今年生誕百三十年を迎えた明治詩壇の第一人者・薄田泣菫(倉敷市出身)が新聞記者に―。今春発刊された「泣菫小伝 六」は、新聞人としての泣菫の活躍を伝える。
一九一二(大正元)年、三十五歳で大阪毎日新聞社(大毎、現毎日新聞)に入社。薄田淳介。見習記者ながら、いきなり京都での明治天皇御大喪の取材に派遣された。詩壇での実績による破格の待遇。署名原稿の「拝観記」は評判を呼んだ。
入社五年目。夕刊にコラム「茶話」の連載を始めた。有名人のゴシップや社会・風俗を含蓄ある言葉で風刺。たちまち読者の心をつかんだ。その達文の一部は文庫本になっている。
学芸部長になったが、健康を害して退社。新聞記者生活は十二年だった。
その三年後の一九二六(大正十五)年、同じ大毎に泣菫と入れ替わるように、十九歳の若い女性記者が入社した。今年生誕百年、日本初の女性五輪メダリスト・人見絹枝(岡山市出身)。
女子陸上の先駆者、不世出の天才アスリートとして有名だが、女性記者の草分けでもあった。運動課の記者と選手との二足のわらじ。文才にも恵まれ、たくさんの署名記事を展開した。わずか五年の記者生活。二十四歳の早世が惜しまれる。
国語が得意で読書好き。日記もよくつけていた。共著を含め八冊の本を著し、短歌も六十首余りを残している。
泣菫の生まれた一八七七(明治十)年、西南戦争の従軍記者として名を上げたのちの宰相・犬養毅(岡山市出身)も含め、世はときに異分野でも異彩を放つ偉才を生む。
(読者室・佐藤豊行)