最終話のキャプを見。もしかして原作批判のつもりなのかねぇ、とか妄想。
これまで見た1〜7話までと、感想・粗筋十数件くらいと、原作ゲームの体験版からの推測だが、なんか「原作に忠実なアニメ化」を装いつつ原作批判を織り込んでの嫌がらせを目指してみました、とか。
えーと、
・男の主人公=頭悪い・王子様になれない・最終話で死ぬ=ウテナ
・ナイスボォト=気高き花嫁は学園を去りました=アンシー
・学園はなにも変わらず=いつまでも王子様ゴッコをしていてください=刺したり刺されたりって要するに決闘広場での決闘だよね
もちろん与太であって、そんな原作との関連を針小棒大に取り上げる必要はなく、別物として切り分けて単なる昼ドラでいいと思うが。
ま、ウテナとアンシーと言い切るには互いの役割がいろいろ入れ替わってはいるが。つか、ウテナはそーゆー当り前にありがちな話をいかにビジュアル的にシナリオ的に魅せられるモノに仕立て上げてみせるか、て代物だから、割と何にでも当てはまるはずなんだが。
まぁ、祭りに参加できないってのは、つまんないもので。
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ああ、まぁ。そんな濃い話でもなく。
普通につまんない本をダラダラ棒読みしてるような話です。最初から全員操り人形なんで生きてすらいないつーか。この手のテンプレート記号キャラって、ろくに描写されないモブやザコと同じく、殺すことで作中での生を得るんで、殺すと何となく体裁がつくていう。個人的にはテンプレートキャラクターのままいけしゃあしゃあと生き延びさせるほうが現代的で面白いと思うんですが、まぁ、いいです。
何で祭りになったかを考えてもいいけど、まぁ、エロもバトルもブンガクも、学園が舞台で男一人女大勢の登場人物表で出来ているのが宇宙の法則世界の基本だと本気で素直に信じられる人が大勢いるようになったんだろう、で済むと思います。つまるとこアニメの見すぎエロゲのやりすぎラノベの読みすぎ。流行を追いかけるのに忙しくて、ここ2、3年に見たものしか記憶に残さないで判断するのが主流になったんだろうなぁ、と。そんなんで。
昔よく、『Kanon』あたりの「泣きゲー」を指して「人を殺せば盛り上がるに決まってるし、作る方も楽でいいよな」といった言い方をしてるのを見かけたけど、そーゆーのは言わなくなったなぁ、と。
まぁ、言わない理由は別にあるのだが。
仇討ちや心中は、言ってみれば世界意思の発露で。吉川英治より前の巌流島の芝居・講談の粗筋は仇討ち物であるとか、『巨人の星』の基本は仇討ちの形式であるとか。天意の実現とでも言うか。天意は民意で、誰も文句をつけられない(文句をつけたら日常生活を送れない)ような常識とか良識なわけだが。だから、その手のは溢れてていいし、そこらに転がってないほうが異常ですらあるのだが。あるいは、そーゆーのを仮託するための水戸黄門や月光仮面であり。
もちろん、そーゆー天意や民意に逆らってウダウダと余計なことを語るのが個人の自我に拘る輸入物のメロドラマだったりするのだが。
ナンパゲーは言うまでもなく天意に反するし、海外のメロドラマにも反する。そこからさらに複数の女性とそれぞれに純愛を語りあうなんてのは先鋭的に過ぎた。あのへん、純愛が複数あるからこそ刺激的で挑発的で反社会的でインモラルだったのだが、まぁ、作ってる方も遊んでる方も、それに耐えられなかったわけで。
そっから頭を使わず常識や良識を求めれば、関係者まとめて閉じたハーレムに追放するか、痴話喧嘩でバトロワになるか、そら二択に決まってるが。痴話喧嘩で刺しといて親や警察すら出さないと聞き。反動の挙句そうまで常識の檻の中に逃げ込むとはなぁ、というのが雑感。ネット右翼とはよく言ったもので。
なんつーか。
まぁ。
本当に、頭悪くなったんだねぇ、と。
http://www.game-style.jp/special/200709/14/03gar_cu.php
イベントCGのアップが見れます。
ぃゃ、まぁ。知ってたけど。
HPでデモムービーも公開されました。これまでの売る気なさそーなこだわり方向からすると、実になんといいますか、よく見かけてそうなムビになりました。「OP」じゃないのが今のとこ救いかな。
なんか、当初のホムペのデザインがどんどん崩れていくなぁ、と。
……悲劇の定義って何だっけか。
アニメのシグルイで「寛永御前試合」て言い方をしてたのでアレ?と思って。漫画が手元にないけど、ストレートにそういう言い方してたっけか。いや、その言い方だと所謂、家光の前でやった試合になっちゃわないかと思って。
んで、ぐぐってみたり本棚をひっくり返してみたりしたら「歴史への招待」の寛永御前試合の回が出てきた。「寛政の改革期に史料に詳しい誰かに捏造されて松平定信に献上され(文武奨励への嫌がらせ)、水野忠邦〜幕末期の武芸ブームで再発見されて「史実」に紛れ込んだんじゃないか」という筋書きを紹介してる。
だからなに、と言われると困るが。まぁ、無粋な話なんで流しといて。
そういや、シグルイ見ながら「山田風太郎の『魔界転生』も基本は寛永御前試合で」と言ったら誰にも通じなかった。
要するに、元の史料や講談の話だと試合の登場人物がとっくに死んでいたり60過ぎ、70過ぎの老人だったりするのがおかしい、ていうツッコミにより寛永御前試合が「虚構が歴史に紛れ込んだ」扱いされるので、じゃあ死んだ奴を生き返らせて対決させる方法、転生の秘術で実現させてしまえ、と。だから山田風太郎の原作では寛永御前試合を受けて由井正雪がボス格なんだよと。
無粋でごめんよ。
■2007/09/21 (金)
特典テレカページが何かえらいサービス過剰な |
また、申込期間がやたら短い上に代引きしか使えない通販がスタートしました。
http://www.cuffs.co.jp/
本編のグラフィックは大丈夫なのかなぁ。音声アリな割にボイスサンプルはおろか声優の名前も出てこないのも大丈夫なのかなぁ。TGバージョンを作るとか言ってるけど本気かなぁ。
なんか2ちゃんねるでは複数本数買うのが当り前な世論が形成されてるのも狂気というか少しは社員工作を疑えよというか。さくらむすびサントラを3枚持ってる人間が言っても説得力ないけど。いや。
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日記に書いた直後に声優の名前が付け足されたのは、リンクのリファラを追いかけて読んでくれてると思っていいのでしょうか。
あ、発売延期の覚悟は出来てるから、いつでも発表してくれて大丈夫です。
■2007/09/20 (木)
ロボと人とか、神と人とか |
一応。「ロボと人」「神と人」とか書くからには、比較される「人」とは何か、「人」とは誰か、という話になって。さらには、「人」には読者や視聴者が含まれるのか、という話もあって。
神との戦いとか言って陳腐に聞こえるのは、その神が僕らの世界を作った神のことじゃないからで。とりわけファンタジー世界の神様を三桁ぐらい知っちゃってるファンタジーRPG世代以降の身としては、どうせ別世界だろ、で済む。
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1年前に、なのはを見た感想の話。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&start=11&log=200609&maxcount=26
なんかツッコミが入ったらしいので。
その後、A'sは見たがSSは見てない。気になったのはA'sのパワー集めの段階で異世界の触手生物を倒してたとこ。レイジングハートは機械であっても身内で仲間だけど、触手生物は仲間じゃない、みたいな描写レベルでの割り切りの良さを感じたので、なんか怖いよなぁ、と思ったのだった。
『わんことくらそう』でも、なんつーか身内と外部との識別がハッキリしてるなぁ、というのがあってね。
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=473384&log=20061126
■2007/09/18 (火)
「CD音源を得て進化したジャンル」だそうです |
>今回ここで取り上げる、ノベルゲームの定義について述べておこう。
>(略)
>3.BGMはCD−DA、もしくは同クオリティのWAVEサウンドを採用、感動的なシーンをいっそう盛り上げている。
>(略)
>CD−DAを採用しているノベルの場合、プレイ終了後はBGMとして活用できるのが嬉しい要素だ((注)2トラック目から聞くこと)。メーカーによっては、アレンジ版やサントラCDを同梱しているケースもある。
だってさ。
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・高橋脩『碇シンジ育成計画』4巻
この漫画のゲンドウパパって、割と理想のお父さんなんじゃないかと思う。こんなパパが欲しいかと言われると困るが、自分が父親になるんだったらこーゆーパパさんになりたい……わけでもないが。いや。
4巻はアスカのママさんも登場です。美人や。
殆どそのままである。原作クラッシャーの名が泣く。
迷走してる原作と原作の当初の予定と思しき輪郭とを思い起こせば、変更点と落としどころは順当で、前回にネットで大荒れしたのを配慮したんじゃないかと邪推したくなるほど。個人的にはもっと暴れてくれていいのだよ。
ゲームのほうで演劇部の再建を大きく取り上げつつ上演が描写されずに終わるのは、もちろん演劇の舞台なんて身近なとこに幻想世界が現れるような事態は天地をひっくり返してもありえない(それなのに演劇部なんて設定を考えてしまったせいで迷走してる)からで。ちなみにゲームでは舞台で「だんご大家族」を歌うことになってて、そこんとこで劇場版の作りと裏返るようにして繋がってる。要するに、メディアの差以外の違いはないと言っていい。てゆか、相性良すぎだ出崎監督。
てゆか、「だんご大家族」以外に何を語れと。ゲームではどうにもこっちに落ちてこなかった「だんご大家族」が、かくもアレだ、ヤバイことになるとは思わなかった。
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てゆか、碇シンジ育成計画を同時上映しないのは何でだろう。
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そもそもヤシマ作戦までの展開が嫌いだったのを思い出した。シンちゃんが中途半端に男の子っぽいのも嫌いだったし、笑えばいいと思うよとかの台詞も鬱陶しかったし、それで笑ってんのも嫌いだった。なんつーか、手軽な盛り上がり方に嫌味か悪意か手抜きかを感じたんだと思う。後付けの解釈で言うなら、こんな序盤で持ち上げすぎたら後で落とすことになるだろうという予感か。
なんだ。つまらない部分があるとしたら、それは元が駄目だからじゃん。
シンちゃん14歳の内面は最早どうでもいいんだろうな、とは思う。基本的には、処理しきれない量によるけたたましさ、物量作戦なんだろう。ヒロインが31人いたり、ブルーレイのソフトを100インチの画面で見て作画の細かさをチェックしてったり、原稿枚数5千枚だったり、執筆速度が超速度だったり、ショップごとに特典がたくさんついたり、アマゾンで売れ行きがトップだったり。
テーマやらモチーフやらガジェットやらをこねくり回すことで物語を壊してくのではなくて、量で物語を押し潰す。
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為念。暴力行使のルールへの言及「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」(コードギアス)の正当性は作品レベルでは一話のブリタニアによる大量虐殺の描写によって成立してて、んで、その言葉をルルが発言する正当性は22・23話のさらなる虐殺劇を巡って引っくり返されるようになってる。その後の話は見てないが。
これは別に作品テーマとかそーゆー話じゃなく、バイオレンスを扱うエンタメにナイーブな人間ドラマを突っ込むための最低限の作法と考えておけばいいと思う。まぁ、谷口監督については小学校に出現した巨大ロボットを2話目で早々に自衛隊が接収に来るライジンオーが演出デビューだし、暴力の行使を巡る話が延々と続くリヴァイアスが監督デビューだし、比較的、作中の暴力行使の線引きに対して他より意識的であるとは言えるけど。
んでまぁ一応書いておくと、ナイーブさが暴力行使を隠蔽しがちなのが「子供向けフォーマット」に強引に「大人向けドラマ」を突っ込んできたTVアニメや少年漫画・少女漫画等々の「オタク文化」の面倒くささではあり。低俗さの上に居直って高尚さを弄ぶのがセオリーなんで、それは仕方ないんだけども。
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アメコミの自意識地獄の原点の一つ『ウォッチメン』のヒーロー禁止法とか。
>覆面のヴィジランテ(自警)活動を禁止するキーン条例
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A1%E3%83%B3
このヒーローが禁止されてる世界では、アメコミの主流は「海賊物」(現実では50年代に流行りかけて消滅したジャンル)になってるという設定。少年ジャンプを「復活」させたのがワンピースだったり、カリブの海賊がまさかの大ヒットだったりする現状を予言してるようでもあり。あるいは元ネタなのかしら。
知人が麻雀大会の景品でペアチケットを手に入れたので。彼はオタ業界人なのだが周囲の業界人が絶賛してたらしくそれなりに期待してて、見てつまんないつってションボリしてた。僕はまぁ、こんなもんだろう程度。
以下、適当にネタバレしつつ、他の誰にとってもどうでもいい話。
シンちゃんのあまりのペラさにちょっと驚いた。デスノの夜神月ぐらい(つまりステレオタイプな少年漫画・ロボットアニメの普通の熱血主人公ぐらい)ペラい。あと、名前のない連中がたくさん出てた。一方で、名前のない彼らが敵襲で死体になって転がってる画像があるわけでもなかった。
無辜の市民が何の理由もなく死んでくのを映像に捉えてるかどうかを、この手のヒーロー話の作り方のボーダーラインにしてる。「聖闘士星矢」「天空戦記シュラト」なんかは善悪を語ってても別に悪人が虐殺したりしないので、人間ドラマで盛り上がる。犠牲者がたくさん出てるのが少しでも画面に映されると、原則としてどんな繊細で綿密な人間ドラマやってても「そんなことをやってるヒマがあったら戦って敵を撃退しろ」という気分になる。
例えば、ザンボットだと守るべき地球人に犠牲者が大勢いるが、初代ガンダムになると連邦軍の支配下の民衆側の犠牲者というのは第1話のサイド7ぐらいしか出てこない。以降はホワイトベースがジオン制圧下の土地や連邦軍の基地内にいて、連邦は官僚的に描かれてばかりで連邦軍が誰を守って戦ってるのか全く見えない。一方でジオンの兵士は一般人との交流がやたら描かれる。
TVのエバは描かれ方としては身内しか出てこないガンダムタイプ。関係ない市民はあらかた疎開してるし、一般民間人の犠牲者代表のような扱いだった鈴原くんは話の途中でパイロットになるし、関係者になれない相田くんは関係者になれないことに対し反発し屈託を抱く。だからパイロットも悩んでるヒマがあり「おめでとうありがとう」も成り立つ。
で、ロボやヒーローを見続けてる俺より同年代かより年上の人たちは、守られるべき市民の犠牲者が積極的に描かれてなくても、そーゆー市民がいるものとして補完して見れるように訓練されてるのだが、今回のヱの無名の人たちの顔の挿入はそっちに振ってる気がする。つまり、心象風景や極太明朝やアレな謎を大幅カットして普通のロボ物にシフトさせてるような。
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