どこかの他人。
October 04 [Thu], 2007, 11:49
今週のおさらい
昨日で無事に終了した北田講義をできる限り整理しておきましょう(完了しました)。
第2日目(4限退室のため途中まで)
社会構築主義(social constructionism)の登場は、パーソンズ・マートンらに代表される機能主義、フラーやマイヤーズらの「価値葛藤学派」が内包する、ある種の本質主義的側面(客観的な「社会問題」の同定、共同主観的「規範」「価値」の同定)への批判であった。すなわち、構築主義の着眼点は「社会問題とされる状態」ではなく、「社会問題化されるクレイム申し立て活動」にある。
今回、北田暁大は特に構築主義の「歴史」記述の限界性を考察していく。構築主義とは、ある概念の歴史を叙述していくことである。まさに構築主義の常套句である「〜は近代になって誕生した」は、歴史の記述にほかならないだろう(たとえば、アリエスの『子どもの誕生』やホブズボウムの『創られた伝統』、アンダーソンの『想像の共同体』における近代的な「国民国家(nation state)」の誕生などがそれであろう)。
北田に従えば、現在までの歴史的構築主義を二つの立場から分類することができる。一つの立場は上野千鶴子に代表される「政治的構築主義(political constructionism)」。そして、もう一つは中河伸俊に代表される「方法論的構築主義(methodological constructionism)」である。最も大雑把な形で両者の構築主義に対するスタンスを記述すれば、前者は「構築主義=変革を求める実践」であり、後者は「構築主義=経験的研究のための指針」である。一見すると大きくスタンスの異なる両者であるが、北田は両者に共通の特徴を括りだし、構築主義全般が下敷きとしている思想を突き詰めて考察していく。そして、その共通項とは「<認識の暴力>の回避」である。なるほど、反本質主義・脱自然化を旨とする構築主義にとっては当然の共通項である。<認識の暴力>を回避するために、両者はあるカテゴリーが当事者レベルで構成されていくプロセスを検討する内在主義的立場を採る。しかし、この「<認識の暴力>の回避」を徹底しようとするならば、
@カテゴリーの定義権を徹底して当事者に譲り渡すべしという内在主義
A第三者的(分析者的)な立場からカテゴリー定義に関与してはならないという外在主義
という2原則に従わなければならない。構築主義者は「社会に内在することにおいて外在せよ」という困難な格率に従わざるを得なくなるのである。
ここで、北田はアーサー・ダントの「理想的編年史(Ideal Chronicle)」という思考実験を導入することにより、究極的な内在主義も外在主義も不可能であることを立証しようと試みる。以下は、その思考実験である。
今ここに理想的編年史家が存在すると仮定しよう。彼は、他人の心やあらゆる出来事をすべて逃すことなく察知でき、しかも察知と同時に瞬間的に書きとめていくことができる人物である。彼は、出来事が生起した瞬間に記述が行えるという意味において、究極的な内在主義者であるといえる。さて、そんな彼にとってはいかなる歴史的記述も可能であろうか。答えは「ノー」である。理想の編年史家は実際には、その記述に大きな制約を受けている。ここに極めて簡単な2つの記述がある。
a. 夏目金之介は、1900年にロンドンへ旅立った
b. 『草枕』の著者は、1900年にロンドンへ旅立った
言うまでもなく、a=bの書き換えは可能である(夏目金之介=『草枕』の著者)。だが、ダントの思考実験の中の理想的編年史家は、aの記述を行うことができても、bの記述を行うことはできない。なぜなら、『草枕』が発表されたのは1906年のことだからだ。このように、述語が時間的に先行する記述を理想的編年史家が行うことは不可能なのである。彼は「起こったときに、起こったように」書き留めることしかできない。ダントはbのような「2つの時間的に離れた出来事を指示し、そのうちの初期の出来事を記述するもの」を「物語文」と呼んでいる。
さて、最初の@カテゴリーに関する内在主義とA分析者の立場に関する外在主義に話を戻そう。まずは、@について。構築主義者の分析的叙述を形式化すれば、「○○が通歴史的で本質的なものとして認識されるようになったのは、××以降のことであり、それ以前には○○は当事者カテゴリーとして存在していなかった」となる。これにより、○○を分析者が無時間的に定義してしまう<暴力>は回避できるだろう。しかしここには、「いまだ○○とカテゴリー化されていないX」と「××以降に○○と呼ばれるようになったもの」とが「同一」であるという前提Xが密輸入されおり、「実態」を括弧に入れるという構築主義の公準に違反するような「存在論的ごまかし(ontological gerrymandering)」(以下、OG)が発生している。また、「○○というカテゴリーをいまだ与えられていないXが存在した」は、先のダント的な「物語文」の導入がなければ、歴史記述ができないことになってしまう。つまり、当事者にカテゴリーの定義権を譲渡する内在主義を徹底させれば、歴史的な記述自体が困難になるのである。
次にAについて。分析者の立場に関する外在主義の徹底が不可能であることは、容易に指摘できる。なぜなら、言うまでもなく現在における観察者の信念やイデオロギーが歴史記述の中に介在してきてしまうためである。したがって、徹底した外在主義も困難である。では、これらのアポリアに、政治的構築主義や方法論的構築主義はどのような態度をとったのだろうか。
@Aへの対応において、政治的構築主義はそれらをあっさりと放棄してしまう。彼らは「歴史(物語)は事後的に構築される」という命題を受容し、「外在することによって<認識の暴力>を回避せよ」という命題に修正をかける。つまり、彼らにおいては、観察者=分析者である自らがカテゴリー作りに積極的に参加し、絶えず反省的・再帰的に自分の立場性(positionality)を問い直す態度をとるのである。たとえば彼らは、黒人女性のジェンダーについて考察する「私」は何者であり、いかなる信念や価値観を抱いているのかに細心の注意を払うのである。一見すれば、彼らの態度に問題点はないようにも見える。だが、再帰的に自己省察を繰り返す彼らにも潜在的な問題がある。この自己省察を徹底するならば、「「「「「「「〜を問うている「私」は何者か」と問うている「私」は何者か」と問うている「私」は何者か」………」」」という無限後退が容易に発生してしまうのだ。こうなると、もはや分析は不可能であるため、彼らは仕方なく「これ以上は問わない」という恣意的な境界線を画定して、分析をスタートすることになる。だからこそ、彼らの分析手法には必然的に、背後にある信念や想定を持ち込まざるを得なくなるのである。フェミニズムやポストコロニアリズムなどが政治性を内包しているのはこのためである。
翻って、方法論的構築主義は@Aを簡単に手放しはしない。彼らは、「OG問題」を擬似問題に過ぎないとして退ける立場をとるのである。中河伸俊はOG問題がしばしば、2つの異なる問題を混同していることに着目し、それらを分離することによって解決策を見出していく。仮に、2つの問題をOG1とOG2としておけば、
OG1 「問題」とされる「状態」の存在論上の地位についての想定をその考察に密輸入すること
OG2 社会学的な説明というものは暗黙の線引き作業を免れることはできないということ
に分離される。中河は、OG1が「○○というカテゴリーがいまだ与えられていないX」と「○○というカテゴリー」の歴史的な「同一性」を研究者が判断するのではなく、「当事者」が判断することによって回避可能であると説明する(「当事者」の判断の分析はインタビュー調査や資料調査により行う)。そして、OG2は、そもそも記述であれば社会学に限定されることなく、いかなる場合においても当てはまってしまう形而上学的な問題であるため、不可避であると捉える。
だが果たして、OG1は「歴史的」構築主義でも回避可能なのだろうか。確かに、セクハラや児童虐待などの近過去の事象ならば、当事者からの言質を得ることができるかもしれない。しかし、「近代国家」の誕生などのタイムスパンの長いものにおいては、誰が「当事者」であるか分からなくなってしまうのではないだろうか。また、それ以前に、「歴史」の構築は他の構築とは異なった問題を孕んでいる。
例えば、「美しさ」の構築は可能である。「美しさ」の構築では、「対象Oは美しい」という言説分析を用いる。ここで対象Oは歴史的に、確かに存在している(実在論的)。だが、「美しい」は、歴史的に可変の概念であり、反実在論的である。つまり、「対象Oは美しい」においては、実在論と構築主義的議論に矛盾が発生することなく、並立可能なのである。
一方、「歴史」の構築で同様の手順をとれば、「対象O(出来事)は存在した」となる。先ほどと同じく、「対象O」は確かに存在する実在論であるが、「存在した」は果たして歴史的・文化的に可変であろうか。仮に、可変であるとするならば、もはや認識論的に対象Oを捉えることはできなくなる。まさにここでは、存在の如何を問う存在論が優勢となってくる。歴史の臨界点とされるようなホロコーストや従軍慰安婦などに向き合うには、認識論では限界であり、たちまちその存在の如何が問われざるをえなくなってくる。このように、政治的構築主義も方法論的構築主義も「歴史」を前にすると途端に隘路に陥ってしまうのである。
第3日目
メディア論と構造主義的方法の一つである言説分析との関係を探る。北田はまず、マーシャル・マクルーハンの救済を試みる。マクルーハンのメディア論には、情報の精細度と受け手の参与度によって恣意的に分類した「ホットなメディア/クールなメディア」、テレビが近代に入って失われた共同性を回復し、グローバルな共同性の担保となるという「地球村」など、賛同しかねる未来学的志向が多々ある。そのため、日本に初めて紹介された60年代においては、その扱いは極めてジャーナリスティックなものであった。マクルーハンの批判的再検討が行われるようになるのは、それから約20年後のことである。
また、新たなメディアの登場がわれわれの身体性を拡張していくというマクルーハンの「身体拡張の原理」も、メディアが持つ機能によって社会が変化していくという、ある種の技術決定論であり、本質主義である。それに対して登場したのが、「技術(メディア)に対する構築主義」である。技術に対する構築主義は、新メディアの黎明期に複数の機能や使用方法(可能的様態)があり、歴史的な試行錯誤や言説によって特定の機能や使用方法に限定されていったという。たとえば、映画の鑑賞方法について。映画の黎明期には、「静かに観る」という現在の鑑賞のあり方は一般的ではなかった。観客は弁士の声に耳を傾け、登場人物たちに声援を送りながら映画を鑑賞していた。しかし、1910年代ころから「映画」の定義をめぐる言説が登場し、20〜30年代には知識人の「純粋映画」言説によって、「静かに鑑賞する」というメディア機能が画定されていった。蓮實重彦はメディア第一の誕生をメディア自体の誕生、メディア第二の誕生をメディアの社会的馴致と位置づけて、「メディアは二度誕生する」と言ったが、まさにそれである。
では、マクルーハンの何を再検討するべきなのか。それは、彼の有名なテーゼ「メディアはメッセージである」の分析だ。マクルーハンの意図を汲み取るならば、「メディアはメッセージの単なる通り道(パイプライン)ではなく、メッセージのあり方をメタレベルから指示するメタメッセージを内包している」と書き換えることが可能だろう。どういう意味かは、次の具体例でよく解っていただけるだろう。
いま、就職活動中のあなたは複数の企業から内定をもらったために、希望の就職先以外の企業へ、内定辞退を申し出なければならない。その時、辞退の言葉を電話で伝えるのか、メールで送るのか、手紙で送るのか、直接赴いて伝えるのかによって、たとえ同一の意味内容でも、先方の受け取り方が変わってくる。このとき、メディアそれ自体がメッセージを内包していると言うことができる。
「メディアはメッセージである」はまた、ある表象が持つ意味内容やテクストが特定の社会背景の反映であるとする、素朴な社会反映論を退ける(余談だが、二十世紀学では、この社会反映論的思考方法を2回生向けの講義で学習するのである……)。そもそも、社会反映論は端的に言って退屈なのである。というのも、社会反映論では、意味内容さえ同一であれば、どんなメディアであろうと構わなくなってしまい、映画を分析したり、マンガを分析したり、ドラマを分析したりする際、そのメディアをあえて分析対象として選ぶ根拠が失われてしまうためである。
さてそれでは、「メディアはメッセージである」の弁護を始めることにしよう。しかし、その分析のためには、マクルーハン自身の言葉はそれほど有効ではない。したがって別の角度から、さしあたってはルーマンのコミュニケーション理論に触れておかなければならない。
二クラス・ルーマンのコミュニケーション理論は周知の通り、情報/伝達/理解の不可分な統一体を想定する。まず、送り手は、世界にある情報から特定の情報を抽出する「情報の選択」を行い、続いて、いかなる伝達のあり方をとるかについての「伝達の選択」を行う。受け手は、情報と伝達の差異を観察し、送り手の行為をどう受け取るか「理解の選択」を行うことでコミュニケーションが完了する。ルーマンのコミュニケーション理論において重要なことは、コミュニケーションが送り手の意図とは関係なく、受け手の差異の観察の仕方によって、事後的に送り手の行為が意味づけされるということである。たとえば、送り手が何の意図もなくただクシャミをしたのを、受け手が自分に対する侮辱として受け取る場合でも、ルーマン流に言えば、コミュニケーションは成立したことになる(もちろん、この後誤解を解くためのコミュニケーションが続く)。つまり、ルーマンのコミュニケーション理論では、情報の意味論的内容よりも、その情報を伝達する意図の提示こそが第一義的なものとなる。またこれにより、従来の<メッセージコード>モデルが失効する。受け手は単にデコードのみを行う解読者ではなく、積極的な観察者となるのである(もっとも、これはルーマンのコミュニケーション理論に限ったことではない。たとえば、語用論の文脈でもスペルベル=ウィルソンの「関連性理論」が類似した指摘を行っている)。しかし、ここで書いてきたことは、フェイストゥーフェイス(FTF)についてのことである。メディアを媒介としたコミュニケーション(MC)の場合は、これとは大きく異なってしまう。MCにおいて、受け手はFCF以上に十分な観察を行う時間的余裕がある。そのため、しばしば送り手の情報と伝達の次元を切り離して考えることができるようになり、情報と伝達はより乖離していくことになるのである。以上を踏まえれば、伝達の次元に関与するモノとしての「メディア」が重要な意味を持つことが理解できるだろう。
では、モノとしてのメディアの重要性を具体的な言説分析の方法論と結びつける作業を行っていこう。ここでは、ロジェ・シャルチエとフリードリッヒ・キットラーの二人に登場いただくことになる。まずは、ロジェ・シャルチエ。
書物、読書、読者に関する理論は、従来から様々な手法で進められてきた。たとえば、アナール学派の社会史的書物研究、ホガード、ウィリアムズ、ホールらに代表されるカルスタ的読者論、ヤウス、イーザーらに代表される「受容の美学」などである。しかし、シャルチエはそれらの研究から、印刷物の所有形態ないし読書行為の実際的なあり方を問う問題設定が抜け落ちていることを批判し、読書行為論を提示した。シャルチエの読書行為論は、書物というメディアの「媒介性」の歴史的変位を主題化すること、メディアに空間的に投企する身体的存在としての受け手概念を提示することに焦点を当てる。すなわち、それまでの分析が、テクストそれ自体や読者それ自体の分析であったのに対し、シャルチエは書物というモノ・メディアがテクストや読者にどのような変化をもたらすのかを分析することを提案したのである。たとえば、巻物が主流だった時代と文庫が主流の時代を比較すれば、それぞれ時代に規定された読書行為は大きく異なるだろう(見出しや段落、句読点の有無は読書のあり方を大きく変える)。現在の読書行為をそのまま過去に適用できると考えるのではなく、人々の「読み方」の変遷をも勘案しなければ、言説分析は思わぬ陥穽に嵌まることになる。
次に、フリードリッヒ・キットラーに登場願おう。彼は、多くの言説分析研究者がその手本とするフーコーの言説分析に異議を申し立てるところから始める。その異議申し立てはややもすれば、フーコー研究者の怒りを買うことにもなりかねないほどである。彼は、フーコーが言説分析によって「権力」を読み解いたことをトートロジー的な行動であると言ってのける。彼によれば、フーコーが権力を読み解くために用いた資料が収集されていた「図書館」自体が、そもそも権力を持っていたというのである。なぜなら、「図書館」という場所は、宛先や配布先、機密度、文書作成の技法などによってはっきりと性質の異なる資料を無理矢理ひとところに集め、分類しているからである。また、18世紀頃までは「書く」ということ自体が権力と結びついていたのである。例えば18世紀ドイツの官僚は、文書官に高い地位を宛がっていた。つまり、「書く」という行為それ自体が、ある時代までは権力の所産であり、また収集される形として残る時点でも権力を内包している。フーコーの潜り込んだ「図書館」はそもそも「権力」でひしめいた空間であったので、フーコーがそこから「権力」を見出したのは当然だ、とキットラーは言うのである。もっともキットラーは、文書が権力と結びついていた時代の産物に限定していたので、フーコーは適切であったとも述べているのだが。ここで問題となるのは、フーコー自身ではなく、フーコーの言説分析の手法を安易に用いる分析家たちである。
フーコーが言説を分析した時代は、文書や収集が権力と結びついていた当時のものであった。だが、「言説=書く」の図式が時代の変遷に従って揺らいでいく。そこで、キットラーは時代を大きく1800と1900とに分ける(1800=19C,1900=20C)。フーコーの分析した1800の時代は、詩や文書のように書かれたものが言説の基本単位されていたのだが、1900の時代となれば、テクノロジーメディアの台頭によって、新たな言説分析の単位が生まれてくる。そして、キットラーがテクノロジーメディアとして挙げるのが、グラモフォン・フィルム・タイプライターである。これらは、世界から意図的に抽出して書き留めていく文書とは異なり、データを意図とは関係なく書き留めていく。たとえば、グラモフォンで言い間違いもそのまま記録されたり、カメラに意図せざるものが映り込んだりというように。
すなわち、言説の最小単位であるエノンセ(言表)が1800と1900ではデータ処理の仕方に関してかなりの違いが現れてくるので、フーコー的な分析手法で20世紀を記述していくことには問題がある、というのがキットラーの指摘なのである。
以上から、言説分析を徹底させるならば、分析者は、新たなメディアが普及することによって言説分析自体が変化してしまうことに十分留意しなければならないのである。
第4日目
リチャード・ローティの文化左翼批判の妥当性について検討する。ローティは、1980年代アメリカに、ポストモダニズムを好意的に持ち込んだが、90年代に入った頃からポストモダニズムの文化左翼性を手厳しく批判するのである。彼は何を批判しているのだろうか。
そもそも、「文化左翼」とは何か。ローティはこの言葉に明確な定義を与えてはいない。というよりも、彼の言う理念型として「文化左翼」とは、徹底してネガティブな存在でしかない。ローティは、文化左翼が蔓延る以前のアメリカには、伝統的左翼があったと考える。伝統的左翼とは、「社会改良的」であり「社会民主主義的」であり「アイデンティティの政治学よりは再分配の政治」に関心を抱く希望の党派であった。簡略化すれば、社会の具体的な害悪を見つけてその都度改良していくことがアメリカ左翼の伝統だったということである。ローティの文化左翼とはまさに、その「伝統的左翼」でない何か、として位置づけられるのであり、ベトナム戦争以後の改良主義的ではない何か、なのである。さてそれでは、ローティはポストモダニズムの文化左翼性の何に嫌悪したのだろうか。それは一言で言うならば「政治/哲学の位相差の混同」にである。ローティ以外にポストモダニズムやポスト構造主義への批判を行った人物たち、たとえばハーバーマスやイーグルトンらは通常、ポストモダニズムの「怠慢」を批判するのである。誤解を恐れずに彼らの批判を最も簡単に言い換えるならば、「ポストモダニズムは本質も基礎付けも断念した言葉遊びである」となる。
だが、ローティは彼らとは異なった視点からポストモダニズム批判を行った。ローティの批判の矛先は、ポストモダニズムがあまりにも哲学と政治を結び付けてしまう「マジメさ」に向けられる。言い換えれば、ローティは哲学的営みに対する過剰な自信、哲学の使命や責務を臆面なく語ってしまう知識人、知識人とはかくあるべしという知識人論を好む文化左翼に対して大きな疑念を抱いている。たとえば、無限定の責任性を語るレヴィナスやデリダ、ラカンの影響を受けて社会の不可能性を論じたラクラウ=ムフらの議論は、言語やアイデンティティに関する人間学的な言説であるにすぎず、そこから論理的に政治的なものを見出していくことはできない、とローティは考える(ただし、ローティはポストモダニズムの思想自体を否定しているわけではない。彼はむしろデリダの反本質主義・反基礎付け主義的思想を大いに称賛している)。つまり、ここでローティは、
@文化左翼の知的傲慢性(哲学の理論が政治を論理的に正当化しうると考えること)
A文化左翼の傍観者性(政治にコミットしているかのように振舞っているが、実際には政治について何もしていないということ)
の二点を批判の論点とする。
なるほど、政治についての哲学(たとえば、カントやホッブズの哲学)が新しい政治制度を用意させたのかもしれない。しかしローティは、政治哲学それ自体が演繹的・概念的に政治体制を導いたわけではなく、信念の変化を因果的に促しただけであると捉える。彼によれば、哲学の言説と政治の言説をダイレクトに結ぶ回路など存在しないのであり、哲学の理論が現実の政治を変えていくことなどできないのである。
ローティにとって哲学の理論はあまりにも抽象的すぎるので、それが政治という具体的な場に適用できるはずがないのである。彼のいう「政治」とは、たとえば、失業者やホームレス、トレーラーパークの居住者、経済のグローバリゼーションによって苦境に立たされる「アメリカ国内」の労働者へ財を再分配することによって、彼らの苦痛を取り除いていくことなのである。そのような「いま―ここ」の具体的な政策に対して、規律/訓練の権力装置の機能を歴史的に掘り起こし、その危険性や不可能性を力説する文化左翼的スタイルはどこまでも傍観者的で、回顧的に過ぎないのである。この批判を端的に示したローティの言葉こそが、「文化左翼の論者たちは、世界像に対して傲慢である一方で、世界に対して臆病を決め込んでしまっている」なのである。
ローティの文化左翼批判・知識人批判は苛烈さを極めており、その理論に抗いがたい魅力があることもまた事実である。しかし少し考えれば、ローティの思想が自家撞着に陥っていることを容易に指摘できる。
まずなにより、ローティの「政治」「哲学」が極めて恣意的に分類されているということである。ローティは、「哲学自体の営みが論証的か非論証的か」「哲学の理論が政治にとって論証的な関係か非論証的な関係か」の二つの二分法で哲学者を分類するのである。ちなみにローティは、論証的かつ論証的な例としてハーバーマス、非論証的かつ論証的な例としてデリダをそれぞれ挙げている。そして、ローティは「論証的」な部分に批判を投げかけるのである。反本質主義かつ反基礎付け主義を採るならば当然である。ここから、言うまでもなくローティ自身の立場は非論証的かつ非論証的となる。
だがそもそも、「非論証的かつ非論証的」というのはローティが採択した言語ゲームの一つに過ぎず、このゲームのルールを共有しない「他者」に対しての批判がどれくらいの効果となるのだろうか。さらに言うならば、反本質主義かつ反基礎付け主義の立場を採るはずのローティ自身が、反本質主義であること、反基礎付け主義こそが「本質」であると表明しているようなものではないか。プラグマティストたちは、「否定神学者」のサルトルやド・マン、昨今の政治哲学の「不可能性」を喝破したラクラウ=ムフ、人間の欲望が本来的に満たされないことを示したラカン、抑圧者と被抑圧者の比較が不可能であることを示したリオタールらを「思想なき思想」の本質主義として批判したが、まさにそう批判するプラグマティスト自身が本質主義へと陥ってしまうのである。
昨日で無事に終了した北田講義をできる限り整理しておきましょう(完了しました)。
第2日目(4限退室のため途中まで)
社会構築主義(social constructionism)の登場は、パーソンズ・マートンらに代表される機能主義、フラーやマイヤーズらの「価値葛藤学派」が内包する、ある種の本質主義的側面(客観的な「社会問題」の同定、共同主観的「規範」「価値」の同定)への批判であった。すなわち、構築主義の着眼点は「社会問題とされる状態」ではなく、「社会問題化されるクレイム申し立て活動」にある。
今回、北田暁大は特に構築主義の「歴史」記述の限界性を考察していく。構築主義とは、ある概念の歴史を叙述していくことである。まさに構築主義の常套句である「〜は近代になって誕生した」は、歴史の記述にほかならないだろう(たとえば、アリエスの『子どもの誕生』やホブズボウムの『創られた伝統』、アンダーソンの『想像の共同体』における近代的な「国民国家(nation state)」の誕生などがそれであろう)。
北田に従えば、現在までの歴史的構築主義を二つの立場から分類することができる。一つの立場は上野千鶴子に代表される「政治的構築主義(political constructionism)」。そして、もう一つは中河伸俊に代表される「方法論的構築主義(methodological constructionism)」である。最も大雑把な形で両者の構築主義に対するスタンスを記述すれば、前者は「構築主義=変革を求める実践」であり、後者は「構築主義=経験的研究のための指針」である。一見すると大きくスタンスの異なる両者であるが、北田は両者に共通の特徴を括りだし、構築主義全般が下敷きとしている思想を突き詰めて考察していく。そして、その共通項とは「<認識の暴力>の回避」である。なるほど、反本質主義・脱自然化を旨とする構築主義にとっては当然の共通項である。<認識の暴力>を回避するために、両者はあるカテゴリーが当事者レベルで構成されていくプロセスを検討する内在主義的立場を採る。しかし、この「<認識の暴力>の回避」を徹底しようとするならば、
@カテゴリーの定義権を徹底して当事者に譲り渡すべしという内在主義
A第三者的(分析者的)な立場からカテゴリー定義に関与してはならないという外在主義
という2原則に従わなければならない。構築主義者は「社会に内在することにおいて外在せよ」という困難な格率に従わざるを得なくなるのである。
ここで、北田はアーサー・ダントの「理想的編年史(Ideal Chronicle)」という思考実験を導入することにより、究極的な内在主義も外在主義も不可能であることを立証しようと試みる。以下は、その思考実験である。
今ここに理想的編年史家が存在すると仮定しよう。彼は、他人の心やあらゆる出来事をすべて逃すことなく察知でき、しかも察知と同時に瞬間的に書きとめていくことができる人物である。彼は、出来事が生起した瞬間に記述が行えるという意味において、究極的な内在主義者であるといえる。さて、そんな彼にとってはいかなる歴史的記述も可能であろうか。答えは「ノー」である。理想の編年史家は実際には、その記述に大きな制約を受けている。ここに極めて簡単な2つの記述がある。
a. 夏目金之介は、1900年にロンドンへ旅立った
b. 『草枕』の著者は、1900年にロンドンへ旅立った
言うまでもなく、a=bの書き換えは可能である(夏目金之介=『草枕』の著者)。だが、ダントの思考実験の中の理想的編年史家は、aの記述を行うことができても、bの記述を行うことはできない。なぜなら、『草枕』が発表されたのは1906年のことだからだ。このように、述語が時間的に先行する記述を理想的編年史家が行うことは不可能なのである。彼は「起こったときに、起こったように」書き留めることしかできない。ダントはbのような「2つの時間的に離れた出来事を指示し、そのうちの初期の出来事を記述するもの」を「物語文」と呼んでいる。
さて、最初の@カテゴリーに関する内在主義とA分析者の立場に関する外在主義に話を戻そう。まずは、@について。構築主義者の分析的叙述を形式化すれば、「○○が通歴史的で本質的なものとして認識されるようになったのは、××以降のことであり、それ以前には○○は当事者カテゴリーとして存在していなかった」となる。これにより、○○を分析者が無時間的に定義してしまう<暴力>は回避できるだろう。しかしここには、「いまだ○○とカテゴリー化されていないX」と「××以降に○○と呼ばれるようになったもの」とが「同一」であるという前提Xが密輸入されおり、「実態」を括弧に入れるという構築主義の公準に違反するような「存在論的ごまかし(ontological gerrymandering)」(以下、OG)が発生している。また、「○○というカテゴリーをいまだ与えられていないXが存在した」は、先のダント的な「物語文」の導入がなければ、歴史記述ができないことになってしまう。つまり、当事者にカテゴリーの定義権を譲渡する内在主義を徹底させれば、歴史的な記述自体が困難になるのである。
次にAについて。分析者の立場に関する外在主義の徹底が不可能であることは、容易に指摘できる。なぜなら、言うまでもなく現在における観察者の信念やイデオロギーが歴史記述の中に介在してきてしまうためである。したがって、徹底した外在主義も困難である。では、これらのアポリアに、政治的構築主義や方法論的構築主義はどのような態度をとったのだろうか。
@Aへの対応において、政治的構築主義はそれらをあっさりと放棄してしまう。彼らは「歴史(物語)は事後的に構築される」という命題を受容し、「外在することによって<認識の暴力>を回避せよ」という命題に修正をかける。つまり、彼らにおいては、観察者=分析者である自らがカテゴリー作りに積極的に参加し、絶えず反省的・再帰的に自分の立場性(positionality)を問い直す態度をとるのである。たとえば彼らは、黒人女性のジェンダーについて考察する「私」は何者であり、いかなる信念や価値観を抱いているのかに細心の注意を払うのである。一見すれば、彼らの態度に問題点はないようにも見える。だが、再帰的に自己省察を繰り返す彼らにも潜在的な問題がある。この自己省察を徹底するならば、「「「「「「「〜を問うている「私」は何者か」と問うている「私」は何者か」と問うている「私」は何者か」………」」」という無限後退が容易に発生してしまうのだ。こうなると、もはや分析は不可能であるため、彼らは仕方なく「これ以上は問わない」という恣意的な境界線を画定して、分析をスタートすることになる。だからこそ、彼らの分析手法には必然的に、背後にある信念や想定を持ち込まざるを得なくなるのである。フェミニズムやポストコロニアリズムなどが政治性を内包しているのはこのためである。
翻って、方法論的構築主義は@Aを簡単に手放しはしない。彼らは、「OG問題」を擬似問題に過ぎないとして退ける立場をとるのである。中河伸俊はOG問題がしばしば、2つの異なる問題を混同していることに着目し、それらを分離することによって解決策を見出していく。仮に、2つの問題をOG1とOG2としておけば、
OG1 「問題」とされる「状態」の存在論上の地位についての想定をその考察に密輸入すること
OG2 社会学的な説明というものは暗黙の線引き作業を免れることはできないということ
に分離される。中河は、OG1が「○○というカテゴリーがいまだ与えられていないX」と「○○というカテゴリー」の歴史的な「同一性」を研究者が判断するのではなく、「当事者」が判断することによって回避可能であると説明する(「当事者」の判断の分析はインタビュー調査や資料調査により行う)。そして、OG2は、そもそも記述であれば社会学に限定されることなく、いかなる場合においても当てはまってしまう形而上学的な問題であるため、不可避であると捉える。
だが果たして、OG1は「歴史的」構築主義でも回避可能なのだろうか。確かに、セクハラや児童虐待などの近過去の事象ならば、当事者からの言質を得ることができるかもしれない。しかし、「近代国家」の誕生などのタイムスパンの長いものにおいては、誰が「当事者」であるか分からなくなってしまうのではないだろうか。また、それ以前に、「歴史」の構築は他の構築とは異なった問題を孕んでいる。
例えば、「美しさ」の構築は可能である。「美しさ」の構築では、「対象Oは美しい」という言説分析を用いる。ここで対象Oは歴史的に、確かに存在している(実在論的)。だが、「美しい」は、歴史的に可変の概念であり、反実在論的である。つまり、「対象Oは美しい」においては、実在論と構築主義的議論に矛盾が発生することなく、並立可能なのである。
一方、「歴史」の構築で同様の手順をとれば、「対象O(出来事)は存在した」となる。先ほどと同じく、「対象O」は確かに存在する実在論であるが、「存在した」は果たして歴史的・文化的に可変であろうか。仮に、可変であるとするならば、もはや認識論的に対象Oを捉えることはできなくなる。まさにここでは、存在の如何を問う存在論が優勢となってくる。歴史の臨界点とされるようなホロコーストや従軍慰安婦などに向き合うには、認識論では限界であり、たちまちその存在の如何が問われざるをえなくなってくる。このように、政治的構築主義も方法論的構築主義も「歴史」を前にすると途端に隘路に陥ってしまうのである。
第3日目
メディア論と構造主義的方法の一つである言説分析との関係を探る。北田はまず、マーシャル・マクルーハンの救済を試みる。マクルーハンのメディア論には、情報の精細度と受け手の参与度によって恣意的に分類した「ホットなメディア/クールなメディア」、テレビが近代に入って失われた共同性を回復し、グローバルな共同性の担保となるという「地球村」など、賛同しかねる未来学的志向が多々ある。そのため、日本に初めて紹介された60年代においては、その扱いは極めてジャーナリスティックなものであった。マクルーハンの批判的再検討が行われるようになるのは、それから約20年後のことである。
また、新たなメディアの登場がわれわれの身体性を拡張していくというマクルーハンの「身体拡張の原理」も、メディアが持つ機能によって社会が変化していくという、ある種の技術決定論であり、本質主義である。それに対して登場したのが、「技術(メディア)に対する構築主義」である。技術に対する構築主義は、新メディアの黎明期に複数の機能や使用方法(可能的様態)があり、歴史的な試行錯誤や言説によって特定の機能や使用方法に限定されていったという。たとえば、映画の鑑賞方法について。映画の黎明期には、「静かに観る」という現在の鑑賞のあり方は一般的ではなかった。観客は弁士の声に耳を傾け、登場人物たちに声援を送りながら映画を鑑賞していた。しかし、1910年代ころから「映画」の定義をめぐる言説が登場し、20〜30年代には知識人の「純粋映画」言説によって、「静かに鑑賞する」というメディア機能が画定されていった。蓮實重彦はメディア第一の誕生をメディア自体の誕生、メディア第二の誕生をメディアの社会的馴致と位置づけて、「メディアは二度誕生する」と言ったが、まさにそれである。
では、マクルーハンの何を再検討するべきなのか。それは、彼の有名なテーゼ「メディアはメッセージである」の分析だ。マクルーハンの意図を汲み取るならば、「メディアはメッセージの単なる通り道(パイプライン)ではなく、メッセージのあり方をメタレベルから指示するメタメッセージを内包している」と書き換えることが可能だろう。どういう意味かは、次の具体例でよく解っていただけるだろう。
いま、就職活動中のあなたは複数の企業から内定をもらったために、希望の就職先以外の企業へ、内定辞退を申し出なければならない。その時、辞退の言葉を電話で伝えるのか、メールで送るのか、手紙で送るのか、直接赴いて伝えるのかによって、たとえ同一の意味内容でも、先方の受け取り方が変わってくる。このとき、メディアそれ自体がメッセージを内包していると言うことができる。
「メディアはメッセージである」はまた、ある表象が持つ意味内容やテクストが特定の社会背景の反映であるとする、素朴な社会反映論を退ける(余談だが、二十世紀学では、この社会反映論的思考方法を2回生向けの講義で学習するのである……)。そもそも、社会反映論は端的に言って退屈なのである。というのも、社会反映論では、意味内容さえ同一であれば、どんなメディアであろうと構わなくなってしまい、映画を分析したり、マンガを分析したり、ドラマを分析したりする際、そのメディアをあえて分析対象として選ぶ根拠が失われてしまうためである。
さてそれでは、「メディアはメッセージである」の弁護を始めることにしよう。しかし、その分析のためには、マクルーハン自身の言葉はそれほど有効ではない。したがって別の角度から、さしあたってはルーマンのコミュニケーション理論に触れておかなければならない。
二クラス・ルーマンのコミュニケーション理論は周知の通り、情報/伝達/理解の不可分な統一体を想定する。まず、送り手は、世界にある情報から特定の情報を抽出する「情報の選択」を行い、続いて、いかなる伝達のあり方をとるかについての「伝達の選択」を行う。受け手は、情報と伝達の差異を観察し、送り手の行為をどう受け取るか「理解の選択」を行うことでコミュニケーションが完了する。ルーマンのコミュニケーション理論において重要なことは、コミュニケーションが送り手の意図とは関係なく、受け手の差異の観察の仕方によって、事後的に送り手の行為が意味づけされるということである。たとえば、送り手が何の意図もなくただクシャミをしたのを、受け手が自分に対する侮辱として受け取る場合でも、ルーマン流に言えば、コミュニケーションは成立したことになる(もちろん、この後誤解を解くためのコミュニケーションが続く)。つまり、ルーマンのコミュニケーション理論では、情報の意味論的内容よりも、その情報を伝達する意図の提示こそが第一義的なものとなる。またこれにより、従来の<メッセージコード>モデルが失効する。受け手は単にデコードのみを行う解読者ではなく、積極的な観察者となるのである(もっとも、これはルーマンのコミュニケーション理論に限ったことではない。たとえば、語用論の文脈でもスペルベル=ウィルソンの「関連性理論」が類似した指摘を行っている)。しかし、ここで書いてきたことは、フェイストゥーフェイス(FTF)についてのことである。メディアを媒介としたコミュニケーション(MC)の場合は、これとは大きく異なってしまう。MCにおいて、受け手はFCF以上に十分な観察を行う時間的余裕がある。そのため、しばしば送り手の情報と伝達の次元を切り離して考えることができるようになり、情報と伝達はより乖離していくことになるのである。以上を踏まえれば、伝達の次元に関与するモノとしての「メディア」が重要な意味を持つことが理解できるだろう。
では、モノとしてのメディアの重要性を具体的な言説分析の方法論と結びつける作業を行っていこう。ここでは、ロジェ・シャルチエとフリードリッヒ・キットラーの二人に登場いただくことになる。まずは、ロジェ・シャルチエ。
書物、読書、読者に関する理論は、従来から様々な手法で進められてきた。たとえば、アナール学派の社会史的書物研究、ホガード、ウィリアムズ、ホールらに代表されるカルスタ的読者論、ヤウス、イーザーらに代表される「受容の美学」などである。しかし、シャルチエはそれらの研究から、印刷物の所有形態ないし読書行為の実際的なあり方を問う問題設定が抜け落ちていることを批判し、読書行為論を提示した。シャルチエの読書行為論は、書物というメディアの「媒介性」の歴史的変位を主題化すること、メディアに空間的に投企する身体的存在としての受け手概念を提示することに焦点を当てる。すなわち、それまでの分析が、テクストそれ自体や読者それ自体の分析であったのに対し、シャルチエは書物というモノ・メディアがテクストや読者にどのような変化をもたらすのかを分析することを提案したのである。たとえば、巻物が主流だった時代と文庫が主流の時代を比較すれば、それぞれ時代に規定された読書行為は大きく異なるだろう(見出しや段落、句読点の有無は読書のあり方を大きく変える)。現在の読書行為をそのまま過去に適用できると考えるのではなく、人々の「読み方」の変遷をも勘案しなければ、言説分析は思わぬ陥穽に嵌まることになる。
次に、フリードリッヒ・キットラーに登場願おう。彼は、多くの言説分析研究者がその手本とするフーコーの言説分析に異議を申し立てるところから始める。その異議申し立てはややもすれば、フーコー研究者の怒りを買うことにもなりかねないほどである。彼は、フーコーが言説分析によって「権力」を読み解いたことをトートロジー的な行動であると言ってのける。彼によれば、フーコーが権力を読み解くために用いた資料が収集されていた「図書館」自体が、そもそも権力を持っていたというのである。なぜなら、「図書館」という場所は、宛先や配布先、機密度、文書作成の技法などによってはっきりと性質の異なる資料を無理矢理ひとところに集め、分類しているからである。また、18世紀頃までは「書く」ということ自体が権力と結びついていたのである。例えば18世紀ドイツの官僚は、文書官に高い地位を宛がっていた。つまり、「書く」という行為それ自体が、ある時代までは権力の所産であり、また収集される形として残る時点でも権力を内包している。フーコーの潜り込んだ「図書館」はそもそも「権力」でひしめいた空間であったので、フーコーがそこから「権力」を見出したのは当然だ、とキットラーは言うのである。もっともキットラーは、文書が権力と結びついていた時代の産物に限定していたので、フーコーは適切であったとも述べているのだが。ここで問題となるのは、フーコー自身ではなく、フーコーの言説分析の手法を安易に用いる分析家たちである。
フーコーが言説を分析した時代は、文書や収集が権力と結びついていた当時のものであった。だが、「言説=書く」の図式が時代の変遷に従って揺らいでいく。そこで、キットラーは時代を大きく1800と1900とに分ける(1800=19C,1900=20C)。フーコーの分析した1800の時代は、詩や文書のように書かれたものが言説の基本単位されていたのだが、1900の時代となれば、テクノロジーメディアの台頭によって、新たな言説分析の単位が生まれてくる。そして、キットラーがテクノロジーメディアとして挙げるのが、グラモフォン・フィルム・タイプライターである。これらは、世界から意図的に抽出して書き留めていく文書とは異なり、データを意図とは関係なく書き留めていく。たとえば、グラモフォンで言い間違いもそのまま記録されたり、カメラに意図せざるものが映り込んだりというように。
すなわち、言説の最小単位であるエノンセ(言表)が1800と1900ではデータ処理の仕方に関してかなりの違いが現れてくるので、フーコー的な分析手法で20世紀を記述していくことには問題がある、というのがキットラーの指摘なのである。
以上から、言説分析を徹底させるならば、分析者は、新たなメディアが普及することによって言説分析自体が変化してしまうことに十分留意しなければならないのである。
第4日目
リチャード・ローティの文化左翼批判の妥当性について検討する。ローティは、1980年代アメリカに、ポストモダニズムを好意的に持ち込んだが、90年代に入った頃からポストモダニズムの文化左翼性を手厳しく批判するのである。彼は何を批判しているのだろうか。
そもそも、「文化左翼」とは何か。ローティはこの言葉に明確な定義を与えてはいない。というよりも、彼の言う理念型として「文化左翼」とは、徹底してネガティブな存在でしかない。ローティは、文化左翼が蔓延る以前のアメリカには、伝統的左翼があったと考える。伝統的左翼とは、「社会改良的」であり「社会民主主義的」であり「アイデンティティの政治学よりは再分配の政治」に関心を抱く希望の党派であった。簡略化すれば、社会の具体的な害悪を見つけてその都度改良していくことがアメリカ左翼の伝統だったということである。ローティの文化左翼とはまさに、その「伝統的左翼」でない何か、として位置づけられるのであり、ベトナム戦争以後の改良主義的ではない何か、なのである。さてそれでは、ローティはポストモダニズムの文化左翼性の何に嫌悪したのだろうか。それは一言で言うならば「政治/哲学の位相差の混同」にである。ローティ以外にポストモダニズムやポスト構造主義への批判を行った人物たち、たとえばハーバーマスやイーグルトンらは通常、ポストモダニズムの「怠慢」を批判するのである。誤解を恐れずに彼らの批判を最も簡単に言い換えるならば、「ポストモダニズムは本質も基礎付けも断念した言葉遊びである」となる。
だが、ローティは彼らとは異なった視点からポストモダニズム批判を行った。ローティの批判の矛先は、ポストモダニズムがあまりにも哲学と政治を結び付けてしまう「マジメさ」に向けられる。言い換えれば、ローティは哲学的営みに対する過剰な自信、哲学の使命や責務を臆面なく語ってしまう知識人、知識人とはかくあるべしという知識人論を好む文化左翼に対して大きな疑念を抱いている。たとえば、無限定の責任性を語るレヴィナスやデリダ、ラカンの影響を受けて社会の不可能性を論じたラクラウ=ムフらの議論は、言語やアイデンティティに関する人間学的な言説であるにすぎず、そこから論理的に政治的なものを見出していくことはできない、とローティは考える(ただし、ローティはポストモダニズムの思想自体を否定しているわけではない。彼はむしろデリダの反本質主義・反基礎付け主義的思想を大いに称賛している)。つまり、ここでローティは、
@文化左翼の知的傲慢性(哲学の理論が政治を論理的に正当化しうると考えること)
A文化左翼の傍観者性(政治にコミットしているかのように振舞っているが、実際には政治について何もしていないということ)
の二点を批判の論点とする。
なるほど、政治についての哲学(たとえば、カントやホッブズの哲学)が新しい政治制度を用意させたのかもしれない。しかしローティは、政治哲学それ自体が演繹的・概念的に政治体制を導いたわけではなく、信念の変化を因果的に促しただけであると捉える。彼によれば、哲学の言説と政治の言説をダイレクトに結ぶ回路など存在しないのであり、哲学の理論が現実の政治を変えていくことなどできないのである。
ローティにとって哲学の理論はあまりにも抽象的すぎるので、それが政治という具体的な場に適用できるはずがないのである。彼のいう「政治」とは、たとえば、失業者やホームレス、トレーラーパークの居住者、経済のグローバリゼーションによって苦境に立たされる「アメリカ国内」の労働者へ財を再分配することによって、彼らの苦痛を取り除いていくことなのである。そのような「いま―ここ」の具体的な政策に対して、規律/訓練の権力装置の機能を歴史的に掘り起こし、その危険性や不可能性を力説する文化左翼的スタイルはどこまでも傍観者的で、回顧的に過ぎないのである。この批判を端的に示したローティの言葉こそが、「文化左翼の論者たちは、世界像に対して傲慢である一方で、世界に対して臆病を決め込んでしまっている」なのである。
ローティの文化左翼批判・知識人批判は苛烈さを極めており、その理論に抗いがたい魅力があることもまた事実である。しかし少し考えれば、ローティの思想が自家撞着に陥っていることを容易に指摘できる。
まずなにより、ローティの「政治」「哲学」が極めて恣意的に分類されているということである。ローティは、「哲学自体の営みが論証的か非論証的か」「哲学の理論が政治にとって論証的な関係か非論証的な関係か」の二つの二分法で哲学者を分類するのである。ちなみにローティは、論証的かつ論証的な例としてハーバーマス、非論証的かつ論証的な例としてデリダをそれぞれ挙げている。そして、ローティは「論証的」な部分に批判を投げかけるのである。反本質主義かつ反基礎付け主義を採るならば当然である。ここから、言うまでもなくローティ自身の立場は非論証的かつ非論証的となる。
だがそもそも、「非論証的かつ非論証的」というのはローティが採択した言語ゲームの一つに過ぎず、このゲームのルールを共有しない「他者」に対しての批判がどれくらいの効果となるのだろうか。さらに言うならば、反本質主義かつ反基礎付け主義の立場を採るはずのローティ自身が、反本質主義であること、反基礎付け主義こそが「本質」であると表明しているようなものではないか。プラグマティストたちは、「否定神学者」のサルトルやド・マン、昨今の政治哲学の「不可能性」を喝破したラクラウ=ムフ、人間の欲望が本来的に満たされないことを示したラカン、抑圧者と被抑圧者の比較が不可能であることを示したリオタールらを「思想なき思想」の本質主義として批判したが、まさにそう批判するプラグマティスト自身が本質主義へと陥ってしまうのである。
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