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 このページでは、当研究所会報や月刊誌『正論』(産經新聞社)において紙面の都合上掲載できなかった話題など、当会代表・中村粲の書き下ろし原稿を独占掲載してまいります。本コラムについての御意見や御要望などは、お気軽に akira@showashi.org までお寄せ下さい。

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日本政策研究センター『明日への選択』平成19年8月号掲載(平成19年8月1日発行)
沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除
検定撤回狙うNHK報道

獨協大学名誉教授
昭和史研究所代表
中村 粲

「軍命令」を削除した検定を評価

 来春から使われる高校歴史教科書の沖縄住民集団自決に関する記述から「軍命令」が削除されることになった。文部科学省の検定意見に従って修正された記述を見ると、まだ集団自決が軍の強制によるとの誤解を与えかねない表現を使っている一部の教科書があることは遺憾であるが、軍命令や軍の強制で集団自決が行われたかの如き表現を教科書から削除するというこの度(たび)の検定方針は高く評価すべきものと考える。平成8年2月の検定をパスした7社発行の中学歴史教科書の反日偏向が余りにも甚しかったために、歴史教科書に対する世論の批判が大いに高まった結果、慰安婦問題が教科書から消え、南京事件の記述も抑制され、全体として改善されてきた中で、沖縄住民集団自決が軍命令で強制されて起こったとの記述だけは大手を振ってまかり通ってきたからである。

軍命令否定は禁忌だった

 文科省が前記のような検定方針を決定したのには、平成17年8月以来係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」を通じて、軍命令のあったことを否認する数多くの事実が明かるみに出されてきたことが関係しているとみるべきであろう。曽野綾子著『ある神話の背景』以来、軍命令の存在を疑い、更には「軍命令」説と遺族年金支給との関連を推測する向きもあるにはあったが、それを公言することは沖縄では一種の禁忌なのであった。

勇気ある人々――座間味の場合

 慶良間(けらま)列島の集団自決は昭和20年3月26日座間味(ざまみ)島で、28日渡嘉敷(とかしき)島で発生した。前者については海上挺進第一戦隊長・梅沢裕少佐が、後者については同第三戦隊長・赤松嘉次大尉が隊長命令で強制したとして責任を負わされ、現地は無論、広く我国の言論界、教育界の指弾を浴びてきた。両元隊長は緘黙(かんぜん)して謂われなき非難と屈辱に耐えてきたため、自分の家族からも誤解を受けることにもなり、その苦衷はよく筆舌の盡す処ではなかった。併しながら天は決して義人を見放すことはない。
 昭和57年6月、沖縄戦当時、座間味村の女子青年団長であった宮城初江さんから、来島した梅沢元隊長に対して「今まで周囲の圧力で自決は軍命令と主張してきたが、実は自分達5人の村代表が隊長に自決を申し出た時、隊長は自決を許可せず、弾薬類の支給を断った。私がその事実を知る唯一の生証人です」との告白がなされたのであった。
 またこれと前後して、沖縄戦の事実を求めて体験者を訪ね歩いていた沖縄の反戦運動家・富村順一氏が梅沢元隊長を往訪、梅沢氏の話を聞いて一驚し、梅沢氏に無実の罪を負わせてきたのは沖縄の恥辱であるとして翻然梅沢氏弁護の活動に入った。その富村氏の街頭演説を偶々聞いたのが神戸新聞の記者・中井和久氏であった。氏は早速梅沢氏に面接取材し、昭和60年7月30日付同紙朝刊に、集団自決に「日本軍命令はなかった」との記事を大きく掲載したのである。いずれも勇気ある人々と云うべきであろう。
 そして遂に決定的な告白と謝罪がなされた。昭和62年3月28日、梅沢氏が座間味島を訪ねた折、戦後座間味村役場で援護係をしていた宮村幸延氏が梅沢氏に対し、「集団自決は当時兵事主任兼村役場助役であった宮里盛秀の命令によるもので、遺族補償受給のため、弟の自分がやむを得ず隊長命令として申請した」旨の詫証文を書いて署名捺印したのである。この証文こそ、梅沢氏無実を示す駄目押しの証拠である。この謝罪も勇気ある決断だ。
 自分が罪を背負うことで座間味の村と人が豊かになることを願い、敢えて自己弁護せず濡れ衣を着て忍苦の人生を送ってきた梅沢元隊長の潔白は、こうした人々の良心と、道義的勇気のある告白や行動の積み重ねによって漸く世間に広く認知される処となってきたのである。

隊長命令を否定する人々――渡嘉敷の場合

 他方、渡嘉敷島についてはどうであろうか。『ある神話の背景』にまとめられた曽野綾子女史の取材記録の何処を押しても隊長命令で集団自決が行われたとの結論は出て来ない。
 また赤松隊長の副官と云われていた知念朝睦本部付警戒小隊長(少尉)や、唯一人の渡嘉敷島駐在巡査であった比嘉(旧姓安里)喜順氏の証言は軍命令のなかったことを明確に語っている。更に現在、渡嘉敷村民俗歴史資料館長である金城武徳氏は、当時数え年15歳であったが、集団自決の現場に居て状況を鮮明に記憶している。集まった住民を前に自決を呼びかけ、「天皇陛下万歳」を唱えたのが古波蔵惟好村長であったこと、手榴弾不発で死に切れなかった人々が赤松隊長の処に赴いて機関銃を所望したのに対し、隊長は「早まったことをしてくれた」と残念がり、機関銃貸与を断ったことなど、金城氏は当時の現場を知る語り部として赤松氏の無実を訴え続けている。上の証言だけからでも、隊長命令のなかったことは明白であろう。タブーを怖れぬこれらの人々の勇気ある証言も道義的見地から高く評価されねばなるまい。

敢えて沈黙を通した赤松元隊長

 集団自決を軍命令によるものとしたのは『鉄の暴風』(沖縄タイムス社。初版発行は昭和25年8月15日)が最初だが、その執筆者達は戦後沖縄に帰ってきた人達で、集団自決発生について直接の知識も体験もない。彼等は住民から聞き集めた断片的な話を反日反軍思想で軍命令の話に作り上げたに違いない。その確拠のない軍命令説が動かし難い公的見解として流布し定着した事情は何であろうか。それは座間味の場合と同様、遺族補償の関係である。
 『ある神話の背景』に出てくる赤松元隊長の発言を注意深く読むならば、赤松氏自身、遺族補償のために集団自決が軍命令とされたことを昭和45年3月の段階で承知していながら、敢えて村民への配慮から沈黙を守ったらしいことが看取される筈だ。筆者自身、平成10年に昭和史研究所の調査で渡嘉敷島を訪れた際にも、軍命令説は援護金受給のために作り出されたものらしいとの風聞のあることを知った。座間味で遺族補償申請のために集団自決が軍命令とされたのと同じ事情が渡嘉敷にもあるに違いないと推断した筆者は、平成14年から翌15年にかけて再三、遺族補償申請資料の閲覧希望を渡嘉敷村役場に申し出たが、好意的な対応に接することは出来なかった。また平成15年3月には厚生労働省援護課を往訪、援護法による遺族年金支給の経緯と「軍命令」の実否に関する援護課の認識について質し、遺族補償も十分に行われてきた今(各遺族年額約200万円の年金)、軍命令が遺族補償支給のための行政的便法であったことを認めて軍と軍人の名誉回復への道を開いたならば八方円満に解決するのではないか、と見解を質したが、軍命令の実否という「歴史的事実」についての言及は得られず仕舞いであった(詳細は日本政策研究センター『教科書は間違っている』27頁。昭和史研究所『昭和史研究所會報特別版』140〜142頁)

「私が軍命令を創作した」

 併しながら、座間味の場合と同じく、渡嘉敷にも決定的な証言者が出現した。那覇市の照屋昇男氏が軍命令は「創作」であったとの重大証言をしたのである(平成18年8月27日産経新聞)。
 かつて琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員であった氏は、アンケートや聞き取り調査で援護法適用の資格の有無を調べた処、聞き取り調査をした100人以上の渡嘉敷島民の中に集団自決が軍命令だと証言した者は一人もいなかったと断言する。社会局長と共に厚生省援護課に島民の窮状を訴えて援護金支給を陳情したが無理だった。だがついに厚生省は軍命令があれば援護金を支給することを認めてくれたと云う。
 喜んだ玉井喜八村長(当時)が赤松元隊長を訪ねて事情を話した処「村を救うため十字架を背負う。隊長命令とする命令書を作ってくれたら押印してサインする」と云われた。そこで照屋氏等が「住民に告ぐ」とする自決命令書を作成したと氏は語っている。
 併しさすがに赤松元隊長も余命3ヶ月となった時、玉井村長に隊長命令という部分の訂正を要請してきたと云う。赤松氏に対する誹謗を見聞するたび、照屋氏は「胸に短刀を刺される思い」だった。元隊長の苦悩を察し、良心の呵責に耐えかねて、氏は遂に軍命令否定証言を公けにしたのであり、真に勇気ある行動と称えたい。とまれ、これによって座間味の梅沢元隊長、渡嘉敷の故赤松元隊長による集団自決命令が援護金受給のための「創作」であったことの鉄証が出そろったことになる。教科書から軍命令の記述が削除されたのは当然すぎる話である。教科書は生徒達に真実を教えねばならないからだ。

「防衛隊」を「日本軍」と歪曲するNHKの詐術

 処が軍命令を削除したこの検定を面白く思わないのがNHK。6月21日放送<クローズアップ現代>「“集団自決”62年目の証言〜沖縄からの報告〜」は上検定に対するNHKの敵意の表出と云ってよい。
 番組は冒頭で云う。軍命令削除の検定に対して沖縄では強い怒りと抗議の声が上がっている。その中で「体験者からの聞き取り調査が始まって」おり、「日本軍によって住民が自決に追い込まれていった状況が浮かび上がってきた」とのナレーションが流れる。更に「なぜ文部科学省は突然書き換えを求めたのか」と尤もらしく問題提起をしながらも、それについては現在係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」原告の一人である梅沢裕氏の短い発言を流すだけで、原告団に提訴を決断させた数多くの証言や事実解明の経過には全く触れない。実はそれこそが軍命令不存在の証明なのであり、また文科省が軍命令記述の修正を求めた根拠であるにも拘らず、である。それ故視聴者は、文科省は元隊長の個人的感情にのみ依拠して軍命令記述を修正したかの如く錯覚する。これは今回の検定には客観的根拠がないとの印象を視聴者に与えるための欺瞞的番組編集手法と筆者は断ずる。
 番組が、軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。村民と常時接触していたのは、この防衛隊だったのだ。
 家族や村民と生活を共にしていた防衛隊員が、戦闘用に2個ずつ支給されていた手榴弾を勝手に自決用として家族等に配布した場合もあった。防衛隊員も日本兵のうち、と単純に考える住民は、それを「日本軍」による自決の命令あるいは指示と誤解したに違いない。NHKはそのような誤解をいいことに、軍命令を示す住民の“証言”として強引に押し通してしまっている。そうではないと判っているくせに、防衛隊=日本軍という拡大解釈で日本軍による自決命令という“証言”を作り出したこのNHK番組は正に言語詐術と欺瞞の見本である。本稿で紹介した沖縄の人々の様々な軍命令否定証言、援護金目的の軍命令創作証言はただの一つも出てこない。この怖るべき偏向番組の狙いはその言論暴力で今回の検定方針を撤回させ、軍命令を復活させることにあると私は見る。

(平19・7・22)

 

 

A Numerical Study of the Nanking lncident

南京事件−

 これは中村 粲【なかむら あきら】(昭和史研究所代表・獨協大学名誉教授)の南京事件に関するユニークかつ刺戟的な論考だ。南京で実際何があったのか、あるいはなかったのか? 彼は世の「まぼろし派」とは異なり、南京での虐殺はなかったとするのではなく、日本軍が中国兵捕虜を不法かつ大量に殺害したことを数量的考察に基づいて率直に承認する。だが、中国側の主張する30万人以上の無辜の市民虐殺については・・・・・・詳しくは論考をお読み頂きたい。

→論文ダウンロード頁(英文)へ

 

竹島問題―政府に直言する!!

以下は竹島問題についてこれまで産経新聞アピール欄に掲載された昭和史研究所代表・獨協大学名誉教授の中村 粲の見解です。

(1) 外務省に竹島問題の全容公開求む (平成8年2月28日)

(2) 「竹島」再度国際裁定を提起せよ (平成14年8月20日)

(3) 「竹島」は明確な国家意思の表明を (平成17年3月24日)

(4) 竹島問題の経緯

 竹島問題に関する中村代表の提言は昭和史研究所会報65号(平成14年9月10日号)、同96号(平成17年4月10日号)及び『月曜評論』(平成8年4月25日号、5月25日号、7月5日号)に詳しく掲載されております。

(1) 外務省に竹島問題の全容公開求む

 竹島は日本領土と明言したばかりの外務省が、にわかに竹島問題について、国際司法裁判所への提訴をとりやめ、領有権を棚上げして漁業問題のみを交渉する方針に一転した。

 眼前の困難は「臭いものにふた」式に回避して問題を先送りするというわが国の無責任な外交慣行が、またしても繰り返された形だ。これでは、過去40有余年におよぶ韓国の「実効支配」の主張を承認するに等しいではないか。

 問題がここまで悪化した原因は、政府が竹島問題をタブーとして、国民に知らすことを怠ってきたことにある。平成2年4月、盧泰愚大統領来日に先立って行われた日韓定期外相会談でも、竹島問題がまったく報道されなかったため、私は外務省北東アジア課に赴いたことがあった。

 ところが、竹島問題について外相会談で「提起」した事実が記録されていた。「提起」とは、「抗議」を含めたものだと、担当官は私に説明した。

 竹島が不法占領されて以来、わが国は数限りなく抗議してきたが、日韓関係がこじれるのを恐れた政府は、その経緯を国民の耳目から遠ざけてきたのだ。韓国に比べて、わが国で竹島問題について関心が低い理由はここにある。

 わが国には、外務省の川上健三氏や森田芳夫氏らの研究書や論考をはじめ、竹島に関する多くの研究成果があり、そのいずれもが「歴史・地理的、国際法的にも竹島は日本領なり」としている。外務省は、これら先人の貴い研究に基づいて、竹島問題についてのわが国の主張と論拠、並びに日韓の論争の経緯を簡明な小冊子にまとめ、英文も含めて配布し、内外世論の理解と支持を得るようにすべきではないか。

 韓国が自らの論拠に自信があるのなら、正々堂々と争えばよいはずだ。もし、韓国が国際司法裁判所への付託を相変わらず拒否するならば、外務省はそのこと自体の是非を内外に問うべきだ。

 いずれにせよ、国民世論に支持された官民一体の外交こそが相手国のみならず世界をも動かすことになる。外務省には、遅くならぬうちに竹島問題の全容を公開するよう強く求める。

(平成8年228日)

 

(2) 「竹島」再度国際裁定を提起せよ

 韓国に竹島を国立公園に指定する計画があるという。領有の既成事実化を狙った動きであることは明らかだ。これについて外務省は「事実であれば遺憾である」と韓国側に申し入れたそうだが、いつもながら気のない対応で無性に腹が立つ。

 韓国が竹島を不法に軍事占領して50年。その間、日韓条約で両国間の懸案はまず外交で、それで解決せぬ場合は調停で決着させる約定を結びながら、韓国は「竹島は国際間の懸案にあらず」とうそぶいて外交交渉にも応じない。

 昭和29年、わが国は国際司法裁判所による調停を提議したが、韓国は拒否した。国際裁判では負けると読んだからだ。

 この問題を放置すれば、わが国の国益と正義が失われるのみならず、両国間に永く紛争の火種を残す結果になるだろう。そこで、竹島問題決着へ向けての明確な一歩として、再度、国際司法裁判所の裁定を仰ぐべく韓国側へ提議することを政府当局に要望する。

 その際、わが国としては「固有の領土」論ではなく、明治382月の竹島領有(島根県編入)の正当性を主張すべきである。

 議論の焦点は、編入以前の竹島に関する両国の知見、経済的有効利用および政治的支配の有無と程度になることは必定だが、上三点の議論はいずれも圧倒的にわが国にとって有利であり、この歴史・国際法論争で韓国側の勝ち目はほとんどないと私は確信する。

 従来、外務省は竹島は「日本固有の領土」であると決まりきった見解を述べてきたが、これは無定見である。竹島はちょうど日韓の中間点に位置し、日韓いずれの固有の領土でもない。

 前述の三点を論ずれば、わが国の主張が通る公算は極めて大であるが、過去半世紀にわたるわが国の無為と無関心を考えれば、韓国側の実効支配が承認されないとは断定できない。

 政府が竹島を真実「日本の領土」と考えているのであれば、「遺憾である」などのおざなりの抗議ではなく、今こそ竹島奪還への具体的な一歩を踏み出すべきである。

 右のような国際調停に韓国が応じるはずもないが、その時は国際裁定という公正な手段をわが国が再提起した事実を各国語による印刷物を通して広く内外に喧伝すればよいのである。

 その時機は今をおいては再び来ないことを重ねて力説したい。

(平成14820日)

 

(3) 「竹島」は明確な国家意思の表明を

 島根県議会は今月16日、圧倒的多数の賛成で、2月22日を「竹島の日」と制定する条例を可決した。日本の公的機関がこれほどきっぱりと近隣の没義道(もぎどう)を否認する意思を表明したことは近来珍しく、その毅然(きぜん)たる姿勢に快哉(かいさい)を叫びたい。

 それにしても不可解で情けないのは、この快挙を支持するどころか、迷惑がる風の政府の対応だ。

 町村信孝外相は、島根県選出の細田官房長官に「取りたてて今やる必要があるのだろうか」と述べ、上制定に対する韓国側の抗議活動を列挙した文書を島根県側に送付するなど、暗に制定の自粛を促すがごとき対応であったというから、あきれて物も言えない。

 政府は竹島を「わが国固有の領土」とする立場を取りながら、韓国に対して明確な返還要求はせず、「ゆるぎなく友好関係を促進していく必要がある」(細田官房長官)などと右顧左眄(うこさべん)しながら弱々しく繰り返すのみ。これに対して島根県側から不満の声が上がっているのも当然だ。

 政府が竹島を日本領とする立場に立つ以上、「竹島の日」を国の記念日として支持すべきであり、韓国側からの抗議に対しては(1)武力占領に抗議する(2)竹島問題解決のための日韓交渉を申し入れる(3)再度国際司法裁判所の裁定に付託するよう提議する―の三つの方策が考えられる。

 一時の円滑のために明確な主張をせぬことは、竹島に対する韓国の実効支配を黙認する結果となり、わが国益を損なうのみならず、両国間の感情的しこりを恒久化させるばかりであろう。日韓条約中の「懸案」というあいまいな表現が竹島問題の解決を困難にしたのと同様、現内閣の不明確な態度は問題解決をさらに遷延させる以外の何ものでもない。

 韓国の竹島への執心はすさまじく、私は昨年だけでも二つの韓国テレビ局の取材を受け、そのたびに日韓双方が国際機関の裁定に潔く服するのが最良の解決法であることを主張してきた。だが、これは本来政府のいうべき事柄である。問題回避はかえって事態を悪化させる。明確な言葉で日本の国家意思を内外に対して表明することこそ、政府刻下の急務ではないか。

(平成17324日)

 

(4) 竹島問題の経緯

昭和

21・ 6・22

マッカーサーライン設定(27.4.25廃止)

 

27・ 1・18

韓国李承晩ライン宣言

 

1・28

口上書をもって抗議(竹島は我が国の領土)

 

29・ 6・17

韓国内務部、竹島に海洋警護隊を駐留させる旨発表

 

 9・25

我が方より、口上書にて国際司法裁判所への提訴を提案

 

10・28

韓国側、口上書をもって日本側の提案を拒否

 

40・ 8・22

「紛争の解決に関する交換公文」を締結

 

52・ 2・ 8

読売新聞社所属機の竹島上空飛行

 

 2・24

福岡毎日放送チャーターのヘリ、竹島上空飛行

 

53・ 9・ 3

10回日韓定期閣僚会議の際の外相個別会談で提起

 

56・ 3・ 3

伊東外相訪韓(全大統領就任式)時、蘆信永外相に提起

 

57・ 7・ 3

李範錫外相来日時の会談で、安倍外相より提起

 

58・ 1・12

中曽根総理訪韓の際、外相会談にて提起

 

 8・26

12回日韓定期閣僚会議、外相個別会談にて提起

 

11・28

日韓外相会談にて提起

 

59・ 7・ 7

日韓外相会談にて提起

 

 9・ 7

全大統領訪日時の外相会談にて提起

 

12・21

日韓外相会談にて提起

 

60・ 7・27

日韓外相会談にて提起

 

 8・30

13回日韓定期閣僚会議、外相個別会談にて提起

 

61・ 9・10

1回日韓定期外相会談にて提起

 

12・ 6

14回日韓定期閣僚会議、外相個別会談にて提起

 

62・ 5・ 4

2回日韓定期外相会談にて提起

 

63・ 3・21

3回日韓定期外相会談にて提起

平成

 1・ 4・ 1

4回日韓定期外相会談にて提起

 

 2・ 4・30

5回日韓定期外相会談にて提起

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