前のエントリ「三島はあちこちにある」の続きです。
さて、伊豆には昔、海賊が住んでいた。今では、帆船に乗って髑髏のバンダナ頭に巻いたモノ好きな爺ぃがいたりするんだが、それはまあ、無関係として、だ。海賊とか水軍とかいう連中が、どこで何をやっていたのか、考えてみよう。まず、おいらの船がしょっちゅう厄介になる内浦造船さんなんだが、
長浜城(ながはまじょう)は、伊豆国君沢郡長浜(静岡県沼津市内浦重須)にあった城。現在まで戦国時代の海賊城の遺構をおおく残していることで知られる。国指定史跡。
概要
内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年(天正7年)頃、北条水軍の基地として改修したとされる。武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなっており、1580年(天正8年)には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
内浦造船は、この長浜城の隣にあるわけだ。で、まことに環境のいい場所で、こんなところにマリーナでも作って、のんびり暮らしたいもんだと思うんだが、あいにくと内浦造船さんは売ってくれない。つうか、水軍・海賊の時代から住み着いてる人たちなので、これからも未来永劫、ここに住むんだろう。で、沼津とは言っても、この内浦という土地はもともと伊豆の国なので、駿河ではない。昔は君沢郡といって、三島、田方と、さらに沼津の内浦から戸田に至るまでが含まれていた。今の沼津市街は駿河の国なので、国が違うわけだ。で、このサイトを見て貰うとわかるように、西伊豆は海岸沿いに海賊の根拠地がいっぱいある。東伊豆にはあまりない。西伊豆は海岸線が複雑で隠れやすいとか、まぁ、色んな理由があるんだろう。で、今では水軍は観光名物になっているわけだ。
群雄割拠の時代の中、伊豆において水軍を率いて国盗りの足場を築いたのが北条早雲でした。
その早雲が、西伊豆の海賊衆を主体として統合し、軍として編成したのが伊豆水軍のはじまりと云われています。
当館は、その戦国時代の水軍の姿をリアルに愉しんでいただける全国でも珍しい資料館。特に北条水軍と武田水軍の海上合戦を再現した大型ジオラマ「伊豆水軍物語」は必見です。
で、内浦造船のある浜は、北条水軍の本拠地であって、有名な安宅(あたけ)船という大型軍船があった。その地に立ってみるとすぐ判る事なんだが、自然の要塞のような場所である。
武田氏に対する防衛のために築城されたのが長浜城である。武田氏も天正八年(1580)に水軍基地として三枚橋城を築き、北条氏と武田氏の間で駿河湾を舞台にした大規模な海戦が展開された。その海戦の様子は『小田原評定記』に詳しく記されている。武田方の軍船5艘による奇襲作戦から戦いは始まったが、北条方には「安宅(あたけ)」と呼ばれる大型軍船があり、北条方が優勢であったといわれている。
長浜城の船溜りである重須は、深く内陸に切りこんだ入江で、天然の良港であった。入江への入り口には、向って左に長浜城、右に弁天島といふ小高い山があり、敵船が入江に侵入しようとすれば、この二ケ所の高みから拳下りに射ち出す大砲と鉄砲の乱射を浴びることになる。このため、北条水軍の集結地として重視された。
ここで北条氏と呼んでいるのか、もちろん後北条氏なんだが、そう、紛らわしい事に、北条氏というのはふたつあるわけだ。つうか、本来の北条氏は鎌倉幕府の執権をやった北条氏なんだが、後北条氏というのは、北条氏と縁もゆかりもない伊勢新九郎という男が、北条氏の本拠地である韮山を乗っ取って名乗った嘘の名前にしか過ぎない。この男は、どうも経歴がハッキリしないわけだ。いまだに生まれた年すら確定してないんだが、いちおう、こういう事になっている。
北条氏は、室町幕府の御家人・伊勢氏の一族である伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が、1476年の今川氏の内紛の際に甥にあたる今川氏親を助たことにより勢力となった。この功績により駿河国興国寺城を与えられて力を蓄え、1493年に足利氏の堀越公方を滅ぼした。この結果、伊豆国を領有して下克上を実現して最初の戦国大名として興った。
伊勢新九郎が「北条」の姓を名乗ったについては、もちろん、前北条氏の名を詐称したわけでね。北条氏というのは、アレだ。北条政子だ。
北条氏(ほうじょうし)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。また、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏ともいわれる。
桓武平氏・平貞盛の子孫で坂東平氏と称し、時方のとき伊豆介となって伊豆国北条郷(現静岡県伊豆の国市)に土着し、北条氏を名乗ったというが、詳細はわかっていない。
時方の子北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となったことから頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の創立に尽力し、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。頼朝亡き後もその子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺した。さらに、3代将軍実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。
ここで注目したいのは、北条氏の出自が平家である、という事だ。鎌倉幕府というのは源平の戦いで源氏が勝って作った源氏の政権だとみんな思っているんだが、何の事はない、女房が平家で、その女房一族に政権を乗っ取られてしまうんだから、実に情けない。つうか、もともと島流しにするのに、源氏の勢力が強いところには流さないわけだ。伊豆は、基本的には海洋民族である平家の土地だったので、そこに島流しにして、平家一族の北条氏ご令嬢のハニートラップでハメられて、気がついたら勝ったのは源氏だけど、政権握っているのは平氏系の北条だったという、笑えない結果になるわけだ。
まぁ、いずれにせよ、中世の日本においては、伊豆を制した者が日本を制する、というような時代があったわけで、それだけ重要な土地だったので、江戸時代にも伊豆は幕府の直轄地、天領だった。縄文時代から続く海洋民族の本拠地であり、頼朝が旗揚げした時にも海賊衆の助力によって命拾いし、鎌倉に逃げている。ちなみに、源平盛衰記によれば、頼朝が旗揚げした時にまっ先に殺されたのが、伊豆山に居を構えていたおいらの先祖の悪代官なのだそうだが、真偽のほどは明らかではない。おいらの婆さんが大正時代には伊豆の三大美人と呼ばれていた、というのと同じ、嘘臭い伝説にしか過ぎないだろう。何故、伊豆がそんなに大事なのかというと、山が多くて海に面していて、時の政権が陸路で攻め込んでも占領するのが難しいわけだ。山に籠ってゲリラ戦も出来るし、隙を見て海賊衆の手を借りて外部に脱出する事も出来る。実際、頼朝がそれをやっているわけでね。しかも、当時の伊豆では金が取れた。伊豆にはあちこちに金山がある。なので、江戸幕府も、金が取れるところは基本的には天領にしているわけだ。
で、支配者が誰になろうが、港を支配しているのは土着の人間である。日本の中央政権は常にランドパワー志向だったので、もともと海洋への関心が薄いというのもあるし、海洋民族は高い税金を取ろうとすると逃げてしまうので、支配するのが難しい。農民は逃げられないから、いくらでも高い税金を奪える。風俗嬢から高い税金が取れないので、サラリーマンから取るのと同じ原理だな。
で、やっと前回からの宿題に答えが出るわけだ。
何故、漁民のネットワークが内陸部に存在するのかという話なんだが、漁民のネットワークといっても、賀茂神社を中心にしたネットワークというのは、為政者が漁民を組織化するために作ったネットワークであり、いわば、ランドパワーである奈良・京都の為政者が、海洋民族を監視するためにあちこちに作った出張所みたいなもんだ。奈良・京都の政権からお墨付きをもらうまでもなく、伊豆には縄文時代から海洋系の民族が住み着いているわけだし、彼らから税金の類いを取り上げようとしても、イヤだと逃げてしまえばどうにもならない。で、都の奇麗な着物だとか、漆器、陶器なんぞと引き換えに海産物を集めるくらいが精一杯だったのだろうと思われる。そら、単なる交易であって支配じゃねーぞ、という話もあるんだが、中国の朝貢貿易みたいなもんだな。で、たまにはご機嫌取りみたいに「どこに行って何を獲ってもいいですよ」なんていう許可証出したりしていた。それが、賀茂神社であり、その流れを汲んでいるのが三島社だというわけだ。
これは、あくまでも中央政権のランドパワーが出張所を作っているだけなので、海辺には作らない。むしろ、交通の要所に作る。うっかり海辺にそんなモノを作ると、海賊たちに襲われてしまうw 監視所というのは、ちょっと離れたところに作って、安全なところから様子を窺うものなのだ。
5年くらい前に、彼女と会ったことがあります(^^;)
山拓の資金集めパーティに司会の仕事を頼まれました。その時も、祖父が医者とか父が画家という話をしていましたね(笑)中学生の頃からベルファーレのお立ち台の上で踊って目立ちまくっていたという自慢をしていました(^^;)確か、かなり結婚が早かったみたいで、まだ小さいお嬢さんがいるというようなことも言っていたと思います。当時から胡散臭さぷんぷんで、あまり関わりたくない人だな、と思いその後、同様の仕事の依頼があっても断っていたのですが、ひょんなところで名前を見かけてびっくりです。