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[No.231]朝もやの中 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/10/01(Mon)-12:08
Early Morning Corbicula

休日に運動会があったので代休となった月曜日。
ご家族が休日の爆睡にひたっている朝もやの中、
ひとりお仕事モードのちすは目覚めの最悪な気分にムチ打って
起床しようといたしておりました。

睨みつけようとも懇願しようともその進行を止めようとしない枕元の時計との
戦いに諦めをつけ、布団の中で大きく伸びをしたとたん、
右手はお子様の背中に、左足はニャンコのお腹に激突・・・
「うみゃっ!」と同時に抗議の声を食らったちすは、思わず縮こまり、
その瞬間に右足がこむら返りを起こして・・・「みぎゅーっ!!」
声にならない痛みの中、ぐみぐみとつま先を引っ張って対処し、
ベットから床に足を下ろすと右足のつま先裏になにやら異様な感触が・・・
「こ・・・こりわっ!」
薄闇の中でちすの足裏にかがやくそれはニャンコの吐いた毛玉でした。
それも出されて間もないネコ肌のホカホカ・・・
「うーみゅ・・・」
ニャンコの何がすごいって、毛玉をお吐きやがって、まだぬくもりのある
程度の時間しか経っていないのにそのような行為をしたこともすっかり忘れて
すぴょすびょと爆睡こける事ですね。感心感心。
いや、小型肉食獣に感心などしている場合ではありません。
この足の裏をなんとかしなくては。
ちすは「かかと歩き」で寝室を出て洗面所に向かい、
不幸な右足を洗面台に置いて毛玉を洗い落とそうとしました。
そして、大きく足を振り上げて洗面台に乗せたそのとたん、
ちすの全体重を一手に引き受けた左足がこむら返りを・・・
「ふみゅーっっっ!!!」
痛かったですー、はい。めっちゃ痛くて涙ぐんじゃいました。
男が泣くのは親の死んだときと財布を無くした時ぐらいだと亡くなった
祖母様がおっしゃっていましたが、これからは
「起き抜けにこむら返りした足でネコの毛玉を踏んづけて、
 あげくに反対側の足もこむら返りを起こした時」
も追加していただきたいです。
うぐうぐ泣きながら汚れた右足を洗って、洗面所にうずくまって左足をぐみぐみと
引っ張るちすって・・・哀れです。

さて、
おかげですっかり目が覚めちまったのでキッチンにいって朝食を・・・
あ、「ほかほかネコ肌毛玉」ですが、ちすオクやお子様が起き出した際に
踏んづけるやもしれませんのでそのままにしておきました(笑)
えぇいっ!踏め踏めーっ!!
 <(逝ってヨシ)

朝食といってもご家族爆睡(ネコ含む)状況の休日(ちす含まず)の朝ですので、
1人寂しく個食の準備です。
よく、個食は青少年の健全な精神成長の妨げになる
とかとかとのたまわれていますが、
健全じゃない中高年の精神成長の妨げにもなりますです。絶対。

冷蔵庫からタマゴとベーコンを取り出してフライパンで調理し、
お漬物とお野菜を出して、ご飯をよそい、お茶をいれ・・・・
お味噌汁・・・面倒くさいです。はい。
どうせご家族が起きてきやがられるのはお昼前。今お味噌汁を作りおいても
ワカメの色は変わってるし、お味もしょっぱくなっています。
家長としては
そのような美味しくないお味噌汁をご家族に食べさせてはなりません。
と、もっともらしい言い訳をアタマの中でのたまった後、
ちすはキッチンカウンターの扉を開いて自分の為の
インスタントのお味噌汁の物色を始めました(笑)
インスタント食品というのは、常食していると
ノーミソのほうもインスタント並みのレベルに劣化いたしますが、
たまに口にする程度でしたらその毒素にもなんとか対応することができます。
まぁ、日常生活においてはその劣化インスタントノーミソを保持する方々と
接触する機会が50%を越えているのですから、
この程度の事を気にしていても仕方はありません。
と、いう事で備蓄棚から引っ張り出したのは
「殻付きシジミのお味噌汁料亭風」

この「料亭風」とかって表現ですが、
よくインスタントの和風食材に冠されている事が多いのですが、
いったいどこが料亭風なのかについてちすは存知ません。
実際にこのような食材を料亭が出したら顧客のちゃぶ台返しは必至であり、
顧客が政財界の大物でしたら料亭の将来は風前の灯。
ましてやヤクザ屋さんの偉いヒトなんかでしたら、板前さんは東京湾の
アナゴさんのご夕食になってしまいます。
鬼遊笑覧をお読みのお方で「いや、私は料亭風の味の料亭を知っている」
という方がおられましたらそのお店の詳細な地図をつけてご一報いただきますと、
ちすが高性能爆弾をしかけに・・・あわわ

いや、料亭爆破計画のお話ではありません。
「殻付きシジミのお味噌汁料亭風」なのです。
身体にいいとか肝臓にいいとかとお昼のテレビジョンで紹介されてから
居酒屋のメニューのお味噌汁のアタマに「シジミの」とかって記されている
ことが多くなりました。まだ捏造が発覚していないようですのでしばらくは
この記載は維持されると思います。
そもそもが飲酒と言う行為をしている状況で身体や肝臓に優しいことを
したとしても、その効果は環境破壊に心痛めてマイ箸やエコバックを持ち歩く
程度のものなんでしょうが、自己満足がもたらす精神的な平穏を考慮すると
多少の効能はあるのであると思います。
と、いう事で常時二日酔いの朝を迎えているちすとしては数多備蓄されている
インスタント味噌汁の中からシジミの味噌汁を選択したのは当然の
事であります。

と、まぁシジミの味噌汁を前にひとしきりぶっこいている間に
ベーコン卵も焼きあがりましたので、
件のシジミの味噌汁の元を吸椀に入れ、熱湯を注いでお味噌汁にして、
美味しく朝食をいただきはじめたとたん、「グカリッ!」と・・・
なんとシジミの身に砂が残っていたのです。
「うーみゅ、砂が有ると言うことはこのシジミは本物であるか」
などと感心している場合ではありません。
普段砂を噛むような思いはしていても実際に砂は噛みたくありません。
二日酔いにシジミの味噌汁と言う精神的な平穏も環境問題も
すべてこの砂に壊されてしまいました。
「えぇいっ、この怒りをどうしてくれよう・・・そうだ、不幸は撒き散らすに限る」

ちすは「味噌汁に砂が入っていた」事の報告にかこつけて、
ちすオクの健やかな睡眠を妨害すべく寝室に入って行きました。
そして1歩踏み込んだとたん
右足のつま先裏になにやら異様な感触が・・・シクシクシク

[No.230]コロッケ+パン 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/09/28(Fri)-13:34
Croquette and bread

都心なのに昔ながら風情の残る街に降りてゆく道。
時の流れから忘れ去られたようなとある商店街の片隅に
「コロッケパン屋」があります。

パン屋でもコロッケ屋でもなく「コロッケパン屋」
揚げているのはコロッケだけ。売っているのはコロッケパンだけという
とても正しいコロッケパン屋なのです。
ただし、「コロッケ」と「パン」の単品でも売られています。
この店を見つけてから数年。
「いつかは食そう」と思いながらついつい行きそびれていたのですが、
先日たまたま時間に余裕のある
外出の機会があったので意を決して訪ねてみる事にしました。

ちなみにこの店、屋号を「ホウライ屋」というらしいです。
「らしい」と言うのは今回コロッケパン購入の為に店舗に接近遭遇するまで
屋号の看板が存在することすら知らなかったのです。
いや、なにもちすがよる年波で視力が弱った為ではありません。
あまりにもうすら汚れた看板は空間迷彩となって店舗の板塀に埋没し、
数歩離れただけで完全に識別不可能になっていたのです。
しかし、この屋号なぜホウライなのでしょう。
そもそもがコロッケとホウライの因果関係がわかりません。
「蓬莱」なら大阪名物の豚まんです。
そういえば「551の蓬莱」というキャッチフレーズは
「551(ここがいちばん)」という語呂合わせ」だそうです。
最初聞いたときには大阪とは思えないぐらいの面白くない語呂のセンスに
「ここのオヤジは近江商人か」と思ったぐらいです<(偏見バリバリ)
そうそう近江というと、
湖西線の「蓬莱」駅前の蕎麦屋はめっちゃ美味しく、おすすめです。
特に天ぷらが絶品で、クセのない蕎麦とのハーモニーが・・・。
いや、違う。同じ揚げ物ではあるがこっちはコロッケです。因果関係はないでしょう。
そもそもがここの店主が蕎麦を食べに
近江まで出かけるなどと言うことは考えられません。
見た目からしてそういうタイプではなく。
どちらかというとコロッケうどんのタイプです。
 <(偏見バリバリ2)

いや、今回のテーマはホウライじゃなくってコロッケパンの経済学です。
なぜかと言うと意を決して近づいたコロッケパン屋の店頭の料金表なのです。
 「コロッケパン」:200円
 「コロッケ」:100円
 「パン」:90円
そう、
これでは「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に価格差ができてしまいます。
もちろんですが正しいコロッケパンの伝統にのっとり、
ここのコロッケパンにはキャベツなどというものは入っていません。
ずばり「コロッケ&パン」なのです。
その上、ソースは店先にある小さなテーブルにドーンとおかれています。
では「パンにコロッケを装着するための切れ目を入れる手間が10円」
であるかというと、ここのパンは店頭で刃物を使うことの危険性を危惧してか、
全てのパンにはすでに切込みが入っています。
つまり、この店の料金体系においてはコロッケとパンを購入して、
購入者がコロッケパンを製作した方が10円安く済むということになるのです。
「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に深く横たわる10円の差。

うーみゅ・・・

そういえばJRの料金体系において、
乗車券を分割して購入すると安くなる場合があると聞いたことがあります。
しかしコロッケパンはJRが運営しているわけではありません。
やはり「コロッケパン」と「コロッケ+パン」には
なにか10円分の違いがなくてはなりません。
それが自由経済の基本です。
しかし、どう見ても「コロッケパン」と「コロッケ+パン」には違いはなく、
「コロッケ+パン」の方が別包装しているだけ包装代金がかかっているように
思えてなりません。

とまぁ、以上の経済学的考察の末、
ちすはコロッケパンを買う列の4番目の顧客として並んだのでありました。
4番目と言うのは前に3人の客が既に並んでいるということです。
通常、ヒト1人がいちどきに食することの出来るコロッケパンは多くても3個までと
思われますので、ちすがコロッケパンに遭遇するまでには、
3個から9個までのコロッケパンの通過を待てばいいわけです。
コロッケパンの製作に要する時間は1分以下でしょうから、
ちすの試算では長くても10分もあればコロッケパンに遭遇できるわけで、
それまでに正統な「コロッケパン」にするか経済的優位である「コロッケ+パン」
にすればいいかを決定すればいいと考えました。

しかし、その後10分を経過した頃・・・
ちすはコロッケパンを買う列の
3番目の顧客の地位を確保したに過ぎませんでした。
いや、なにも先頭の顧客が米国ホットドック食い選手権の入賞者で
いっきにコロッケパンを37個注文したなどというわけではなく、
彼は2個のコロッケパンを注文したに過ぎないのです。
そう、問題は店主がコロッケパンを製造する速度が異常に遅いのでした。
ハトロン紙に切り目のあるパンを乗せ、
ソースをかけてコロッケをはさんでまたソースをかけ、
ハトロン紙でくるむというだけの作業に対して店主は、
ファミレスなら「本日の日替わりから揚げコロッケ定食」を作ってサービスして
食後のコーヒーを抽出し終わっちゃうくらいの時間をかけているのです。

店舗内に小さなブラックホールでもあって、店主の周りの空間における
時間の流れが違うのかと思ったぐらいでした。

さらに10分が経過し、ちすはコロッケパンを買う列の
2番目の顧客となっていました。
すでに戦況は膠着、将兵おおいに疲弊し、しかるに戦局必ずしも好転せず
という状況。
ここに至ってちすの経済学に立った冷静な判断は頓挫しました。
「いかん、このような状態でコロッケパンを製作することは危険である。
 下手をすればパンに手をはさんでソースをかけてしまうかもしれない」
そして気がついたのです。

「コロッケパン」と「コロッケ+パン」の間に深く横たわる10円の差。
それはコロッケパンを購入するための長い道のりに疲弊した身体にムチ打って
コロッケパンを自ら製作しようとする勇気ある者のみが手に入れることができる
報償であるのだと・・・

そしてそれと同時に考えたこと
「ここでちすが、販売が簡易な「コロッケ+パン」を選択したら後ろに並ぶ顧客の
 待ち時間が減るではないか・・・」と

目前の顧客が去り、列の先頭に立ったちすはカウンターに500円硬貨を音高く
叩きつけて言いました。
「コロッケパン2個作って。ソース多めで・・・」

[No.229]月光値千金 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/09/26(Wed)-13:00
Get out and get under the moon

中秋の名月
本年の名月は13夜。仲秋の満月には少々手前です。
とはいえ、秋は月光値千金。すばらしい輝きを見せてくれておりました。
ものの本によると帝都で中秋の名月を愛でることができる機会は
全体の3割弱だそうです。
テラスから月が見えることの出来る時間になるのを待ち、
探宙儀を持ち出して観測。
昨今の技術の進歩は自動追尾式のこういうメカがお子様のお小遣いレベルで
購入できるようになっています。
ありがたい事に感謝すると同時に、こういうメカに頼らないと名月をゆっくりと
追う事もできない夜空の事情は少々呪ってしまいますね。

探宙儀をのぞきこんでいたお子様が「お月様が写真とずれている」と・・・
「そうそう、少しずれるんだよね」
と嬉々として月の光学秤動について語るちすに
「わかんないーっ!」の一言で引導を渡して兎饅頭をほおばるお子様(笑)
ま、下手に興味をもたれてガリレイ先生のようにひねくれた性格に育たれても
なんですので(笑)
仲良く月と饅頭を愛でる事にいたしました。

 ♪月月に 月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月♪
この「月」は中秋にちなんて8つの月。

 ♪木の間より 洩り来る月のかげ見れば 心尽くしの秋は来にけり♪
こちらはきっと仲秋の月でしょうね。

 ♪窓の隙から差し込む月に 明るすぎると隠す顔♪
こいつぁ野暮な月(笑)

お子様に「お月様のごはん」をとせがまれたので、
翌日の朝食はライスオムレツ
 (具入り卵ご飯を焼いたもの。銀座「煉瓦亭」の元祖オムライスのレシピです)
にしました。
白い皿にまとめたライスオムレツを上弦の月に見立て、
群雲の代わりにはトマトソースとパセリ。雁の群れには揚げタマネギと
我ながら粋な仕上がりと自己満足していたら、起き出してきたお子様。
「お饅頭の食べすぎで気持ちが悪い・・・」と
ま、そんなものです。

月に浸りながら奏でてみたい一曲のお話でした。

[No.228]曼珠沙華 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/09/17(Mon)-20:43
Spider lily

この時期、咲き誇る彩りといいましたら曼珠沙華。
全国各所に「見どころ」と言われる箇所がありますが、
気をつけて歩いていると、見どころを訪ねなくても、
至るところで見かけることができる花です。
街中をさまよっていると、背中の雑嚢から
写真機を取りだしたくなるような風景に出会うことも多々あります。
ちすの棲む地域では、牧野富太郎博士が植えられた純白の曼珠沙華が、
いかなる色にも染まらない信念を示し咲き誇っています。

曼珠沙華には「彼岸花」に代表される他にも、
「死人花・幽霊花・厄病花・地獄花・しびれ花」というような、
あまり良くない別名が多くあります。
それは、曼珠沙華のもつ毒性から来るものだそうです。
曼珠沙華は全草に有毒なアルカロイドを多く含み、ひとたび口にいれると
その毒は全身をまわり、最終的には神経の麻痺を起こし死に至ります。
救飢植物として毒抜きしたのちに食用とされた時代もありますが、
完全な毒抜きをすることは難しく、長期間摂取していると
しだいに毒物が蓄積してゆき中毒に至ります。

 ♪華やかに 全て獲りいる 彼岸花♪

曼珠沙華の花は、咲き終わった後は葉だけとなります。
その姿は他の食用の野草に似ているため、
誤食してしまうケースも多いそうです。
華やかな外見と、全身に含む毒
古人はその華やかさの内に含むものを見ながら「彼岸に至る花」
と名付けたのでしょう。

 ♪曼珠沙華 恐や 赤しや まだ七つ♪ 

「相思華」とこの花を呼ぶ箇所もあります。
これは曼珠沙華が、葉があるときには花はなく、
花があるときには葉がないことに由来します。
「花は葉を思い、葉は花を思う」という意味だそうですが、
どちらかというと「花は葉を知らず、葉もまた花を知らず」の方が
いいように思えてなりません。
花も葉も、それぞれに天数の求めるところに精一杯。
共に生するところき知らず。それもまた、命の理。
好と思うも嫌とするも見る者の傲に過ぎず、
ましてや花を愛でるに近よりて、足下の虫を縊るような輩には
命を語る価値も無し。

純白の曼珠沙華の戯術が牧野富太郎博士の幻想を観せてくれた、
暑い夕暮れでした。

 ♪曼珠沙華 恐や 赤しや まだ七つ♪ 

[No.227]施餓鬼会 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/09/14(Fri)-23:11
Volunteer

出張で訪ねた田舎町。
霧のような雨が風景をにじませている夕闇の道を宿を目指して歩く道すがら、
小さなお寺に「施餓鬼会」と書かれたものを見いだしました。
昨今、施餓鬼会と言うと盂蘭盆施餓鬼会が大半の中、彼岸施餓鬼会は珍しいなと、
平日の夜半にも関わらず門をくぐらせていただきました。

施餓鬼会のいわれは、釈尊の弟子の一人、女たらしで有名だった
阿難チャンが夜中の修業に居眠りこいているところに餓鬼が現れて、
「アンタなぁ、ようさんのおなごし相手に修業とか言うてつまみ食い
 ばかししてたよってから、たいがいネにもたれてまっせー。
 このままやったら餓鬼になったヒトらにくびり殺されまっせー」
とかって言われて、「えーっ、そんなんかなんがな」と釈尊に相談したところ、
「そやろ、しゃぁからほたえるんもえぇかげんにしときぃって言うたやん
 しゃぁないし、仲間シぃにアタマ下げてみなに供養したりぃ」
と教示された事からとされています。

ま、実際は不良弟子の阿難チャンに手を焼いた釈尊が居眠りこいていた
彼の耳元でややこしい事を囁いたとかってオチでしょうけどネ(笑)

施餓鬼はよくボランティアと並べて評されます。
しかし、餓鬼に施すというこの「施」の根本にあるものは捨ですので
まったく違っています。

 ♪施すも無心 受くるも無心 施物も無心♪

喜捨する人の心は無心。受ける者も無心。施物も無心。
施は多い少ないではなく、その人なりの「応分の施」

ただ、ここで思うのがその「施」を受ける側です。
実際には「応分の施」程度では、
現在の苦境そのものを根治することは出来ないでしょう。
せいぜい目前の苦境がどうにかできる対処療法にすぎない「施」
でもその「施」のあることによって目前の苦境に対して何らかの
対応処置がなされたことは実感できる。
餓鬼の哀しいのは、そういう「施」すら自分の為だけの糧にしたいこと。

餓鬼が手にした「施」。
それが実は次の苦境の核となるかもしれない事は充分承知。
でも、今の幸せのためにはこの「施」を周囲に掲げたい。
そうして、無心であったはずの「施」が腐ってゆきます。
もちろんそもそもの「施」に悪心などはいっさいありません。
悪心は無いが結果として善とならない「施」・・・

結局、
どのような「施」であっても餓鬼にとっては傲りの材料であり、
餓鬼に「施」をすると言う事は、餓鬼の周囲を不幸にすると言う事なのでしょう。
「施餓鬼は餓鬼の為ならず・・・」

さてさて、当初のお寺。
そういうお話につきあっていただいたお礼にいくばくかの施餓鬼のお布施を
奉書に包んで「美味しいお茶でございました」と差しだしたら
お受け取りを躊躇されました。

「いかんなぁ、そんなんでは大きいお寺になれませんよ」
これもちすのような傲り高ぶる者に対する施餓鬼なんですから受領していただかないと・・・。
と、雨上がりの門を背にした夕暮れでした。

[No.226]トルコライス 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/08/24(Fri)-20:55
Leftover

出先で非常に興味深い昼飯を口にしました。
「トルコライス」
長崎・神戸・大阪在住の方は「何がおもしろいんだ」とお思いでしょう。
実はですね、あぁた。トルコライスって皆様方が住んでおられる地域限定の
ご当地料理なんですよ・・・。

さて、とにかくもメニューにトルコライスを発見したちすは、早速注文して
いったいどこの地域の仕様の物が出てくるのかをわくわくしながら待っておりました。
何故かといいますと、このトルコライスというのは名称は同じであるにもかかわらず、
地域によって全然違うものを呼んでいるのです。

長崎のトルコライスと言うのは、
ドライカレーとケチャップスパゲティとトンカツが一つのお皿に
どかんと雑多に盛り付けられた。

 ♪そうだっ おそれないで
  おデブのためにっ!
  デンプンと 脂肪だけがっ ともだちさー♪

という、「それゆけ!残飯マン」気分のレシピなんですが、
 <(あぁーっ、長崎の皆様ゴメンナサイ・・・)

神戸のものは炒めご飯をお皿に盛り付けて、
その横にカレーのルー(ごはんにはかかっていないのがポイント)。
そしてカレーの真ん中には生卵が乗っているという、
「えぇいっ!どっちかにせんかぁ!!」状のもの。

そして大阪のトルコライスは
お皿にドライカレーのオムライスと野菜を盛り付け、
そのオムライスの上にはトンカツが乗っかっていて、
さらにソースまでどっちゃとがかかっているという、
「それゆけ!残飯マン2号」気分の・・・
 <(ああっ、大阪からも苦情の声が・・・)

ちなみに「京阪神」とかって、なんでも「自分のところ風」を競い合う
三都ですが、なぜか京にはトルコライスがありません。
やはりやんごとない洛中人の方々は残飯などは・・・あわわわわわ

では、「オキュパイド オブ キョート」で名を馳せている滋賀はどうかといいますと、
オムライスのバリエーションは多いのですがトルコライスは見当たりません。
滋賀だけに「オゴトライス」なんてのも期待して検索しましたが
やはり無し<(絶対にないと思う)

さてさて、今回ちすが注文して出てきたトルコライスですが、
期待していた神戸風ではなく、大阪風のものでした。
ま、それはそれで充分に美味しいので満足したのですが、

子供の頃によく食べていた頃からのなぞ。
 「なんで同じ名前のトルコライスで。大阪と神戸でこうまで外見が違うのか」
 「そもそもがなんでトルコなんだ」
の疑問がふつふつと再発してきました。
またまた、いろいろと調べたところ、
なんと知らない間に長崎のトルコライスってのは数の力で圧倒して
「名物」に君臨していると言うことも知りました。
いやもちろん、神戸や大阪のトルコライスが長崎と比較して
不味いからってワケではありません。
そもそもが外見だけでも長崎よりは美味しそうな・・・(笑)
いや、大阪はどっこいどっこいかも・・・(爆)

これは思うに、食べ物が反乱している<(気持ちは判るが誤植)神戸や大阪に比べて、
カステラ入りチャンポンぐらいしか自慢できない長崎辺りでは
残飯マンであっても・・・
 <(あわわわ・・・どんどん口がすべるーっ・・・)

さて、名物はいいとしてその内容。
レシピに関しますと総勢の2/3の得票を得ているのは「トンカツ乗っけ」です、
何と言っても2/3です。
これは民主主義に乗っ取って<(実情ふまえて誤記(笑))
考えますと、これは本流のようにも考えられます。
が、しかしこの料理の名称は「トルコライス」です。
そうですっ!トルコでは豚は食べませんっ!
ここにおいて、トルコライスの名称に対して
「トンカツ」を選択したというのは大きな誤りなのです。

ではなぜトルコなのか
ここでちすが子供の頃に親しんだ神戸風トルコライスを思い出してみました。
お皿の片隅に盛り付けられたチキンの炒めご飯。
炒めご飯を避けてお皿全体をおおうカレーのルー。
そしてカレーの真ん中には生卵が・・・
そうですっ!これは「新月旗」のデザインです。
これなら確かに「トルコ」であると言っても無理が<(あるあるっ)

と、いう事で「トルコライスはやっぱ神戸だなぁ」を再確認して、
美味しく昼食をすませたちすでした。

[No.225]我慢 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/08/20(Mon)-22:35
Going My Way

「我慢」
これと「頑張る」という言葉の大安売りが大嫌いなちすです。
なぜならこれらはよっぽどの覚悟がないと
使ってはいけない言葉だと思っているからです。

さて「我慢」
いくら言葉は生ものだからと言っても、ここまで無残な腐り方をした
言葉はないでしょうネ。
本来の我慢は「七慢」というヒトの思い上がりの心の1つで、
自分勝手な意見に執着する傲の事を言いました。
傲慢な心と耐え忍ぶ心
たまたまその態度が似ていた為に意味が混同されてしまったようです。

「七慢」
これはこんなものの事だそうです。
 「慢」
  他人と比較して自分は優れていると思うこと。
 「過慢」
  自分より優れた他人を自分と等しいと思うこと。
 「慢過慢」
  自分より優れた他人に対して自分がさらに優れていると思うこと。
 「我慢」
  自分勝手な意見に執着すること。
 「増上慢」
  真理が判ってもいないのに理解したと思いこむこと。
 「卑慢」
  はるかに優れた他人と比べて、自分は少ししか劣っていないと思うこと。
 「邪慢」
  自分に徳がないのに正しい者のように見せかけること。

うーみゅ・・・「我慢」の愛用者は「七慢」をしっかりと会得しているようですネ(笑)

ちなみに、欧州の言葉で「我慢」を的確に訳する言葉はないようです。
「剣か法か」の狩猟民族にとっては、
自分の意見に執着しつつ、恭順をしめすというようなことは考えられないのでしょう。
「我慢は無意味だ。戦うか従うか、それとも独りで斃れるかだ」
とは、古人のお言葉・・・

はい、古来よりネコ科の生物は独りで生きる術しか知りません(笑)

[No.224]いちばん長い日 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/08/14(Tue)-21:51
Right to speak none without the investigation.

本日は「日本のいちばん長い日」
最近、偽装クーデターって事でまたまた取り上げられていますネ。
んなもの今さら言われなくても・・・って思いと、
「そぅかぁ、こんなんがネタになるほど歴史は風化するかぁ」との感慨です。

さて、お子様連れて玉音盤のたどった道を歩きながら
ウンチク親父となった1日。
さすがに小学生はこんな酔狂にもまだおつき合いしていただけます(笑)
ちなみにこの時期ネタにされることの多い「玉音放送」ですが、
その1時間前に、蒋介石サンが
重慶中央放送局から発した放送がなぜあまり取り上げられないかが不思議です。
「諸君。帝国日本は無条件降伏した・・・(中略)・・・
 私はこれが世界で最後の戦争になることを希望するとともに、
 帝国日本に対する一切の報復を禁止する。中華民族が伝統とする
 至高至貴の特性は、『旧悪を念ぜず、人と善をなす』である。
 決して日本人民を敵とせず、また敵人のかつての暴行に対して、
 報復を加えないものとする」
あ、もちろんですが、煮ても似つかない「中共人民共和国」(笑)の事では
ありませんです。これは「中華民国政府」からのメッセージです。

さて、悲惨ごっこ、反省ごっこはブラウン管や液晶の向こうの世界におまかせするとして、
この敗戦の状況ってーのを数字で追っかけてみるとどんなものなのかと考えてみました。

1945年時概算。
  大日本帝国人口:約7000万人
  戦没者:約300万人
  非戦闘員の死者:約100万人
  傷兵:約100万人
  非戦闘員の傷者:約300万人
集計すると
 死者合計:400万人
 傷者合計:400万人
となります。
これは国民全体の6%が亡くなられて、6%が怪我なさったという事で、
合計12%の方々が大変な目に遭われたということです。
つづいて「召集」
  兵士として召集された方:約1000万人
当時の40歳までの成人男性の人口は約4000万人でしたから、
4人に1人の方が召集され、そのうち4人に1人の方が亡くなられた。
つまり、成人男性の16人にお1人が亡くなられたことになります。

さてさて、ここまでの数字を見られて
「えぇっ!そんなに少ないの」とかと思われた方もおられるかと思います。
こいつが数字のまやかしってヤツですネ。
「成人男性の16人にお1人が亡くなられる」事と
「成人男性の16人にお1人が理不尽な理由で亡くなられる」事は
大きく違います。
また、
「国民の6%が怪我する」という事も
「衛生状態が劣悪で、なんの医療機器も無い状態で国民の6%が怪我する」
という事であると考えないといけません。
例えば、言い方を変えちゃうと、
「敗戦時に国民の88%は死亡も怪我もしていなかった」
って事にもなっちゃうわけです。

「多くの人は。大抵の場合は。一般的には」・・・
これらの用語は体験的にそのほとんどに根拠はありません。
このような言葉を使われる方に対して、
「それは数字で表すとどのようなものになりますか?」
と質問すると窮される事が多々ありました。
また、よしんば根拠として数字を示されることがあっても、
論理的に破綻している場合が多く見受けられますネ。

「調査のないところに発言権はない」
こっちは「人民共和国」の総帥の好んだメッセージです。

[No.223]アスペルガー 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/08/07(Tue)-09:37
Asperger syndrome

アスペルガー症候群という疾患があります。

日本語で、高機能自閉症などと言われる場合もあります。
ただし、ここでなにやら自閉症などと言う言葉がはいると
とんでもないような障害のようにおもわれますが、この疾患。
どうも社会生活においてはさほど支障ない、場合によっては専門分野において
ぬきんでた業績を残したりしますので、症候群という言葉自体にも
なんかいいのかなぁってところもあり、「アスペルガー気質」なんてなほうが
いいと思うところもあるんですが・・・

さて、ではではアスペルガー症候群とはどんなヒトであるか。
書物や電脳掲示において多くのチェックリストがありますので
代表的なものを拾ってみました。

普通の人でもは20〜30個ぐらいは当てはまると思います。
もちろんちすはパーフェクトに近く・・・(爆)

 ・何かに熱中してると周りが見えなくなってしまう。
 ・性懲りも無く固執を繰り返してしまう。
 ・こうでないと気がすまないと言うこだわりがある。
 ・他人の言う事が理解出来ない事が多い。
 ・曖昧な表現の理解が苦手だ。
 ・無表情だ。
 ・じっとしているのが苦手だ。
 ・思った事をすぐに口に出してしまう。
 ・自分が興味のある事なら他人に積極的に聞く。
 ・冗談や皮肉が通じない。
 ・マンネリを好み変化を嫌う。
 ・ごっこ遊びが苦手だ。
 ・予想外の出来事が起こると凄く動揺してしまう。
 ・普通の人は集めないような物をコレクションしている。
 ・テレビ番組はドキュメンタリー番組やバラエティ番組が好きだ。
 ・他人に触られる事を嫌い、触れるとビクッとする。
 ・他人から言われた事をいつまでも気にしてしまう。
 ・計画的に行動するのが苦手だ。
 ・思いついた事を直ぐに行動に移すが、直ぐに燃え尽きてしまう
 ・周囲の空気を読むのが苦手だ。
 ・自分のしている事を他人に妨げられる事に強い抵抗を感じる。
 ・自分の非を認めるのが苦手だ。
 ・気分がコロコロ変わる。
 ・しばしばヒステリーを起こす。
 ・寝つきが悪い。
 ・自分が他人からどう見られているのか気になる。
 ・同じ事を何度も言う。
 ・過去のトラウマを突然思い出してパニックになる事がある。
 ・他人の顔を区別するのが苦手。
 ・「変わった人」とか「個性的な人」と言われる。
 ・他人を尻に敷いたり、逆に媚を売ったりするのが嫌い。
 ・服装や髪型・生活パターン等に強いこだわりを持っている。
 ・他人と喜びや悲しみを分かち合う事が出来ない。
 ・集中力が無く、すぐに途切れてしまう。
 ・ちょっとした事でも直ぐに落ち込んだり、傷付いたりしてしまう。
 ・感想文はあらすじばかり書く。
 ・友達がいない又は極端に少ない。
 ・1人でいても孤独を感じない。
 ・運動神経が鈍く特に球技が苦手だ。
 ・人の目を見て話すのが苦手だ。
 ・ひとり言が多い。
 ・興奮すると、どもったりろれつが回らなくなる。
 ・方向音痴だ。
 ・友達を作ろうにも作り方が分からない。
 ・刺激物が苦手だ。
 ・小中高と何処かで不登校(あるいはそうなりかけた)の経験がある。
 ・いじめられっ子である(だった)
 ・悪気は無いが他人を傷つけたり怒らせてしまう事がある。
 ・実年齢より若く見られる事が多い。
 ・歩き方や走り方がぎこちない。
 ・幼少期に図鑑1冊丸暗記する等して周囲を驚かせた経験がある。
 ・幼少期は他の子と遊ぶ事が殆ど無かった。
 ・同年代の人と波長が合わず、年上の人にリードされるか年下の人といる方が良い。
 ・普通の人は興味を持たないような事に興味がある。
 ・深く感動することが無い。
 ・ある分野に関しては非常に詳しい。
 ・待つ事が苦手だ。
 ・赤信号を頑なに守ったりと変に律儀な面がある。
 ・融通が利かない。
 ・全般的に不器用なのだがゲームや料理が上手い等、一部では器用だ。
 ・自分が他人と何か違うと感じた事がある。
 ・騒音が苦手だ。
 ・ものまねが得意だ。
 ・理科の実験や野外実習等でまごつく事が多い。
 ・難しい言葉を使いたがる。
 ・何かしていてフッと気が抜けたように無気力になる事がある。
 ・違う事を同時にするのが苦手だ。
 ・自分の興味のある事を他人におかまい無しに話してしまう。
 ・他人の気持ちを推し量る事が苦手だ。

うーみゅ・・・
ミュージシャンの大半はプロアマを問わずアスペルガー症候群ですね(笑)
ちなみに、アスペルガー症候群に似た名前で
アスペルギルス症候群という難病もありまして、
こいつは米をアスペルギルスオリゼを使って醗酵させた飲み物を毎日摂取しないと、
コミュニケーションがとれなくなり、ひどい場合には指が震えたり、
ちゃぶ台をひっくり返したりします。
これもミュージシャンの大半はプロアマを問わず・・・(爆)

[No.222]バロン 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/07/24(Tue)-17:38
Baron von Muenchhausen

子供の頃ジャーマンシェパードと暮らしていました。
もちろん両親も居ましたし、その他にネコとカラスとインコも居たのですが、
ま、とにかくジャーマンシェパードもいたわけです(笑)

彼には「Baron(バロン)」というえらく大層な名前がありました。
いや、なにもやんごとなき男爵家の家柄のイヌなどというワケではありません。
このバロンと言う名を名づけたのはちす父だったのですが、
その理由はこのイヌ。散歩に連れ出そうとするたびに病気を装う。
よーするに仮病をつかって嫌な事から逃げ出そうとする
とんでもない性格のイヌだったのです。
そこで、独逸の血筋のイヌということもあってちす父が付けた名が
「Baron von Muenchhausen」-「ほら吹き男爵」だったのです。

このバロン君。まったく見事な「仮病」を使いまして、
散歩に連れ出そうとするとぐったりとして横になり。
荒い息をつきながら潤んだ目で見上げるしぐさは
本当になにやら体調が悪いのではないかと思ってしまいました。
ところがここにちす父が登場して一声怒鳴るとあら不思議。
仮病は通用しないと悟ったバロン君。すっくと立ち上がり、
さっきまでの様子はどうしたことかと言う感じで散歩に出るのでした。

この懐かしい仔のことをなぜ思い出したかといいますと、
彼の名のもとになった疾患がヒトに存在するという事を知ったからです。
その名も「ミュンヒハウゼン症候群」
ヒト医をやっている知人によれば、シッポたちと違い、
シッポのないバロン様たちはいささか厄介なもののようです。

さてさて、
世の中には、病気になりたがるヒトというのがいるそうです。
なぜなら、病気になれば周囲の人が心配してくれたり、
場合によっては身の回りの世話をしてくれるからです。
たとえ、誰からも相手にされないような孤独なヒトであっても、
「病気である」と言えばそれなりにいろいろと周囲が気にかけてくれます。
しかし、体がどこも悪くないようなときにはどうするか。
ここに、ミュンヒハウゼン症候群と言われている、
孤独感や寂しさを癒すために、「病気のふりをしてしまうという病気」
が存在するのです。
もちろん前述のバロン君のような単なる仮病とはレベルが全然違います。
それはミュンヒハウゼン症候群のヒトには
自分が病気のふりをしているという事が日常になっているからです。
心の空洞を埋めるために疾患を作り出すことが、
いつしか自分の中ではあたりまえのものとなってしまっています。

さて、作り出す疾患ですが、
もともとがこれは他人の関心を呼びたいと言う精神的な欲求から
症状を作り出していますから、その内容には流行があります。
昨今は外傷性・内臓性疾患よりも精神性疾患に人気が集まっているようです。
彼等は、奇想天外ではないが稀有な経験を語り、
あたかもそれが原因であるかのような疾患・症状を示し、周囲の関心を引こうとします。

それでもまだこういう場合はマシなほうでして、
もっとたちの悪い疾患に「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのがあります。
これは自分ではなくて他人を病人に仕立て、それを「世話する者」
としての立場をとることで、間接的に周囲の関心を集めようとする疾患です。
多くの場合は母親が子供を病人に仕立てます。
この場合、疾患の説明をするのが本人ではありませんから、
その嘘を見抜くことは非常に困難です。
たいていの場合、ミュンヒハウゼン症候群のヒトたちは頭がよく、
自分が取り扱おうと思う疾患については良く知っています。
従ってその症状の話は非常に現実味があり、
話を聞いてくれるヒトがいると、どんどん内容が細分化してゆき、
話をしているうちに自分もその世界にのめり込んでしまって、
どこまでもとめどなくすすんでゆきます。
通常、肉親と言うのは子供の不利益になる事は嫌がるものです。
従って、無関係な他人に対し、
積極的に子供の疾患についての話などをしようとはしません。
専門家の前でのみ心のうちを開くのが普通です。
それがあたかもドラマを再現するかのように、
聞くものに興味深い話がどんどんと広がってゆくのです。
こういう母親にとって子供の存在とは、
他人の関心を呼ぶための道具にしか過ぎません。

なぜこういうことが平気でできてしまうのか。
それは本人は心の寂しさを埋めるために必死であるからです。
誰かにかまってもらいたいという痛々しいほどの寂しさや
孤独感からこういうことをするのです。
それは彼らの中に、
誰も自分の事をかまってくれるヒトがいないとか。
誰も自分の事を本気で心配してくれるヒトがいないとかという。
内なる声がつねに聞こえているからです。
従って彼等にとっては自分を気にしてくれるヒトたちだけが頼りなのです。
そして、病気でありさえすれば、周囲の人たちは自分に関心をもってくれる。
優しい声をかけて協力してくれるという妄想に獲りつかれています。

しかし、いくら巧妙と言っても、所詮は嘘です。
時間が経つにつれ、どうしても不自然な事や結果が出て来ます。
そして、周囲も次第に疑いの目で彼等を見るようになっていきます。
そこで、問いただしたり、指摘したりするのですが、
彼等は逆に周囲の無理解をなじったりします。
ま、それが
「何をおっしゃいます。私は嘘などつきません。
 私は医者も認めた間違いのない狂人であります」
とかってお話でしたら理解も出来ますが・・・

さて、
ここで困った事になるのが世にはびこるトンデモ療法であります。
トンデモ療法は疾患が治ることは望んではいません。
だらだらと症状が続いていること。そして患者とその家族が
トンデモ療法をいつまでも信仰し続けてくれること。
そのことがトンデモ療法にとって望むべき方向なのです。
もうこうなるともはや止まる術はありません。
疾患が認められることを望む者と疾患が続くことを求める療法。
トンデモ療法にはまった彼等は、排水口に流れる水が渦を作るように、
周囲の人も渦の中に巻き込み、吸い込まれてゆくのです。

かつて一緒に暮らしていたシッポのあるバロン君は仲良くしていると
心が癒されましたが、
世のシッポのないバロン様たちは、仲良くしていると最期には、
一緒に風車に突撃をしなくてはいけなくなってしまうようです。

[No.221]信じるものほど救われない 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/07/18(Wed)-21:17
It is not saved in the believed one

ちすの「おこずかい」のネタに、皮膚炎治療薬がらみの利権があります。
そんな「副業(笑)」の関係で、
皮膚系疾患治療を食い物にした、いわゆる「エセ心療医学」を拝見してきました、
今回の演目(笑)は「精神的なストレスが物理的な疾患となる・・・」とかって、
もはや生物学の論理を超越したご説・・・
その上、その精神的なストレスには
大脳が知覚していない過去の深層的な記憶によるとかって・・・
「をいっ、お前の言う大脳ってのはレジスター領域が記憶の新陳代謝をする器官なのか?
 それともお前さんの身内はレジスター領域だけで生きているのか?」
ってやつですにゃ(爆)。
生物学勉強してから人前に立て!
と、最初から目一杯うさんくさいお話。

ご説によれば人のストレスはそれまでの生活において、キーとなる事象があったからであり、
(かつて精神医学で言われた「思い残し症候群」のいい所取りのようです)
それを「克服」することで、ストレスからくる物理的有害事象を解決するというふれこみ。

臨床医学の現場において「ストレス」なるものと物理的な病的状態についての
関係は肯定などされていません。
もちろん得手勝手な「克服」なるものが複雑な精神的問題を解決するという事などは
毛頭考えられませんがホント世にこのテのトンデモ療法は尽きませんネ
梅雨時になるとよく出てきますので、
もしかするとあの連中はカビとかキノコの1種かもしれません(爆)

と、いう事で絨毯爆撃をくらわしてきたちすでした。
さてさて、
そもそもが、このテの療法。
なんぞ新たな療法であるかのように主張されていますが、
既に発表された考え方の焼き直しにすぎません。日常的な表現で言えば、
「昔、辛い経験をしたから苦しんでいる。そいつが病的疾患
 (今回の場合は皮膚疾患)の原因である。だからそれが癒されれば楽になる」
などとという、理論でも何でもないただのヒトの思いにすぎないのです。

少し整理して考えてみましょう。
まず原則として心理療法は「医学療法」であり、あきらかな医療行為であります。
医療行為である限りは、科学的論証によってその効果が実証されていなくてはなりません。
しかし、医師の資格のないシロウトが主張する。トンデモ療法といわれるものの中に、
科学的な検証に耐えられるものは皆無と言っても過言ではありません。
また、トンデモ療法が実施されている現場では、
その治療的効果が曖昧なままであるか、または検証されずに実施されているのが現実です。
医療というのはその効果が明確に示され、それが提供される際には、
根拠がきちんと明らかにされていなければなりません。
これが根拠に基づく実践の考え方です。治療効果が明確になっていない療法は、
あくまでも医師の判断によって保健医療の実施の助けとなる可能性のある場合に
併用して用いられる佐薬的な利用法です。ありていに言えば、
シロウト主体のトンデモ療法に効果などは期待できないという事です。

もしも、トンデモ療法に臨床疫学的評価を求めるのであれば、
その療法を行う際に、その治療の目標とすることを評価するべきです。
無作為抽出による対照試験を実施し、その結果として優位性が証明されて初めて、
その療法は効果があるといえる事となります。
このように事象を考えると、トンデモ療法にはその効果の根拠は何一つ見い出されていません。
よしんば効果があったと主張される人がいてもそれは、
自然治癒というファクターを含めた結果の1つにすぎず、
決して効果全体を保証するものではないのです。
「やっタ」「治っタ」「良かっタ」のような「三タ治療」は所詮まじないの領域です。
トンデモ療法によって疾患が治癒したケースがある事は、
「治った例もある」に過ぎないのです。
しかし、その療法を信仰する方々はその治療の効果を大げさに評価し、
あたかも、症状の軽減が100%その療法によるものであるかのように言われます。

[No.220]信じる者ほど救われない・・・の2 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/07/18(Wed)-21:16
It is not saved in the believed one・・・の2

これはただの宗教です。
医療行為は治療行為であって宗教行為であってはならないのです。
トンデモ療法を「信仰」し、その布教に努めようとする自称「治った患者代表」
彼等・彼女等の発表する「治療体験」には、「この療法こそが我々を救う!」
などといったうたい文句が掲げられていて、それを信念とされています。
また、その療法がシロウトのトンデモ療法であることを指摘しても、
信仰にめしいた信者達は「それは理解が追いついていないだけである」とか
「施政が理解していない」などというあたかも「施政に虐げられた正当」
のように主張されます。
よく引きあいに語られるのが「施政も間違いをする」
施政が間違った数よりも、トンデモ療法によって有害事象を被った事例の方が
いかに多いかという事をまったく理解していない、というか信仰が耳をも塞いでいます。
従ってこういう人々にトンデモ療法の批判などしようものなら、
「あなたは救済の邪魔をするのか!」
「この素晴らしい治療がわからない者には何を言っても無駄だ」などという
論争にすり替えられてしまいますから、説得するのは、困難な事です。
そもそもが、救済の為に最大の障害となっているものはこのような狂気に取り憑かれた
自分自身の存在であると言う事にすら気づいていません。

立派な宗教家の説教やその方との面談は、病気や悩みの克服に役立つと言われます。
また宗教儀式に参加することが同様の効果をもたらす場合も見受けられます。
時にこうした宗教家の聴き方、話し方は、
心理療法の技法と酷似していることが指摘されたりもします。
また、宗教儀式の中には心理的な影響を意図した方法を取り入れている、
あるいは似ているものがあると言われたりします。
実際、禅などはリラクセーションの一方法である筋弛緩法他の呼吸法と似ています。

しかし、宗教と医療はきちんと分けられるべきです。
医療行為は治療行為であって宗教行為であってはならないのです。

初めに結果ありきの「トンデモ療法」
通常、治療の出発点になるのは「この疾患の症状を緩和させるにはどうすればいいか」
「この疾患の原因となるものはなんだろうか」という疑問からはじまります。
医師は対象の疾患についての文献の中からいくつもの症例を探し、
そこから帰納的に療法を見つけ出します。
そして、症例を検討している間にみつけだした療法に反する症例が出てきたら、
当初思っていた治療方法を変えて、さらに良い療法を求めてゆきます。
あくまで「見出した根拠から納得して治療を導く」のです。
ところがトンデモ療法は、一足飛びに「これは○○が原因である」
という結論を決定します。甚だしきに至っては、「○○の無い疾患はあり得ない」
という具合に、結論そのものが治療の動議になっていたりします。
そして一度「決定」した結論は確固として譲りません。
結論にふさわしい根拠だけを探し、都合の悪い事例は見なかったことにするか、
論理的に破綻した苦し紛れな言い訳をすることになってしまいます。
要するに「初めに結論ありき」なのであって、その結論は
「なりふり構わず守り抜かなければならない絶対なもの」なのです。
これは非常に危険な要素を含んでいます。
もしも、症状を訴える疾患が精神的な要因によるものではなく、
物理的な疾患に起因するものであったとしたら、その発見を遅らせるばかりか、
場合によっては患者の生死にかかわる事になるからです。

日本国憲法は信教の自由を保証しています。
「宗教」を信仰するのは個々の自由です。
聖書や仏典に非科学的なことが書いてあるからといっても、
それを「宗教」として信仰する人々が文句を言われる筋合いはありません。
しかし宗教と医療を混同して、宗教モドキの療法を「布教」することは許されていません。
論理と調査。検証と実証
治療は科学的でなくてはなりません。
「信じる者ほど救われない」
信じるべきものは論理の内にしかありえません。

[No.219]「増量ライン」の祟り 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/07/13(Fri)-21:23
Ich weiss nicht was soll es bedeuten

はるか昔のお話です。
はい、それは今を去ること二十余年前。
まだ「動物園前駅」の駅前に、コンクリートの城壁が
燦然と立ちはだかっていた独逸の地に住み着いていたちすは、
帰国を前に思い悩んでおりました。
それは「お土産」です。
出国時には「うまく行けば一方通行」を目論んでいたちすでしたので、
お土産なんてものは思ってもいなかったワケなんですが、
いざ帰国となりますとそれなりのモノは考えなくてはなりません。
それも通常のモノに加えて、ご贔屓いただいた方に、
「気持ちが充分にこもった(ような)お土産」を・・・
しかし、そんなモノは簡単に思いつかないし、
そもそもが滞在時のお給金のほとんどを飲み倒してしまったちすです(笑)
思い悩んだ末、ふと思いついたのが住み着いていたデュッセルドルフを流れるライン川。

さてさて、帰国を控えたとある休日。
ライン川の川岸に立ったちすはコーラの空き瓶にヒモをしばりつけ、
「ドッポーン」・・・と。
お部屋に帰り、採取した「ラインの流れ」を
シェィブローションの空き瓶に詰めて準備完了。
つづいて、駅前の三越百貨店に行って欧州っぽいデザインのかかれた
ガラス製の塩入れを大量に買い込んで、コイツも梱包。

はい、お判りですね。
日本の観光地でよく見かける「○○の水」とかって土産モノを
作っちゃおうと目論んだのです。
えー、勿論ですがホントは土や水は持ち帰っちゃダメです。
だもんで、原料をカモフラージュしたって次第(笑)

さてさて、無事にシェィブローションの空き瓶も
取り上げられる事無く帰国したちすは、
早速「土産物作製」にとりかかりました。
前述の「塩入れ」なんですが、向こうはテーブルの上に
調味料入れを置く風習がありますので、なかなかに凝ったものが多く
一見したらとても調味料入れに見えないものが多々あります。
そういう類いを大量に買い込んできたワケです。
ただ、フタだけは使えませんのでこれはコルクのフタの適当な
大きさのものを買ってきて付けることにし、
いざ「独逸土産。『ラインの流れ』」を作り始めたのですが・・・
なんと、水が足らない・・・<(冷や汗)
目分量で計算したのと大きく違って必要量の半分程度しかない・・・
「うーみゅ・・・」
今さらお土産の数量を減らすことはできません。
なんたって、重量制限ギリギリで持ち帰った荷物です。
あ、勿論ですがこの重量の原因はちすが自分の為に買った
ライカのレンズとハーモニカの重量なんですが・・・(笑)

とにかくっ!目の前に並ぶ8本の小瓶をラインの流れで満たさなくてはならない。

 <いや、こうなったらラインの流れでなくっても・・・>
 <なんて事を言う。そこいらの水で増量などと言う事が許されるか!>
 <わかっている。しかし事は灸を要しているのだ。背中が燃えているのだ>
 <それは灸を誤植しているせいだろう。しかし、確かにシッポに火はついている>
 <やはり増量しか・・・>
 <いやしかし・・・ををっ、そうだ名案がある。日本にも「ラインの流れ」があるぞっ!>
 <「ラインの流れ」??>
 <そうだ、国道越えた先の橋のところにだ。>
 <何をいう。あれは「荒川」であろうが>
 <その「荒川」上流はどこだ?>
 <どこだって・・・そりゃ街を越え、野を越えて秩父に・・・ををっ!「ライン下り」>

と、言う事で「ここは三国同盟じゃーっ!バスに乗り遅れるなぁ!!」
 <(またそういう事を・・・)
「をや、なんでこんなところにメガネザルが??・・ををっ松岡クンではないか」
 <(だからぁ)
とにかくっ!、「日・独ラインの流れ」の合体により、ちすの手元の「ラインの流れ」は
一気に200%の増量(当社比)となったワケでした。

おかげで無事にお土産を配ることとなったちすですが、
「ラインの流れ」やはりウケました。ロマンありますからねー。
もちろん疑われる余地もなく・・・(笑)
ただ、そのうちの1人が・・・
 「ねぇ、この水って飲める?」と・・
 「いや、そんなキレイな水じゃないからお腹コワスと思うぞ」
 「でも、舐めるぐらいならいいでしょ」
 「そりゃ毒物じゃないからいいと思うけど。なんで?」
 「ほら、よく言うじゃんかぁ。その土地の水を飲んだものはその土地に帰るって」
 「はぁーっ??」
 「アタシ、いっぺんドイツに行きたいんだよねー。だからオマジナイっ!」
心の中で「えぇいっ!おにょれはイザナギかぁっ!ペルセポネーかぁっ!!」
と毒づくちすでしたが、まぁこれもロマンってやつで、「やってみれば」と・・・

懺悔します。
その後、いろんな所に渡航した彼女なんですが、何故か独逸の土だけは
いまだに踏んでいません。
どういうワケがトラブルが起こっちゃうんですネ。やはりこれは
「増量ラインの流れ」の祟りではないかと思うちすでして
・・・ここに懺悔を・・・

気をつけよう。甘い言葉のネコ土産(爆)

[No.218]社窓にて 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/06/26(Tue)-21:41
On the Beach at office

梅雨真っ盛り。
地上50mを越える職場あたりでは、まどの外は飽和水蒸気が気中を埋めていました。
地上に近いあたりにお住まいの方々は飽和水蒸気を
「霧があがる」と言われます。
ちすの育った六甲山麓では「雲が降りる」って言います。
同じものでも表現が違いますネ

梅雨時の朝、空気にミルクをぶちまけたような中を歩いていると
思いを馳せるのが愛してやまないカンブリア紀の地球。
地は濃厚な二酸化炭素と飽和水蒸気に満ち、
海は食物連鎖という新しい秩序の中初めて進化という道をたどった命の力が爆発した時代。

現在、地球温暖化とかって
環境破壊がこの星の命を蝕んでいるかのように騒いでおられる方々を見受けますが、
この星の命を蝕んでいるのは
自然が容認する量の倍近くの数に繁殖してしまったシッポの無いケダモノと言う事を
皆さん忘れようとしておられます。
よく「大切なものは見えない」なーんて言葉を聞きますが
実は「大切なものを見るのは怖いから見えないことにしている」
だけなんですよネ
46億年。
みんな時間の流れの中に滅んでいったのに、何故ヒトだけは滅んじゃいけないのでしょうか?

いや、156億年の時の流れの中
誰であっても、何であっても、
残せたものは「想い」だけなんですから、それに従うことは
争議屋さん達が大好きな「多数決に従って」いると思うンですけどねー。

社窓の外の飽和水蒸気の色を見ながら
想いをゆらすちすでした。

[No.217]予知夢 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/06/16(Sat)-22:15
Prediction dream

みなさまは予知夢をみられた事があるでしょうか?
予知夢は、身の回りでこれから起こる内容の夢をみることです。
有名どころのお話としては、
 ・リンカーンが、自分が暗殺される夢を見ていたとか、
 ・ナポレオンが何度も見た夢に出てきた薄暗い部屋が彼が最期を過ごした独房そっくりであったとか、
 ・ぐうたら亭主が芝の浜で50両の入った印伝皮の財布を拾った夢を見てドンチャン騒ぎしたとか、
 ・豚がトンカツにされる夢を見て目が覚めたらキャベツ畑にいたとかとか。

予知夢が語られる際によく出てくる話が「デジャビュー」ってやつです。
しかし、予知無を見られる方はこのデジャビューと一緒にされることを非常に嫌がります。
たまたま予知無を何らかの形で記録しておられたときなどは、
「ほらみろ。ちゃんと予知しているんだ。デジャビューなどとは違う」と大騒ぎ。
いや、ちすも予知夢なるものは何度か見たことがあります。
もちろんその中にはなんの記録も残していないで、頭の中で
「これって以前に夢で・・・」とかって思うような明らかに
デジャビューを錯視しているようなものもありますが、
「もしもの際に」とかって記録していたことが起こった場合もありました。

んじゃ、この予知夢なるものをちすが肯定するかといいますと。
絶対にそんな事はありません。いや、そもそも予知などと言うものは、
いかなる形であれ実現は不可能なのです。

さて、予知夢
生き物は起きているときに見た事や聴いた事等々の
刺激情報をランダムに脳に記録し、それを寝ている間に整理整頓します。
この情報の整理中に画像やストーリーの形で整理されたものが夢です。
時おり睡眠中の刺激の整理からも夢の画像は作成されます。
さて、例えばあなたがどってことのない日常風景の夢を見たとします。
普通はこのような夢を見たところで、
よしんばそれが予知夢だとして的中したとしても
日常生活になんの支障があるわけでもありませんので
記録をつけたりされることはないでしょう。
まして、そのような夢は記憶にも深く残るものではありません。
従いましてその夢が予知無であったとして、それが的中したとしても
「あぁ、これって夢で見たような・・・」
と言うことになりますのでそれはデジャビューと区別することはできません。

では、「記録を残したくなる夢」もしくは「記憶に深く残る夢」とは何か。
それは不吉なシグナルをだしている夢に他なりません。
 ・事故にあう、
 ・怪我や病気をする、
 ・身内・知人が不幸に見舞われる。
このような夢を見た場合、あなたはそれを記憶の中に深く残すこととなります。
そして、それが現実に起こったら・・・
きっとあなたはその夢が「予知夢」であったと思われるはずです。
予知夢というのは普段自分が不安だと考えている現象について、
脳が情報を整理しているときに、現実に起った場合を想定して映像化していると言う事です。
高い確率で現実に起って当然なのです。

ここまでお読みになって、
「いや、そんなことはない。とても予想ではわからないような事を
 夢に見た経験があるし、そのような事例も知っている」
とおっしゃる方もおられるでしょう。
しかしそれは「予知した事例」だけを突出して評価しておられませんか?
「特異な夢が予知となった」事例と「特異な夢が夢で終わった」事例を比べて評価したら、
それはランダムな思いつきで予知をしたものと確率的に差異はないと思われます。
 「素人療法で疾患が治癒した」とか
 「マジナイで幸せがやってきた」などという
厄介なモノと大差ないと思われます。

「奇跡は起らない。だから奇跡なのだ。
 現実に起った事象はどのように奇異なものであっても
 奇跡でもなんでもなく、ただの可能性のひとつに過ぎない」
不思議や魔法に理由が見いだせなければそれはただの錯覚です。
神様はどのような事象にもちゃんと理由を用意しておられるのですから。

え゛?
「その『神様』ってーのはなんなんだ?」って・・・
えーっと・・・(冷汗)

[No.216] 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/06/13(Wed)-12:07
Chopsticks

ちすのカバンの中にはいつも箸が入っています。
いや、ちすはなにもエコロジーを熱狂的に信奉しているわけでもないし、
ましてや温暖化にかこつけた原発擁護論者でもありません。

んじゃ、なんでイデオロギーと無関係に箸を持ち歩いているかって言いましたら、
そもそもが、この箸の持ち歩き。二十年来の風習でして、
ひとえに「ちすは箸の使い方が下手」だからなのです。

子供の頃から箸の使い方については厳しくしつけられたちすなんですが、
どうも不器用ってやつでして、
それもなまじっか祖母様に
「背筋を伸ばす。食器は口元に寄せない。箸先汚すは一寸まで」
なーんて言われ続けていたために萎縮してよけいにダメだったようです。
ま、子供なんてそんなものでしょう。
それでも、成長とともになんとか食べ物はこぼさない程度になった頃、
職に就くと共に新たな問題が生じました。それは外食時の割り箸です。
居酒屋や定食屋にあるような
袋にも入っていないぶった切りのいわゆる丁六箸や
半分袋がかぶさっている程度の元禄箸だったらいいのですが、
こいつがきれいに面取りした天削箸あたりだとちょっとヤバい。

時は日本国が贅沢を満喫していた時代でした。
定食屋に毛を三本生やしたようなお店でもつるつると良くすべる
竹の天削箸なんかが出されたりしました。
ましてや、たまにお仕事がらみで高級なお店に行ったりしたら、
もっとすべりのいい利休箸や卵中箸なんかが出てくるわけでして、
「うっぎゃぁーご勘弁をーっ!!」となっちゃった事がたびたび。

そこで給与の策・・・もとい窮余の策として思いついたのが
「恥かかないようにすべらない箸を持ち歩こう」でした。
お食事をこぼすぐらいなら箸を持ち出したほうがよっぽとマシです。

普から愛用しているブランドの若狭塗りの竹箸の短めなものを買い、
先端一寸に軽く紙やすりを当て、
文房具屋のワゴンセールに転がっていた学童用のモノサシ袋を買って
半分に切って箸を入れる。
これがちすのマイ箸のスタートです。
今のように箸を持ち歩く方はそうは多くなかった時代ですが、使用するシーンが
限られていたので人目に付くことも無く、まぁ平和に過ごしていたわけなのです。
ところがこのちすのひそかなお助け箸。
最近のエコブームのおかげで、やたらに「ご登場」いただくことになっちゃったのですね。

最大の問題はビジネス街の食堂
安価な丁六箸。ちすにとってはすべらなくってとっても助かる割り箸を使っていた
ビジネス街の食堂が、経費削減と自己満足の一石二鳥を目論んで、
こぞって割り箸をやめてテーブルの真ん中に塗り箸が突っ込まれた箸立てを
でーんと自慢げに置くようになったのです。
で、この手の箸の「塗り」は食器洗い機の高圧洗浄にも耐える多層ウレタン樹脂。
・・・めっちゃすべります。はい
かくしてちすのカバンからは頻繁に「マイ箸」が登場する事になり、
周囲から「ををっ、先端いってるねー」などと言われることとなり・・・
「いや、全然理由が違うんですって。
 そもそもあたしゃそういうものは得意じゃなくって・・・」
の言葉はかき消されてしまう事になります。
だいたいが塗り箸。使うごとに洗っていたら、よっぽどその方が環境にお悪いんですけどネ。

いいかげんこの流行。みんな飽きてくれないかなぁ。

[No.215]白十字 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/06/09(Sat)-23:09
Houttuynia cordata

6月の草といいましたら、「花は紫陽花、葉はドクダミ」ですね。
ドクダミはこの季節どこでも見られる草ですが、
あの強い匂いのためか嫌われる可哀想な草です。
そうそう、ちす祖母はドクダミを「死人草」とかいってよく抜いていました。
昔、庭先や道端で頓死した犬や猫の死体の周りに生えていたから
と言うのが理由ですが、たぶんこれは初夏の時期によく生える野草の中、
ドクダミが目立ったからであろうと思います。
ま、なんか1つ嫌われちゃうとどれでも悪いことはそいつのせいにしちゃう
ってヒトの習性は、草に限ったことではありませんので(笑)
ドクダミにしたらいい迷惑ってやつですね。

ドクダミには、殺菌・抗菌作用、利尿作用、などたくさんの効能があり、
和漢の世界では、「十の効能がある」薬草って事で「十薬」と呼ばれます。
時代劇などで、傷口に野草の葉をすり込むシーンがありますが、
これにはドクダミが使われていたようです。
ま、実際の撮影ではくさいでしょうから、ドクダミは使われていないでしょうけど(笑)

ちす家ではこの時期、ドクダミのエキスを抽出して、
吹き出物や湿疹の化粧水に使っています。
殺菌効果があって、刺激が少ないのでお肌の弱い方にはおススメですよ。

ドクダミの葉を取ってきて、
海水程度の濃さの塩水をくぐらせてからよく水洗いします。
水洗いしたら、そいつをキッチンペーパーにはさんで丁寧に水気をふき取ります。
ワンカップサイズのホワイトリカー(35度から42度)を買ってきて、
中身をいったん他の容器に移してから、 ドクダミの葉を底に敷き詰めてゆきます。
目安としてはカップの1/3ぐらいの量です。
枚数で言いますと30枚から50枚程度です。
ここに先ほどのホワイトリカーを一杯まで注いで、
空気が入らないようにきっちりとフタをします。
残ったホワイトリカーは適当にご賞味ください(笑)
これを冷暗所に3カ月ほど置きますと、
エメラルド色のきれいな抽出液ができあがります。
葉っぱを引き上げてから、
ティースプーン1〜2杯分のグリセリンかオリーブオイルを入れますと
出来上がりです。
もちろん化粧水としてお顔全体にも使えます。
アレルギー体質の方はマケると困りますのでコットンに取って、
吹き出物や湿疹の部分に使うようにしてくださいね。

雨が降り続くと、ついつい暗い気分になっちゃうこの季節です。
暗い空の下、濃厚な色の葉の中に光る白い十字の花は、
その力をもあらわしているようで、
紫陽花よりも美しい花だと思うのですが・・・


 ♪ドクダミや 闇に抗う白十字♪

[No.214]謎の古時計 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/06/04(Mon)-20:45
Groundfather's Clock

オートハープサイトの新しい練習曲は「Groundfather's Clock」(大きな古時計)
単純な曲だけにいろいろなバージョンが楽しめるので、
課題曲としてはなかなかな選択であると想います。

さて、この歌。
じっくりと歌詞を眺めていると非常に謎の多い曲であることが判ります。
いや、この歌には謎と言うより、
米国の一時代を旋律に語るメッセージが込められているのです。

さて、まず考えていただきたいのは、「大きな古時計」の大きさです。
歌の「チクタク・チクタク」という部分から考えると、
この時計はチクタクというツーカウントのパルスで1秒になっている様子です。
振り子の振幅周期は、1往復にかかる時間ですので、
振り子がその振幅の両端の停止点においてパルスをとるとすれば
この時計の振り子の振幅周期は1秒であるということになります。
振幅周期が1秒の振り子の長さはどれぐらいのものかといいますと、
約25cmです。これに時計の制御系と文字盤を加えますと、この時計に必要な
大きさは60cm程度の大きさであったと考えられるわけです。
するとここに大きな疑問が生じます。

日本語の歌詞の「大きなのっぽの古時計」のみならず、原詩においても
この時計は「My grandfather's clock was too large for the shelf,」
と表現されています。となるとおかしい。
あの、なんでも規模の大きい米国人が「too large」と表現している時計です。
なまはんかな大きさではないはずです。
 ちすは以前米国にて現地の同胞と食事に行った事がありますが、
 彼は麦酒を1リットルのジョッキで2杯頼んだ後に、ステーキとサラダと
 ポテトと、パスタと、フイッシュフライとロブスターを注文し、
 「をいをい、いくらなんでも2人でそんなに食べれないだろう」
 と感心しているちすに向かって、
 「ところで、君は何を食べる?」と聞いてきたので椅子から落ちそうになった経験があります。
とまぁ、そんな風にスケールのでかい米国人が「too large」と表現している時計
これはとんでもなく巨大なものであると想像できます。
巨大な時計にもかかわらず、求められる動力部分の大きさは数十センチ
と言うことは、この時計の中には大きな空間があるという事になります。
では、その空間にはいったい何が入っていたのでしょうか?

ここで、2番の歌詞に注目したいと思います。
 「何でも知ってる古時計 おじいさんの時計」
これが単なる比喩ではなく事実を表現しているとしたらどうでしょうか。
 「嬉しい事も悲しい事も みな知ってる時計さ」
この巨大な時計はこの「おじいさん」の住む屋敷内の動向を逐一把握していた。
もちろん時計が把握していたわけではなく、時計のある部分に把握する何かがあった。
はい、みなさんお気づきですね。そう、この巨大な時計の空間には常に誰かが
潜伏して、屋敷内の動向を監視していたのです。

なぜそのようなことをしなくてはならなかったのか、
これはこの「Groundfather's Clock」と言う歌が作られた時代を考えなくてはなりません。
作者Henry Clay Workがこの歌を作ったのは1876年です。
この時主人公の1人である「おじいさん」はすでに亡くなっていて、
時計は停止していたということですから、
この時計が購入されたのは、「おじいさん」の人生とされている90年より
以前。と言う事は1876年から90年から100年くらい以前に製作されたという事になります。
1876年から遡ること90年から100年といいますと、はい、ちょうど100年前の1776年。
米国は英国に対して独立戦争を起こしております。
つまり、この巨大な時計は独立戦争の直後に製作され、購入されたものと考えられるわけです。
独立戦争後の混乱の中、巨大な時計と言うのは子供が生まれたお祝いに買うには
あまりにも高価なものなのではないでしょうか。
考えるに、この歌の「おじいさんは」独立戦争直後の混乱期に、巨大な時計を
購入出来るだけの資産のある家庭に生まれ、なおかつ生誕の祝いに
高価な時計を購入されるだけの地位が約束されていたという事になります。
独立戦争で巨万の富を得た者達。それは南部の農場主達です。
つまり、ここまでの条件から、「おじいさん」は、
独立戦争直後に南部の農場主の後継者として生まれてきたと推測出来るのです。

すると当初の疑問「巨大な時計」についての謎が解けます。
南部の農場主。当然ながら敵も多かったでしょう。
また、跡取り息子を狙っての誘拐・暗殺等の危険も危惧されたと思います。
そこで、屋敷内に秘密裏に屈強なボディガードを配置し、有事に備える・・・
それこそが「巨大な時計」の本当の目的だったのです。
24時間体制で時計の中で周囲をうかがうボディガード。
背の高い時計の中には拳銃よりも射程距離の長いライフル銃が装備されていた
ことと思われます。

それならばなぜ「時計が止まる」事になったのでしょうか?
屋敷内の安全を護るために必要な時計であるのなら、「おじいさん」が死んでしまった
後もその任務は続けられる必要があるはずです。
ここで、歌の作られた時代をもう一度考えて見ましょう。
この歌が作られたのは1876年。
前述のようにこの数年から10年前に時計は停止した事になっています。
その頃にいったい何があったのか。はい、「南北戦争」です。
独立戦争によって巨万の富を得た南部の「おじいさん」の一族は、
南北戦争の敗戦によって没落し、屋敷を護る必要がなくなってしまったのです。
そもそもが時計の中に潜み、屋敷の安全をうかがっていたのは奴隷達であったはずです。
南北戦争の敗戦で奴隷達が解放され、そのような任務に就くものも
いなくなってしまいました。
いや、ここで3番の歌詞「おじいさんの倒れた朝に・・・」にご注目ください。
「おじいさん」は通常の亡くなり方をしていないのです。
「倒れた」・・・「倒された」
南北戦争の敗戦で奴隷解放の波が屋敷に迫る中、長年の辛い使役からの
開放を願って奴隷達が蜂起。
そして、時計から取りだされたライフルが放った一発の銃弾は
「おじいさん」の身体を貫き・・・
いつしか壊れて停止した時計は修理されることも無く打ち捨てられ、
歴史を伝えるものとしてこの歌だけが残った・・・

こうして、闇を中に包み込んだ巨大な時計は、その秘密を明かす事無く、
静かに朽ち果てて行ったのです・・・合掌

[No.213]肩凝り 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/30(Wed)-22:41
Stiff neck

ここん所演奏三昧の週末が続いたので
派手に肩凝りになっています。

肩凝りの対処にはシップ、マッサージ、針、灸、マジナイ、神頼み、
丑の刻詣り<(をいっ!)
とさまざまな対処法がありますが、ちすの場合
「とにかく温める」事にしております。

考えると当たり前の事なんですが肩凝りって肩の筋肉の
血行が悪くって、疲労物質がたまっちゃっている状態ですから、
どんな方法であっても血の流れをよくすりゃぁいいんですよね。
で、何故かこの「温める」って事をなさらない方が多いのは
不思議です。
で、オススメの「温めグッズ」
それは「シリカゲルのネコトイレの砂」です。
いや、シリカゲルでしたらなにもネコトイレにはこだわりませんが
ちすの知るかぎりホームセンターで1番安価に手に入るシリカゲルが
ネコトイレの砂であるって事が理由です(笑)

このシリカゲル。正体は「シリカのゲル」です<(スパコーン)
よーするにケイ素にたくさん穴が開いていて、水の分子が
つまっている状態です。
ちなみに、この性質によってシリカゲルは乾燥剤として使われています。
さてさて、
こいつを適当な布袋に100gほど入れましす。
キッチンにある電子レンジの扉を開け、中からネコを出して
 <(普通ネコは入っていません(笑))
布袋をツッコミ、
 <(誰です、へっついの布袋さんを突っ込んでるのは)
2分ほど高周波を照射して下さい。
え、「我が家の電子レンジは高周波などという物騒なものは出していない」
って・・・
いや、そもそもその物騒な物を出すのが電子レンジなのですってば。

2分経ったら
シリカゲルの中の結晶水がほどよく温められています。
この布袋を肩に乗っけるワケですね。
ほどよい遠赤外線のポカポカが30分は続きます。
ま、石を電子レンジで暖めたらどれも同じ結果なんですが、
中の水分が多いほど効率がいいですからシリカゲル。
でなきゃゼオライトがオススメです。

ちなみに、ネコトイレの砂は必ず「使用前」のものにして下さい。
でないと電子レンジが使い物にならなくなりのすよー(笑)

[No.212]酔狂人日記 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/30(Wed)-22:39
drunkard ordinary

知人との待ち合わせにちょいと早く着き、
時間つぶしにそこらのホテルのラウンジで麦酒でもひっかけるかなと、
ターミナル前の道を歩いていたら
懸命にアジ演説をしながらビラをまく集団がおられました。
「ふーん・・・」てな様子で見ていたちすに、何か勘違いしたのか
何も考えていなさそうなカモ(笑)が近づいてきて趣旨の説明など始められました。
ま、いわゆる明文化を金科玉条として、崇めたてる手合いです。
普段のちすですと、
「では聞くが、帝国憲法には侵略行為が明文化されていたとでもいうのかね?」
にはじまる論を展開して遊ぶのですが、
相手を観察していて、とある事に気づき「こいつは面白い」と
静かに論説を聞くことにしました。
しばらくすると相手のネタも煮詰まってきた様子ですので、
話を半分に聞きながら唱えていた呪文を発射。
 <(をにょれは魔道師か)

 「ところで話を変えて申し訳ない。あなたのポケットの中に見えるタバコだが、
  それには喫煙者の健康に有害であると事が明文化されていると思うのだが、
  この記載はあなたにとって何か意味があることなのか?」
 「それとこれとは話が違うでしょう」
 「いや、だから話を変えて申し訳ないと言っている。現在討論を交わしている
  相手の人間性を知りたいがための質問だ」
 「人間性って・・・こういうのは個人の自由でしょう」
 「すべて個人の自由と言う言葉で終結してしまうと、意見の違うもの同士が
  討論すること自体を否定する事になると考えるのだが、
  それともあなたは今までの討論そのものを否定するつもりなのか」
 「・・・タバコが自分にも他人にも有害であることは承知しています。
  でも嗜好的な問題で喫煙しているのです」
 「それはあなたが、
  論理的に正しいと認めている事が明文化されているにもかかわらず
  嗜好的理由によって実行できない事があると認めているということなのか」
 「いや違う。そんな勝手なことではなくタバコと言うのは意志があっても
  やめられないものなんです」
 「理解しよう。ニコチンと言う化学物質は習慣性・依存性のある物質だ
  つまり、あなたが喫煙を続けられているというのは依存性物質によって
  あなたの脳細胞が汚染されているという事にならないか。
  残念ながら、依存性物質で脳細胞が汚染された狂人とこれ以上の討論を
  交わすことは論理的に無意味であると考えるので失礼させていただきたい」

と、きびすをかえしてスタコラサッサ。
期待していた「おいこらっ!」
の声も無いのでちょっと物足りなかったのですが、まあまあいい気分で
ラウンジの生ビールがいただけました。
しかし・・・このアルコールってーのも習慣性・依存性のある化学物質だよなぁ。

結局、狂人と狂人の討論に過ぎないか(笑)

[No.211]オカエリナサイ 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/24(Thu)-22:56
Welcome home Your TEIKIN

オートハープサイトのオーナー。リフ様が無事米国から帰られました
おっかえりなさいーっ!
そして大成功おめでとうございますーっ!
すばらしい渡米になりましたね。
トップべージから素晴らしいステージの様子が伝わってきます。

「とうとう日本人のオートハーパーが米国のステージに立つんだぜ」
今回の渡米をお聞きして、ちすが話をしたら、
「へぇーうらやましいよねー」と言われました。
ちすの応えは、
「いや、今回の成功はなにも懸賞に当たったようなモノじゃない。
 あのヒトが自力で勝ち取ったものだヨ。他人が勝ち取った物を
 うらやましがるほどちすは腐っちゃアいないってば」
他人の幸運はうらやんでもいいけど、
他人の成果をうらやむようなヤツはお粗末です。
酒で充分に傷んではいるちすのノーミソですが、
そこいらの狂人のように腐ってまではおりません(笑)

ちすがオートハープに「綴琴」という日本語を当てはめて言い出したのは
もう20年以上前の事です。
見た目の縦と横に部品が重なり合っている様子とともに
オートハープには弾かれた弦の音を他の弦が共振しながら
追いかけるという特徴があります。
まさにメロディを綴る琴。
そして今、米国ではオートハープは「メロディを綴る」楽器として
素晴らしい発展を続けています。

オートハープは米国の楽器です。
日本人が雅楽の調べを大切にするように
 <(実際、大切になんてしてない国民ですけど(笑))
米国人はオートハープを大切にしています。
他所様の楽器を勝手にいじくりまわして適当な奏法を
広めるということがどれだけ失礼なことか・・・
かつて、オートハープをかき鳴らして「演騒」されていた
ミュージシャンの方々には太平洋の方向いて
高山彦九郎先生の真似をしていただきたいぐらいの
日本のオートハープの現状です。

「全ての物を正当な所に」
緑は大地に、大地は空に、空は星に、星は海に、海は風に、風は道に、
道は明日に、明日は夢に、夢は涙に、涙は怒りに、怒りは斗いに、
斗いは命に、命は論理に、論理は知恵に、知恵は求めに、求めは言葉に、
言葉は唄に、唄は音に、音は彼方に。
オートハープは米国人のもの。
彼等が求める音がオートハープの音なのです。

[No.210]無くした風景 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/21(Mon)-22:09
Lost scenery

ちす父の米寿のお祝いのイベントの為に、久々に育った街を訪ねました。
駅前のホテルの中の写真館で記念写真を撮り、食事をしてから、
ご参加の皆様には先に引き上げていただき、父子2人で敗戦前からの建物の
ホテルの旧館ラウンジで杯をかたむけました。
進学、就職、結婚と人生の節目節目で、父と杯を交わすのは
いつもこのラウンジでした。
三十余年、変わらない風景と変わらないグラス。
人は変われど同じ味のカクテル。
あの大震災の後でも、1ヶ月後には補修されて、
復興に疲れた身体に1杯の美味しい酒を提供してくれたラウンジです。

最近、昭和の中期が流行しているそうです。
それをテーマとした映画も作られ、ちすも勉強のためにいくつか観ましたが
いまいち、思い入れが出来ません。
少年期にスクリーンの向こう側と同じ時代を過ごした事は事実ですが、
ちすの記憶にはあんな風景はありませんでした。
駄菓子屋もなかったし、土管の転がっている空き地もなかった。
お好み焼きやたこ焼きを外で食べたのは高校生になってから。
そもそもが外食なんてものを知らなかった。
お祝い事というのは仕出し屋さんがご馳走を持ってきて、
家の座敷でする事だと思っていました。
もちろん農村地帯でもありませんから田んぼも畑も無いし、
草むらもなければ河原もない。
スクリーンのむこうから「どうだ、懐かしいだろう」などど
映し出されている風景は、懐古的ではあるけど、経験した風景じゃない。

いや、「無くした風景」などと言われていますが、
ちすの育った街は、時代を経ても、震災を経ても変わっていません。
坂の道、湧き水の流れ、石垣の続く家。
道を走る車は、年式が違っても同じメーカーの同じ形式で、同じ色。
家々から見える庭の風情も同じように剪定され、同じように碧輝いている。
新たに建てられた家々も風景に溶け込むように彩られ、決して目立たない。
色と形と風景が溶け合い、決して突出しないように造られている。
確かに、子供の頃に電車に乗って出ていった都会の風景は大きく変わっているけど、
育った街に帰れば変わらない風景が迎えてくれる・・・
せいぜい変わったものといえばいつも乗っていた電車が新しくなったこと。
でも、外装の色が変わったわけでもないし、シートの色も変わらない。
車内の宣伝の内容は変わっても、同じ位置に同じようにある。
街を行き交う人の私服は変わっても、
すれ違う生徒達の制服はずっと変わらない。
いったいに何を騒がしく指摘しなくてはならないのか・・・
新しい地域と言っても前述のホテルにつぎ足された新館のようなもので、
元々の街はホテルの旧館を訪ねるように、変わらない時間とともに迎え入れてくれます。

「安普請のホテルはな、土台がしっかりしとらんから、建て増ししたところでそうはもたん。
 いい加減使ったらもぅ建て替えるしかない。
 しゃあけど、土台からしっかり建てたホテルはそうやすやすとはつぶれん。
 だいたいが、ええもんは誰もつぶしとぉないから大切に守ってくもんや」
と、ちす父。
それは建物だけではなく、家具も食器も同じ事。いや文化や芸術や音楽がそう。
結局、大切にしようとする人がいない安普請なモノは跡形もなく変わるしかない。

ただし、安普請なモノは数だけは多い。

戦勝国が持ち込んだ「市民平等」という悪魔は、
思いでを語る為の話題ですらも多数決で決めてしまいました。
大切にするほどのモノもなかった、「景色を無くした」だけの連中は、
今を満喫し、今の幸せを確認するために「思いでの時代」を語る。
それに対して取り戻したいのは暮らしなんだと言う言葉を飲み込まざるを得ない
「暮らしを無くした」少数の人達。

「市民平等」・・・「一人は万人のために」充分に尽くしました。
いつまで待てば「万人は一人に借りを」返してくれるのでしょうか。

[No.209]久々の補足 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/20(Sun)-22:22
Be give

鬼遊笑覧「[No.208]勸君更盡一杯酒」
についてのご質問がありましたので削除するとともに、加筆させていただきます。

鬼遊笑覧は「雑文掲示板」です。
これが、ご質問ではなく杜甫の詩などを掲げていただき、
「なぜ高啓の詩であるか」という意図の雑文を書かれての事でしたら
狂喜してお答えいたしましたが、
内容につきましての質問は、調べれば判るものですので困ってしまいます。
徒然草第三十一段 「雪のおもしろう」の吉田兼好師の気分であると
ご理解いただけましたら有り難とうございます。

まぁ、日々メールなどしたためておりますと、
この段を思いだすことが多くありますので、
鬼遊笑覧にはじまったモノではありませんが・・・。
ましてや、昨今あるのですがそれが敬愛する年長者からの場合、
「ちすの値段はその程度のものであるか」と反省すると共に、
万が一それが無作法からのものであったら
「年長者として許せんっ!」と憤ったりと忙しいわけです(笑)

さて、
いやいやながらの補足としては、
引用は「高啓の「送呂卿」」であると言う事で
由無し事のひとつも雑文をいただければ幸いです。

[No.208]勸君更盡一杯酒 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/17(Thu)-21:28
Knockin' on heaven's door

オートハープサイトのオーナー。リフ様が無事米国に旅立たれましたー。
今のところ旅客機墜落の臨時ニュースは流れていないようですので
 <(をいっ!)
日本時間の明日の朝には世界に名だたるプレイヤーの方々と
セッションをされているとと思います。

日本人がオートハープのステージに立つ。
「イロモノ」扱いのオープンステージは過去数件ありましたが、
正式な記録が残されるものは今回が初めてです。
「いつかは」と夢見ていた事ですがいざ現実になるとなると感慨無量です。
歩みを止めることをしないかぎり天路はかならず輝きの門を
示してくれます。

30年前
高校生だったちすが短波放送で初めて聞いたオートハープのメロディックスタイル。
2ヶ月遅れで購入していたAutoHarp-Magazin誌で
Bryan Bowersというプレイヤーの名前を知り、
いままで聞いていた日本の音が単なるコード崩しにすぎないと知ってから
追い求め続けている奏法です。
帰国されたリフ様がメロディックスタイルを全身で受け止めて、
新しい演奏をお聞かせいただけるのが楽しみです。

 遠汀斜日思悠悠
 花払離觴柳払舟
 江北江南芳草遍
 送君併得送春愁

[No.207]酒席 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/08(Tue)-22:18
banquet

最近宴席が続けて2度ありました。
1度は同世代の方々との語らい。
今一度は年長者の方を含めた懇親。

勿論「年長者がアチラに逝かれる前にいろいろ聞き込む」
のが趣味のちすですから、
楽しんだのは・・・というか酔っていられなかったのは後者(笑)

年長者の方との宴席でちょっと気に障った若輩者の対応がありました。
ご教授を賜っている年長の方に
「ご苦労様でした」と卓越しに徳利を差し、
杯の縁を合わせて乾杯。
返盃を「ありがとうございます」と右手で杯を受け、
あげくに「頑張って下さい」と・・・

はい、「何がおかしい」と思われた方も多いでしょう。

 目上の方に「ご苦労」などと言ってどうするっ!
 卓越しの徳利は失礼っ!。どうしても必要がある場合には、
 膝立てて、左手を床に置いて徳利を目下から捧げ上げろっ!
 そもそも、徳利の注ぎ口を下にして注いでどうするんだっ、
 横から注ぐのが基本だろうがっ!
 乾杯は目上の相手より下に杯を掲げ、その糸尻に縁を合せるっ!
 をいをいっ!ご返盃は両手で受けんかいっ!
 あのなあ、「頑張って」の意味がわかってるのかぁーっ
 そう言うことを目上の方に言うのは一億年早いんじゃっ!!

と。まぁ頭をグリグリ言わせながら吼えたちすでした。
知識としての礼儀作法は備わってていても、その理由を知らないから
実践が伴わない。
もちろんそれは「理由の説明もできない阿呆が礼儀を語る」
事が根本の原因なんでしょうけど・・・

最近よく耳にしますが、そもそも
自分より年長の方に対して不義を持つという考えはおかしいんですよね。
ちす父に言われた言葉に、
「年上は絶対にたてなあかん。
 普通に生きたらお前より先に死にはるヒトや。それだけで充分偉い」
ってのがありまして。
本当にそうだなぁと思う今日この頃。

閑話休題
不惑の年を越えた「若輩者(笑)」をたしなめながら、
たまたま先月末に敬愛するミュージシャンの方と
酒席を楽しませていただいた時を思いだしていました。
「あのとき、粗相はなかったかなぁー」
なーんて考えると・・・無いつもりが多々ありましたねー。
特にやっちゃったの。ちすがその方の後からお店を出ていました・・・
お店の方に出ていただけない場合。先に店を出て
往来の安全を確認するのが若輩者の努め。
「そういえばやっちまったなぁ・・・」と思いながら、ふと気がつくと
件の宴席。ちすが最初にそのお店を出ていました。

うーみゅ・・・奴等ちすで「往来の安全」を確かめやがったな・・・(爆)

[No.206]ハレの日 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/06(Sun)-07:20
Prayer day

端午の節句です。

「節句」というのは季節毎のお祓い。
新年から季節が移り、
日の長さが変わってゆきますと生命活動のリズムが変わります。
そんなリズムの移り変わりに対応してたまってゆく心身の有害事象を
古人は「気」が枯れる・・・「気枯れ」と考えていました。
そこで季節のリズムの変わる時を「節句」としてお祭りをすることにより、
枯れた「気」を補給して、元の状態に甦ろうと考えられました。
これが「元気」ってヤツですね。
もちろん、物理学的には時間は一方向に流れ、
生物学的には生命力は経時的に消耗していくだけですが、
気持的に経過時間を元に戻して次に対するエネルギーを補給してゆこうと言う事です。
古くはこのような祭事を「ハレの日」と呼び、
そういうときにだけに着る特別ないい着物があり
これを「晴れ着」と称していました。

さて、
京に住われている敬愛するミュージシャンのライブを拝聴するために
幾度となく上洛しているちすですが、そのときに必ず心がけていることがあります。
それは「新しい下着」です。<(はい、笑わないっ!!)
幾度となくと言いましても、とってもお高いJRサンですので(笑)
年間10回弱がせいぜい。ちょうど「パンツの替え時」に重なるのもありますが
これもライブの為の上洛を「ハレの日」と考えてのことです。
「今日はライブに行くぞ」の朝、
包装を破り、新しい下着を出して身に付けるとき、
世俗の肩書きではなく、「ファンのちすもん」という
普段と違う肩書きでライブに参加するという、
非日常的な行動をとることで、失われた「気」が回復する。
それに華を添えるのが「晴れ着」ならぬ「晴れ下着」であると考えています。
ライブの客席でお見せできないのが残念です・・・
 <(誰も見たくない・・・いや見せたら叩き出されると思うぞ)
まぁ、いきなり「パンツ替えたかぁ?」などと突っ込まれるともっと困りますが(爆)

と、言う事で密かな楽しみ・・・<(楽しみ??)の新しいパンツ。
ちなみに、困るのはそのミュージシャンがツアーでちすの棲息エリアに来られて、
連日、続けざまにライブの機会があるときでして。
どうも二日目・三日目に燃えきれないのは、パンツが新しくないせいではないかと
思うこの頃・・・(笑)

[No.205]ふるい憲法のはなし 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/03(Thu)-00:01
Experiment On Old Constitution

 皆さん、今日は60年前に今の憲法を守ってゆく事になった日です。
この憲法をこしらえるために、沢山の人々が大変な苦心をなさいました。
だから私たちはこの憲法がどんなにふるくなっても大切にしなくてはなりません。
ところで、皆さんは憲法というものがどんなものか御存知ですか。
自分の身にかかわりのない事のように思っている人はいないでしょうか。
もしそうならば、それは大きな間違いです。憲法は、国をどういうふうに治め、
国の仕事をどういうふうにやって行くかという事を決めた、
国で1番大事な規則です。国を家に例えると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。
これを国の「最高法規」といいます。

この憲法には、国の仕事のやり方の他に、
もう一つ大事な事が書いてあります。それは国民の権利の事です。
皆さんは日本国民のうちの1人です。
日本では国民の1人1人が賢く、強くなければ生きていけません。
劣った人を助けてあげるだけのお金が日本には無いからです。
国の力の元は国民にかかっています。そのため国は、
国民の1人1人に、いろいろ大事な権利と義務がある事を憲法で決めました。
この国民の大事な権利の事を「基本的人権」といいます。

今の憲法の前にあったもっと古い憲法は、明治二十二年にできたものです。
これは明治天皇がお作りになって、国民全体に与えられました。
今の憲法は、戦勝国アメリカの賢い人たちが理想の名のもとに集まり、
戦争に行かず生き残っていた古い日本の文官達と話し合い、説得をしながら
1週間もかかって作成されたものであります。
そして出来上がった憲法を日本の国民全体に守ってもらうために、
国民の代表の方々に与えられました。
国民の代表とは、
昭和二十一年四月十日に行われた総選挙で新しく選ばれた人達の事です。
国民の代表に与えられたものですので、
この憲法は、国民全体が守らなくてはいけないという事になっています。
皆さんも日本国民の1人でありますから、この憲法を守らなくてはなりません。
皆さんは、自分の命を大事になさるでしょう。
この憲法は皆さんを含めた日本国民全体の命を守る為の大事な規則なのです。
その為には、まずこの憲法にどういう事が書いてあるかを、
はっきりと知らなければなりません。

では、この憲法にはいったいどのような事が書かれているのでしょうか。
この憲法には大事な考えが三つ書かれています。
それは「民主主義」と「平和主義」と「人権主義」です。
「主義」という言葉を使うと、なんだか難しく聞こえますけど
少しも難しく考える事はありません。主義というのは、
「出来るか出来ないかは別として、理想的だと思われるやりかた」の事です。
皆さんはしっかりとこの三つの考えを理解しなくてはなりません。
それではまず、「民主主義」からおはなししましょう。

民主主義
この憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。
民主主義とは、いったいどういう事でしょう。
皆さんが大勢集まって、一緒に何かをする時の事を考えてごらんなさい。
誰かの意見で物事を決めますか、みんなの意見で物事を決めますか。
もしもみんなの意見が同じなら、問題はありません。
でも、もし意見が分かれたときは、どうしますか。1人の意見で決めますか。
2人の意見で決めますか。それとも大勢の意見で決めますか。どれがよいでしょう。
1人の意見が正しく優れていて、大勢の意見が間違って劣っている事はよくあります。
しかし、だからといって大勢の人達が1人の意見を聞く事は決してありません。
そのような事が出来るなら最初から間違って劣った意見なんて持たないからです。
そこで、どんなに正しく優れていても少数の意見は無視して、
大勢の意見で物事を決めてゆくのが、1番苦情が出ないという事になります。
正しいか正しくないかではなく、
なるべく苦情の出ないように物事を決めてゆく事が、民主主義のやりかたです。
国を治めてゆくのもこれと同じです。
どんなに正しく優れていても僅かな人の意見で国を治めてゆくのはよくないのです。
たとえ間違って劣っていても大勢の意見で国を治めてゆくのがよいのです。
ただし国は、皆さんの学級とは違います。
国民全体が1つの所に集まって相談する事はできませんし、
1人1人の意見を聞いてまわる事もできません。そこで、皆さんの代わりに、
大勢の意見を伝えあう場所と人がなくてはなりません。
それが国会であり、国会議員です。
皆さんはテレビジョンで国会中継をご覧になった事があるでしょう。
大人の方は「あれでは滑稽中継」だなどと笑って見ておられますが、
滑稽で当たり前なのです。だって国会議員さんたちは皆さんの代わりになって、
大勢の人達の、間違って劣った意見を伝えあっているからです。
そうして国会では、国民の代わりである議員の大勢の意見で物事をきめます。
これで国民全体の意見で物事を決めた事になります。これが民主主義です。
このように民主主義で国を治めてゆけば、みなさんは幸福になり国も栄えてゆきます。

[No.204]ふるい憲法のはなし(続き) 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/05/03(Thu)-00:00
Experiment On Old Constitution


平和主義
皆さんは、今度の敗戦でご先祖様代々守ってきた財産や田畑を
取り上げられてしまったという話をお聞きになった方も多いでしょう。
また、戦争が終わったのに外国の敗戦地で沢山の方々が殺されてしまった
と言うお話もお聞きになっている事と思います。
二度とそんな辛い、哀しいお話は聞きたくないと思いませんか。
あんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。
戦争は人間を減らす行為です。世界の食べ物が足らなくなったので、
食べる人の数を減らすのです。
世界戦争のおこるたびに、もう戦争は二度とやるまいと、
多くの国々はいろいろ対策を考えました。
でも、人は今日食べるものが皆に行き渡ると明日食べるものを、
明日食べるものが皆に行き渡ると来週食べるものが心配になります。
そうして、また戦争がおこってしまったのは残念な事です。

この憲法では、日本の国が決して二度と戦争で損をしないように、
二つの事を決めました。
その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をする為のものは、
一切持たないで、強い国に頼るという事です。
日本には、陸軍も海軍も空軍もありません。これを戦力の放棄といいます。
「放棄」とは、「捨ててしまう」という事です。
しかし皆さんは、決して心細く思う事はありません。
日本は武器を持つより、武器を持った強い国のいう事を聞いて守ってもらうという
賢いやり方を、他の国より先に行ったのです。
世の中に、正義を名乗っている国ぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と争い事が起った時、決して自分からは手を出さず。
強い国にお願いをして、代わりにやっつけてもらうという事を決めました。
争いを仕掛けたりすると、日本が争いの出来る力を持っているという事を
ほかの国に教えてしまう事になるからです。そうしたら結局は、
強い国に逆らう国を滅ぼすお手伝いをするような破目になるからです。
また、戦争とまでゆかずとも、武器の力で相手を脅すような事は、
一切しないで、なんでもお金の力で解決するように決めました。
これを戦争の放棄といいます。
民主主義のご説明のとき、正しいか正しくないかではなく、
なるべく苦情の出ないように物事を決めてゆく事が民主主義といいましたが、
これは、一つの国についてだけではなく、国と国との間の事も同じです。
自分の国の事ばかりを考え、自分の国の為ばかりを口にして、
強い国の立場を立てないのでは、
世界の中でうまく立ち回っていく事はできません。
強い国と揉め事にならないようにうまくやってゆく事を、国際平和主義といいます。

人権主義
皆さんは、この憲法で基本的人権という立派な権利を与えられました。
この権利は三つに分かれています。
 第一は自由権です。
 第二は請求権です。
 第三は参政権です。
皆さんは権利と言うと、生きる権利や住む権利や教育の権利などを
思い浮ばれるかもしれません。しかしそのような一方的な要求は、
国にとって大切なものではありません。
 自らが由とした方法で、国に迷惑をかけずに生きていける権利。
 苦情を言いたい時、徒党を組んだりしなくても手続きをふめば言える権利。
 選挙で、大勢の意見を伝えてくれる人を選んで投票できる権利。
そんな国民の権利こそが大切なのです。
さて、このような立派な権利を与えられましたからには、皆さんは、
それなりの対価を国に支払わなくてはなりません。それが税金です。
立派な権利の為にちゃんと税金を支払ってこそ立派な国民といえるでしょう。
そして皆さんと同じ権利を持っている人達と協力して、
権利と要求を履き違えて国に迷惑をかけている人達や
税金を払わないで権利のただ取りをしている人達を糾弾し、
国全体が幸福になるよう、大切な権利を守ってゆかなくてはなりません。

改正
「改正」とは、憲法を変える事です。憲法は、前にも申しましたように、
国の規則の中でいちばん大事なものですから、これを変える手続きは、
厳重にしなければなりません。そこで憲法を改正するときには、
国会だけで決めずに、国民が賛成か反対かを投票して決める事にしました。
まず、国会が憲法を変える事を決めます。それからその内容を国民に示して、
賛成か反対かを投票してもらいます。ただし、内容の解説はしません。
憲法では「示す」事しか規定していないからです。
従って、内容のわからない人はわかっていそうな人のまねをして投票するか、
他人に聞くのが恥ずかしい時には投票に行かなくってもかまいません。
そうして全部の投票の半分以上が賛成したとき、
はじめて憲法の改正を国民が承知した事になります。これを国民の「承認」といいます。
なぜ、こんな大掛かりな手続をして承認を取るのかといいますと、
憲法は国民のもので国民が責任をとらなくてはならないものだから、
憲法を変えた事についても責任を負ってもらう為に、国民の名義で発表するからです。

最高法規
「最高法規」とは憲法の事です。憲法は国の最高法規ですから、
この憲法で決められている事に合わないものは、法律でも命令でも、
一切規則としての力がありません。
このように大事な憲法は、国民全てが皆これを守ってゆく義務があるのです。
皆さん、この憲法は日本国民が他の国に殺されたり、
食べるものが無くなって飢えて死んだりしない為に大切なものです。
私たちは餓えと殺戮を経験した民族です。
それがどんなに悲惨で、哀しい事であるかを知っています。
いかなる手段を用いても、いかなる屈辱を味わっても、
二度とこの国をそのような目に遭わせてはなりません。
私たちはこれからも、このふるい憲法を守って、
日本国が栄え続けるようにしてゆきましょう。

[No.203]トリカブトの日 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/04/26(Thu)-23:18
Aconitum

27日は「哲人の日」
昨年、「[No.151]-哲人の日」でネタにいたしましたように
ソクラテスが毒ニンジンをかじって、七転八倒の末に亡くなった日です。
最期の瞬間、ソクラテスの脳裏には
「ぐえーっ!こんな苦しいなら意地張らなきゃよかった」と、
後悔の念がうずまいていたことと思います・・・たぶん。
いや、それほど「毒」ってやつはトンでもないシロモノでして、
安らかに死ねる毒物なんぞめったにあるものじゃありません。
と、言う事で本年の「哲人の日の毒ネタ」は<(恒例にしてどうする)
我が国では古来から有名な毒「ブス」です。

「ブス」とは何かと言いますと。漢字では「附子」と書きましてトリカブトの事です。
ちなみにトリカブトはその花の形状が舞楽のかぶり物である「鳥兜」に
似ていると言う事でついた名称です。ちなみにちすは「鳥頭」(爆)
また、この「ブス」ですが、
もう一つの使われ方としては顔の造形の不自由なヒト。
主に女性に対しての蔑称として使われております。

さて、古来より、美人の基準が変遷していることは御存知と思いますが、
実はブスの基準の方はほとんど変わっておりません。
「顔のデカイは七転八倒」「色の黒いは七難八苦」ってやつで、
大きな顔と浅黒い肌。
この二点は数百年の歴史を誇る由緒正しきブスの基準です。
そして「附子」の毒。
トリカブトのアルカロイドに侵されますと、
神経系の機能が麻痺いたしまして、呼吸困難で死に至るのですが、
その最期の状態というのは口が半開きとなりヨダレをたらし、
顔がむくんで赤黒くなり、通常の倍ぐらいの大きさに肥大するという、
見事にこの基準に見事に適合した状態を示します。
よーするに「不細工に臨終」してしまうワケです。
で、ここからお顔の造形の不自由な方を「ブス」と呼ぶようになった
というのが定説です。
ちなみに、ご臨終に到らなくてもこの毒素に侵されますと
命をとりとめる事ができても、
顔面の鬱血は残り、赤黒くなったままで、
伝達系の麻痺により顔面括約筋が侵され無愛想な無表情になってしまいます。
はい、トリカブトの毒を食らいますと、
死んでも生き残っても「ブス」になるのです。

トリカブトの毒は現在でも解毒剤が発見されておらず、
致死量以上を口にすると助かる見込みはほとんどありません。
この事から「ブスは死んでも治らない」と・・・(笑)

忍びの世界のエセ話に「毒姫」というものがあるそうです。
これは女性に幼児期から毒を与えて慣らすというモノだそうで、
最初は揺りかごの下に毒草を。次は布団の下、そして衣服の中。
さらに乳にまぜ与え、徐々に毒に慣らしていって、全身が猛毒の状態にして
敵方に女中として送り込むとかってネタなんですが、
勿論ウソです(笑)
そんな事したら肝臓肥大で早々に御臨終です。
そもそもが毒に侵されているって事は、
外見が「ブス」な状態になっているワケですから
女中として雇っていただけるワケなどありません(爆)

と、言う事で
造形の不自由な方に面と向かってブスなどとは言えない昨今、
これからはそういう方を「トリカブトの姫」と美しくお呼びするように・・・
 <(絶対にトリカブトを盛られるぞ)

[No.202]夜と霧 投稿者:ちすもん 投稿日:2007/04/15(Sun)-01:14
Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager

「今さらこんなネタをどう料理するつもりだぁ!」
の声が聞こえてきそうな今回のお題。
もちろん、今さらまっすぐに向きあうつもりもありません。
ちすが、「少年」と呼ばれていた年代から
何度となく読み返していたこの薄い本の中身を、
横から眺めて観るのもどうかなと考えた次第です。

「夜と霧」というのは、
原題の「心理学者、強制収容所を体験する」の通り、ユダヤ人の心理学者である
フランクル博士が、第二次世界大戦中に強制収容所に入れられていた時の体験を
書かれたものです。

「強制収容所」とは何なのでしょうか?
強制労働、貧しい食料、劣悪な環境、収容者の間の酷い人間関係。「ガス室送り」の恐怖。
そして、先の見えない生活・・・
このような収容所の生活ですが、
視線を変えて我々の周囲に置き換えてみると如何でしょうか?
物理的に比べると比べものにならないような満たされた生活が、
精神的な視点で見ると大差無いと言う事が判ります。

・憲法に謳われる「すべて国民は、勤労の義務を負う」という現実。
・蓄積性添加物が山盛りの食品群。
・汚れた空気、澱んだ水。収入の大半を充てねばならない住居。
・自己を捨てる事までをも強要する対人関係。
・突然収入が断たれる事への恐怖。
「そんな、比べるようなものじゃ・・・」
などと言われている方が、実際このような局面に立たれると
その精神は強制収容所に送られてしまうのが現実です。

ヒトは不幸という絶望的状況に陥ると、以下の段階を経て堕ちてゆくのだそうです。

1.恩赦
 被った不幸が明らかになった時、ヒトは心理的に強いショックを受けます。
 そして、「恩赦妄想」という状況になります。
 あたかも死刑を宣告された者が、処刑の直前まで恩赦される事を空想するように、
 可能性のない希望や奇跡の起ることにしがみつき、
 置かれた事態からの解放を期待しようとします。
 勿論、状況を冷静に判断する無意識下の脳は
 そのような事は絶対にありえないという赤信号を灯し続けています。
 しかし、「恩赦妄想」に陥ったヒトの心はもはやその光は届きません。
 ここで、集団の何割かが「恩赦妄想」の中で潰れてゆきます。

2.慣化
 ヒトはどんなに過酷な事にも、時間が経てば慣れることができます。
 逆説的に言えば、
 「逆境に慣れることができないヒトは生きてはゆけない」ということです。
 例えば「居直り」は、最初の葛藤を切り抜ける事ができれば、
 後は苦痛でも何でもなくできるものなのです。
 もちろん無意識下の赤信号は灯っているでしょうが、その光は
 決して表を照らすことはありません。
 そしてそれでも解決しえない不幸に対して、ヒトは自らを盾のなかに囲い込みます。

3.消滅
 続いて、ヒトは消滅へと移行してゆきます。
 これは外面的には「感情の消滅と鈍磨」。
 そして内面的には「冷淡と無関心」といった状態です。
 これらの心理反応により、ヒトは物理的、精神的な攻撃に対して何も感じなくなり、
 自分の置かれた状況を、
 あたかもテレビジョンの画像を見るかのように淡々として受け入れるようになってしまいます。
 また、消滅は時にヒトに勝利の満足感をも与えます。
 つまり、
 「私が攻撃を苦痛と感じないと言う事は、すなわち私が不幸に打ち勝ったと言う事である」
 と言う自己喝采の状態です。
 ここまで来たヒトの心は、その大半が外部に対して閉ざされている状態と言えるでしょう。

4.比較
 消滅を経ても不幸が続くとき。
 ヒトは比較によって不幸の中から幸福を捜そうとします。
 これは「・・・よりはまだましである」と考える状態です。
 この段階になるとヒトはもう、
 他者の不幸を同情や憐れみと言う感情で受理するという事はできなくなり、
 「他者の不幸を見ることは快感」であるという状態となっています。
 「消滅」を経て不幸に対する感受性を無くしたヒトは、
 自分に対して襲ってくる不幸を単なる障害として受け止め、他者の不幸を見ることで
 「私には幾つかの障害はあるが不幸ではないので幸せである」
 と置き換えようとしてしまうのです。
 「何をしてあげる力もないくせに、他者の不幸を根掘り葉掘り聞きたがる方」
 というのをよく見受けられますが、こういう方々はこの段階にまで堕ちておられます。

5.逃避
 さて、不幸から逃れられないという現実に対し、
 いかなる対処も無駄であると知ったとき。ヒトは未来へと逃避します。
 未来といいましても、
 「時が解決する」「今にみていろ」というような受動的な「未来逃避」です。
 極端に「正義は勝つ」などという妄想に取り憑かれる場合もあります。
 これは、「勝者が常に正義」という事すら見えなくなっておられると言う事です。
 第一段階の「恩赦妄想」に似通ってはいますが、
 「恩赦妄想」の場合、「待てど暮らせど」という現実を突きつけられる事で
 その呪縛から逃れる事ができますが、
 「未来逃避」の場合、他者からの評価という、約束されてもいない事を一方的に期待し、
 「何を制覇すれば解決につながるのか」「何に対して今にみていろと考えるのか」
 と言うような目的意識もなく、
 やみくもに「頑張れば光が見える筈だ」と言う行動に奔りますので、
 潰れてしまうまでその行為を止める事はありません。

ヒトが絶望的状況から浮上するために必要なことは。
「誰かが自分を求めている」「自分はここにいる価値がある」という確信です。
それは自分自身が一方的に決めるようなものではなく、
「あなたが必要です」という意思表示。
「いると便利」ではなく「いないと困る」という評価なのです。
我々は広大な宇宙空間において、限られた時間と僅かな空間に囲まれた
「地球」と言う名の収容所に棲むに過ぎません。
過酷な成育条件は、
それに耐えうるものを次の世代への礎にしようという自然の意志なんでしょう。
「劣悪なるものを排除する」
強制収容所はヒトが運営するようなものではありませんが、
ヒトは自然の運営する強制収容所に対して抗えるような存在でもありません。

「あなたがいないと困ります」「あなたが必要です」
そう言って下さる方はおられますか?