2007-09-26
■[メモ]ネットに何か書くことの利点を初心に帰って思い出す
もう7年以上も前になるだろうか。大学院にいたころ、先輩の一人が自殺を図ったことがあった。幸い未遂で済んだが、学内でのこの手の話題というのは、本当に誰か死人が出たり、あるいは裁判沙汰にでもならない限り、学外には出て行かない。僕の知る限り、在籍した短い期間でも、暴力沙汰ありストーカー事件あり盗難に放火、そして自殺未遂と、「これが最高学府に在籍している人間のやることか」という話は山のようにあって、でもそれらのどれもが新聞沙汰や警察沙汰にはならない。僕がいたのは大学内では政治力の弱い文学系の学科ではあったのだけれども、それでも大学教授の権力と言うのは、世間一般が考える以上に陰湿で強大なのだ。
さて、自殺未遂の先輩だけれど、一年だけ同じ講義に出たことがあって、彼が修士3年で僕が入りたての頃だった。まだ文学の「ぶ」の字も知らぬような初心な新入生の僕にその先輩Yさんが見せた文学的センスは、今思い返しても素晴らしい切れ味を持っていて、授業がディスカッションに入り、各自の意見を述べる段になると、その人のコメントが楽しみで仕方なかった。凡庸な一般論程度のことしか述べられぬ僕らに対して、彼の意見は群を抜いて「文学」だったし、いやそれ以上に知的だった。「ああ、こんな風に脳みそを使うことが出来るんだ」と、まだ若い僕は感銘を受けたものだ。
にしても不思議だったのは、そんなほとんど奇才とも言うべきYさんが、修士の「3年生」にいることだった。修士というのは普通二年で卒業する。文学系に関して言えば3年目、4年目にずれ込む人が多いとは言え、その後活躍するような切れ者は、大体2年で卒業していく。ちなみに僕は3年かかった。で、僕が感じる不思議な感覚というのは、あんなに切れ者のYさんが、どうして修士論文を二年目に書けなかったのだろう、という感覚。もちろん、何か事情があったのかもしれない。別に学力の問題だけじゃなく、金銭的な問題や就職の問題もあって、「あえて」、修士を引き伸ばす人も、いるにはいたからだ。だけど、僕の違和感とも言っていいこの疑問は、Yさんが3年時終了時点で再度の修士論文を提出したときに、決定的になった。いや、「提出できなかったとき」と言ったほうが正確だろうか。書きあがった修士論文を、Yさんの主査が却下したのだった。大学院において、修士論文は主査の許可が無ければ提出さえ出来ない。その入り口のところで、ばっさりとYさんの論文は切り捨てられ、結局Yさんは4年生になることを強いられた。
後からその論文を読んで、僕の違和感はほとんど疑惑と言うほどにまで大きくなった。多少の贔屓目はあったけれども、それを割り引いてもYさんの論文は、修士の学生が書くものとしては充分以上の完成度と、そして明らかな天性が宿っているように思われた。興奮して読み終え、ふっと目の前でぼんやり座っているYさんを見ると、彼もこっちを見て、一言こう言ったのだった。「なんで落ちたんだろう?」僕にどんな言葉が返せたろう。痛ましい沈黙が、広い「院生研究室」の中に満ちるのを、僕はいたたまれない気持ちで感じたものだ。確かに、「落とされた」とは言わなかった。よく覚えているから。その言い方、能動態と受動態の差が僕には切なかった。
事件はそれから半年後に起こった。Yさん4年次の夏のことだ。大学院と言うのは、夏の休みが終わったときに、全院生を集めて「研究過程中間発表会」みたいなものを、大体どこの大学も開く。4年生にもなるとほとんど院生は研究室になど顔を出さないので、半年間の間にYさんとは挨拶さえしていなかった。久しぶりに中間報告会に来たYさんを見て、僕はかなりショックだった。元々からしてかなり痩せている人だったが、そのときのYさんはげっそりと頬が痩せ、目が落ち窪み、ほとんど幽鬼みたいになってしまっていたからだ。20代といえば、放っておいても脂ぎるような時代に、彼の肌は粉が吹いているような乾燥でまっ白になってしまっていて、見た目40代といっても通用するような雰囲気に変わっていた。僕と目が合うと、弱々しい目配せをしながら、「よう」という形に口を動かして挨拶をしてくれたのだが、その口はどんな音も発していなかった。僕は呆然として、返事を返すことも忘れて、ぼんやりと見つめ返しただけ。
中間発表会が始まると、多少Yさんのことは忘れた。何せ自分の修士論文の報告がある。頭の中はパニック状態。外国からの教授もいるし、もはや「御大」と呼ばれるような、歴史の生き証人の様な老教授が、僕の方を厳しい目でじっと見つめている。そんな中で何を言ったのか良く覚えていないのだけれども、次々に飛んでくる、ほとんど鉄砲の弾と思えるような厳しい批判の言葉にさらされながら、かろうじて涙が出てきそうになるのをこらえて、何とか僕は自分の分を切り抜けた。同期だったKなどは、あまりの教授の厳しい攻撃に泣き出すし、それを見てしまったMは、急性胃腸炎にいきなりかかってしまって、地獄の様な痛みをこらえたまま発表だけ済まし、終わった直後に病院に走っていった。あれは、ほんとうにいやな体験だった。だが、僕らのそんな若々しい未熟な発表の後に出てきたYさんは、すでに二回も中間発表をこなして、その削られたような細身の体からはほとんど余裕の様なものさえにじんでいたように思う。少なくとも、見た目からは信じられぬような大きな声で、堂々と書き直された修士論文の要綱について、理路整然と述べていた。Yさんは、自分の主査以外にはおおむねどの教授からも一目置かれていたから、どの教授も「えたり」とばかりの満足げな表情で聴いている。発表、それに続く質疑応答まで滞りなく終了。誰もがYさんの独壇場を素晴らしいものと考え、もう彼の今年の修士論文は間違いないだろうという確信めいたものが生まれたときに、ことは起こった。Yさんの修士論文の書き直された要綱に対して、Yさんの主査であるS教授が、「ちょっといいか?」と、おもむろに批判を始めたのだった。それは、僕から見ても厳しいと思わざるを得ないような、そういう批判の仕方だったように思う。怒涛の様に繰り広げられる、自分の弟子に対する執拗な攻撃。S教授は、実はこの大学に数年前に招聘されたばかりの教授で、その前はオックスフォードだかケンブリッジだかの大学で客員教授をやっていた人物で、その道の最先端を突っ走っている人物だった。その教授の攻撃は苛烈を極めて、さすがのYさんも手も足も出ない状態だった。聴いていて、自分に向けられた各教授たちの批判など、本当に「愛のムチ」に過ぎなかったのだなあと思わずにはいられないほど、それは速射砲の様な罵倒とも付かぬ、恐るべき批判だった。5分もそれが続いただろうか。発表中はあれほどに輝かしかったYさんは、いまや憔悴のきわみで沈黙し、勝ち誇ったように嘲笑的な表情を浮かべるS教授は最後にこういうのだった。「これだったら、今年の末も危ないな、え?」と。
その時多分何かが切れたんだろう。Yさんは、S教授に向かって、「どあほ、死ね、ええ加減にせーよ!」と、それまで綺麗な標準語で応答していたのが関西弁に切り替わって、高校生か中学生の様な罵倒を、全ての教授が集まる会議室の中で、S教授に対してぶちまけてしまったのだった。「口から泡を飛ばすように」という表現があるが、あの時のYさんは、口から泡どころか、よだれもたらして、血走るような目から涙をたらして、大声で叫んでいた。罵倒、罵倒、罵倒。そして、3年半分の恨み。言語化されたそれらは、もう口の中に戻すことが出来ない。一旦堰が切れた言葉は、とどめることが出来ない。言うだけ言ったYさんが、言うことがなくなって止まるまで。数分の激昂。そして不意に沈黙が訪れたと思うと、Yさんは自分のバッグだけつかんで会議室を飛び出していった。僕が次に彼を見るのは、数日後、病院のベッドの上になる。
家に帰った後のYさんの行動を知る人間は多くない。Yさんと「いい関係」にあったTさんという女の先輩が、二日後に大学に来て、彼が自殺を図ったことを告げた。幸い、飲みすぎた睡眠薬はたいした強いものではなかったので、洗浄して安静にすると、すぐに彼は意識を取り戻したらしい。だが自殺未遂。僕はそんな事件が自分の近くで、またもや起こったことに、気がめいるようなショックを受けた。大学には知らせたのか?と聴くと、Tさんは主査と学科主任には知らせたとだけ言った。僕は、Yさんを自殺未遂まで追い込んだS教授は、これで終わりだと思った。だが、何日経っても大学では動きが起こらない。自殺未遂だから警察くらい動くかと思ったら、それもない。そこで僕は、おずおずと自分の教授に、Yさんのことを尋ねてみた。僕の主査はS教授と仲が悪かったわけではないが、それほど昵懇というほどでもなく、ことの経緯を聞きやすかったのだ。だが、僕の主査の口から出た言葉は、意外なものだった。「事故だったんだろ、Yは?」。僕はその時、大学という組織の怖さを、よくわかった。というか、権力を持っている人間の、一人の人間に対する切り捨て方の冷酷さを、思い知った。Yさんは、自殺未遂なんてしていないのだ。少なくとも、大学内の世界においては。単に睡眠薬を飲みすぎた愚か者。すでに、「削除準備」は着々と進められている。怖い。僕はただそう思って、何かもごもごと退去の挨拶をして、自分の主査の部屋を去って行った。
Yさんが大学院をやめたのは、冬に入る頃だったと思う。結局あれ以降大学に戻ることなく、Yさんは大学院を去った。そして学問の世界からも。風のうわさで、どこか東北の方に記者か何かの仕事を見つけたと聞いたが、詳しいことはしらない。そして僕は今こうやって記事を書きながら、ネットという場所にモノを書くことの利点について、初心に帰って思い出している。ネットに文章を書くとき、誰もがアウトプットを自由に吐き出せるというのは、本当に恵まれたことなのだ。もちろん、そのせいでひどい人格攻撃や中傷が満ち溢れ、人間の悪意が検閲もなく表出する怖さが確かにあるのがネットだが、少なくとも、ある種の自浄作用というか、見てくれる人が見てくれたとき、何がしの価値を誰かが認めてくれるという、その基本的な開放性は何事にも代え難い。そういう開放性に対して、学問の世界のあの狭い閉鎖性というのは、本当につらいものだった。Yさんは、何度も言うが、優れた切れ者だった。僕など永遠に及びも付かぬようなセンスにあふれていたし、そのセンスにおごらずに、論文と言う形に自分の思念を還元できる人だった。彼の言葉が、たった一言でもあの象牙の塔から外に出なかったと言うこの事実は、僕には凄い重たいことのように思える。たった一人の人間の検閲が、全てを封鎖して、出て行かないように出来る世界。もちろん、その悪辣ささえぶっ倒すことの出来る膂力が、学者には求められるのかもしれないし、その種のエディプス的な打倒を果たすことで、世界的な知識人というのは育っていくのかもしれないけれども、ゆがみが多すぎる。あまりにもその歪みは、人と言葉を損なってしまう。Yさんのことをふっと思い返すたびに、僕はなんと気楽に言葉が書けるんだろうと、なんだか申し訳ない気分になるのだ。
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