角界関係者死亡年月日一覧表3
昭和55年12月5日
鳴戸親方(元幕内9枚目大岩山・本名船橋金次)午前1時30分、敗血症のため、東京・港区の済生会中央病院で死去。61歳。大正8年5月20日、東京府京橋区入舟(東京都中央区入船)の生まれ、立浪部屋に入門して昭和12年夏初土俵。21年秋新入幕の場所に弓取りを務め、1場所でやめたが、26年夏から再登場、27年春から、千秋楽しかやらなかった弓取りを毎日やるようになったが、その1号、しかも初の幕内弓取りとして人気があった。京橋生まれからアダ名は「京橋さん」、一時は羽衣天昇と名乗ったこともある。けいこ場では強かったが近視のせいか思ったほどには強くなれなかった。幕内17場所、91勝143敗、勝率3割8分9厘。29年春限り引退している。
昭和56年4月24日
湊親方(元十両大達)が死去、59歳。
昭和56年5月18日
斉藤四郎(元年寄山科親方・十両大平山)71歳で死去。
昭和56年5月21日
松崎一雄(元年寄若松親方・幕内鯱ノ里)66歳で死去。
昭和56年6月7日
尾車親方(元大関琴ケ浜・本名宇草貞男)午後8時35分脳出血のため東京都新宿区の慶応病院で死去。香川県観音寺市出身、昭和20年に二所ノ関部屋に入門、のち佐渡ケ嶽部屋に移った。昭和25年に入幕、体は大きくなかったが、けいこ熱心で“南海の黒ヒョウと呼ばれた。特に内掛けが得意で、一発で相手を倒す切れ味は名人芸だった。告別式は6月9日午後1時から東京・杉並区の自宅で行われた。喪主は未亡人寛子さんと長男康祐氏また二所ノ関一門葬は18日午後1時から佐渡ケ嶽部屋で二子山理事が葬儀委員長になって行われた。
昭和56年9月11日
八角親方(元幕内緑国)心不全のため死去。62歳。
昭和56年9月20日
前花籠親方(元幕内大ノ海)膵臓がんのため慶応病院で死去。65歳。
石井光次郎(横綱審議委員会委員長)心不全のため東京女子医大付属病院で死去。92歳
昭和56年9月24日
相馬基(相撲評論家・協会教習所講師)心不全のため死去。85歳。
昭和56年10月30日
能見正比古(相撲評論家)午後1時15分、東京・新宿区のデパートで講演中突然倒れ急死。死因は心筋梗塞。能見氏は金沢市出身、東大工学部卒業後、放送作家、学習研究社の百科辞典の編集長などを経て、フリーの作家として活躍。血液型と相撲評論にかけては権威だった。『相撲』に「現代力士論」、「幕内全力士心技体」などを執筆した。
昭和56年12月16日
輪島クニ(花籠親方の祖母)死去。84歳。
昭和57年1月19日
村川清(元幕内神生山、神生運輸株式会社社長)午前2時ごろ、大阪市東淀川区柴島の府道大阪・高槻線で、自分で運転した乗用車が国鉄東海道線のコンクリート壁に激突、頭を打って即死。香川県出身、神風の弟子で二所ノ関部屋、31年初場所入幕。50歳。
昭和57年2月24日
金子鋭(日本相撲協会運営審議会会長、富士銀行顧問)午後0時38分、呼吸不全のため東京都文京区の東京医科歯科大学付属病院で死去。81歳。明治33年、新潟県生まれ。46年2月、管札之助初代会長のあとを受け、日本相撲協会運営審議会2代会長に就任、大相撲の興隆に尽力。プロ野球7代目コミッショナー、富士銀行元頭取。
昭和57年4月12日
中田勝子(春日野理事長夫人)腹部肉しゅのため死去。51歳。告別式は24日から両国の春日野部屋で行われた。
昭和57年6月30日
渡辺孝一郎(富士ケ嶽−若港、先代富士ケ根親方)が死去。73歳。
昭和57年7月5日
池田弥三郎(横綱審議会委員)が死去67歳。
昭和57年12月8日
清野由太郎(元関脇綾川)午後2時25分、急性肺炎のため、青森県弘前市の葛西内科医院で死去。84歳。明治31年3月11日、青森県西津軽郡鰺ヶ沢の漁港に生まれた。小学校を卒業すると青森市の呉服店(本家の娘が後の淡谷のり子)奉公に出て5年目の18歳の頃主人の昔の同輩綾川五郎次に紹介され、大正5年綾桜と名乗り初土俵。師の秘書役から恋文の代筆までつとめ、稽古に身が入らず昇進ははかどらなかった。大正10年十両になるが、秘書役はさらに忙しくなり、幕下に陥落。昭和5年夏34歳で入幕。出羽海部屋の大ノ里の胸を借りて強くなった。昭和6年には能代潟に敗れただけで優勝。翌7年1月場所小結に昇進するが、恩師大ノ里に殉じ春秋園事件で脱退。暮れに帰京し、別番付の別席で取る。9年5月綾川五郎次を襲名。10年1月39歳で関脇に昇進し、新鋭の小結双葉山を破る。双葉山69連勝中12年6月の大阪準場所で左外掛けで双葉山を破る。準場所でも大阪朝日、毎日新聞は社会面を埋めて報道。この場所限りで引退し年寄千賀ノ浦を襲名。2年後第2の人生を求めソウルに渡り、同地で大きな料亭を開業して成功したが、終戦で引き揚げ帰郷。大相撲の復興とともに上京柳橋でチャンコ料理屋を開いていたが、夫人の死去に伴い店を閉じ、五所ヶ原の老人ホームに隠居しながら、中学、高校の審判長に招かれるなど、孫のような青少年のコーチを務め、充実した余生を送っていた。47年鰺ヶ沢に記念碑を建立。
昭和57年12月11日
伊勢ノ海親方(元幕内柏戸・本名佐々木秀剛)
昭和57年12月30日
若林義光(元幕内若浪、元大島親方)急性心不全のため千葉県習志野市谷津の自宅で死去。68歳。大正3年5月6日、北海道石狩国上川郡東川町に生まれ、9歳のとき樺太(現ロシア領サハリン)に渡り、泊居郡恵須取村(ウグレゴルスク)中島町で育った。兵役後昭和10年夏場所21歳で初土俵。右四つ、つり寄りの正攻法で15年夏1場所だけ幕内を務めた。十両陥落後、若波から若乃森と改め、17年春場所限り引退して年寄大島を襲名。木戸主任、参与を在任して54年5月6日定年退職した。
昭和58年1月9日
中川一郎(政治家・千代の富士後援会長)
昭和58年1月22日
吉田長善(吉田司家24代当主)心不全のため死去。70歳。昭和11年3月、早稲田大学文学部史学科卒、帝室博物館奉職、14年9月吉田司家家督相続、15年4月熊本県立中学済々黌教諭、25年11月引退。双葉山(代理)、羽黒山、安芸ノ海、照國、前田山、東富士に横綱を免許。雑誌『大相撲』に35年11月号から36年5月号まで7回にわたって、「吉田司家の資料公開」を連載。39年1月号には「磯風は正式横綱だった」を執筆。42年10月には19代吉田司家150年祭紀記念出版「ちから草」(非売品)をまとめている。
昭和58年7月18日
汐ノ海運右衛門(本名・岸本忠夫、元大関、元出来山親方)午前6時39分心筋梗塞のため、東京都江東区門前仲町の自宅で死去65歳。
昭和58年8月
八染(春日野部屋力士、元幕内)
昭和58年11月2日
荒磯親方(元関脇大豪)46歳。
昭和59年2月20日
吉永和江(霧島の母)ガンのため死去。49歳。
昭和59年4月26日
木村筆之助(本名・田畑啓、幕内格行司)午後5時28分、糖尿病による心筋梗塞のため、東京・信濃町の慶応病院で死去。60歳。告別式は4月28日、東京・東小岩の東京葬祭場、喪主は長男・耕一氏で行われた。自宅は東京都江戸川区東小岩6−3−4。長野県出身。昭和11年1月初土俵、13年1月序ノ口、14年1月序二段、17年1月三段目、22年6月幕下、26年9月十両、33年7月幕内格。
昭和59年4月28日
加藤イシ(相撲茶屋紀の国屋女将)午前2時30分、心不全のため東京都江戸川区西小岩5−10−25の自宅で亡くなった。83歳。喪主の長女ふみ子さんは、故高崎(元小結桜錦)夫人で相撲サービス会社二番紀の国屋経営者で、イシさんの孫娘節子さんは鏡山(元横綱柏戸)理事夫人。葬儀は5月1日自宅で執行され、鏡山親方が親戚代表になり、部屋一門、伊勢ノ海親方(元関脇藤ノ川)、十両服部、サービス会社二十軒の主人、番頭らが多数列席してねんごろに行われた。イシさんは長らく紀の国屋の帳場にあって、顔なじみの顧客もその温厚篤実な人柄を偲んでいた。
昭和59年5月18日
岡村熊太郎(元年寄鏡山勘太夫、行司先々代式守勘太夫)心不全のため、東京・江戸川区南小岩の自宅で死去。83歳。明治34年9月27日、青森県八戸市生まれ、伊勢ノ海部屋に入門して大正2年1月初土俵、昭和8年5月十両格、13年1月与之吉から勘太夫襲名、15年5月幕内格、26年5月年寄鏡山を襲名して二枚鑑札、31年5月三役格、33年5月行司を勇退して年寄一本となり、41年9月定年退職。のち5年間協会嘱託として働いて退職、以後小岩で悠々自適の生活を送っていた。
昭和59年5月21日
黒谷キミエ(幕内多賀竜の母)茨城県日立市の国道6号線を走っていた夫義郎運転の乗用車がセンターラインを越え、大型トラックと正面衝突し、全身打撲のため死亡。61歳。
昭和59年6月3日
千葉進(元関脇羽黒花)肝臓ガンのため、千葉県習志野市大久保1−20−21の自宅で死去。48歳。北海道出身、立浪部屋。昭和30年9月初土俵。35年9月新入幕。幕内28場所務め通算成績は195勝195敗30休、勝率5割。敢闘賞1回。40年11月場所限りで引退して年寄になっていたが(大鳴戸−玉垣)47年に廃業した。
昭和60年2月21日
吉川喜久(故先代大山親方、元関脇高登の妻)午後4時21分結腸ガンのため千葉市の千葉中央病院で死去。66歳。東京都出身。自宅は千葉市こてはし台4−29−3.葬儀・告別式は23日午前11時から東京都港区愛宕2−4−7、青松寺で行われ、現大山親方(元大関松登)らが参列した。喪主は長男育利。高登は長野県出身で、昭和8年春場所に関脇まで進み、14年夏場所限り引退して年寄大山を襲名。大関松登らを育てる一方、NHKの相撲解説者として、アメ玉をしゃぶっているような話し方で人気を集めた。37年1月9日53歳の若さで亡くなっている。
昭和60年10月12日
蒼竜(時津風部屋の現役序二段力士)白血病のため、26歳で死亡。
昭和60年10月21日
沢田国秋(元大関初代増位山)
昭和60年11月1日
立田山親方(元大関大内山)
昭和60年12月13日
佐藤千代(元大関清国。伊勢ヶ浜親方の母)午前0時28分、脳梗塞のため、秋田県湯沢市の雄勝中央病院で死去。72歳。秋田県出身。自宅は秋田県雄勝郡雄勝町横堀旭町12。告別式は17日午前11時から、雄勝町下院内新馬場158の誓願寺で行われた。喪主は長男正氏。
昭和61年4月21日
大山親方(元大関松登)午後6時40分、白内障手術前の予備検査のための注射後、急死。
昭和61年5月23日
中島トミ(先代花籠親方(元大ノ海)未亡人)夕刻老後のために購入した八王子市横川町の別荘の物置で、かもいに電気コードをかけ、首を吊った。65歳。
昭和61年8月6日
平岡敏男(毎日新聞社代表取締役会長、パレスサイドビルディング社長、ラジオ福島会長横綱審議委員会委員)午前9時50分肝不全のため、東京都杉並区天沼の自宅で死去。76歳。昭和7年東大経済学部を卒業して毎日新聞入社、経済部長、ロンドン支局長、経理局長などを経て、51年2月社長、55年12月から会長。55年1月から横綱審議委員会委員をつとめていた。
昭和61年9月3日
時札辰雄(元前頭15枚目小戸ヶ岩)肺ガンのため千葉市の千葉大医学部付属病院で死去。72歳。大正3年3月25日、福岡県朝倉郡夜須町生まれ。若藤部屋に入り昭和7年2月初土俵。10年5月十両、16年5月入幕。幕内を3場所勤めたが、幕下に落ちて23年5月限り廃業した。東京都江戸川区平井で保険の代理店を経営していた。
昭和61年9月5日
永野正(元前頭11荒岐山)午前0時30分ごろ岐阜市忠節町の忠節橋中央付近から、約14m下の河原に転落、同市光町の近石病院に収容されたが、同5時5分全身打撲で死亡した。46歳。岐阜中署の調べでは、永野さんは4日夜、忠節橋付近の焼肉料理店で一人で酒を飲み、午前0時20分ごろタクシーで自宅に向かった忠節橋に差しかかったところで、「気持ちが悪い。止めてくれ」といって車を降り、橋の東側欄干にもたれて吐いていたが。タクシーの運転手が目を離した間にバランスを崩して転落したらしい。葬儀・告別式は6日から岐阜市永田町32の自宅で行われた。喪主は妻孝子さん。昭和15年1月5日、岐阜市の生まれ。時津風部屋に入門して30年3月初土俵。35年5月、20歳で十両。36年3月、21歳で入幕を果たした。177cm140kgの巨漢で期待されたが、ヒザを痛め、幕内在位は5場所b。38年5月限り、23歳で廃業し、飲食店を経営していた。
昭和61年9月7日
本松哲浩(元幕下で、秋場所は西序二段16枚目、)午前10時45分、悪性骨腫瘍による腎不全のため、東京都豊島区上池袋の癌研究所付属病院で死去。24歳。告別式は8日午後1時から東京都墨田区亀沢3−8−1の間垣部屋で行われた。喪主は父栄一氏。昭和37年2月27日北九州市の生まれ。九州工業高校時代から相撲で鳴らし、卒業後黒崎窯業に入社し、相撲部で全日本青年選手権に2度優勝するなど実績が買われて間垣部屋に入門し、59年1月場所初土俵。序ノ口、序二段と連続全勝優勝するなど順調に出世今年1月には最高位の西幕下13枚目にあがったが、場所後に発病。入院していた。全盛時は184cm、122kg。通算成績は56勝31敗21休。
昭和61年9月10日
青木勘之丞(元関脇。開隆山)午前11時38分、糖尿病のため秋田市の市立病院で死去。47歳。自宅は秋田県南秋田郡昭和町大久保北野街道78。告別式は15日自宅で行われた。喪主は父勘一郎氏。昭和14年8月28日秋田県昭和町の生まれ。金足農高相撲部から荒磯部屋(のち伊勢ヶ浜部屋)に入門し、31年3月初土俵。34年11月新十両。35年7月入幕。179cm、116kgの体ながら美男で均整が取れ、期待されていたが関脇で終わった。柏鵬が新横綱の36年11月に両横綱を倒すなど“横綱キラー”と呼ばれた。幕内在位44場所で、殊勲賞3回受賞。43年3月限り引退し、年寄楯山から桐山となり、審判委員を務めていたが、56年1月限り廃業。故郷に帰っていた。
昭和62年4月3日
若鬼竜(時津風部屋の現役三段目力士)虚血性心不全のため16歳死去。
昭和62年4月29日
市川国一(元武蔵川理事長、元前頭1出羽ノ花)
昭和62年6月19日
塩沢健一(伊勢ノ海部屋所属の現役力士。しこ名塩沢)東京信濃町の慶応病院で肺ガンのため死去。22歳。長野県出身。56年秋場所初土俵を踏み、体重が100キロ弱から140キロ近くへと増えるのに従い番付も上昇。60年春場所最高位西幕下37枚目に昇進この直後から体に異常を感じ始め、61年夏場所から全休し入院生活を送っていた。告別式は20日午前10時から部屋で行われた。
昭和62年8月
大島親方(元大関旭國)の実兄
昭和62年9月27日
片男波親方(元関脇・玉乃海)
昭和62年12月22日
山内大介(毎日新聞社代表取締役社長、パレスサイドビルディング代表取締役社長、横綱審議委員会委員)午前11時32分、肝不全のため、東京・千代田区飯田橋の日本医科大学付属第一病院で死去。62歳。福岡市出身。通夜は24日午後7時から、密葬は25日午後1時から、いずれも東京都中野区中央2−33−3宝仙寺で行われ、春日野理事長らが出席した。自宅は東京都杉並区成田東3−25−5.喪主は妻百合子さん。昭和24年東京大法学部卒、同年4月毎日新聞社に入社。55年12月に代表取締役社長に就任。日本相撲協会では61年12月22日から横綱審議委員会委員に委嘱していた。
昭和63年1月1日
大島親方(元大関旭國)の父
昭和63年5月5日
杉山桂四郎(相撲評論家、元東京スポーツ新聞記者、ペンネーム佐山直康)午前0時40分、急性呼吸不全のため、埼玉県狭山市の入間川病院で死去。62歳。告別式は狭山市南入曽1046の自宅で行われた。杉山氏は東京生まれ、早大法学部卒。昭和32年にベースボールマガジン社入社、月刊「ベースボールマガジン」「相撲」の編集長を歴任、新聞記者を経て評論家に転じた。独特のカラ口批評には定評があった。
昭和63年7月1日
高橋富城(相撲記者クラブ会友)心不全のため死去。70歳。元朝日新聞運動部長で昭和20年代から30年代にかけ相撲記者として活躍した。
昭和63年7月12日
長谷川一郎(元関脇・長谷川秀ノ山親方の父)午後1時46分、脳梗塞のため北海道千歳市の伊勢病院で死去。74歳北海道宗谷管内枝幸郡浜頓別町出身。自宅は千歳市緑町5−32
昭和63年8月9日
西脇安(文化書道会会長、日本相撲協会教習所書道講師)午前2時50分、老人性肺炎のため東京都渋谷区の東邦病院で死去。83歳。福井県出身。自宅は東京都杉並区上高井戸1−7−26。告別式は虎ノ門光明寺で行われた。喪主は長男章氏。東大建設部卒。昭和44年7月から教習所の書道講師を務めていた。
昭和63年8月13日
馬場米蔵(元前頭6・太刀若、先代常盤山親方)午後2時17分、脳梗塞のため東京都目黒区東ヶ丘の国立第二病院で死去。84歳。三重県伊勢市出身。自宅は東京都世田谷区代田2−13−3告別式は15日に行われた。喪主は長男靖雄氏。明治36年10月1日生まれ。横綱・太刀山の弟子として友綱部屋に入門し大正7年1月初土俵。東関→高砂部屋と変わり昭和6年1月十両。9年1月入幕。178cm、98kgの体で幕内を8場所勤め13年5月限り引退。年寄・常盤山を襲名した。43年10月定年退職。
昭和63年9月15日
佐々木尚(元相撲記者、報知新聞紙面審議会幹事、部長待遇)午前4時心不全のため、東京・墨田区の墨東病院で死去。54歳。
木村玉光(幕内格行司)午後2時53分、肝臓ガンと肝硬変のため東京半蔵門病院で死去、60歳。長野県出身、放駒部屋、本名多田登喜男。
昭和63年10月23日
高砂親方(元横綱朝潮、日本相撲協会理事、相撲教習所所長)午前0時13分、脳出血のため入院先の東京都墨田区の同愛記念病院で死去。58歳。通夜・告別式は台東区柳橋1−22−5の高砂部屋で行われた。喪主は妻啓子さん。政府は11月11日の閣議で、故高砂親方に従五位、勲四等旭日小授章を贈ることに決めた。日本相撲協会葬は二子山理事長(元横綱若乃花)が葬儀委員長になって12月13日国技館で行われる。鹿児島県徳之島出身。昭和4年11月13日生まれ。高砂部屋に入門し昭和23年10月初土俵、25年9月新十両、26年1月新入幕。27年5月4代目朝潮を襲名。32年5月新大関、34年5月新横綱、37年1月場所前に引退、年寄朝潮から振分を襲名。幕内在位48場所、431勝248敗101休。優勝5回、殊勲賞4回。38年1月振分部屋を創設したが、39年5月に部屋を閉じる。46年8月、4代高砂親方の死去に伴い5代高砂を襲名して部屋を相続。大関朝潮、小錦、関脇・高見山(現東関親方)、富士桜(現中村親方)、水戸泉らを育てた。
昭和63年10月23日
蔭平梅吉(元関脇玉ノ海)午前8時41分、心不全のため入院先の兵庫県西宮市の兵庫医大病院で死去。75歳。自宅は兵庫県尼崎市大庄西町1−2−5。葬儀・告別式は24日午後1時から2時まで尼崎市開明町3−13の本興寺内一乗院で、妻・つるさんが喪主となって行われた。元NHKアナウンサー・永田健支氏が葬儀委員長となり、片男波親方(元関脇・玉ノ富士)、かつてのNHK相撲解説者仲間の神風正一氏ら約500人が参列した。戒名は聞法院浩潔日殊大居士。大正元年11月30日生まれ。長崎県大村市出身。二所ノ関部屋に入門し、昭和5年10月初土俵。9年5月新十両、10年1月入幕。最高位は関脇。13年12月師匠・玉錦(二所ノ関と二枚鑑札)の死後、現役でニ所ノ関を襲名。戦時中のどさくさで部屋運営に尽力し、まともに土俵を務められぬまま20年11月限り引退、理事などを務め26年9月限り角界を去った。大関佐賀ノ花、関脇力道山らを育て、現在のニ所ノ関一門の繁栄の基礎を築いた。30年夏場所から57年九州場所までNHKの相撲解説を務めた。相撲に“道”を求め、時には厳しく、時にはユーモラスな評論は氏の人柄をほうふつとさせ、人気があった。
昭和63年10月31日
穐吉経治(日蓮宗宗妙音教会住職、先々代時津風親方=元横綱双葉山の長男)午後11時35分、静脈瘤破裂のため福岡県筑紫野市二日市の済生会二日市病院で死去。44歳。東京都墨田区出身。自宅は筑紫野市二日市270−1.告別式は時津風部屋で行われた。喪主は妻・ひろみさん
昭和64年1月7日
中山洋一(尾車親方[元大関・琴風]の父)午前2時40分心不全のため三重県津市新町の遠山病院で死去。63歳。自宅は津市柳山津興381の25.
平成元年1月12日
小暮みつ(北陣親方[元関脇・麒麟児]の祖母)午前2時35分急性肺炎による心不全のため千葉県松戸市の恩田病院で死去。101歳。自宅は同市馬橋104.松戸市では2番目の高齢者だった。
平成元年3月3日
床熙(伊勢ヶ浜部屋床山)肝臓ガンのため死去。57歳。伊勢ヶ浜部屋葬が4月21日午後1時から東京・文京区白山の同部屋で行われた。
平成元年8月15日
嶋村嶋一(元大関・三根山)午後9時40分心筋梗塞のため、東京都久留米市滝山の滝山病院で死去。67歳。大正11年2月7日、現在の東京都荒川区南千住で生まれた。元前頭4・八甲山の高島部屋に入門し、昭和12年5月三根山の四股名で初土俵。17年5月十両、19年1月入幕。176cm150kgの体で一気に寄って出る相撲で上位陣を苦しめ、「疾風枯れ葉を巻く」と表現された。28年夏場所後大関に昇進。29年春場所に12勝3敗で初優勝。しかし内臓疾患とケガのため大関8場所で陥落。その後も平幕で4年以上真摯な土俵を務めた。35年1月場所限り引退して年寄熊ヶ谷から高島を襲名。大関大受(現・朝日山親方)、幕内高望山(のち関脇)らを育てたが健康を害して57年9月場所限りで弟子を弟弟子の熊ヶ谷親方(元前頭8・芳野嶺)に預けて部屋を解散、60年1月場所中に廃業、治療に専念していた。
平成元年8月20日
和久田三郎(元関脇・天竜三郎)
平成元年10月20日
榎田(高砂部屋現役序二段力士)クモ膜下出血のため18歳で死去。
平成元年11月10日
高橋勝男(元幕内綾若)肝臓がんのため、東京・阿佐ヶ谷の清川病院で死去。79歳。青森県黒石市出身出羽海部屋。大正14年1月初土俵、昭和9年5月新入幕。幕内在位15場所。勝率,481。
平成2年1月10日
春日野親方(元横綱栃錦)
平成2年1月16日
真玉寛文(報知新聞運動部記者)午前0時7分、心不全のため愛知県蒲郡市民病院で死去。43歳。
平成2年2月2日
竜興山(出羽海部屋現役幕内力士)虚血性心不全のため22歳で死去。
平成2年3月5日
山田康夫(NHKチーフアナウンサー)午後2時28分、脳内出血のため東京都品川区東五反田の関東逓信病院で死去。49歳。甲府市出身。自宅は神奈川県大和市下鶴間1786−1ライオンズマンション7−703.葬儀・告別式は8日正午から東京都渋谷区代々木3−26−1の諦聴寺で行われた。喪主は妻孝子さん。昭和39年九州場所から大相撲の実況中継で活躍、茶の間の人気を集めていたが、昨年秋場所千秋楽の放送を最後に体の不調を訴え、入退院を繰り返していた。
平成2年4月12日
安西浩(日本相撲協会運営審議会会長、二子山部屋後援会長)
平成2年5月15日
神風正一(大相撲解説者、元関脇神風、本名赤澤正一)午前7時56分、大阪府枚方市星ヶ丘4−8−1星ヶ丘厚生病院で肺炎のため死去。68歳。通夜・告別式は大阪府吹田市桃山台の千里会館で行われた。喪主は妻・シゲ子さん。自宅は大阪市中央区島之内2−4−31。
平成2年5月30日
大坪義雄(元小結・九州山)
平成2年7月23日
近村(九重部屋現役序二段力士)急性心不全のため19歳で死去。
平成2年11月5日
小林勇(国技館サービス株式会社社長)肝不全のため、東京女子医大付属病院で死去。 59歳。
平成2年11月12日
一宮角一(高砂親方<元小結・富士錦>の養父)心不全のため東京都板橋区加賀の愛誠病院で死去。72歳。山梨県出身。高砂夫人君子さんの実父。
平成2年11月24日
池川善雄(元幕内・小野錦)腎臓がんのため死去。68歳。大正13年3月20日大阪府住吉区の生まれ。昭和13年夏場所初土俵。出征などもあり、力士生活22年のうち17年間幕下暮らしだった。32歳で十両昇進。2年後の32年3月、大阪で新入幕を果し、故郷に錦を飾った。35年春東十両16枚目を最後に廃業。厳しい勝負の世界でのさわやかな相撲人生はラジオドラマにもなり、話題となった。その後大阪・ミナミでチャンコ料理店「小野錦」を開業。新入幕の大阪場所後に結婚した寿美子さんとの間に一人息子の清隆君がいる。コオロギやキリギリスなど虫が好きで自宅でたくさん飼っていた。
平成3年11月2日
小国敬二郎(秋田県観光連盟会長、大鵬親方の養父)午前7時12分、肺炎のため秋田市の秋田大学医学部付属病院で死去。74歳。告別式は8日午前11時から秋田市旭北寺長の本妙寺で行われた。喪主は長男輝也氏。
平成3年11月14日
長谷川ハツエ(秀ノ山親方〔元関脇・長谷川〕の実母)午後7時56分、肝癌のため北海道千歳市春日町の伊勢病院で死去。71歳。告別式は17日午前10時から千歳市北斗の橋爪斎苑で行われた。喪主は長男実氏。
平成4年1月11日
臼井仁志(元十両9・栃葉山暁輝)午後6時55分、腹部大動脈瘤破裂による出血性ショックのため、岐阜市黒野176の平野総合病院で死去。告別式は14日正午から、岐阜市梅河町2−31の自宅で行われた。喪主は妻道代さん。岐阜県梅河町出身。昭和21年5月7日生まれ。東京・明大中野高校時代に2年連続高校横綱。明大に進んだが、1年で中退して春日野部屋入りし、昭和41年1月初土俵。45年11月十両に昇進したが、左膝を痛めて、十両を4場所務めた後、46年9月限り廃業。岐阜市内で料理店を経営していた。
平成4年2月4日
居内しげる(千田川親方<元前頭6・若鳴門>の母)午前2時50分、心不全のため徳島県鳴門市の山上病院で死去。81歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は6日正午から兵庫県三原郡三原町1−85の自宅で行われた。喪主は長男の源作氏。
平成4年2月10日
大威力(朝日山部屋序二段力士)溺死により18歳で死去。
平成4年3月1日
琴干場(佐渡ケ嶽部屋三段目力士)けいこ中に倒れ、病院に運ばれたが午前8時過ぎに心筋症のため死亡。
平成4年4月27日
萩森好美(元横綱・前田山夫人)午前11時24分、子宮がんのため、都立墨東病院で死去。70歳。愛媛県出身。自宅は東京都墨田区両国3−24−7−901.告別式は30日午後2時から墨田区両国2−8−10の回向院で行われた。葬儀委員長は高砂親方。
平成4年6月24日
緒方のぶ(元関脇・北の洋 現在NHK相撲放送解説者の緒方昇氏の母)午後5時30分、老衰のため北海道網走市北浜102の自宅で死去。91歳。富山県出身。葬儀・告別式は26日午前10時から網走市南7条東の光輪寺で行われた。喪主は長男昇氏。
平成4年7月6日
野沢浩(元小結宮錦、先代芝田山親方)心不全のため、横浜市のたちばな病院で死去、65歳。岩手県出身。高砂部屋。昭和17年1月初土俵、昭和27年春場所新入幕、30年1月小結。小結を最高位に幕内通算28場所務めた。敢闘賞1回。192勝228敗。34年九州場所で引退後、年寄芝田山を襲名し審判委員、指導普及部委員などを務め、今年5月29日に定年退職したばかりだった。自宅は神奈川県鎌倉市大船2−1−6
平成4年7月14日
魁士(放駒部屋序ノ口力士宮城県古川市出身)早朝急死。
平成4年8月15日
稲葉修(元法相、元衆議院議員、日本相撲協会横綱審議委員会委員)午前0時30分、老人性肺炎及び心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で死去。82歳。新潟県出身。昭和24年衆院新潟2区から初当選、当選14回。49年12月三木内閣の法相に就任。在任中田中角栄元首相が逮捕された。63年8月に脳内出血で倒れ、平成2年2月総選挙で引退した。昭和48年5月から日本相撲協会横綱審議委員を務め、61年7月北尾(のち双羽黒)の横綱昇進を巡る委員会で「一度も優勝していない大関を最高峰の地位に推すのはどうか」とただ一人異論を唱えるなどご意見番的存在だった。
平成5年1月6日
池田潤一郎(元横綱吉葉山の長男)早朝心不全のため死去44歳。東京都出身。告別式は8日、東京・築地本願寺で行われた。喪主は妻の真智子さん。
平成5年2月28日
成田孝平(元前頭4・玉嵐)午前5時50分、大阪市の大阪赤十字病院で脳血栓のため死去、51歳。北海道出身。告別式は3月1日正午から東大阪市の延命寺で行われた。昭和31年9月二所ノ関部屋から初土俵。37年6月片男波部屋に移籍し、同年7月新入幕。通算12場所幕内を務め、79勝93敗8休。42年7月廃業後は東大阪市で飲食店を経営。近大相撲部コーチもつとめた。
平成5年7月21日
松崎正勝(元関脇・房錦)
平成5年9月3日
若瀬川忠男(大相撲解説者、元小結・若瀬川、本名服部忠男)午前11時30分、スイ臓ガンのため東京都墨田区横網の同愛記念病院で死去。73歳。兵庫県出身自宅は墨田区両国2−10−6.告別式は5日墨田区両国の回向院で行われた。喪主は妻喜代子さん。
平成6年4月23日
泉林八(元立行司22代木村庄之助)心不全のため東京都墨田区横網の同愛記念病院で死去。104歳。自宅は墨田区両国3−13−3。葬儀・告別式は25日午後1時から墨田区両国2−8−10の回向院で行われた。喪主は長男の雄介氏。香川県木田郡牟礼町出身。明治23年3月1日生まれ。31年秋、大阪の竹縄部屋に入門、木村越後に支持した。32年6月木村金八の名で初土俵を踏み、信之助、錦太夫と改めて幕内格までいったが大正11年5月大阪相撲を廃業。13年1月出羽海部屋に入門して林之助、容堂、玉之助、18代伊之助を経て昭和26年9月に22代木村庄之助を襲名。「栃若」の相撲黄金期にあって、裁きの正確な名行司として知られた。35年、定年制により引退した後は東京・神田で『庄之助最中』を販売して、実業家としても成功。62年には行司としては初の叙勲、勲五等双光旭日章を受けている。
平成6年12月22日
柏木佐平(元前頭19・那智ノ山、元年寄峰崎)午後5時50分、悪性リンパ腫のため千葉県市川市の行徳中央病院で死去。74歳。自宅は台東区浅草3−18−6.葬儀・告別式は25日台東区の桃林寺で行われた。喪主は妻佐智子さん。和歌山県日高郡矢田村(現河辺町)出身で、大正9年8月15日生まれ。昭和12年3月出羽海部屋に入門。初土俵は12年5月場所、22年6月場所新十両、30歳を過ぎた25年5月場所新入幕、33年1月場所限りで引退し年寄峰崎を襲名した。
平成7年1月7日
山田健(幕下格行司・木村圭吾)午前2時過ぎ脳挫傷のため入院先の東京都渋谷区・都立広尾病院で死去。23歳。葬儀・告別式は8日午前10時から東京都中野区本町の福寿院で行われた。喪主は父勝氏。長野県飯田市出身で、昭和46年12月22日生まれ。昭和62年3月に二子山部屋入門。同年3月初土俵。平成5年1月場所から幕下格行司を務めていた。
平成7年1月26日
蔵間龍也(元関脇・蔵間)午後8時16分、慢性骨髄性白血病による多臓器不全のため、東京都新宿区の東京医大病院で死去。42歳。滋賀県野洲町出身。昭和27年12月16日生まれ。43年9月時津風部屋から初土俵を踏み、51年7月新入幕。左四つからの吊り、寄りが得意な美男人気力士だった。最高位・関脇。敢闘賞1回、技能賞2回。平成元年9月限り引退、年寄シコロ山を襲名したが、2年6月に廃業、タレントとして活躍していた。
平成7年3月31日
松田秋夫(元前頭2・若ノ海)午前8時40分ごろ心不全のため、東京都渋谷区・都立広尾病院で死去。49歳。葬儀・告別式は江東区福住1−4−12の「ちゃんこ若ノ海」で行われた。喪主は妻の邦子さん。岩手県稗貫郡出身。昭和20年10月25日生まれ。花籠部屋に入門し昭和36年5月初土俵、46年1月新十両、47年7月新入幕。53年1月限りで引退、年寄大嶽を襲名したが、4年6月で廃業し、ちゃんこ料理店「若ノ海」を経営していた。また相撲部屋のコーチ役としてテレビ・ドラマにも出演した。
平成7年4月21日
武蔵丸の実父マヌさん。静養先のトンガで心臓疾患のため死去。57歳。
平成7年5月11日
石谷昌治(元前頭13・増巳山)午前7時55分、腎臓ガンのため、東京都墨田区の墨東病院で死去。73歳。和歌山県出身。大正11年1月17日生まれ。昭和14年1月三保ヶ関部屋から初土俵を踏み、25年5月新入幕。33年11月限りで引退。年寄阿武松を襲名。のち待乳山となり、三保ヶ関興隆の一助となった。
佐々木勲(十両呼出し・勲)午前8時ごろ、茨城県北相馬郡藤代町宮和田の小貝川で溺死しているのを発見された。54歳。大阪市出身。昭和15年6月7日生まれ。35年11月小野川部屋に入門(のち出羽海部屋)。体を壊して約3年前から入院生活を送っていた。
平成7年6月2日
加藤巳一郎(日本相撲協会横綱審議会委員)午前10時15分、急性心不全のため愛知県名古屋市昭和区の名古屋大学付属病院で死去。78歳。名古屋市西区出身。昭和13年早稲田大学専門部を卒業後、新愛知新聞社(中日新聞の前身)に入社。東京本社代表、社長などを経て62年会長に就任。また63年3月から横綱審議会委員に就任した。
平成7年6月3日
平野忠(元前頭17・秀湊)午前10時26分、肝臓ガンのため大阪府堺市の阪和泉北病院で死去。70歳。徳島県板野郡出身。大正15年5月5日生まれ。昭和15年1月場所に出羽海部屋から初土俵を踏み、26年1月新十両。30年1月新入幕。34年初場所で廃業した。
平成7年6月18日
浦本守(元三役格行司・式守錦之助)肝臓ガンのため東京都港区の済生会中央病院で死去。69歳。自宅は東京都荒川区東日暮里1−17−13−1105北海道旭川市出身。大正15年12月17日生まれ。浦風部屋に入門し、昭和18年1月初土俵。48年5月からは伊勢ヶ浜部屋に所属。平成2年1月に三役格昇進。平成3年12月に定年退職した。
平成7年7月20日
小田七男(元前頭10・福ノ海、前中川親方)午前7時2分脳内出血のため埼玉県越谷市の病院で死去。定年退職したばかりで65歳だった。福井県出身。朝日山部屋に入門し、昭和24年10月に初土俵を踏んだ。30年9月に新十両、31年9月に新入幕。前頭10枚目を最高位に幕内を9場所務めた。37年7月限りで現役を引退し、年寄り北陣を襲名。(最終名跡は中川)、朝日山部屋付きの親方として3代の師匠に仕え、今年4月に定年退職。7月4日に倒れ、入院していた。
平成7年7月21日
高橋義孝(ドイツ文学者・元横綱審議会委員長)午前9時50分、老衰のため東京都豊島区目白の自宅で死去。82歳。昭和10年に東大文学部を卒業。12年から2年間ドイツ留学の後、東京府立高校教授に。戦後は北海道大学、九州大、名古屋大などで助教授、教授を歴任した。早くからドイツ文芸学に興味を持ち、その理論を援用した『森鴎外』(29年)で読売文学賞を受賞。『文学研究の諸問題』(33年)ではフロイト心理学に触発された独自の文芸理論を打ち立てた。能や相撲など興味も広く、39年から横綱審議委員会委員、56年から4代目委員長に就任、平成2年まで務めた。
平成7年8月31日
小泉和子(幕内・水戸泉の実母)午前5時8分急性心筋梗塞のため入院先の茨城県東茨城郡の城北病院で死去。65歳。
平成7年9月3日
成田兵衛(元十両7・荒駒)急性肺炎のため青森市内の病院で死去。84歳。青森県藤崎町出身。明治44年生まれ。昭和2年1月湊川部屋から初土俵を踏み、11年1月十両に昇進。17年5月場所限りで廃業した。
平成7年9月20日
富士ヶ根敏男(指導普及部年寄・本名・春木敏男=元前頭2・時葉山)午前8時40分、消化管出血のため、入院先の東京都江東区住吉のあそか病院で死去。51歳。自宅は江東区森下4−25−2石川県七尾市出身。昭和19年5月5日生まれ。34年9月時津風部屋から初土俵を踏み、42年9月新入幕。左手でつかんだ塩を叩きつけるようにしてまき、闘志溢れる相撲を取った。50年3月場所限りで引退、年寄富士ヶ根を襲名した。次男吉晴が平成3年3月時津風部屋に入門。現在序二段・春木。
平成7年10月3日
藤国松(元小結・国登)午後2時55分、肝臓ガンのため静岡県賀茂郡の伊豆熱川病院で死去。70歳。東京都板橋区出身。大正14年4月18日生まれ。昭和15年5月高砂部屋から初土俵を踏み、23年10月新入幕。温和な風貌に似合わぬ鋭い相撲の江戸っ子力士として人気があった。殊勲賞2回、敢闘賞1回。36年5月限り引退、年寄り佐ノ山を襲名。長く審判委員を務め、平成2年4月に定年退職していた。
平成8年4月14日
菅孝之進(元関脇高鉄山、前大鳴戸親方)午前4時45分重症肺炎及び心不全のため入院先の愛知県豊明市の藤田衛生大病院で死去。53歳。北海道出身。昭和32年3月朝日山部屋から初土俵を踏み、38年9月新入幕。最高位は関脇で通算661勝668敗の成績を残した。敢闘賞を1回、技能賞を1回獲得している。50年初場所で引退し、年寄大鳴戸を襲名。朝日山部屋から弟子2人を連れて大鳴戸部屋を興し、元小結板井、元十両維新力らを育てた。しかし、健康上の理由から平成7年1月に廃業した。菅さんは最近、糖尿病と脳梗塞を患い、入退院を繰り返していたという。今年の2月からは『週刊ポスト』誌上で大相撲の八百長、脱税疑惑などの暴露記事を「爆弾手記」として連載していた。また、手記に「証言者」として登場していた北の富士の後援会副会長であった橋本成一郎さんも同日午後7時48分、同病院で同じ肺炎でなくなっていることが明らかになった。
平成8年12月9日
鏡山親方(元横綱・柏戸)
平成9年6月9日
山野辺 シズヨさん(やまのべ・しずよ=大相撲元横綱故常ノ花・元出羽海理事長の妻)9日午後2時21分、肺炎のため東京都港区麻布台3の2の6の自宅で死去、94歳。熊本県出身。通夜は12日午後6時から、葬儀・告別式は13日正午から東京都中央区築地3の15の1、築地本願寺で。喪主は長女、道代(みちよ)さん。
平成10年9月26日
豊錦
平成11年12月4日
大翔鳳親方(元小結大翔鳳本名・村田昌巳)午前10時47分、すい臓がんのため東京都新宿区の東京女子医大付属病院で死去。32歳。すい臓に異常が見つかり。平成11年の5月夏場所を最後に6月11日付で現役を引退。10月には闘病生活に専念するため急遽断髪式を行ったが、引退からわずか半年で帰らぬ人となった。葬儀・告別式は故郷の札幌市で行われる。大翔鳳は1967年5月7日北海道札幌市出身。札幌市相撲連盟理事も務めた父。剛さんの影響で相撲を始め、北海高−日大で活躍。90年初場所に幕下付け出しでデビュー。91年名古屋で新入幕。きっぷのいい突っ張りで暴れ、幕内在位は34場所。最高位は小結で3場所務めた。三賞は敢闘賞2回。十両優勝1回。家族は両親と兄、弟。
平成11年12月28日
中田乙一(元三菱地所会長、前日本相撲協会運営審議会会長)午後9時45分、心筋梗塞のため東京都港区の済生会中央病院で死去。89歳。北海道小樽市出身。自宅は東京都渋谷区広尾4−1−18−710。社葬は2月4日午前11時30分から港区虎ノ門2−10−4ホテルオークラで行われる。葬儀委員長は福沢武・三菱地所社長。喪主は長男敬彦(ゆきひこ)氏。小樽高商(現・小樽商大)卒。大蔵省を経て昭和14年三菱地所入社。専務、副社長を経て44年から11年間社長を務めた。55年から61年まで会長。その後取締役相談役。昭和61年9月に日本相撲協会運営審議会委員に委嘱され、平成4年5月会長に就任、平成10年9月老齢を理由に辞任。
平成11年12月29日
呼出し政弘(本名・佐藤正博、三役呼出し)午前6時20分、心不全のため、東京都墨田区東向島の白髭橋病院で死去。63歳。連絡先は東京都墨田区両国4−17−1、ニ所ノ関部屋。通夜は30日午後6時から、葬儀・告別式は31日午前9時から、いずれも東京都墨田区両国2−8−10回向院で、ニ所ノ関一門葬として行われた。葬儀委員長は佐渡ヶ嶽慶兼親方(元横綱・琴櫻)。喪主は師匠のニ所ノ関正裕親方(元関脇・金剛)。通夜には横綱貴乃花、若乃花ら約130人が参列した。昭和11年11月8日生まれ。徳島県美馬郡脇町出身。28年5月入門。平成6年7月に呼出しが番付に掲載されるようになった時は幕内、8年1月に三役に昇格した。11月場所、冬巡業と元気に参加、風邪をこじらせて12月24日に入院し、その5日後に急逝。
平成12年1月14日
大鳴戸彰俊(日本相撲協会指導普及部委員、元前頭4・吉の谷、本名吉谷作利中立部屋)午前4時50分、多臓器不全のため、東京都江東区のあそか病院で死去。50歳。自宅は江東区亀戸5−1−6マークス亀戸601号。通夜は16日6時30分〜7時30分、告別式は17日午前10時30分〜11時30分に、出羽一門葬として江東区北砂5−16−16カルチャーパビリオン平安で行われた。喪主は妻千穂子さん。葬儀委員長は北の湖親方、葬儀副委員長は境川親方が務めた。戒名は「角栄院作願彰耀大居士」、郷里長崎市に葬られる予定。昭和24年4月23日生まれ。長崎県南松浦郡三井楽町出身。出羽海部屋に入門して40年5月初土俵。吉の谷の四股名で47年5月十両、49年1月入幕。175cm104kgの小兵ながら、闘志あふれる土俵態度と足取りの名人として知られ、幕内を7場所務めた。その後は右ヒザを痛めて十両と幕下とを6回往復、最後は幕下に落ち、57年5月限り33歳で引退、年寄山科から千賀ノ浦、入間川、竹縄、大鳴戸を名乗っていたが、一昨年五月場所後、中立部屋独立の際、行動をともにした。協会内では、指導普及部年寄から、同主任、同委員を務めていた。
平成12年11月8日
向坂松彦(元NHKチーフアナウンサー、相撲評論家)8日午後5時30分ごろ横浜市旭区若葉台1丁目5の1403の自宅風呂場で左手首を包丁で切り自殺。66歳。スポーツアナウンサーとして大相撲の実況中継などを担当。退職後は相撲評論家として活躍していた。
平成13年1月16日
下山イヨ(日本相撲協会理事間垣勝晴親方<元二代目横綱若乃花、本名下山勝則の母>84歳。通夜は19日午後6時、葬儀・告別式は20日午前11時から青森県大鰐町大鰐前田51−8の大鰐町中央公民館で。喪主は長男正義氏。自宅は同町大鰐川辺17−12。
平成13年1月17日
青山貞雄(元小結若葉山)午後11時45分、脳梗塞のため福島市の病院で死去。78歳。自宅は同市方木田稲塚36−2.告別式は20日正午から同市八島町5−41のさがみ典礼葬祭会館福島店で。喪主は妻典子さん。1947年夏場所新入幕。51年秋場所、小結に昇進した。幕内在位49場所で殊勲賞1回。61年に引退後、年寄シコロ山を襲名し、87年に定年退職した。
平成13年1月27日
小野川敏行(日本相撲協会年寄、元幕内蜂矢、本名蜂矢敏行)午前2時43分、上顎がんで死去。50歳。通夜は29日午後6時、葬儀・告別式は出羽一門葬として30日午前11時から東京都墨田区両国2−8−10の回向院で。葬儀委員長は武蔵川親方(元横綱三重ノ海)。喪主は妻暁美さん。自宅は江東区三好1−6−7−301
平成13年3月14日
橋本嘉起(元朝日新聞大阪本社相撲記者、元日本高校野球連盟副会長)午前0時48分、肺炎のため大阪府枚方市の東香里病院で死去86歳。大阪府出身。葬儀・告別式は15日午後1時45分大阪府枚方市山之上東町1−1公益社枚方会館で行われた。喪主は長男嘉恭氏。自宅は大阪府寝屋川市東香里園町29−39.同志社大学相撲部出身。10年に及ぶ軍隊生活から復員して朝日新聞大阪本社に入社。大阪に拠点を置きながら、終戦直後から昭和30年代まで相撲記者として活躍。東京相撲記者クラブ準会員となっていた。28年に関西相撲記者同好会が発足したときの中心メンバー。のち朝日新聞大阪本社運動部長、日刊スポーツ編集局長などを歴任。
平成13年3月27日
児島襄(作家、戦史研究家、元横綱審議会委員)午前11時41分、脳梗塞のため東京都世田谷区の病院で死去。74歳。東京都出身。通夜は4月2日午後6時、葬儀・告別式は3日午前11時から、ともに目黒区下目黒3−19−1羅漢会館で行われた。喪主は妻比呂子さん。自宅は世田谷区成城1−29−10。東大法学部卒。同大学院修後、共同通信外信部記者となる。昭和39年に退社。『太平洋戦争』で41年に毎日出版文化賞を受賞、平成2年には菊池寛賞を受賞。5年に紫綬褒章を受けている。昭和62年3月から平成11年9月まで横綱審議委員を務めた。
平成13年3月28日
天津灘福一(元幕内力士)午前韓国。ソウルの病院で肝不全のため死去。68歳。1932年8月2日、在日韓国人として佐賀県小城郡牛津町に生まれる。ニ所ノ関部屋に入門して50年9月初土俵。天津灘の四股名で57年3月十両58年5月入幕。183cm100kgの体で左四つからの寄り、下手投げを得意にしていたが、幕内在位は3場所、最高位は前頭18枚目に終わった。61年9月場所限り廃業。一時横綱・大鵬の姉と結婚して大阪で寿司屋を経営していたこともあった。その後韓国に永住帰国し、ソウルで日本料理店「自阪」を開き人気を呼んだ。日本名は田村福一、韓国名は田福喜で、晩年は韓国人女性と結婚していた。
平成13年6月2日
小国静(元横綱大鵬の義母)午前4時5分、胃がんのため秋田市の病院で死去。77歳。告別式は12日午前11時から同市千秋矢留町6−15の自宅で。喪主は長男輝也氏。
平成13年6月12日
祷厚己(元近大相撲部監督)心不全で死去67歳。通夜は14日午後7時、葬儀は15日午前11時から大阪府東大阪市西岩田3−3−38のベルコシティホール八戸ノ里で。喪主は妻良子さん。自宅は同市御厨南2−2−35.1968年近大相撲部監督に就任。91年に退任するまで、同部を全国学生相撲選手権で3度の団体優勝に導いた。とくに76,77年は元大関朝潮(現若松親方)の長岡末弘選手を擁し、個人・団体を2連覇した。
平成14年1月8日
緒方昇(元関脇北の洋、元武隈親方)脳こうそくで死去。78歳。通夜は9日午後6時、葬儀は10日午後1時から東京都墨田区両国2−8−10回向院で。喪主は妻よし子さん。自宅は同区両国3−24−12.北海道網走市の出身で、1940年春場所初土俵。1950年秋場所に入幕。時津山、若羽黒、安念山と共に立浪部屋の「四天王」と言われた。右差し右おっつけの速攻相撲は「白い稲妻」と異名をとった。殊勲賞4回、敢闘賞1回、技能賞5回。62年春場所限りで引退後は年寄武隈として活躍。監事、理事を歴任し、88年1月に日本相撲協会を退職後は、00年初場所まで12年間、NHKで相撲解説者を務め、ソフトな語り口で親しまれた。
平成14年7月30日
南幸雄(元関脇陸奥嵐、元安治川親方)脳こうそくで死去59歳。甲地村(現東北町)出身。自宅は東京都江東区猿江2ノ3ノ20。葬儀・告別式は8月2日午前11時から江東区森下5ー9ー5、カルチャーパビリオン平安祭典深川会館で。喪主は妻カツ子(かつこ)さん。1961年初場所初土俵。1967年春場所に入幕。“つり落とし”や、かわず掛けを得意とし、セオリー無視の豪傑豪快な相撲で個性派力士として名をはせた。幕内在位は53場所。最高位は関脇(在位1場所)。敢闘賞4回、技能賞1回を受賞。通算成績は375勝417敗3休。76年春場所限りで引退し、年寄「安治川」を襲名。79年4月に安治川部屋を興したが、その後体調を崩し、元横綱旭富士(木造町出身)に部屋を譲って日本相撲協会を退職していた。