも日本でもない第3国を求めて奔走しています。「不名誉な撤退」しかないアメリカの追随をした日本。
僕らももう黙ってはおれなくなりました。「イラク戦争阻止反戦行動委員会」とか「反帝・反戦行動委員会」とか、「グローバル主義=アメリカ追随主義」と対決する運動体を組織しなければと思います。
政治をしないかという誘いは最近強くなりました。それは議員、地方議会の議員にならんかというものです。加齢とともに、市民運動の経験からそういう声も出ます。でもそういう「サービス業」的な政治活動に魅力は感じません。
プロジェクトと言いますか、「テーマ限定的」な運動体をこしらえてみたいと考えています。政党や労組とは一線を画した形態でしたいと考えています。
アメリカの落日 投稿者:遅れて来た全共闘世代2
投稿日: 1月19日(月)10時46分33秒
アメリカ事情に詳しいY氏も団塊世代。世界観は違いますが、アメリカはかつてのアメリカではないと。聞き取りホームページに上げました。
http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/whatnew1/04-2gatu.html
聞き役になりまして、かつて訪問したアメリカ(3回行きましたが)思い出しながら聞いていました。なるほどあの頃が絶頂期だったのか。今のアメリカは駄目なのかと。
そのアメリカに日本は追随するのはおかしいと心底思いましたね。
敗北の後に残されるもの 投稿者:Syuugoro
投稿日: 1月20日(火)07時32分6秒
おはようございます。
「大学管理法案」が強行採決され、
「大学の自治の学生参加」の夢は踏み潰され、
「日米安保条約」が自動延長され、
「米軍基地のない沖縄返還」が一蹴され・・・・
赤軍の突出による玉突き的なブントの先鋭化・分裂・解体・・・・
そんな中で圧倒的多数のノンセクトの学生たちは、
自分のやっていることが見えなくなって行ったのだろうと思います。
僕には日比谷公園のブントの内ゲバ意味など全く理解出来ませんでした。
敗北した後に何が残されるか、
その中でどんな運動が継承されて行くのか・・・・
それは大管法が施行された中でも学生参加を求めて闘ってゆくことだった筈、
学生参加の道を訴えて行くことだった筈、
米軍基地の残された中での沖縄の闘いを構築してゆくことだった筈、
ベトナム侵略に加担する自民党政権の非を国民に訴えて行くことだった筈、
その後、生産性向上運動と企業ファシズムの嵐の中で、労働組合は次々潰され、
多くの善意を持った国民も、無気力から、目先の快楽を追いかけるようになっていった・・・
マスコミが「迷惑スト」の宣伝を大合唱する中で、
労働組合に入る若者もいなくなり、
労働組合自身が消えてなくなっていった・・・・。
利潤原則と体制・権力による競争の煽り炊きつけが常識となり、
上品なNHKの解説者も、
「だから、公務員にも競争原理を導入しないと・・・」などと宣伝する。
ピンはねと使い捨てを正当化する「労働者派遣法」は
「自由な仕事の仕方を目指すもの」「若者に夢を与える」などと詐欺師顔負けの宣伝をし、
300万の不安定雇用の労働者を溢れさせている
何よりも先に足元の、そして日々、弱者を収奪し続けている、
この「労働者派遣法」を、臨時労働者と社員労働者の二重構造を、
そして失業者からも税金をとる、しかも、それを15パーセントに引き上げるという「消費
税」を、軟弱な問題ではなく、深刻な問題として、捉えなければならないのではないでしょう
か。
「イラク反戦」「反バクスアメリカーナ」の闘いも、その中で足が地についてゆくのでしょう。
日大闘争異聞 投稿者:経済OB
投稿日: 1月21日(水)03時42分19秒
実は,運動は継承されていったのです.
あとに続くものがいたのです.
彼らは,我らのときと違って,マスコミのライトを浴びることはありませんでした.
また,マスコミを利用しようとも思わなかったようです。
だから,私たちが知らなかったのです.
たった一人で立ち向かった者もいました.
その話を,2003年に聞いたとき小生は,震えるような感動を覚えました.
あとに続くものがいた・・・・・・・・とね。
彼らの行動を賞賛したい!
敗北というなら,それは,私,及び,貴殿の敗北でありましょう.
体制との闘いというのは 投稿者:Syuugoro
投稿日: 1月21日(水)07時19分14秒
おはようございます。
闘いは続いていますよ。この掲示板へのみんなの投稿もそうでしょう。
しかし体制との闘いというのは、勝利の時までは敗北の連続なんでしょう。
いま300万の失業者がいます。
300万の不安定雇用の労働者がいます。
その力が、「労働者派遣法」などの悪法を廃止させ、
ワークシェアリングなどの雇用安定政策を実現させ、
労働者の経営への参画を要求し、
倒産企業の管理へ労働者の発言権を認めさせるようにしていかなければなりません。
年金の65歳至急開始、さらにはそれを70歳に延長するという、
消費税を15パーセントに引き上げて、失業者からもむしりとるという、
そんな政権を存続させてはいけません。
自衛隊を支配階級の道具にしてはなりません。
天皇制を支配階級の道具にしてはなりません。
世襲議員でなければ、権力を掌握できないような貴族政治を認めてはなりません。
どれだけ時間がかかっても米軍基地のない日本をつくらなければなりません。
僕は選挙権を得た時から社会党の左派、現在の社会民主党の支持者ですが、
少しでも問題の解決につながるなら、たとえ自民党と同じ穴のむじなであっても、
民主党政権を実現させることも必要だと思っています。
ともかく、支配イデオロギーにブレーキをかけなければなりません。
年間3万人を超える自殺者、
その数も掌握できないホームレス、蒸発者
年間300万件に及ぶ刑法犯罪・・・・
ともかく1970の日本よりも、真に深刻な状況は現在の日本だと思っています。
一人の力では、出きることは限られています。
政治を変えなければなりません。
社会党?! 投稿者:理工OB
投稿日: 1月21日(水)15時43分22秒
私の職場は役所に関連したところです、随分以前になりますが仕事の関連で地元の市会議員さんの選挙を手伝うことになりました。
候補者は同世代の方で、当時の社会党から候補者として出ていました。
私は自分のペースでビラ配り、告示前の戸別訪問、電話作戦と行いました。
日大全共闘の時の事と比べると、私には特段の事ではありません、自分なりに誠意を持って取り組みました。
選挙前の集会では大勢の支持者が集まり、選挙の応援について熱く語っていました。
でも皆さん、私ほど詰めて出てくる方は余りいませんでした。
選挙が近づくと私は事務所の主のようになり、選挙参謀より熱心に選挙運動をしていました。
こんな選挙を2回経験しました。
そんな経過で、事務所に詰めていた2歳上の社会党専従の方に「入党」を勧められました。
この時代、労働組合などに所属しない者の入党は稀な例でしたが。
社会党への入党は、一定の党員暦のある複数の党員さんの推薦が必要です。
私はその関門は難なくクリアーしました。
言いたいのはこれからです。
入党してみて、社会党は外から見るのと内では大変ギャップのある党でした。
原始的な直接民主主義の全共闘を経験した私だったのでのギャップかも知れませんが。
組織の中に民主主義は建前であるのですが、あくまで建前です。
組織は厳しい序列があり、徒弟制度のような硬直した組織です。
執行部は陰たる影響力をもつ集団が牛耳っていて、一市民から入党したものには発言できるような場はありません。
党内人事と党幹部を牛耳っているのは**同盟の方々でした。
差しさわりがありますのでそれ以上は書けませんが。
党内で頼りになるのは入党を世話してくれた専従さんだけ、組織をバックに持たない一市民の党員は単なる駒だけです。
信念と決意を持って入党する共産党の党員さんなら、それでもコツコツやるかもしれませんが。
1年もしないうちに嫌気がさして距離を置くようになりました。
それでも党は組織です。
党費や選挙カンパ(強制です)は溜まるばかり、2年ぐらいで30万円程の未納党費の請求が来るようになりました。
そうしてる内に社会党は3つに空中分解してしまいました。
社会民主党が今どう変わったかは私は知りませんし、無責任に批判はいたしません。
ただ、かつて私の経験した党内は民主的でなかったことだけは言いたいです。
労働組合も肯定的に受け止めることが出来ません。
「じゃ・・、お前は何をベースに社会に関わろうとするのか」と問われても返答が出来ません。
無責任とのそしりは覚悟の上です。
職場にて
社会民主党と労働組合 投稿者:Syuugoro
投稿日: 1月21日(水)18時44分30秒
こんばんわ。
>ただ、かつて私の経験した党内は民主的でなかったことだけは言いたいです。
>労働組合も肯定的に受け止めることが出来ません。
もちろん、指摘されているような現実は承知しています。
そういう意味では、泡沫政党となった社会民主党に期待をかけています。
それと、ともかく社会党左派は山川均や荒畑寒村などの「労農派」の流れを汲んでいます。
あの田中正造の魂が荒畑寒村に流れて、社会党左派を形成していったのです。
土井たか子には、その血が流れていると思います。
それから、労働組合というのは全共闘のように、決意を固めた個人が集まるというわけには
行きません。それに、物取り闘争しか考えないし、正社員のエゴや保身を平気で出すこともあ
るでしょう。
しかし、労働組合がなくては、誰が「労働基本権」を守れるでしょうか?
エゴと自己保存を正当化する人間に、少しでも「弱者救済」という根源的な人間性を訴える
のは労働組合員に限らず、すべての日本人に訴えて行かなければなりませんが、その心を取り
戻すことが出来れば、労働組合は大きな力になるでしょう。
労働組合?! 投稿者:理工OB
投稿日: 1月21日(水)19時33分0秒
Syuugoroさん、書き込みありがとうございます。
わたしは今日は二度目の書き込みです。
労働組合の話になると俄然「遅れてきた全共闘世代」さんが登場しそうな気配を感じます。
以前のメールのやりとりで、彼は”ロウグミ”に一物あることを知っていますので。
私は仕事の関係で知っている「上級官庁」の労働組合が、かつて要求闘争で「食える給料を寄こせ」という闘争スローガンを掲げ闘争しているのを呆れて見ていました。
私の地方で、私の所得よりもはるかに多い所得を終身保証されているこの方々は、一体何を根拠にこんな要求闘争をしているのだろうと。
真面目にビラや機関紙を読みました。
ただ一つだけ納得できる根拠を見つけました。
「私達公務員の待遇が下がると、それに続く民間の労働者の待遇が悪くなる」だったと思います。
さすがに今はこんな要求闘争はしていませんが。
私は未組織労働者の痛みは知りません(私も未組織労働者ですが)。
零細企業に働く「弱小労働組合」のことも知りません。
いたせり尽せりの役所の労働組合しか見ていませんので、その範囲での「労働組合」への生理的嫌悪感です、偏見をお許し下さい。
仮にも社会党に一度籍を置いた者の言う事ではありませんが。
>しかし、労働組合がなくては、誰が「労働基本権」を守れるでしょうか?
反論する論拠が思い当たりません。
私の長男は働き者です、私は目を細めて働きぶりを見ています。
でも妻は心配しています。
土日もなしに深夜まで働く長男がいつかは倒れないかと。
残業しているので時間外はもらえるのか、と聞くと「そんなものは無い!」。
土日出勤したら代休は有るのかと聞くと「そんなの有るのか」と反対に聞かれた。
でもりっぱな労働組合があるらしい。
長男を「洗脳」すべきか、それとも「働き者」と喜んでいたら良いのか・・・。
組合 投稿者:薮
投稿日: 1月21日(水)23時30分1秒
私の父は公務員系の労働組合員を退職するまで続けています。
父から聞いた話で実体験では無い点を、お許しください。
労組の指導部は、社○主○協○系の部分だったそうで、とても頑固な「指導方針・理論」をもち『学校外』組合員の「発言」には「組織方針」を声高に叫び耳を傾けなかったそうです。
そんなこんなで一切の役職をおり、またそれでも組合は辞めませんでしたけど。
私は「労農派」の流れは、どこかの大学の先生が号令をかけるようになった時点で
断絶した、と解釈しています。たしかに荒畑寒村さんは、社会党を大切にしてました。
それ以上に三里塚闘争を始めとする現場の社会運動に思いを馳せていたように想います。
>労働組合がなくては、誰が「労働基本権」を守れるでしょうか
70年代後期からこっち、「労働基本権」を組合の名で守らない組合が多いのでは。
今も大組合、かつて大組合であった組織も。
私は組合への希望を未だかつてもった経験はありません。
組合のあるような企業に雇用された経歴も無いのですが(^^ゞ
労働組合は企業を超えて 投稿者:Syuugoro
投稿日: 1月22日(木)00時35分37秒
今日の労働組合の衰退、腐敗は、闘い、潰されていった労働組合の問題もあるのでしょうが、
組合が企業内か、せいぜい同じステータスの産別内の環境改良闘争にしか目が行かない体質が
労働組合運動を腐敗・堕落させてきたわけでしょう。しかし、今企業は情け容赦なく、終身雇
用制を破壊しつつあります。いやでも労働者は企業から離れて団結してゆかざるを得なくなる
でしょう。
解雇された時、解雇の正当性を裁判で争うにしても、一人では出来るものではありません。
そして、違法な解雇と闘っている労働者や弁護士もたくさんいるでしょう。その人々に連帯し
力を大きく育ててゆくことが必要でしょう。
片方に300万の失業者と、300万の不安定雇用労働者がいるのに、片方に深夜に及ぶ長
時間残業があるというのは、実にみごとな社会矛盾というべきでしょう。
僕は賃下げになってもワークシェアリングを求めて闘うべきだと思います。それ以前に、
「労働者派遣法」成立当事に比べ、派遣労働者の賃金は著しく下がっています。資本家のやり
たい放題になっています。
しかも失業者が溢れているのに、「努力した者に報いる」といって、高額所得者の税率を下
げ、足らない分は失業者からもむしりとる消費税を引き上げようとしています。
いろいろな事情はあるでしょうが、無賃金残業や無手当ての休日出勤の事実関係は隠れてで
も保存しておくべきだと思います。その賃金はマルクスの言う「剰余価値」どころではなく、
資本の利益を代弁する半永久的な自民党政権下で出来た法律に照らしても、違法な収奪でしょ
う。労働基準監督署がいかに、未組織労働者に冷淡な存在だとしても、証拠のある違法行為は
看過できないでしょう。
企業から離れて、政党・政派から離れて、「全共闘」の精神でネットワークを作って行かね
ばならないのではないでしょうか。
ワークシェアリング 投稿者:理工OB
投稿日: 1月22日(木)07時37分24秒
>僕は賃下げになってもワークシェアリングを求めて闘うべきだと思います。
Syuugoroさんは良い事を言いました。
大賛成です。
時間外、休日出勤している労働時間を新規雇用にまわすベキ!です。
でも今の労働基準監督署は違法行為を実態的に強制的に守らす力はないのでは。
私は基準を超える長時間労働、手当ての不払いには対しては雇用主に厳罰を持って望むしかないのではと思っています。
何をしても許され通用するから違法が大手を振ってまかり通るのです。
違法行為の雇用主は懲役何年以上の刑を処す・・・ぐらいの事をやらないと日本から労働者の違法な搾取はなくならないと思うのですが。
それと肝要なのは、賃金が下がっても・・・という共通認識を労働者が持てるかと言う事です。
企業の、会社の「それじゃ会社は持たん、つぶれると」いう反論にどう対処するかです。
今やアンシャンレジーム 投稿者:遅れて来た全共闘世代2
投稿日: 1月22日(木)08時45分54秒
理工OBさんより「リクエスト」がありましたので、発言させていただきます。
ただいささか個人的、家族的発言であることをご容赦下さい。
私の父は、戦前旧制の工業高校を卒業し、朝鮮総督府の鉄道部署に勤務していたそうです。給仕付きの1軒家に住み、給与も十分であったため、自作農の実家に仕送りまでしていたそうです。
それが兵隊に徴用され、敗戦後復員し地元の県庁に土木職員に採用されました。しかしあまりに給与が安く、結婚することも出来ないため、当時景気の良かった製紙会社に再就職したそうです。北海道庁へ勤務していた叔父も、出張費をごまかしたり、備品費を誤魔かしたりして会食費を捻出したりしていました。
昔はそれだけ公務員は給与が低かったのです。出張費や備品費を誤魔かして飲食費にあてる。窃盗行為ですが、「伝統的に」皆罪の意識なしにやってきたことですね。公務員の待遇が飛躍的に良くなってきたのは、労組(自治労)などのおかげでしょう。GHQの方針もあり、農地改革とともに日本を民主化する切り札として活用された歴史がありますので。
ただ先に述べました「カラ出張」などの悪しきイジマシイ習慣を保持しながら、権利意識だけ増長し、今や「既得権益の権化」「アンシャンレジーム」になりました。
労組の組織率が20%を割り込んでも連合などの幹部は「当事者意識」がなく、旧社会党同様「身内の意識形成」や「付き合い」に終始し、広がりを持つ運動論は皆無でした。
時代が変化しているのに新しい顧客開拓を怠り、衰退している商業者と同じです、ただ彼らは商業者と異なるのは、組合員から収奪するシステムを確立していますから危機感は皆無ですね。旧国労のようになれば少しは目覚めるでしょうが。
いずれにしろ労組が「歴史の進歩派」だった時代は昔の話でしょう。
渡世の義理 投稿者:理工OB
投稿日: 1月22日(木)08時47分54秒
ヤイ、東大のバカ野郎
バリケード組んでやった恩義を忘れたか
11・22、万難を排し安田講堂にはせ参じたろう
明日の闘争に戦力を温存すると撤収し
替わりに篭城し見事飛び散った仲間たちへの恩義、忘れたか
日大生は間違わなければ精々中間管理職か
中小企業の大将
あんたたちは違う
俺たちゃ、あんたらの明日に賭けて飛び散った
秋田さんはいい、黙っていても
それだけの事はした、結果も受け止めた
でも、東大のバカ野郎
あんたたちはには
まだ、借りは返してもらっていない
東大元暗し・・・ 投稿者:世代違いの日大OB
投稿日: 1月23日(金)00時29分15秒
佐々さんが浅間山荘事件の映画を作ったが、同じく東大闘争(含む日大闘争)を
プロヂュースして欲しい。
東大闘争を書いた佐々さんの本を読んだが安田講堂落城時に立て篭もっていた学生
は東大生ではなかったそうではありませんか。でもそんなことは今現在、誰も発言していない。
「世代違いの日大OBさんへ」まずは反論 投稿者:水中のみずすまし
投稿日: 1月23日(金)05時29分46秒
今週月曜日からの議論楽しく拝見致し、次の観点で反論予定。
「はき違えて広がった全国全共闘運動・セクトの隠れミノ戦略、これが日大全共闘衰退の元凶」「労働者の味方でない労働組合への幻想・妄想・擁護、民主組合をつぶした同盟・民社党、大企業に働かない者を労働者と呼ばない労働者の存在」「社会党と言う名のセクト・非直接民主主義」
ただし、夜間帰宅が続く零細企業主の身、ご意見拝察のみで午前様。文章をつづる時間足らず、後ほど。
「世代違いの日大OBさん」の聞き捨てならない書き込みにだけ至急申し上げたい。誤解を解いて頂くために。
>>… 東大闘争を書いた佐々さんの本を読んだが安田講堂落城時に立て篭もっていた学生は東大生ではなかったそうではありませんか。でもそんなことは今現在、誰も発言していない。…
真実を知る者は以前から以下の状況を暴露していましたが、単にマスコミが取り上げず貴方の耳に入らなかっただけです。
確かに、69年1月18・19日の東大安田講堂の攻防戦は、セクト(党派)が全国からパクラレ要員を募り全員逮捕させるために仕組んだ戦いであると理解しています。
日大闘争での68年9月4日の法経校舎バリケードに対する機動隊導入、全員逮捕の結果、再バリ奪還闘争に幾万の一般学生(セクトは大衆と呼んでいた)がアリのごとく集合し機動隊を蹴散らした状況をセクトは再現しようと目論んだのでしょう。70年安保粉砕のスケジュール闘争を戦うために…。
参考とした日大全共闘の戦力がノンセクト・非セクト、右左混合百姓一揆であったことも分析できずに…。
しかし、当日、200余名の逮捕者の中で現役東大生は20名位いました。内、ノンセクトの東大全共闘学生も数名程度であるが逮捕されている。友人もその一人でした。この件は東大全共闘議長のY氏からも直接聞いている。
同日行っていた御茶ノ水カルチェラタン解放区から東大に進行を試みていた日大全共闘部隊に「機動隊の催涙弾がなくなった。自衛隊の在庫分を借用手配たのむ」との無線傍受の情報をシャットアウトしたのも、この日、御茶ノ水の日大校舎に集合していたセクト幹部の連中であった。
>佐々さんが浅間山荘事件の映画を作ったが、同じく東大闘争(含む日大闘争)をプロヂュースして欲しい。
「日大全共闘が、連合赤軍事件につながった」との風潮はお門違いです。非セクト集団による大学民主化闘争と、セクト(組織命令システム)による政治闘争は決して融合しません。
増してや連合赤軍の非人道的破廉恥犯罪の逃亡犯人捕獲騒動と、日大闘争を同列にしないで頂きたい。東大闘争に関してもセクトの領域と、非セクトのY議長の真意を見極めてほしい。
「なぜ、どうして」は、リンク「けいとうい」を参照してください。じっくり読めば理解いただけるでしょう。
水中のみずすましさんへ 投稿者:世代違いの日大OB
投稿日: 1月23日(金)16時29分45秒
>佐々さんが浅間山荘事件の映画を作ったが、同じく東大闘争(含む日大闘争)を
>プロヂュースして欲しい
誤解を招くような書き方をして申し訳ありません。日大闘争は非セクトであることは
「けいとうい」を読んで認識しております。
浅間山荘事件と同路線との意味ではなく、マスメディアにより日大闘争の真実を取り上げ
欲しいとの意味で書いたつもりでした。でも冷静に考えてみれば元警察官僚が日大全共闘
側から見た日大闘争を作るわけがありませんよね。
芸闘委が作成した16ミリの「日大闘争の記録」は今では見ることはできないので
しょうか?
佐々 投稿者:薮
投稿日: 1月23日(金)23時46分53秒
>世代違いの日大OBさん
浅間山荘事件の映画を観ましたか?
で、圧倒的にアホでした「連赤」の動きを、
私は「非人道的破廉恥犯罪の逃亡犯人捕獲騒動」とは思ってはおりません。
あまりにも悲しい「党派運動」の末に、のような。
一人から始まった全共闘運動。そんなかから望んで死に入った。
言葉ではいえません。私はそうです。
世代違いの日大OBさんと薮さん 投稿者:水中のみずすまし
投稿日: 1月24日(土)02時09分38秒
世代違いの日大OBさんのご質問へ
16ミリ映画『日大全共闘』は芸闘委作成ではありません。日大全共闘が街頭カンパで集めた金や経済学生会資金などを使って生フィルム代、現像代等々を負担し、芸闘委がスタッフとなって撮影・編集した「日大全共闘制作作品」です。
因みに『続・日大闘争』もありますが、これは芸闘委ばかりが写った取材フィルムを集めて編集されており、10分も見ると飽きます。
当編の一番の見ものは「すっ裸の入浴シーン」なのですが、残念ながら男しか写っていません。しかもバリ生活で垢だらけ。カメラに向って恥かしがってはしゃぐ姿は修学旅行もどき。無邪気な二十歳前後の「男」に趣味のある方は必見の場面。
尚、両作品とも「68・69日大東大闘争を記録する会」で著作権管理をしている。当時のフィルムやビラ類を集め、新しい日大闘争記録映画作りをめざして結成された会である。トラブル続きで新作映画完成には至っていないが、数年前に上記作品をテレシネビデオにし、一口3万円の映画制作カンパに応じてくれた諸氏に配布した。在庫はまだ数本残っている。ただし、意の異なる方、プリントや上映を目論む方には渡せない。ご希望でしたら「本名と住所、希望される理由」を明記して当管理人さん経由で申し込んでください。カンパ額は当会の事務局と相談の上、ご返事します。
続いて薮さんのご意見へ
>>圧倒的にアホでした「連赤」の動きを私は「非人道的破廉恥犯罪の逃亡犯人捕獲騒動」とは>>思ってはおりません。あまりにも悲しい「党派運動」の末に、のような。
映画の登場人物は、監督の感情の虫眼鏡を通した作り物です。
政治闘争を目的とした労働者でない「セクト学生活動家」と、政治から置き去りにされた働く「若年労働者」が、社会矛盾解決のために共産主義国家建設をめざして初めて連合し、武装革命を目論んだのが彼等「連合赤軍」です。武力革命を先導した「塩見教祖」が大菩薩でパクラレ、また北朝鮮に飛んでいった同士幹部には置いてきぼりを食ったブンド赤軍残党と、京浜安保共闘がなぜか仲良しになったのである。
当時の国家権力機動隊は、その2年程前に日大全共闘との戦いで幾多の負け戦を経験し、制圧武器も作戦自体も益々非人道的にエスカレートしていた。ヘルメットをかぶったデモは4列横隊にさせられ両側を2列づつの機動隊員が挟み込む「サンドイッチデモ」しか許されない。街行く人は機動隊員のデモと勘違いした。
火炎瓶を投げても帯同する放水車が直ちに消し止め、中核(セクト)が投げた(確か69か70年、明治公園前にて)釘入りピース缶爆弾にも耐えうる防護装備の機動隊は攻守共に太刀打ちできなくなっていた。
機動隊に勝つ方法、それはより強力な爆弾であり、否、ライフルであった。敵は国家であり、機動隊員ではないことに気付かないまま。民衆の一人である銃砲店を襲いライフル・実弾を手に入れ、銀行・郵便局を襲い資金を集めた。
そして逃亡逃避生活の中で、危険をともにしていた仲間を一人づつ殺していった。「総括」と称して兵隊から。妊婦も胎児も。最高幹部は生き残った。
妥協を許さないな熱狂的政治信条や宗教は異物を排除する。しかし、トップ層は自らは排除しない。派閥に負けない限り。民衆平等であるはずの共産主義然り。オウム然り。
全共闘『運動』なんて言葉はくそ食らえ。少々品がありませんが、運動とは目的達成のために皆に働きかけて行動をともにさせること。
日大全共闘は、幹部統率者の働きかけがなくとも闘争が拡大した。正式名称、日本大学全学部共闘会議。
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