讃岐うどん
麺とだしの味わい 重ね塗りできない 一筆で描く水墨画
商売は細く長く 叔父の教え守り 一国一城の主に
うどんのゆで加減をみる山田さん(左)。「気温や湿度にも気を配らんといかん。やり直しはきかんで」と弟子に言いきかす(高松市牟礼町で)
高松市の中心街から東へ車で約30分。岩肌がむき出しになった険しい峰が並ぶ五剣山のふもとに、山田潔(64)が35歳で脱サラして始めた讃岐(さぬき)うどん店「うどん本陣 山田家」はある。長屋門と庭園を備え、料亭でも通用する堂々の店構えだ。
最近、周囲に住宅が増えたが、田畑も残る。そんな田舎町にある店に平日は1000人、土日祝日なら3000人の客が吸い寄せられる。
麺(めん)は、やや細めだ。柔らかな食感だが、讃岐うどんならではのコシもある。ほおばると、小麦の甘さがほんのりと香る。この麺に、昆布とかつお節、瀬戸内産のイリコでとったあつあつのだしをかけて、ネギを少々、花がつおをどっさり。それが名物のぶっかけうどんだ。1杯270円。うどんのうまさが真っすぐ伝わる。
山田が戒めとする言葉がある。
「商売は牛の涎(よだれ)ぞ」
開店間もないころに、叔父の日本画家、和田邦坊(くにぼう)(1899〜1992)に聞かされた。一獲千金を目指すな。牛の涎のように細く長く、地道に歩め――。そんな教えだ。
人が人を呼ぶ。そう考えて、山田は宣伝を極力控え、口コミを頼りに客をつかんできた。「讃岐うどんブーム? うちのお客さんの半分は常連さんやで」。自負がのぞく。
山田さんの店は国の登録文化財になっている。長屋門から中庭が見え、奥が店舗)
山田は江戸時代に庄屋を務めた豪農の子孫だが、戦中戦後のどさくさと、農地改革で資産と田畑の大半が失われた。15代目の山田に残されたのは、豪壮な屋敷だけだった。
高校を卒業すると、地元の印刷会社に就職した。しかし、長続きしなかった。家具店や菓子店、土産物販売会社……。何に向いているのかわからず、20歳代は職を転々とした。
そんな山田を叱咤(しった)したのが邦坊だった。「お前は山田家の跡取りだ。いつまでも人に使われているだけではいかんぞ。うどん屋をせい」
邦坊は金刀比羅宮(ことひらぐう)で有名な琴平町出身。昭和初期、東京日日新聞(現在の毎日新聞社)で時事漫画を担当し、一世を風靡(ふうび)した。第1次大戦に便乗して大もうけをした成り金を皮肉った「成金栄華時代」は、当時の世相を伝える教材として今も複数の日本史の教科書に掲載されている。
――料亭の玄関。客の靴を探す女の隣で、その客が100円札に火をつけ、やに下がる。そんな漫画だ。
邦坊は先の大戦の開戦前、体調を崩して帰郷した。戦後も郷土にとどまり、画業に精を出し、若手工芸家らの発掘、育成にも力を注いだ。
「屋敷を改装して使え」。邦坊はそう言った。両親や親類は猛反対したが、山田は心が動いた。
サラリーマン時代、昼食はいつもうどんだった。高松市内に夫婦と娘2人で切り盛りする店があった。
「いらっしゃいませ!」。店に入ると、娘2人の声が気持ちよく響いた。「表に20人ぐらい並んどるよ」と娘が伝えると、母親が「お父さん、頑張って打たんと」と笑いかける。「おう」と父親は応じ、汗をぬぐって、うどんを打った。
小さな幸せと言うのだろうか。家族が苦楽をともにする姿が好ましかった。「あの店のように家族で働けばなんとかなる」。そう決めて、妻の由紀子(58)に明かすと、「あなたならできる」と言ってくれた。
立地の悪さを理由に銀行は融資を渋ったが、邦坊が「だから常識人は困る。誰もせんことをやるけん、うわさになってはやるんや」と、説き伏せてくれた。
邦坊は自分が気に入ったうどん職人を連れてきて山田に見習わせた。週に1度試食に来て、麺の太さや固さ、だしに細かく注文をつけた。
「うどんは水墨画や。油絵みたいに重ね塗りのできん、一筆で描きあげる繊細な料理や」。それが口癖だった。塩や水の加減でうどんの味はまったく変わる。だしも時間がたてば風味が落ち、調味料を足しても戻らない。心せよ――。
戦後の邦坊は、美術評論家の柳宗悦(やなぎむねよし)(1889〜1961)らが提唱した民芸運動に共鳴していた。無名の職人が量産した日用品の〈美〉を見つめ直す動きだ。江戸時代から続く屋敷と、讃岐の伝統の中で培われたうどんに、民芸に通じる〈美〉を見いだしていたのかもしれない。
「これでよし」。邦坊の許しが出て、山田が開店にこぎつけたのは1978年12月のことだった。
和田邦坊さん。讃岐民芸館(高松市)の初代館長も務めた=灸まん美術館提供
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開店はしたものの売り上げが1万円に満たない日が続き、山田は時間を持て余した。店の近くに四国巡礼八十五番札所の八栗(やくり)寺がある。名物のヨモギ餅(もち)を売ろうと餅練り機を購入したが、老夫婦が営む老舗の利を奪うつもりかと周囲に諭され、あきらめた。薬味のネギの自家栽培を始めたが、1年で断念するなど試行錯誤する山田に忠告をくれたのが森清(昨年、82歳で死去)だった。元銀行マン。観光関連会社の経営者に転じ、成功していた。山田が脱サラする前から目をかけてくれていた。
森は言った。「君は焦ってがむしゃらに走りすぎている。一度、立ち止まってみてはどうか」
当時の山田は邦坊の敷いたレールから踏み出そうとして確かに焦っていた。開店以来、味に一切手抜きはしていない。が、森の言葉に従い、店をよく見渡してみると、客が求めているのはそれだけではなかった。
庭園を散策する人。調度品に感心する人。家族で切り盛りしていたあの店のことも思い起こされた。自分が気に入っていたのは、味もさることながら店に満ちていた温(ぬく)もりではなかったか。客への心配りや従業員の態度、清潔感……。それらも店の魅力だと思い至った。「森さんは視野を広げてくれた」と山田は語る。
讃岐うどんブームはまだ続いている。だが、ブームに乗って安易に開業して短期間で廃業に至る店も多い。
山田の下で修業し、独立したうどん職人は10人を超える。ホテルのコックだった村山幸良(38)は神戸のJR三ノ宮駅近くで「讃岐麺房すずめ」を構える。脱サラ組の大山浩(34)は6月、東京都豊島区で「蔵之介」を開店した。韓国で「山田家」の看板を掲げた弟子もいる。
今も7人が修業中だ。山田が弟子に語る最初の言葉は決まっている。
「商売は牛の涎ぞ」
それから邦坊や森のことなどを語り、「5年、6年は辛抱せんと一人前になれんぞ」と、覚悟を求める。
うどん人生は、細く長く、そして険しいと、知っているから。
香川県内に800軒 全国進出チェーンも
香川県によると、県内に約800軒のうどん店があり、年間のうどん生産量は約6万トンで全国1位。総務省の2006年の家計調査によると、高松市では1世帯あたり、全国平均の2.1倍の年間7518円を生うどん・そば代にあてている。
唐の長安で修行した空海が、讃岐に持ち帰ったものが元になったという言い伝えがある。
小麦の生産が盛んなことに加え、塩、イリコ、しょうゆなどの原材料が豊富だったことから広まったとされる。現在使用されている小麦の多くはオーストラリア産だが、県が2000年に開発した品種なども一部で使われている。
1980年代後半から、穴場的なうどん店を探して食べ歩く観光客が増え、讃岐うどんブームに。02年には県特有だったセルフサービス形式のチェーン店が全国進出して話題になり、06年には県内ロケされた映画「UDON」が公開された。
うどん文化研究する学会
全国的に讃岐うどんブームが広がる中、香川県内を中心に研究者や業界関係者らが集まった「日本うどん学会」(会長、三宅耕三・香川短大教授)が、2003年に発足した。
うどん文化の継承や、うどん店の経営戦略といったこれまでにない切り口から研究を深めようと、食べ歩きツアーをしたり、年1回の全国大会を開催したりしている。
9月15日に徳島市であった第5回全国大会では「四国のかけうどんの価格比較」「めんの文化地理学」など様々な角度からアプローチした研究が報告された。
文・上田貴夫、写真・枡田直也、文中敬称略
(2007年10月03日 読売新聞)