【バンコク藤田悟】ミャンマーの反政府デモに対し、軍事政権は9月26日から3日間の武力行使でほぼ封じ込めに成功した。日本人映像ジャーナリストが射殺されたものの、1000人以上の死者を出した88年の民主化デモ弾圧と比較すれば、犠牲者数は大幅に少なかった。軍は88年の弾圧を反省材料に、綿密な計算のうえで武力行使のレベルを徐々に引き上げ、国民の恐怖心を増幅させながら鎮圧作戦を決行した模様だ。
治安部隊は1日、封鎖していたヤンゴン市内のパゴダ(仏塔)などデモの拠点となった場所のバリケードを取り除き、街はデモ発生前の情景を取り戻しつつある。しかし、武装した治安部隊が要所に配置され、「布告なき戒厳令の様相」(ヤンゴン滞在の日本人)が続いている。
軍事政権はデモが10万人規模に膨らんだ9月24日まで武力鎮圧せず黙認した。だが、デモ拡大を受け、最高権力者のタンシュエ国家平和発展評議会議長は25日、鎮圧作戦を決定。同夜にはヤンゴン市内に治安部隊を配置し夜間外出禁止令を発令。26日以降は▽催涙弾と威嚇発砲▽デモを主導した僧侶らの拘束▽無差別発砲--と武力行使のレベルを引き上げた。
ネウィン元大統領の26年にわたる長期支配体制が崩壊した88年の民主化運動では、元大統領の公職引退、経済改革、複数政党制導入の約束など政府側が小刻みに譲歩を繰り返し、民主化運動を勢いづけた経緯がある。
駐ヤンゴンの外交関係者は「88年当時は政権の譲歩がデモ拡大を招き、収拾困難な事態を招いた。当時陸軍司令官だったタンシュエ議長はその経験から学習し、断固とした姿勢で一気に鎮圧に出たのだろう」と分析。「88年に大規模ゼネストを決行した公務員が、首都移転でヤンゴンから切り離されたことも大きな相違点だ」と指摘する。
毎日新聞 2007年10月1日 20時46分 (最終更新時間 10月2日 0時27分)