【わたしの失敗】富野由悠季さん(2)独立して崩れた自信
05/04 13:12
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「富野君は虫プロにいたの? 君は映画の演出のABCを何も知らないんだねえ」
虫プロダクションを退社して
フリー演出家として活動し始めた二十代後半。仕事で出入りしたタツノコプロダクションで、
富野由悠季は痛烈な指摘を受けた。それも一度ではなく、何度も。
日大芸術学部映画学科を卒業し、「鉄腕アトム」の後半は自分が一番多く演出をやったという自負があった。「お前らより演出本数は多いんだよ」。心で言いながら、映画演出を知らなければアニメの演出もできないことは理解していた。
カットの前後で人物の動きがつながっていない。膨大な修正を指示され、「虫プロでの仕事は何だったんだ」。アトムでやっていたのは「以前使った絵を使い回し、とりあえず話を作る」といったその場しのぎの仕事が中心。月に何度も自分の名前がテレビに出る状況で、うぬぼれていたことを認めざるを得なかった。
虫プロ入社当時、年下の十代のスタッフが
手塚治虫の絵を見事にコピーする才能を目の当たりし、舌を巻いた。
「彼らに勝つためにはどうするか」。四畳半の下宿に帰っても「早く仕事に戻らないと、あの連中に負ける」という思いが胸を占めた。「絵では勝負にならない。とにかく彼らより早く絵コンテ(簡略な絵でカット割や動きを指定するもの)を描くしかない」
虫プロでの駆け出し当時を振り返って「強迫観念ですね。特に最初の三年間は一秒たりとも気が休まらなかった記憶がある」と話す。
その努力の末に得た「自信」が、
フリーになって「うぬぼれ」と分かった。
「富野が絵コンテ千本切り(=千本描くこと)を目指している」。タツノコプロでの経験以降、業界でそんな評判が立つほどに多くの仕事を引き受けた。「アルプスの少女ハイジ」「あしたの
ジョー」などの名作も含まれる。
強迫観念の対象は「世間」に変わっていた。
「世間には怖い才能の奴がいるかもしれない。そう想像したら部屋から表に出て仕事をするしかなかった。そこで何回も向こうずねをひっぱたかれるような目にあわないと、自分の技術なんて上がるわけがない」
この修行時代が、後の「
ガンダム」につながる。=敬称略(鵜野光博)
<2005(平成17)年6月8日朝刊から>