2007年8月31日

これからの住宅とは

武藤 隆/武藤隆建築研究所

すまいのこと/ここでしかできないこと
住宅に限らず建築の設計を始めるにあたって、いつも考えることは、
その敷地とその施主と今の社会の状況が出会った時に、
その巡り合わせでできる、ここでしかできないことは何かということ。
むしろ、どこででもできそうなことや、外観や構法あるいは材料そのものに
強さを持たせることには、あまり興味がなくなってしまった。
同じような敷地でも、地域性の違いや都市の文化度によって
与えるべき建築は異なってくると考えるし、
同じような家族構成の施主でも、生活や都市に対する価値観によって
与えるべき建築は異なってくるはずである。
その特殊解を、さも一般解のように、そして矛盾するようだが、
以下の2つのことを共存させて成立させたいと考えている。
1つはどんな状況にも対応できるシステムをつくること。
積極的にその建築にルーズさを与えて、
どうにでも使えるフレキシブルさを持たせたい。
もう1つは、ゆるぎない強さを持つシステムをつくること。
どう使っても成立する空間の厳格さとロジックを持たせたい。


デザインのこと
実はデザインという言葉をつかうことがあまり好きではない。
デザインという言葉ほど人によって違う解釈を持つ言葉は他になく、
それを共通言語にして話を進めるのがとても困難だと考えるからだ。
人によっては外観そのものの事や色や材料のことをさしたり、
またある人によっては装飾の事をさしたり、様々であるが、
本来のデザインとは、一つの事象を論理立ててつくることの出来る
ルールやシステムの総体のことだと考えている。


名古屋のこと
東京に6年、大阪に10年生活した後、名古屋に戻り独立して5年が過ぎた。
小さな住宅などの設計をする傍ら、この5年間のもっぱらの興味の中心は、
長い間傍観していた名古屋をいながらにして客観的に見つめなおす事だった。
大阪での安藤事務所時代には、在籍中に随分たくさんのモノづくりの経験を
させてもらえたが、ただコトづくりについてはほとんど経験できなかった。
そのせいか、自分自身の興味もモノづくりから建築を通したコトづくりへと
シフトしている気がする。もちろん建築をつくったり、あるいは教えたりで
しか、生きてはいけないのだけれども、ただ作るだけではなく、それらを
通して何かコトが動いて欲しいという気持ちが大きくなっている。
そうした中、奇しくも名古屋に戻った年に「名古屋建築会議」が結成され
筆者もそこに加わる事となり、また時を同じくして発刊された芸術批評誌
「REAR」にも加わる事となる。その2つに加え、いくつもの大学から
非常勤講師を請われることで、様々な大学で教授陣や学生との接点も出来た。
本来の建築の設計は縦糸的な仕事であるのに対し、「名古屋建築会議」や
「REAR」での活動、非常勤講師で大学を回ることは逆に横糸的に思える。
名古屋という場所をベースにして縦糸と横糸が織り成して一枚の布が
でき上がるような活動を続けていければと考えている。


C&D vol38・146号に寄稿

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2007年3月3日

都心部の公共空間の変貌  

名古屋テレビ塔とその周辺

武藤 隆/武藤隆建築研究所

久屋大通公園の「名古屋テレビ塔」が、日本初の集約電波鉄塔として、実は東京タワーより4年も早い1954年に開業し、その後のタワーブームの先駆けとなったことや、一昨年には塔として初の国の登録有形文化財に指定されたことはあまり知られていない。
その「名古屋テレビ塔」がリニューアルオープンし、約半年が経った。半世紀前の開業以来、何度か改装はあったものの、その中身は土産物屋と展望台のままだったが、今回は全面的に改装され、展望台のみを有料とし無料ゾーンを拡充してレストランやギャラリーを持つ構成に大きく変わった。以前が観光名所的だったことと比べると、むしろ日常的な都市施設となった感がある。今回の改装は、地上デジタル放送への移行にともないその本来の機能を失うことが明らかになった現在、テレビ塔という名はそのままに新たなランドマークとしての生き残りを賭けてのものであったとも言える。
この問題は名古屋だけに限った話ではなく、終戦直後につくられた全国津々浦々にあるテレビ塔にも、同様な問題が押し寄せてきている。東京ではつい先頃「第二東京タワー」の建設地が墨田区押上地区に決定され、その高さが世界一となる予定だったり、デザイン監修にも安藤忠雄氏らを起用したりと、話題には事欠かず、超高層の林立に「東京タワー」のイメージも対抗しようとしているようにも見える。一方大阪では、「通天閣」が展望台に広告塔という実をとった大阪らしい塔である上に、ミナミのランドマークとして人々の心の拠り所となってきた。「通天閣」にはもともとテレビの電波塔としての機能はないため,地上デジタル放送における混乱も、どこ吹く風というのも大阪らしい。こうした東京や大阪の塔に対し、名古屋では新たなランドマークとしてどのように生き残りを賭けているのかが見えにくい。愛知万博会場跡近くの瀬戸にデジタル放送用の電波塔「瀬戸デジタルタワー」がすでに設置されているものの展望台としての機能はまったくなく、「名古屋テレビ塔」とは何の連携もない。
そのような状況の中で、唯一救われるのは改装された塔の足下のタワースクエアである。そこには6つの店舗が常設され、久屋大通公園と一体となった空間で飲食を楽しむことができるのだが、このような空間は他の都市公園では実現された例はない。100M道路を隔てて隣接する「オアシス21」が都市公園扱いにもかかわらず飲食営業を許可された最初の事例であるが、それに引き続きの好事例であることは間違いなく、開業年や文化財指定に続く日本初の公園のあり方とも言えるだろう。このことは名古屋にしかない都市の魅力になる可能性を秘めている。


建築ジャーナル・3月号に寄稿

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2006年5月2日

都心部の公共空間の変貌


名古屋駅前地区

武藤 隆/武藤隆建築研究所


 好調に推移している東海圏の地域経済や昨年の中部国際空港の開港、愛知万博の開催を背景に、名古屋が大きく変わろうとしている。

 名古屋のまちの顔とも言うべき名古屋駅前地区は、すでにランドマークともなっているJRセントラルタワーズが立つが、現在このエリアに、新たに3棟の超高層ビルが建設中であり、2008年には5本の超高層がこのエリアに出現する事になる。すでにその内の4本は郊外からでも遠望できるようになってきた。かなり密集したエリアに立つだけに、個々の超高層というよりも、群としての印象を強く受ける。
 建設中の超高層ビルは、北から名古屋ルーセントタワー、ミッドランドスクエア、モード学園スパイラルタワーズの3棟である。興味深い事に、これらの設計者は3棟すべて同じ(日建設計)であるが、5本並んだ状態でのランドマークとしてのあり方や、広域的な範囲からの景観など、公共空間に対する提案が考えられているとは思えない状態に見える。もちろん発注者が異なるため、それぞれが個性的でランドマークとしてのデザインをするのは当然としても、せっかく一社で設計する機会があったのであれば、もう少し名古屋全体のまちの顔をつくるという横断的な意識があっても良かったのではないだろうか。
 一方、このエリアにはもともとアリの巣のように広がる地下街が発達していたが、これらの超高層を結ぶ地下ネットワークも同時にできることになるだろう。名古屋人の気質とも言われる地下にもぐる行動パターンをさらに助長することになるのか、新しく作られる建物が魅力的ならばその地上空間に人があふれる事になるのか、未だ予想はつかないが、3棟の建物の性格からして前者になるような気がしてならない。
 この名古屋駅前地区に限らず、もう一方のまちの顔とも言うべき栄地区も同様で、2002年に完成したオアシス21も地下街と立体的に結びつけ、今まで隔離されていた地下街の人の動きを、一気に地上に押し上げる起爆剤になるかと思われたが、単体としてみれば魅力ある都市空間にはなっているものの、
結果的にはますます地下の移動を快適にしただけに留まっている。
 名古屋の都市空間は、100M道路をはじめ、今までややスケールオーバーしていたものが、ようやく時代と人になじんできているのは事実であり、東京や大阪などの、他の都市にはない、ここでしか出来ない都市空間の魅力と可能性というものが、名古屋にはまだまだ秘められていると思われるが、せっかくの好機をまた逃したように思えてならない。

建築ジャーナル・5月号に寄稿


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2005年12月29日

都市の中のオープンな大学とは

椙山女学園大学生活科学部棟

武藤 隆/武藤隆建築研究所

 名古屋のお嬢様大学の一つ、椙山女学園大学生活科学部棟の新棟が2005年夏竣工した。丘の上にそびえ建つガラス張りのそれは、使用者は御嶽山をも望める絶景を楽しめるが、周辺住民にとっては圧迫感がある。都市の中のキャンパスのあり方を考える。


 椙山女学園大学の星が丘キャンパスは、比較的平坦な地下鉄の駅からショッピングモール「星が丘テラス」を経て、大学方面にかけて緩やかに登っていく斜面地に、道路をまたいで位置するのが特徴だろう。4つの学部が様々な年代に建てられた、様々なデザインの建物で構成されており、斜面地の中腹に位置することも相まって、ややもすると、まとまったキャンパス計画がないまま、順次拡張されていった印象を受ける。
 そのキャンパスの最深部に完成したこの建物は、斜面地の最頂部に位置し、高層であることも手伝って遠方からでも一際目立つ。キャンパス事情を知らない外部の人にとってはどこからアプローチするのか分かりづらいと感じるかもしれないが、建築単体としては、大学のイメージそのままの明るくオープンで清楚な印象を受ける。
 エントランス部分にあるプラザは、室内のカフェと連続し、訪れた人に開放的な印象を与えているものの、その下部には講義室を斜面に半ば埋もれた状態で内包しているため、一度上ってきた坂をまた下らざるを得ず、学生にはすこぶる評判が悪い様子だ。だが、その昇り降りの苦労を厭わないほど、エントランスから講義室を上下に緩やかに結ぶ、プラザに面したキャンパスモールは、校舎のパブリックスペースとしては、心地よい空間に仕上がっている。
 上層部に位置する食品栄養学科と生活環境デザイン学科の教授室や実習室は、中廊下の形式を残しながらも、廊下をはさんだ南北のゾーンでかなり性格を異にし、隣接する東山公園の緑を望む南側から、開放的な北側のプラザに向かって、空間のグラデーションが緩やかに変化している部分に好感が持てる。そこでは、その変化の中で、先生と学生の間の距離感を、状況に応じて自由にアレンジできるような工夫もなされており、従来のような敷居の高いものから、オープンなものまで様々なあり方が見て取れる。
 特筆すべきは5階北側の設計制作室であろう。テムズ川に面したノーマンフォスターのアトリエを彷彿とさせるこの空間は、主に学部4年生のための空間で卒業制作や卒業研究の場として使用されており、名古屋東部丘陵を望む大開口を持つこの吹抜空間は圧巻だ。ここで制作に関わることのできた学生が、今後社会に出た後、いかに活躍していくかが、この空間の質の是非を問う答えになるのかもしれない。
 叶わぬことだが、もしこの建物が開放的な星が丘テラスに隣接し、女子大という管理上の制約が少なく、本当の意味での市民に開かれたオープンな建物であったなら、どんなに今の魅力を増幅できたことだろう。夕暮れ時の帰路、大部分が暗がりになってしまうキャンパスの両端に位置する、透明感あふれ発光する2つの建物を眺め見て、開かれたあるいはオープンな大学とは何かと考えずにはいられなかった。

建築ジャーナル・1月号に寄稿

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2005年10月5日

ホストとゲストが大衆意識に与えたもの


武藤 隆/武藤隆建築研究所

愛知万博の会場などで様々な展示やイベントが行われた訳だが、ホストとゲストがそれぞれの視点で大衆意識に何をどう伝えたかったのか、そして何が伝わったのかを捉え直してみたい。

ゲストが提示する万博の意味
ゲストは言うまでもなく、諸外国を指す。先進国と呼ばれる国々は、観光案内などはほとんどなく、おおむね人間と地球環境問題のこれからのあり方について自国の考えを示しているものの、積極的にあり方を提示していた「フランス」や「ドイツ」、「イギリス」に比べ、お付き合い程度のスタンスだった「アメリカ」との差が歴然としているあたりが欧米の国際情勢が垣間見えて興味深い。
 最も数多い分類と思われるのが、自然環境を軸に自国の紹介に終始する国々だろう。「スペイン」や「イタリア」、「旧東欧諸国」、「北欧」、「マレーシア」や「シンガポール」などは好感が持てた。また、次回の上海万博を携えて参加していた「中国」は、内容はともかく意気込みだけは並々ならぬものを感じさせた。一方で小国でありながらも富裕国である「カタール」や「ブルネイ」などは、何かを伝えようという意識すらないものだった。
 「アジア」、「アフリカ圏」の発展途上国と呼ばれる国々は、テーマそっちのけで、自国への観光誘致や物産展のような雰囲気であったが、中には「イエメン」のように一切日本人スタッフを置かず、サインやパビリオンの一部さえも手づくりのような国や、死海の水だけが唯一の展示物ともいえる「ヨルダン」のような国もあり、それはそれで万国博覧会の原型を見るようで興味深い。
 また、「国連」や「赤十字」などの国際機関は押しなべてスタンスは非常に高尚なものがあり、ある意味ホストよりもホストらしい出展内容だったといえる。
 これらのゲストが来場者である一般大衆や日本のメディアに対して、何を伝えたかったのか。その国の経済状況、国際社会への関与の度合い、今回の万博のテーマ「自然の叡智」に対する姿勢。各国はそれぞれ自国の主義主張で望んでいるのだが、そのスタンスが普遍的な万博に対する態度の違いによって、分かりやすい形で露呈していた。逆説的ではあるがその状態を総覧できることだけが、唯一の万国博覧会としての意味なのかもしれない。

主張を放棄した本来のホスト
一方、ホストとしての立場はまず「日本国」、「愛知県」、「名古屋市」が挙げられる。果たして、この3者は本当に来場者「大衆」に対して、何らかの示唆をホストとして与えたのだろうか、あるいは与えようと思っていたのだろうか、はなはだ疑問である。入場者数や待ち時間で計る人気はあったのかもしれないが、「長久手日本館」や「長久手愛知県館」、名古屋市の「大地の塔」は、地球環境問題の提起、啓蒙の面からしても、エンターテイメントとしてみても、免罪符や言い訳のような展示内容でしかなかったと思える。
 「瀬戸会場」についても当初から環境問題で揺れていたが、結局、規模は縮小されたもののどうしてもそこを使いたかった主催者側の意地が勝り、本来求められていた、これから人間が地球環境とどう折り合いをつけながらいきていくかということの実験場にはならなかった。
「長久手愛知県館」にいたっては、ただでさえ子どもだましのような寸劇の上に、環境のために風車を使いエネルギーを大事にしようといいつつも、壁に付けられたたくさんの風車を回すためにファンで風を送って回しているところなど、本末転倒もはなはだしいが、関係者は誰も疑問に思わなかったのだろうか。
 免罪符といえば、今回会場の内外で見られた市民参加というスタンスもそのひとつだ
ろう。「市民パビリオン」に「地球市民村」、清掃や案内のボランティアなど、ホストでもなくゲストでもない、主役という言葉さえ使われていたこの市民参加という立場は、<市民>という実体のない大衆イメージを持ち上げることで、ある意味で今回のホストが本来の役割を放棄したことの象徴に思える。

大衆をリードした企業館
最もスタンスが見えにくかったのが参加企業であるかもしれない。ある意味ホストかもしれないが、ゲストのようなフリをしているところも多く、そのスタンスの違いが企業理念や業界意識、大衆意識に対する違いのようで、興味深い。
 「トヨタ」や「JR東海」はさすがにホスト企業としての自負と責任を十分に果たす内容だったが、他の企業は自社の技術紹介とエンターテイメントという20世紀型万博の延長である上に、広告代理店を仲介としながら、人気や行列という点でのみ、いかに大衆を引き付けられるかということにしか興味がないように思えた。
 電気事業連合会の「ワンダーサーカス電力館」に至っては、公募された子どもの絵を張ったことだけが主張される外観、新しい提案や技術は何もないつくりものの立体物だけを昔の遊園地にあるような乗り物で見て回るというだけの時代錯誤な展示内容と、パビリオンの内外ともに、寡占業界特有の胡坐を欠いたような、これくらいのものでいいんじゃないの、というような大衆を見下したかのような意識が露呈し、思想も示唆も欠落していた。
 「ワンダーサーカス電力館」がそのような形と内容でできてしまったこと、それに関係者が何の疑問も抱かず、それを並んで、見て、楽しんでいる大衆がいるという事実は、図らずも大衆意識についての受け手と投げ手のギャップと同一性を、最も表現したパビリオンであり、愛知万博のあり方と現在の日本の大衆意識のつくられ方を象徴しているように思える。

建築ジャーナル・10月号に寄稿


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2005年10月5日

「名古屋ブーム」から読む大衆意識と愛知万博


武藤 隆/武藤隆建築研究所

この稿を書いている9月16日、愛知万博の総入場者数は2000万人を超えた。協会や県などの自己評価は入場者数がモノを言う。きっと彼らは言うだろう。「目標よりもたくさん人が来たのだから大成功だった」と。そして、そこに何があり、何が行われ、何が残されたかは、恐らく問われないままだろう。
 それにしてもなぜ約2,000万人もの人たちは万博会場を訪れたのだろうか。
 そこには協会や県はもちろんのこと、広告代理店や商社などによる相当意図的な大衆意識へのリードがあったように思われる。好調な名古屋経済に牽引された形の「名古屋ブーム」も、本物なのか、愛知万博に抱き合わせで捏造されたものなのかは、これからの名古屋を見つめて判断するしかない。また自己の価値観を喪失したまま、つくり出された世論や世相、社会現象を盲目的に信じて、ついて行ってしまう大衆意識が、前者の意図でつくられていることも事実だろう。
 大阪万博のときは「バンパク」を見に行くのが目的だという人が多かったようだが、35年経ち、海外旅行も自由にでき、インターネットでさまざまな情報が手に入る現在でさえも、盲目的に大衆意識がある方向に向けば、江戸時代の「おかげ参り」や「ええじゃないか」騒動のような動員力があったということか。
 開幕当初、随分話題になったのが、「サツキとメイの家」であるが、ここしばらくは話題にも出ない。確かにトトロは環境問題を意識させるかもしれないが、なぜあれが会場計画との脈略もなく愛知万博の会場に建つ必要があったのかは、全然理解できない。思うにあれは全国的に愛知万博を認知させるための会場内に置かれた広告塔なのではなかっただろうか。
 同様に不可解なのが名古屋市内にある「ささしまサテライト会場」である。ポケモンランド、遊園地、恐竜博、ライブハウスなどが並ぶ、単なる娯楽施設である。お台場にあってもおかしくないものだ。それがサテライト会場を名乗るだけで、愛知万博の一部になってしまう。
 本来のホストシティである名古屋市が、市内に会場がないためつくり上げたと言われているが、娯楽や集客を目的とするにしても、もう少しマシなものをつくるべきだった。時間がなくてあそこだけを見て万博に行ったという記憶が残る子どもたちは、大勢いるはずなのだから。
 最も不可解なのは「サツキとメイの家」にせよ、「ささしまサテライト会場」にせよ、何かおかしいという声が大衆からもマスコミからも一切出ていないということだ。
 あのような形と内容でできてしまったこと、訪れた人たちは、それらを何も疑わずに、並んで、見て、楽しんでいることが、いかに大衆意識が見事に「リード」されていたのかを表しているように思えてならないし、これらのことがこの愛知万博の意味を図らずとも象徴しているように思えてならない。

建築ジャーナル・10月号に寄稿


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2005年7月1日

希望にすら格差が生じる現代に

武藤隆/武藤隆建築研究所

タイトル・「希望格差社会」 
著者・山田昌弘
発行・筑摩書房

 ちょうどこの本を読み始めた頃に、丹下健三先生の訃報を聞いた。
 日本中が希望にあふれていて、誰もが明るい将来を思い描くことに疑問を抱かなかった時代の象徴であった建築家といってもよいだろう。その丹下先生の訃報は、まさに希望を持てる社会の終焉をも象徴しているかのように思えた。
 「パラサイトシングル」という言葉を生み出した著者の次なる造語が「希望格差社会」である。社会が不安定化していき、勝ち組と負け組の格差が拡大していく中、ついには希望にすら格差が生じ、将来に希望が持てる人と、将来に絶望せざるを得ない人との分裂の様を説く。
 あちこちの大学で非常勤講師をしていることもあり、学生との接点が増えてきているのだが、最近の学生は、自分たちが学生だったころに比べて、随分と雰囲気が変わってきていると感じていた。将来に対しての希望がない、やりたいことが見つからない、何をしていいかわからない、そんな学生が増えている気がしているが、どうもその答えがこの本の中にあるような気がしている。
 われわれ建築家の仕事は、少なくとも第三者に希望を与える職能である。希望を持つことにすら格差ができてしまう社会で、われわれ建築家はどのように希望を持ち、あるいは持ってもらえるモノづくりやコトづくりができるのだろうか。
もちろんその問いに対する答えは、この本の中にはない。

建築ジャーナル・7月号に寄稿



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2005年5月11日

「名古屋建築会議」と「どんぐりひろばプロジェクト」


武藤 隆/武藤隆建築研究所

■名古屋建築会議とは
 名古屋建築会議(NAC:Nagoya Architectural Conference)は、中部国際空港の開港や愛知万博などを目前に控えた2002年の冬に、大プロジェクトの話題だけが先行しながらも、閉塞的な名古屋の建築状況に疑問を抱いた数人の呼びかけがきっかけとなり、名古屋で活動する建築家、批評家、研究者、教員、行政職員、アーティスト、学生等が、名古屋に関して自由に語り合えて、集まれる「場」として始められた。
 そこで共有されているのは「ポテンシャルを発揮しきれていない名古屋の現状を把握し、それに対してアクションを起こすこと。」や「建築・町並み・街づくりを通じて名古屋を面白くする(活性化する)こと。」といった意識であり、地域の人々に対し、さらには全国へ向けて、名古屋という都市に関する情報や提案を発信し、名古屋の建築や都市景観への意識を高め、議論の契機となるような活動を目指している。

■これまでの活動
 現在までの活動は、結果的にリサーチ型と提案型に二分する事が出来る。
リサーチ型の活動は、「大名古屋論」と称し、あいまいな名古屋の都市像をフィールドワークによって明らかにして行く試みを、「ダンボールハウス」「パラサイトアーキてくちゃ」「ヴォイド・シティ」「アングラ・シティ」など、名古屋の都市を構成するものをテーマとして取り上げて、雑誌「10+1」(INAX出版)31−34、36号で連載した。
 一方、提案型の活動としては「大名古屋論」のテーマに対して「パラサイト」という方法で作品を制作する展覧会「大名古屋展」を、愛知芸術文化センターを会場とし、2003年冬に開催した。
 また、都市の中に遍在するポテンシャルを生かし切れていない場所に着目し、そこに依頼されてもいないのに「勝手に」提案をしてしまう「勝手にプロジェクト」と称した活動もある。一般市民や土地の持ち主・管理者、行政などにプレゼンテーションすることで、現在の都市のあり方を考える契機とし、「円頓寺商店街活性化プロジェクト」、「愛知万博パラサイトプロジェクト」などが現在進行中である。
 2004年からは、横のつながりが極めて少ない名古屋圏の大学や学生に刺激を与えようという趣旨から、ゲスト審査員を招いての東海地区の卒業設計合同展覧会・講評会を主催している。
その他、名古屋を活性化するために、コンペ、講演会、シンポジウム、展覧会、雑誌掲載など様々な活動を展開中である。

■どんぐりひろばプロジェクト
 現在、名古屋建築会議が企画している「どんぐりひろばプロジェクト」は、愛知万博を契機に、名古屋市内に点在するどんぐりひろばを対象に、リサーチ型と提案型の活動を同時に行う「勝手にプロジェクト」のひとつである。

■どんぐりひろばとは
 どんぐりひろばとは、幼児などの遊び場を確保するために、地域住民の要求により、名古屋市が設置し住民が管理・運営しているひろばである。1967年に市が独自に施行した制度で、興味深いことに、市では公園課や緑地課などの土木系ではなく、児童課という福祉系が管轄しており都市公園法の公園とは異なったものである。もとは私有地や公有地であったものが、所有者に事情がある場合に限り、期限を定めて開放されており、その間固定資産税・都市計画税などは免除されるしくみになっている。時代とともに場所や数は変化し続け、現在その総数は497ヶ所、総面積は146,350uにもなる。現状は都心部と市周縁部にはほとんど存在せず、ドーナツ状に分布しているのが特徴である。使われ方の実態は、少子高齢化に伴い子供たちが遊ぶ事はほとんどなく、老人が日向ぼっこをしているか、放置され寂れたものになっている場所が多い。

■どんぐりひろばのリサーチ
 我々は、このどんぐりひろばが名古屋市独自の制度であること、現在の名古屋の都市や建築状況を端的に表していること、ともすれば名古屋人の価値観や気質までも表しているのではないかという仮定のもと、普段誰も気に留めない場所が、とてつもない可能性を持っている場所として捉えなおすことが出来るのではないかという思いに駆られ、市内16区の各所に眠る497ヶ所すべてのどんぐりひろばをリサーチすることから開始した。
 現在その分類を整理中ではあるが、形状・広さ・地形といった基本形状、遊具や花壇などの設置物、使われ方、ロケーション、時間の経過などの違いによって、様々な状態のどんぐりひろばが存在することがわかってきた。

■どんぐりひろばへの提案
 これらのリサーチをもとに、どんぐりひろばが地域社会の再構成のきっかけともなるような提案を、以下の4つの活動として広域的に行う予定である。
 1つ目は、プロジェクト全体のメイン会場を設定し、全体の概要を説明する案内パネルを展示するとともに、プロジェクトが実施されているどんぐりひろばの分布を示す地図を配布する。
 2つ目は、重点的な提案を行うどんぐりひろぱを、複数ヶ所設定し、アーティストやメンバーらが現地で実際にインスタレーションなどの展示を行う。作品はそれぞれの地域の生活に密着したものとし、子供や老人など地域の人々が作品に触れたり、この場を利用したりすることによって、どんぐりひろばの存在を改めて考え直すきっかけとなればと考えている。この場所は、名古屋市内の主要な観光地、名所・旧跡や区が設定している散策ルート、地下鉄、バス路線と絡みながら、大きなループとなるように計画・配置する。
 3つ目は、どんぐりひろばに対する様々な提案や作品を屋内展示会場にて展示する。提案は、制度そのものを問い直すもの、対象を幼児だけでなく子どもから老人までとするもの、空間的や用途的な提案、作品としての提案など、多岐にわたる予定である。
その中のひとつに「どんぐりひろば緑化計画」があるので紹介したい。
 万博開催決定後、オオタカや環境問題などでの紆余曲折があり、現在の会場計画に落ち着いたのは広く知られるところだが、その瀬戸会場の面積に匹敵する空地が名古屋市内にあり、ほぼ放置されていると言ったら驚きだろうか?何も工場跡地や再開発用地というわけではなく、どんぐりひろばがそれである。日常的に使われることが少なく、地域の中で忘れ去られた貴重な空地を緑化することで再生する。つくらなくても良かったかも知れない場所につくられ、万博会場として使われる瀬戸会場と、何かをつくろうとしないことで結果的につくられ、万博が行われていても一切使われないどんぐりひろば。この2つの15haの「自然」を比較することで、つくる事とつかう事の意味を問いかける提案である。
 4つ目は、上記のプロジェクトを総覧できる地図及びプロジェクトの主旨を説明するパンフレットを作成する。これはまた、市内の主要な観光地や散歩ルー卜などを包含したルートでもあり、どんぐりひろぱを巡回できるものとして、万博来訪者が会場だけではなく、名古屋市内を楽しめることをも意図している。

 このプロジェクトは、万博期間中のイベントとして終わるのではなく、将来的に維持・継続できる活動として、どんぐりひろばという場所の使い方や名古屋市独自の制度の改変をも含めた提案をこの活動を通して行って行きたいと考えている。


近代建築・5月号に寄稿

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2003年1月17日

建築と料理


○建築という料理

何を食べるか迷うほど、世の中には、いろいろな料理が氾濫している。
食の三要素は、栄養、安全、美味しさといわれているが、
果たしてあなたはそれを毎日気にしているだろうか。
むしろ、価格、時間、手軽さの三要素の方を気にしていないだろうか。
それでも食事は、1日3回食べれば、
一週間で、21回も選ぶチャンスがあるので、
朝はマックで、昼は吉牛、夜は残業でコンビニ弁当を食べた日があっても、
翌朝はちゃんとしたご飯と味噌汁で、昼はイタ飯のランチにして、
夜は気の利いた小料理屋で、お酒も交えてたらふく食べるなんてことができる。
衣食住で言えば、「衣」も同じようなもので、選択のチャンスは日々巡ってくる。

では、「住」はどうだろうか。
住宅は、普通は一生に1回、どんなに多くても選べるのは数回が関の山。
料理を選ぶときの栄養、安全、美味しさにあたるのが、
建築では機能、安全、快適さ、だろう。
さきほど、食事については価格、時間、手軽さを、
人々が求めるようになったと書いたが、
住宅についても同じようなことが言えるように思える。
ファーストフードやコンビニ弁当のような住宅…とまでは言いすぎだが、
ファミリーレストラン程度の住宅で満足してしまっていないだろうか。
なにも割烹や料亭、高級フランス料理や満漢全席がいいというのではなくて、
世の中には、小さくても、栄養、安全、美味しさはもちろんのこと、
それでいて価格、時間、手軽さも満たしてくれる、路地裏にある、
誰にも教えたくない隠れ家的小料理屋のような、そんな建築もあるのだ。

もう一度、今住んでいる家、これから住もうとしている家について
考えてみてはどうだろうか。
「建築のことは、よくわからないので」とよく言われるが、
建築と料理は、実は非常によく似ている。
一生の内に一種類だけしか料理が食べられないとしたら、
「何を食べますか?」そう考えてみたらどうだろう。
その料理こそがきっとあなたが住むべき家なのだから。


●料理人と建築家
建築の設計は、料理の様。
時間・機能・コスト・要望にあわせて提供するもの 
なにかを食べたい人にどんな料理を出すかだ。
そこで料理人は考える。
メニューはどうするか、材料はどうするか、料理法はどうするか、
器はどうするか、どこで食べてもらうか、それが相手の予算に合うか、
そして、それで満足してもらえるか。
両者の究極の目的は食べる人、住む人に喜んでもらうことだ。
だが、人によっては、あるいは儲かるかとも考える。


●一杯のコーヒー 
たとえば、あなたがある人にコーヒーを出すとしよう。
缶コーヒー、インスタントコーヒー、
ドリップコーヒーでも、自分で淹れるものから、
街の喫茶店、スタバにドトールなど、
ロケーションまで考えたら、実に様々な選択肢がある。
さらに、缶のまま出すのか、どんなコーヒーカップに入れるのか、
ソーサーは付けるのかなどなど、器だけでもいろいろあり、
今あなたがどこにいて、どれをどう選ぶかは、
相手の価値観に対しての合理性によることになる。
相手に対して、どういうコーヒーを出すかは、すべてにこだわりのある人、
お金の無い人、時間の無い人、興味の無い人、
それぞれの価値観は違うし、選ぶコーヒーも違うはず。

一杯のコーヒーのホスピタリティーでも、こんなに考えてしまうのだから、
本当は、料理というものは、とんでもない量の
ホスピタリティーの集合であるはずなのだ。

建築は、さらにホスピタリティーが求められて然るべきなのに、
現実はそうとは言い切れない。
例えばスタバのソファに座ったのに、缶コーヒーを出されてしまったとしよう。
決して缶コーヒーを否定しているわけではない。
缶コーヒーがとっても美味しいと思えるシチュエーションは、よくあることだ。
それはそれでベストのホスピタリティーのはずなのだ。
問題なのは、スタバのソファに座らせたというホスピタリティーで、
いろいろな価値観のバランスをあいまいにしたまま、
缶コーヒーでごまかしているシチュエーションのことだ。
これは例え話なので、誰でもスタバのソファに座ったのにも関わらず、
缶コーヒーを出されてしまったら、怒るに違いない。
でもそんなちぐはぐなホスピタリティーやアンバランスなシチュエーションが、
建築や住宅の世界では、横行しているのであり、
心無い人や専門知識がない人は、なかなかそれに気がつかないのである。


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2003年1月17日

INFORMATION

名称      武藤隆建築研究所
所在地     〒460−0002
        愛知県名古屋市中区丸の内3−20−5−201
TEL/FAX  052−961−2699
HP        http://www.tamuto.com/
E-MAIL    tamuto@flamenco.plala.or.jp
代表者     武藤 隆
創立       2003年1月17日


営業に関する登録および免許
 一級建築士事務所  愛知県知事登録 (い−14)第10335号
 一級建築士       大臣登録           第286142号

主たる業務内容
建築設計及び工事監理業務
建築に関するPM業務
建築計画及び都市計画の基本構想及びコンサルティング業務
インテリアの設計及び工事監理業務
家具、什器、工業デザインの設計監理業務
インテリアコーディネート業務、アートワークコーディネート業務
各種デザイン及び芸術活動に関するプロデュース業務
建築、都市、美術に関する研究活動
建築・美術関連の出版業務
建築・美術関連の展覧会、放送、イベントの企画・運営業務


投稿者 muto : 05:46 | INFORMATION | - | -

2002年11月11日

都心部の公共空間の変貌   

久屋大通公園と栄公園「オアシス21」

東京に6年、大阪に10年生活した後、変貌を遂げつつある名古屋に戻
ってきた。
名古屋の都心部の都市構造は、江戸期の名古屋城築城時の碁盤割の街区
と、100メートル道路に代表される戦後の土地区画整理による街区と
が重層しているのが特徴である。100メートル道路と呼ばれる久屋大
通は、当初から公園道路として計画されてはいたが、その広さのあまり
両側の行き来を断絶してしまう結果となり、広い道路と地上の魅力不足
から、アリの巣のように広がる地下街へと人の賑わいを追いやっていた。
インフラが先行し、文化的に不毛と揶揄されながら、これまで地上で見
られる賑わいは、文化・商業施設など、極限られた点的なものでしかなか
った。
ここに来てそうした人の動きに変化が見られる現象がある。
この10月にオープンした栄公園「オアシス21」は、都市計画法上は
公園でありながら、大規模な店舗と、バスターミナルをその地下に内包
し、地下から地上2階まで一体となった広場や、屋上庭園により久屋大
通公園と、愛知芸術文化センターを緩やかに結ぶそのあり方は、そのデ
ザインはさておき、今後の都心部の公園のありかたに一石を投じるもの
と言える。17年前の愛知芸術文化センターのコンペ時から計画されて
いたこの公園がようやく完成したことによって、久屋大通公園、愛知芸
術文化センター、地下街とを立体的に結びつけ、今まで隔離されていた
地下街の人の動きを、一気に地上に押し上げる起爆剤になると思われる。
南北二キロにわたる久屋大通公園の南側には、他都市の例にもれず、
パルコやロフト、オペークなどのファッションビル、最近では海外ブランド
ショップの路面店が次々に進出しているが、そうした動きと連動するよう
に、北側のノースパークと呼ばれるエリアでは、さらに公園と一体感を感
じることができるオープンカフェや、輸入家具のショールーム、地元大手
化粧品メーカーのショールームや美容室を低層部に持つ本社ビルなど、
透明感のあるファサードを持つ建物などが増えつつあり、点的でしかな
かった賑わいが、久屋大通公園を中心として、線的・面的に広がり始め
ている。
パリのシャンゼリゼ通りが、全世界の中から唯一、姉妹友好エリアとし
て指名したのが、東京の銀座通りでもなく、大阪の御堂筋でもなく、こ
の久屋大通りである事はあまり知られていないが、ようやくその先見性
が実を結んできたのかも知れない。
栄公園「オアシス21」の久屋大通公園を挟んだ正面には、青木淳氏の
LOUIS VUITTON NAGOYAがあり、すでにランドマー
ク的存在になっているのだが、残念なのは、このような人を惹きつける
魅力ある建築が、充実した公共空間に対して、まだまだ乏しいことであ
ろうか…。

2000年にオープンしたJRセントラルタワーズや、この栄公園のプ
ロジェクトなどを見ると、今までややスケールオーバーしていた、名古
屋の都市空間が、ようやく時代と人になじんできた様に思え(時代と人
がなじんだのかも知れないが)、今後に控える、中部新国際空港や20
05年の万博、名古屋駅周辺の複数の巨大再開発など、ビッグプロジェ
クトによるインパクトも含めて、東京や大阪などの、他の都市にはない、
ここでしか出来ない都市空間の魅力と可能性というものが、名古屋には
まだまだ秘められていると思われる。

GA JAPAN 59 列島リポートに寄稿



投稿者 muto : 11:11 | 原稿 | コメント (0) | トラックバック (0)

2002年5月1日

PROFILE

武藤 隆  TAKASHI MUTO


    67年 愛知県名古屋市生まれ
    90年 東京藝術大学美術学部建築科卒業
    90年 卒業制作最優秀賞(東京藝術大学資料館買上)
    92年 東京藝術大学大学院美術研究科建築専攻修士課程修了
    92年 修了制作最優秀賞(サロン・ド・プランタン賞)
92〜02年 安藤忠雄建築研究所
    02年 武藤隆建築研究所設立 現在に至る

    03年〜椙山女学園大学生活科学部生活環境デザイン学科非常勤講師
04〜06年  名古屋大学工学部社会環境工学科建築学コース非常勤講師
    04年〜大同工業大学工学部建築学科非常勤講師
04〜06年  トライデントデザイン専門学校建築インテリア学科非常勤講師
    05年〜名古屋市立大学芸術工学部都市環境デザイン学科非常勤講師
    05年〜三重大学工学部建築学科非常勤講師
    05年〜京都造形芸術大学通信教育部建築デザインコース非常勤講師
    05年〜鳥取環境大学環境情報学部環境デザイン学科非常勤講師
    06年〜中部大学工学部建築学科非常勤講師


         名古屋建築会議(NAC)メンバー
         現代芸術批評誌「REAR」編集・制作

投稿者 muto : 23:59 | PROFILE | - | -

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