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2007-10-02

ビルマについて思うこと

今月は書かないでおこうと思っていたが、BigBang さんによる、二つの記事、

It's BigBang - インターネットを遮断したミャンマー軍事政権とブロガーの戦い

BigBang - ミャンマーのこと---相対主義の地獄を超える

を読んで、ビルマについて思うことを書くことにした。それに伴って、このブログのプライベートモードへの移行を更に数日遅らせることにする(プライベートモードへの移行は「長休中」の措置であり、閉鎖するわけではない。活動期になればまたオープンにする)。


あの国をミャンマーと呼ぶか、ビルマと呼ぶか、国名変更が軍事政権の意思でなされたことから、それを認めるか否かで、すでに政治的な選択が迫られる。僕がかの国をビルマと呼ぶのは、政治的な意思からというより、政治的な意思に加担したくないからだ。

つまり、単に、歴史的な呼称を用いているに過ぎない。

ビルマに関する、僕の知識は拙い。関心もそれほど強くはなかった。

それを知るがゆえに、おそらく BigBang さんの檄がなければこの記事を書こうとは思わなかっただろう。多少なりとも、分析、としての体裁を整えるためには、僕が持っている材料は余りに少ない。ブロガーとして、それが出来ているかどうかは別にして、僕にもせめて分析記事としてかろうじて成り立つくらいの形は整えたいという欲はあるから、そうであれば尚更、不明であることが分かりきっている方面には手出しをしたくない。

それが結果として、沈黙となる。

僕はビルマについて不明と書いたが、平均的な日本人を想定すれば、まだしも多少は知識があるほうだろうと思う。それはおまえの傲慢だよと言われるのであれば、傲慢でも構わないが、僕の持っている断片的な知識も、高校で世界史や政治経済をやったことがない人には、なおのこと縁遠いものだろう。

僕が持っている知識とて、知識ともいえないような怪しげなものばかりだ。

なにしろ、ビルマと聞いて、僕がぱっと思いつくのは「ビルマの竪琴」と、ウタント、オーウェルビルマで警察官をやっていたこと、北朝鮮によるテロ(ラングーン事件)、麻薬の栽培、仏教国ということ、インパール作戦、そしてアウンサンスーチー、それくらいだ。


そのようなあやふやな状況で何かを言うえば、他人の思惑によって踊らされるリスクが高くなる。

もちろん、ここまでがあやふやで、ここから先はそうではない、というラインはない。知識の絶対量の不足を理由として、目の前の暴虐に、沈黙をしてよいのか、ビルマの騒乱が僕に突きつける個人的な問題はそういうことだ。

BigBang さんのおっしゃる相対主義の地獄はもちろん問題意識として分かるが、僕が逡巡しているのは、相対主義で価値判断を相殺しているのではなく、相対主義を前提としながらも、おのれの内的な欲求として何かを選びとる、その確信を得るための思考、思考の材料となる知識が不足しているからだ。

1991年、アウンサンスーチーがノーベル平和賞を受賞して以来、日本の保守系論壇誌では、取り上げられた回数は少ないものの、何度か、欧米的な価値判断から、政治的な要求が背後に見え隠れする、欧米のイデオロギー外交戦略のひとつのケースとして、アウンサンスーチーが取り上げられていた。

その見方が正しいのかどうかさえ、僕には判断がつかないが、幾つか思うことはある。

発展途上国には決して珍しくない、独裁の中で、果たして特にビルマがとりたててニュースバリューがあるような特異な存在なのか。

イギリスのメディアが示す、異様と感じなくもないこの地域に関する関心は、植民地主義のニュアンスとまったく無縁なのかどうか。

ビルマの軍事政権が中国と接近しつつある現況、保守系論壇もビルマについては別の考えが生じているかも知れない。

こうした僕のかすかな疑義は、軍事政権による民主的な選挙の妨害、弾圧を是とするものではないけれど、何かしらの意見を表明するのであれば、自分としてはそうしたことも消化し、踏まえたうえで、言いたい。

それは、そっちにもまずい点はいろいろあるだろうと言って、批判を相殺し、相対化する態度ではなく、単に目配せをしたうえで、タフな考察に根ざしたいという欲求だ。

ビルマの問題を主要の関心事としてテーマと追ってきた人にすれば、何を今更と、僕の意見の不在そのものが非難の対象になり得るだろうが、僕としては、時間がいま少し自分には必要だと思うのも、また事実だ。

こうした態度が、わりあい火急な状況の時には、ほとんど役に立たないだろうことは推測できる。

とにかく目の前の状況を見て、声を上げること、BigBang さんのそうした態度が今回は正しいのだろうとも思う。

ただ、そういう湧き上がる声としてのブロゴスフィアもあれば、また別の(アナライザーとしての)ブロゴスフィアもあると思う。自分としては両方に軸足を置きたいが、今回は反射するだけの、内的な欲求がないのだ。

それもまた問題だろうが、今はともかく、そう思う、ということだ。

2007-09-28

皇太子殿下は国技館に足を踏み入れるべきではない

諸兄、ご存知のように、大相撲・時津風部屋で親方も加担したリンチ殺人事件が起きた。

北の湖理事長は、過去10年に遡って同類の事件がなかったかどうか検証すると文部科学省において言った。

こうしたリンチがしごきとして、常態と化していたことは多くの人の言を待たずに自明だ。地獄のような縦社会から、血反吐を吐きながら這い上がることで強くなる。

大相撲とはそういうものと見られてきた。そういう文化だと。

単純に言って、単に強い力士を作る目的だけで言うならば、剣奴をしごくかのようなやり方に必ずしも理がない訳ではない。ただ、それは往々にして暴力を伴い、人権を踏みにじるというだけのことだ。

問われているのは、文化の名の元に、人間を奴隷のように扱うことが許されるのか、あるいは、享楽的な元老院議員のように、血反吐の中から作り上げられる文化を手を叩いて喜んで享受するのが許されるのか、ということだ。

大相撲が裏幕でかような実情を持っていると暗黙のうちに知っておきながら、文化の名において、その娯楽を享受してきた人たちが道義的責任を免れることはない、と僕は思う。

まして、人権思想を基盤に据える、憲法に基づく地位にある天皇家の人たちが、その規範から大きく外れかねない文化を娯楽として許容することは決して看過できない、もはや天皇家の人たちはいかなる形であっても大相撲と関わるべきではない、僕はそう思う。

無論、公営放送であるNHKも中継を止めるべきだと思う。

暴力の影もない、漂白された大相撲がもはや大相撲としては維持されないというのであれば、そのような文化は滅びてしまえばいい。

人をひとり惨殺しておきながら、正当化を許す文化の型などは、日本国にあってはならないものだ。

2007-09-27

新内閣からメールがあった

内閣メールマガジンの配信のお知らせだけど。

福田内閣でもメールマガジンを配信するよう。

福田内閣においても、国民のみなさんとの対話を積極的に進めるため、

メールマガジンの配信を予定しております。みなさんからご愛読いただける

ような内容の企画にとりかかりました。是非ご愛読ください。現在登録いた

だいているメールアドレス*1に配信いたしたいと考えています。

僕は何度も配信停止の手続きをとった。確かに小泉内閣メールマガジンは配信して貰っていた。安倍内閣になってから見るのも嫌だったので、配信停止手続きをとった。

なのにどうしてまだ配信されるの?

配信していただかなくて結構です。もう一回、配信停止の手続きをしてみよう。

10月になったら

またしばらくお休みします。

声優残酷物語

勝田声優学院ウェブサイトのQ&A(via ハムスター速報2ろぐ)を読む。

歯に衣を着せぬというか、実に率直な回答だ。

声優の年収について、稼いでいる人は6000万円以上というが、そんな人はほんの一握り、稼げる時期もかなり短いだろう。トップでさえ6000万円程度なのだ。

サラリーマンでさえ、トップになれば億を稼いでいる人も珍しからぬのに。

役者稼業が不安定なのは当たり前だが、声優はそれにしても、対価が安すぎる。

声優になりたいと若い人が言って、少しでも実情を聞いたことのあるまともな大人であれば、その子の実家がよほど資産家というならばともかく、まず、「頑張れよ」とは言わないだろう。

夢を追う若者を応援する云々のレベルではない、相当な苦難が行く先に待っているだろうことを思えば、気軽に言えたものではない。


1988年に声優の永井一郎さんがオール読物紙上に「磯野波平ただいま年収164万円」なる文を寄稿した。

日本俳優連合のショッキングな実態公表というページに経緯が詳しく書かれている。

その記事は発表当時、かなり話題になった。父がその雑誌を買ってきたので、僕もリアルタイムで読んで、衝撃を受けた。

1988年といえば今からおおよそ20年前のことだが、物価はそう大きく上がっていない。考慮しても、当時の164万円は今に直してもせいぜい200万円程度だろう。

当時の164万円という水準は、4人世帯に対する生活保護費よりも少ない。

永井一郎さんは日本を代表する実力派で、当時も今も、トップクラスの声優だ。「サザエさん」という安定した高視聴率番組にレギュラーを持ち、当時は他に、「うる星やつら」などの人気番組でもレギュラーを務めていた。

日本人で彼の声を知らぬ人はいないだろう。

その彼が、年収164万円というのだ。ありえないだろう。

年収164万円という数字は、「サザエさん」のギャランティに限っての話ということもあるが、それにしても考えられない水準だ。

サザエさん」は高視聴率の長寿番組で、いまさら声優変更など視聴者が許さない。比較的、声優の立場が強い番組とも言えるが、2001年の水準で、改善してなお、永井さんのギャランティは305万円程度という。これ、月収じゃなくて、年収だからね。

他の人の状況はおしてはかるべし。

永井さんクラスだと、億くらいは稼いでいると普通の人は考えるに違いない。夢と実態の間にどれほどすさまじい乖離があることか。

永井さんのこの問題提起以後、人気声優らが結束し、待遇改善を訴え、それでも状況は比較的ましになったという。ましになったと言っても、永井さんクラス、「サザエさん」ほどの人気番組で年収305万円という水準ではあるが。

今のアニメーションに出てくる声優の人たちは、ほとんど聞いたこともない若手の人たちばかりだ。

僕が今の声優さんに疎いということもあるが、それにしても80年代、90年代に活躍した声優さんはほとんど見ない。NHKのアニメーションは比較的そうしたベテランを使うことがあるようだが。

これは待遇が比較的改善された副産物として、製作側がギャラが高額(高額といってもあくまで比較しての話で、考えられないほどの低水準であることは違いない)になるベテランを使えない、使わないということがあるよう。

声優は保証がなにもない代わりに一生ものの仕事と言われていたが、声が老化していなくとも、ベテランがこうして結果的にどんどん外されている。人は一生、若手であるわけにはいかないのだ。

プロダクション経営などに転じた人は別にして、中には相当厳しい老後を迎えている人もいるという。

人気、実力ともにトップクラスの声優を揃えたことから「銀河声優伝説」とも呼ばれるOVA「銀河英雄伝説」に出てくるような、日本人の誰もが聞いたことのある声を持つ声優さんは、今ではTV番組のナレーションなどで稀に聞けるだけだ。

冒頭のリンク先Q&Aの最後の返答が、いやに生々しくて、天を仰いだ。

Q21 ある声優さんから「アニメは家で見ている方が楽しいものだ」と言われました。声優の仕事は楽しくないのですか?

 楽しいと思う前に苦しみが多すぎるのです。マイクの前に立てるまでには、想像を絶する苦しみがあり、仕事が出来るようになれば、日々新たな仕事で、これまた苦しみの連続なのです。

Q22 その苦しみとは、どんなものですか?

 一に創造、二に経済、三に人間関係。日々新たなものを創る苦しみ、貧乏とのたたかい、制作関係者や先輩との交流、神経を使うことが多すぎるのです。

なぜ、声優がかくも貧乏なのか、ひとつには代理店などの中抜きが甚だしくて、現場にカネが回らないという日本のテレビ番組に共通した問題がある。

もうひとつは、スポンサーの幅が狭く、それほど高額のスポンサー料が望めないという、アニメ作品という性格上、やむをえない事情もある。

更にはCM出演などの副業が望めないということもあり、安く使い捨てても、次が補充できるからでもある。

勝田声優学園の学園長は、「鉄腕アトム」のお茶の水博士役などで知られる声優、勝田久さんだが、声優養成学校は、自らの経済的基盤を安定させる方策であると同時に、声優としては、上記のような「声優使い捨て」の構造を強化する役割を実質的に果たしている。声優養成学校が悪いわけではないけどね。

その複雑な思いが、Q&Aでの率直な物言いとなっているのだろうかと思った。

*1:“メールアドレス”の部分には登録しているメールアドレスが入る

2007-09-26

福田内閣発足

福田康夫という人物をどう評価するか。いろいろに複雑な胸中がある。

能力があるのは認める。おそらくそう外れた運営もしないだろう。

現実を重視する政治家を僕は評価してきたので、ある意味、理想に近い政治家ともいえる。

しかし好きではない。もやもやとしたものが残る。

ないものねだりで駄々をこねているようで、子供じみているようにも思う。しかし漠とした不安はある。

官房長官としては、幾つかの小さな瑕疵はあったが、まことに偉大な人だった。ただ、長期を見据えてグランドデザインを描いてゆくようなことが果たしてこの人に出来るかどうか。安倍前首相には少なくともその意欲はあったように思う。

意欲ばかり空回りして、それで失敗したのだが。

安倍前首相を批判したのであれば、福田首相を歓迎してもよさそうなものだが、なかなかそういう気分になれないのは、我ながらどう評すべきなのだろう。

麻生首相、福田官房長官の組み合わせが、ふたりの路線の違いがあってもなお、自民党や今の日本にとってベストの組み合わせだっただろうと思う。もちろん机上の計算であり、実現性はもとよりなかった。

一昔前の学園ドラマの教頭先生のような印象もあるが、地位が人を作ると言う。

昨日の新首相記者会見を見ていて思ったのだが、首相が会見場に入っても、記者は起立をしないよう。あの狭い会見場ではわずらわしいし、虚礼は行わない、ということなのだろう。

が、権威主義云々ではなく、一国の首相には、批判すべきところはするにしても、相応の敬意が形として示されても良いと思う。それに値する任務だと思うし、敬意を評することは、敬意に値する人物となることを暗黙のうちに促すことでもある。

記者が国民の前衛としてああした場にいるのであれば、首相を教育してゆくのも、責任のひとつだと僕は思うけど、どうだろう。政治家べったりの、芸者めいた日本の政治部記者には過ぎた要求だろうか。


福田内閣の顔ぶれは多くは留任であり、横滑りしたのも経験者だ。

高村防衛大臣外務大臣に横滑りしたが、彼は小渕内閣でも同職を務めている。外相としての評価は非常に高かった。今回も能力的には何の不安もない。

石波茂氏は小泉内閣で長く防衛庁長官を務めたが、今回も防衛大臣として入閣した。おそらく自他共に任じる、防衛問題のエキスパートだ。

文部科学大臣には幹事長に転じた伊吹氏に代わって渡海氏が就任した。

官房長官は僕は細田さんがいいのではないかと思っていたし、下馬評にもあがっていた。森さんによる評価は厳しかったが、細田さんは小泉内閣の官房長官として、手堅くその職責を果たした。福田氏の細田評も非常に高いものがあるとも聞いたが、今回は幹事長代理に留任した。

与謝野氏も留任したとしてもなんら不都合はない、自民党きっての人材だが、官房長官はやはり総裁派閥から出すのが慣例だ。

結果、町村外相が横滑りしたが、町村氏は官房長官向きではないようにも感じるがどうだろう。むしろ幹事長の方がいいようにも思ったが。

他の閣僚の多くは留任となった。

安倍色の強かった首相補佐官でも、中山恭子拉致問題担当補佐官が留任したのは、これは当然だとしても(彼女はシンボルになっているので外せるはずがない)、山谷えり子教育再生担当補佐官まで留任している。山谷氏はどう考えても、福田首相の好みではないだろうが。世耕氏は外れたのか外されたのか、ともかく一回お休みになったようだけど。

国会開会中ということもあって、答弁重視からこういう布陣になったよう。


福田首相も謝罪したが、国会を二週間も停滞させた責任はすべて自民党にある。

総裁選をしないよりはしたほうがよかったにせよ、結局のところ総裁選は自民党の私事だ。

こうした事態に備え、総裁が辞任・死亡した後に総裁職を継ぐ人物をあらかじめ決めておくべきだろう。

名誉職的な副総裁なる地位はあったが、きちんとした副総裁を決めておくべきだ。

今回は不測の事態だとしても、同じことを二度繰り返せば、自民党の責任は厳しく問われ、糾弾されるべきだ。

そうならないよう、制度上の手直しをしておくのも、福田総裁の仕事だと言える。

2007-09-25

死刑

僕は死刑廃止論者だ。なぜそうなのかについては、一般的な廃止論者の考えとそう違わないから詳しくは言わない。

以前言ったかもしれないが、僕のごく近い身内が殺人事件の被害者となったことがある。詳しくいうと足がつくので言わないが、犯人は少なくとも死刑にはならなかった。

だから遺族の気持ちを考えろ云々は、僕としては充分に、のたうちまわるほど見てきたので、わざわざ他人にそれを指摘して貰う必要はないと言っておく。

そのうえで、僕は死刑廃止論者であることを選んだ。

NIKKEI NET - 鳩山法相「署名なしで死刑執行を」

 鳩山邦夫法相は25日の閣議後の記者会見で、死刑執行の現制度について「法相が絡まなくても、自動的に客観的に(死刑執行が)進むような方法を考えたらどうか。法相に責任をおっかぶせる形ではなくて」と述べ、法相の署名がなくても執行できるように制度を変更すべきだとの考えを示した。

 鳩山法相は「死刑を受けるべき人間は執行されないといけないが、(法相は)誰だって判子をついて死刑を執行したいと思わない」と発言。執行の順番について「ベルトコンベヤーって言ってはいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば、次は誰かという議論にならない」と述べた。

鳩山法相のお考えは、法相も人間である、ということを考えれば、一理あるが、法相は機関でもあるということを考えれば、死刑制度の重要な部分を棄損するようにも感じる。

僕は死刑制度には反対だが、それは国家の法である以上、法がある限り、行政がそれを遵守するのは当然だと思う。

個人的な信条や宗教的な感情から、法相に課せられた責務を果たさない者はそもそも法相になるべきではないと思う。

後藤田正晴法相は、職務として執行書に署名をするのは当然とばかりに停滞していた死刑執行を多数さばいたが、一方で、彼にしても、疑わしいケースについては執行を保留したのだった。

執行を保留するのも法務大臣の職責だ。それはそもそも執行を拒否するのとは全然違う態度だ。

吟味し、熟考し、その上でしかるべき事件については執行してゆく、疑いの残る案件については保留する、その判断をするのが法務大臣の仕事であって、そもそも執行を拒否するのが職責をまっとうしていないのであれば、判断を行わない、自動的に処理しようと言うのも職責からの逃走である。

よろしいか。大臣は国家を背負っているのだ。その意味が鳩山法相にはお分かりでないようだ。

機能としての自分を掲げることが出来ぬならば、政府になど入るべきではなかろう。

Habbo Hotel

ひさしぶりに Habbo Hotel にログインした。5年ぶりぐらいじゃなかろうか。

Habbo Hotel は自由度の低いセカンドライフみたいなの。

Habbo Hotel の自分の部屋で、僕は犬を飼っていたのだが、そいつとも5年ぶりにご対面。

ごめんね、5年も餌をやるのも忘れていて。

オンラインペットは餌をあげなくても死なないところが好きさ。

2007-09-24

立場が違う、感覚が違う

先日書いた、個人ニュースサイト、ゴリラブ−ツさんがリンク、それをまなめはうすさんが、

個人ニュースサイトはシャンペンタワーのようにやってくる

http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070921/p1

(情報元:ゴリラブーツ

上記のように記述してリンクなさった。「〜シャンペンタワー」で書いた、情報元は書くけども、書き手の名やブログ名は書かない慣習のまさしく一例なのだが、これについて、まなめはうすさんは氏によるブログ、304 Not Modifiedで、お考えを述べておられる。

前半で、まなめはうすさんは、情報元を明記することはそれ自体が読者への情報提供だとおっしゃっている。

それについては僕は別段、異論も反論もない。

ただそれでいうならば、著者名やブログ名を提供するのも情報提供ではないかと思うが、それについてはリンクが張られているわけだから、めいめいでご確認を、ということなのだろう。

後段で、以下のようにもおっしゃっている。

書き手が有名であっても無名であっても、優秀な人であってもそうでない人であっても、平等に記事の内容で判断されて読まれるべきだと思うんです。そう考えると、紹介した記事のサイト名を載せてしまうことって書き手にこだわっているように思われませんかね?

まさしくここに、書き手と情報紹介者の断絶があるように感じた。

書き手にとって自分は唯一無二であり、書かれた物は自分から生じた、自分の派生物である。それが他人に価値があろうとなかろうと、優秀かあるいはそうではないと評されようと、そんなことに関係なく、自分の作品である。

そのこだわりがごく個人的なもので、他人には意味を持たないことはむろん、僕も知っている。だから記事が属人的でなくなり、著者やサイトから切り離されて情報として流通することが公益だと思うし、その観点から情報を流通させる人はそうさせればいいと思う。

僕はべつだん、マナーが悪いとか良いとか、そういうことを言っているのではない。

ただ、少なくとも僕は、書き手としては飲み込み難さを感じるということなのだ。それは、まさしく自分がマテリアルとして処理されるから。

僕は情報ではなく、ここで日々の思いを書いている人間だ。僕にとっては当たり前のことだ。

しかし他人には情報として処理されることもあるだろう。

僕以外の人間が僕ではないのだから、それもまた当たり前だ。だから僕はそれは非難しないし、そういうものとして受容しよう。

ただ、情報元のニュースサイトは明記され存在をあらわにされるのに、当の記事を書いた僕が透明人間のように扱われることが、書き手としての僕のエゴに鈍い痛みを与える、というだけのことだ。

その痛みは甘受しよう。甘受はするが、痛いものを痛くないということは出来ない。

思うに、ワールドワイドウェブにコンテンツを提供するものは、少しづつ鈍い痛みを感じつつ、要素となることを甘受して、全体の中に融けているのかも知れない。

麻生太郎善戦

自民党総裁選で、福田康夫元官房長官が330票を得て、当選したが、対立候補の麻生太郎幹事長も197票と健闘した。大手マスコミの多くは、麻生氏については大敗と初期報道では評したが、数字だけを見るにどう見ても、麻生氏がかなり善戦したように見える。

獲得議員票132票は、麻生派の規模が15名であることを考えれば、党内に支持を広げたことが明らかだ。

福田圧勝になり過ぎて、派閥政治復活の批判が高まらぬようあらかじめ票を分配していたという話も聞こえるが、ある程度はそういうことが仮にあったとしても、その思惑を大きく越えた数字を麻生氏は残したようにも思う。


麻生氏はもともと反構造改革の立場であり、小泉改革の継承者とは言いがたい。ただし小泉首相の採った外交路線を比較的継承する立場ではあろう。

福田康夫氏はもともと反田中角栄的な立場であったとするならば、構造改革という面ではおのずと小泉首相に立場が近い。ただ、外交路線では、ある種の究極のレアルポリティークを標榜する立場であり、ウィルソニズム的な要素を排除する姿勢から、若干、情緒にぶれがちな右派とは毛色は違っている。

内政に力点を置くか、外交に力点を置くかによっても違ってくるが、いずれにしても左派ではあるまい。

セーフティネットの拡充などは、むしろ麻生内閣で進められる可能性が高かったと思うが、民主党支持者が福田氏のほうを好むとしたら、その人は内政よりは外交を重視しているというか、判断のプライオリティが国民の生活がどうであるかよりも、中国に形の上だけでも親和的であるかどうかがに置かれているのだろう。


思想信条的には、どちらがいいというほどの立場もないが、児戯めいた感情から言えば、郷里出身の二人目の首相が出て欲しかったという思いは少しはある。

こういう身びいき主義は日本の政治をむしろ悪くしてきたのだろうけど。

同郷ながら麻生氏を支えなかった古賀氏と山崎氏には、正直に言って、かなりの悪感情がある。次の選挙で彼らが落選すればいいと思うが、山崎氏はともかく古賀氏はそうはならないだろう。

僕の実家は山崎氏の選挙区なので、民主党支持者でもあるし、山崎氏に投票しないよう友人知己に呼びかけてゆくことにしよう。

2007-09-23

正統を引き継ぐ者

昨日書いた記事、首相の不在で、合衆国大統領が不例に陥った時、権力が副大統領に継承される手続き規定が合衆国憲法中にあることを言った。

さすがにアメリカは「まさか」の時に備えているが、実はこれでも完全ではなく、副大統領が不在であれば、規定として意味をなさない。

前記事で引用したフィナンシャルタイムズの記事では、TVドラマ「ザ・ホワイトハウス(the West Wing)」で、大統領権限が適切に引き継がれなかったエピソードを紹介しているが、このドラマでは、大統領が自ら大統領権限を一時停止するエピソードもある。

アメリカの政治制度を知る上では、すごく参考になるドラマだ。僕もファンなのだが、NHKが続きを放送してくれないので、中途半端なところで話が止まっている。

マーティン・シーン演じるバートレット大統領は、イスラム過激派と思われるテロリストに娘を誘拐され、自ら、正常な判断能力を維持できないと表明し、事件が解決するまで、一時、大統領権限を別の者に預けることにする(NHKが続きを放送しないので、この事件が未解決のまま、日本の視聴者は待たされているのだ)。

ところがその時点で、副大統領はセックススキャンダルに巻き込まれ、機密漏洩もあり、その責任をとって辞職しており、副大統領が不在だった。

このエピソードを参考にして、僕は以前、大統領への昇格なる記事を書いたが、そこにも書いたとおり、副大統領が不在の場合、次の継承者は下院議長になる。ドラマでも、下院議長が一時、大統領権限を引き継いだが、副大統領が上院議長を兼務することを除き、行政府と立法府の職を兼ねることは出来ないので、下院議長は下院議員を辞職し、大統領代行となった。

このエピソードでは、大統領が自ら思い立って、大統領権限を一時放棄したのだが、仮に副大統領が不在の状況で、大統領が脳溢血などで倒れれば、もうどうすることも出来ない。

大統領権限を他者が停止させられるのは、副大統領が発議して各省庁の長官の過半数の支持を得られた場合に限り、副大統領が不在であれば、発議がそもそも出来ないからだ。

実際にこのような状況が起きる確率は限りなく低いが、仮に発生したならば、おそらくなんらかの融通が常識的につけられるのだろう。

行政職としては副大統領に次ぐ地位にある国務長官が発議するか、あるいは副大統領に次ぐ継承順位にある下院議長が擬似的な副大統領代行として発議するか。

このブログでは過去に何度か、皇室典範の不備を指摘しており、継承危機が起きかねない状況を考えてきたが、権力や権威の継承は、どれほど注意深く事前に法的に備えたとしても、あらゆる状況を考えていけば、「抜け」がある。

国家が存続してゆく上で根本たる、政府の合法的な継承が立ち行かなくなる可能性はつねにあり、なるべく多様な、「考えられる状況」に継承法は備えておくべきだと思う。

実際に社会に通用させるために、法には常に、敢えて曖昧にしておく余地はあるが、政府や君主の継承は国家が存続してゆくうえで、最重要の要件なので、曖昧さの余地は可能な限り塗りつぶしてゆくほうがいい。


小渕首相が倒れた後に見られた、青木幹夫(内閣官房長官、のちに自由民主党参議院会長)、森喜朗自由民主党幹事長、のちに首相)、野中広務自由民主党幹事長代理、前内閣官房長官、のちに自由民主党幹事長)、村上正邦自由民主党参院議員会長、のちに受託収賄の容疑で逮捕、自民党離党、参議院議員辞職)、亀井静香自由民主党政調会長、のちに離党)のいわゆる五人組が道順を作った、小渕内閣の総辞職、森内閣成立への流れは、常識的には危急の時に、事態を収拾した行為とも評されるだろう。

しかし法律上の手続きの合理性はあくまで青木幹夫官房長官が小渕首相に聞いたという、首相辞任および内閣総辞職の意向の伝達、ただそれだけにかかっている。

国民に向けて、小渕首相が自ら広く意向を表明したわけではない。

小渕首相の意向があったかなかったか、あったという伝聞が崩れれば、手続き的にはまごうことなきクーデターそのもので、国家における正統がいかに重要であるか、非常に軽視されていたという感も抱く。

小渕首相の意向があったという証明が充分になされないのであれば、国によっては少なくとも青木官房長官は国家反逆罪になりかねない話だ(刑法77条の内乱罪は、手段が暴動による権力奪取ではないので適用されないだろう)。

もちろん日本人の常識で言えばおそらく「なにをまた頓狂なことを言っているか」と、僕が述べているようなことは評されるだろう。それもまた非常に日本的な反応だと僕は思うわけだ。

国家の中心の、そのまた中心である内閣総理大臣の権力の継承でさえ、場合によっては厳密な法理ではなく、まあまあそれはおいて置きましょうという世間知が優先するのだ。

政府の停滞を避けることを優先するということは、この場合、厳密な法理を軽視するということでもある。

しかしそれを、五人組の当事者たちはまったく危惧することもなかろうし、おそらく圧倒的多数の日本人も、問題視しないだろう。

僕がちょっとした棘をこの事件の処理のされ方に感じるのは、事件の処理そのものよりも、人々の世間知をひたすら優先させる眼差しに対してだ。

たぶん天が落ちる可能性を憂うような、無為な憂いかも知れないと我ながら思わないでもないが、我を笑う口元に、じゃっかんの引きつりを覚えなくもない。

2007-09-22

首相の不在

gooニュース-総理がいなくてもやっていける日本――フィナンシャル・タイムズ

↑の記事の原文


フィナンシャルタイムズのデビッド・ピリング記者は12日に安倍首相は辞任したと書いているが、辞任表明をしただけで、まだ辞任はしていないのではないだろうか。

今現在、実際に政府を運営しているのは与謝野官房長官だろうが、政府の首班が事実上不在でも、日々の業務が動いていることに、首相権力の弱さを見出す趣旨そのものは是とするとしても、制度的な問題に絡めるのであれば、首相が辞任したのか、辞任表明をしただけなのかはかなり大きな違いであるように思う。

内閣法の第9条に次の規定がある。

内閣総理大臣に事故のあるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に、内閣総理大臣の職務を行う。

安倍首相は入院中だが、連絡は緊密にとれているとして、与謝野官房長官は首相臨時代理を置いていない。つまり「内閣総理大臣が欠けたとき」には相当していないと見なされているのであって、それでいうならば首相はまだ辞任していないのではないか。

首相が欠けたとき、内閣は総辞職するものだと僕は思っていたので、今回、内閣法を読んでみて、必ずしもそうではないことを知った。

つらつら思うに、そう言えば、大平正芳首相が1980年、総選挙の最中に急死した時、選挙中ということもあってただちに首班指名が行われず、当面、伊東正義官房長官が首相臨時代理を務めたはず(総選挙後、鈴木善幸氏が首班指名を受けた)。

僅かな期間とはいえ、首相が不在だった時期は実際にあるわけだ。

しかし、首相がいなければ、国務大臣のうち首相臨時代理が必ずたつわけで(実際には官房長官がそれを務めることが多い)、内閣そのものが不在になることはない。

問題は「首相が欠けたとき」とはどういう状況なのか、誰が判断するのか、それが曖昧であって、小渕首相が倒れた時に浮かび上がった問題はこれだった。

酷な言い方になるが、死ねば問題はないのだ。問題は、誰の目にも明らかな死亡状態にまでは至らない場合だ。例えばいきなり脳死状態になって、脳死は人の死かどうか云々という問題が浮かび上がる可能性もあるし、意識不明になれば、首相は辞任することも出来ないから「首相が欠けたとき」にはならない。

そうなると首相を辞めさせるには国会で不信任決議を可決するか、国会を解散した上で(解散するのも首相だが、任期満了の場合は首相の意思がなくても解散になる)、新たに首班指名をするしかない。

その間、首相臨時代理を置くこともできず、閣議も行えず国政は麻痺する。

小渕首相が倒れたときは、当時の青木官房長官が「辞任の意向を伺った」ということにして、首相臨時代理に就任した。おそらくこれは嘘だろう。

真相は関係者の誰もが墓場まで持っていくだろうが、当時の小渕首相はすでに何かしらを指示できる状態ではなかったという。厳密に法理的にいえば、これはクーデターだが、国会が森喜朗氏を首班指名することで、事後的に追認されたといってよいだろう。

当時、こうした緊急時における首相権力の継承規定が不充分であることが問題視されたが、最高権力者が意識混濁に陥り、事実上、執務不能になった時、政府を遅滞なく継承してゆくにはどうすればよいか、万全の備えがある国のほうが少ない。

それはある種のクーデター的な手続きを内包することになるからだ。

民主主義国家で、行政府の首長が、長期的、かつ回復が難しい執務不能状態になった例自体がさほどないのだが、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の例がそれに近いだろう。

ウィルソンは、20世紀初期に久し振りに出た民主党の大統領だったが、第一次世界大戦に参戦し、戦後の国際秩序をリードしたことでも知られる。

理想主義的な介入主義の立場を意味するウィルソニズムの語源となった人でもある。

ウィルソンの提唱で、国際連盟が第一次大戦後、成立したが、当のアメリカでは孤立主義の勢いがなおも強く、連盟に加盟できなかった。

事態を打開すべく、直接国民に訴えるために、ウィルソンは精力的に各地に演説に回ったが、強行軍が過ぎたのだろう、脳梗塞を起こし、以後、執務不能状態に陥った。

このことは伏せられ、大統領の執務を実際に執り行ったのは、大統領夫人だったという。

権力者が隠れた時、権力者に距離的に一番近い立場にある人が、権力者の意思を託宣するのだ。それが真に権力者の意思をそのままに伝えているのか、誰にも分からない。

シーア派の「隠れイマーム」をなにやら思わせる。

日本語版ウィキペディアではこのあたりの事情について、以下のように書いている。

1919年10月2日、コロラドで脳梗塞を発症、左半身不随となった。しかし大統領の執務不能という事態は秘匿され、これ以降は夫人のイーディスがすべての国政を決裁した。こうした事実が明らかになったのは実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。

ウィキペディア-ウッドロウ・ウィルソン

憲法修正第25条制定、というのは、大統領任期中の大統領職継承手続きについて述べられた条文で、それまで慣例的に行われてきた、大統領権限を引き継いだ副大統領が大統領に昇格することを明文化した以外に、重要な規定として、執務不能状態に陥った大統領が「大統領権限を奪われる」条件を明記した部分がある(第4節)。

駐日アメリカ合衆国大使館のウェブサイトにその部分の邦訳が載っている。

副大統領および行政各部の長官の過半数または連邦議会が法律で定める他の機関の長の過半数が、上院の臨時議長および下院議長に対し、大統領がその職務上の権限と義務を遂行することができないという文書による申し立てを送付する時には、副大統領は直ちに大統領代理として、大統領職の権限と義務を遂行するものとする。

副大統領が主導して、各省の長官の過半数が承認すれば、副大統領は大統領代行となり、大統領権限を引き継ぐようになっている。

大統領に対する、副大統領による恣意的なクーデターを防ぐために、ハードルが高くしてある。

日本は議院内閣制なので、こうした規定がなくとも、首相を罷免することは出来る。小渕首相の時も、本当は国会で内閣不信任決議を可決させるべきだったのだと思う。数日、国政が停滞するとしても。

それは法治国家に不可欠なコストではないだろうか。

2007-09-21

id:gamil さんが id:gmail さんに見えてしまう件

毎度毎度、確認してしまう。

[追記]

ちなみに、id:gmail さんも実在するよう。

あ、そうそう

ポイントを送っていただいた方、ありがとうございました。

今までも多数の方からポイントをいただいていたのですが、御礼が遅れまして、申し訳ありません。

今後、いただいた場合、たぶん表向き無反応だと思いますが、当人、深く、謝しておりますので、その意をお汲みとりください。

個人ニュースサイトはシャンペンタワーのようにやってくる

このブログは、平均すればだいたい1日1000PV程度、月間PV3万ちょっとの、吹けば跳ぶような規模なのだが、今月は大手の個人ニュースサイトに取り上げられることが多かったせいか、ぽーんとPVが跳ね上がった日も何日かあった。

世に、個人ニュースサイトあまたあれど、そのうち幾つか大手と呼ばれるサイトがあって、そうしたサイトに取り上げられると、連鎖反応で複数の個人ニュースサイトに取り上げられ、PVがはねあがるよう。

そうしたニュースサイトを見ていて、面白いなと思うのは、記事を徹底して、サイトから切り離して提示していることで、例えばこの記事、「個人ニュースサイトはシャンペンタワーのようにやってくる」というタイトルは書いても、green というブログ名や Mr_Rancelot という著者名は省略される。

記事が、ブログや、著者からも切り離されて提示されているわけで、僕はちょっと抵抗を感じた。

抵抗を感じたと言って、非難しようというのではない。

僕がその現象に抵抗を感じるのは、記事は僕が書いたもので、僕のものだからだ。

著者としての所有欲、所有意識がどうしても先立ち、僕と言う存在をひっくるめての記事であるという自意識が、記事をマテリアルとして扱われることに、じゃっかんの鈍い痛みを感じさせるのだろう。

もちろんワールドワイドウェブは突き詰めれば情報をマテリアルとして扱う仕組であって、ある種の、無機質な個人ニュースサイトの情報の扱い方を、僕は自分のことを度外視すれば、断然、支持する。

著者の意識と、それを情報として流通させようとする人の意識には、ポジションの違いに伴う、ずれがあるということを言いたいのだ。

大手ニュースサイトを参照して、そこから僕の記事にリンクをはる別のニュースサイトではしばしば、green というブログ名や、Mr_Rancelot という著者名は省略しても、大手ニュースサイトを参照したということを示すために、大手ニュースサイトの名は明記することがあるよう。

まるで僕が書いた記事を「カトゆー家断絶」さんが書いたかのように見える、というのは著者ならではの過剰な防衛意識だろうと自分でも思うが、そう感じること自体は事実としてある。

もっとも、そうした記法を採る個人ニュースサイトが決して珍しい例ではないことから、それはむしろ一般的なのだから、ちょっとした飲み込みがたさがあるとしても、譲るべきは僕なのだろうし、慣れてゆくべきなのだろう。


このブログへのリンク元としてまず多いのが、はてなブックマークの注目エントリー。

次に、はてなブックマークのそれぞれのお気に入り。

次に、アンテナやRSS。

そしてサーチエンジンの順になる。

面白いのが、はてなブックマークからアクセスが記録される記事と、大手個人ニュースサイトからアクセスが来る記事が異なっていることがある点だ。

もちろん一致している場合もある。最近の記事では、「DQN名と家柄」「がんばれニホンミツバチ」などがそうだった。

しかし違う場合もしばしばあって、ここ数日、アクセスが一番多い記事は「深夜のアニメーション」という記事なのだが、これは幾つかの個人ニュースサイトで取り上げられて、そこからアクセスが来ている。

これははてなブックマークでは現在のところ2しかブックマークされていない。当然、はてなブックマークからのアクセスは少ない。

個人ニュースサイトさんの好みと、はてなブックマーカーの好みに微妙なズレがあるわけで、特に政治系の記事はまず個人ニュースサイトからリンクされることがない。

「はてな村」の匂いがこんなところからも漂ってくる。

2007-09-20

新聞没落-余考

前記事、新聞没落finalventさんからトラックバックをいただく。

記事を書く前に、おおよそ全体の見取り図というか、これとこれを書こうという心積もりはあるのだが、なにしろ長文派なので、書いているうちに話があっちの方に行ったり、忘れてしまうことがある。

前記事について言えば、大した話ではないけど、モバイルの視認性の難によって紙媒体が利されているとすれば、新型の iPod や iPhone は新聞にとってこそ脅威になるかも知れないね、という思いつきも言っておきたかった。

あと、finalventさんが挙げておられる、チラシについても、書こうと思っていたのだが、それも忘れていた。

うちは共働きなので、一般紙を取っていた時でさえ、チラシ広告にじっくり目を通すことはなかった。どこのスーパーで安売りがされているよという情報は、どうでもいいと言い切ると難があるかも知れないが、その情報を得られるために費やす労力、時間的損失、経済的なニーズなどを鑑みれば、チラシに対する需要は、うちでは無かった。

チラシを読むために新聞をとるというライフスタイルは、専業主婦がいる家庭のものだろう。

幸か不幸か、あるべき家庭の共同幻想のひとつとして、「新聞をとる」こともあるのだろうから、そうした「標準世帯」は新聞の購読を止めることまではなかなか踏み込まない。

情報をとるためにインターネットを利用するという発想が、そういう世帯ではそれほど強くないのかも知れない。

情報ソースとしての新聞がインターネットに代替可能だとして、チラシを得るために月々4000円も支払うのはいくらなんでも無駄、得を追い求めて結果、損しているのだが、生活習慣の惰性はなかなか変えられないのだろう。

新聞にとって、脅威なのは、若年人口の減少、若い人たちほど新聞ニーズがないことだけではなく、専業主婦モデルが崩壊しつつあることだ。

失礼になるかも知れないが、まあ、思うところを言えば、情報に対する感度がやや低かったり、合理性を突き詰めることの少ない、ちょっと遅れた人たちを一般紙は主要な消費者としている、ということだろう。

とはいえ、チラシにそれほど需要があるならば、ここにビジネスチャンスがある。

全国のスーパーの安売り情報を一覧できるサイトがあれば、かなりアクセスを稼ぐのではないか。あるいは、チラシだけを無料で毎日、戸別配布する会社は成り立つだろうか。

チラシ配布会社を考えるに、配布網を作るだけで相当な人件費を食いそうだが、そう考えるに、新聞社の真の資産とは、新聞販売店かも知れない。

もっとも、それはチラシと新聞を込みで配布することで成り立っているもので、新聞に対する需要がそもそもなくなれば、立ち行かなくなるのは目に見えているが。

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